34話:ヴークの演説
書類の束が届いたのは、午前中だった。
アーリアの書室には、北部森林領の評議会からの文書が定期的に届く。ティセラはそれを受け取り、分類し、アーリアの机の上に積む。今日の束は、いつもより厚かった。
封を切る前に、アーリアが言った。
「ティセラ。清書の準備をしておきなさい」
「清書、ですか」
「評議会からの公式文書が含まれているようだ。後で写しが必要になる」
ティセラは巻物と墨を用意した。
アーリアが束をひとつずつ開き、内容を確認していく。分類しながら、一冊の書類だけを取り分けて、ティセラの前に置いた。
「これを一字一句、写しなさい。書き漏らしなく」
ティセラは書類を取った。
表紙に北部評議会の紋章。そして題字——「評議会議長ヴーク・アルヴァリス、全エルフへの演説、全文記録」。
***
書き始めた。
最初の段落を写したとき、ティセラは筆の速度を落とした。
言葉が、ただの言葉ではなかった。
ヴークの文章は整然としていた。感情に流れず、根拠に根拠を積み上げ、一歩ずつ論を組み立てていく。エルフが連邦においていかに扱われてきたか——土地の問題、言語の問題、婚姻の問題、記録の問題。数字が出てくる。年代が出てくる。固有名詞が出てくる。
どれも、嘘ではなかった。
ティセラは語り部の修行として各種族の歴史を学んできた。ヴークが挙げている事実のほとんどを、ティセラは知っていた。知っていたが——こうして一つの流れとして並べられると、それぞれの事実が違う意味を持ち始めた。
「エルフは千年の記憶を持つ民だ。されど千年の屈辱も忘れない」
ティセラは筆を止めた。
一秒だけ、止まった。
それから書き続けた。
***
写し終えたのは、昼過ぎだった。
手首が疲れていた。ティセラは巻物を端から端まで見直した。一字の書き漏らしもない。だが、内容が脳の中で固まっている感じがした。言葉が抜け出ていかない。
アーリアが戻ってきた。写しを受け取り、ざっと確認する。
「アーリア師匠」とティセラは言った。「この演説は、正しいと思いますか」
アーリアが手を止めた。
沈黙が長かった。
「正しい事実を使って、正しくない方向に進む——そういうことが、歴史上よくある」
それだけ言って、アーリアは書類を棚に収めた。ティセラはその背中を見た。
(正しくない方向。ヴークの言葉のどこが、正しくない方向なのか)
問い返せなかった。問い返したいわけではなかった。アーリアの言葉の意味が、すでに胸の中にあった。ただ、認めたくなかっただけだった。
***
夕方、村の東の方へ用足しに出たティセラを、エルフの若い女たちが呼び止めた。
三人。ティセラより二、三歳上。名前は知っている。村に古くから住むエルフの家の娘たちだ。
「ティセラ。ヴーク様の演説を読んだか」
「清書しました」
一人がティセラの顔を覗き込んだ。
「千年分の屈辱という言葉、あなたには胸に刺さらなかった?」
ティセラは一瞬、答えを選んだ。
「刺さりました」
正直に言うしかなかった。
「でしょう。やっぱりそうでしょう」と別の一人が言った。「あなたは賢いから、わかるはずだと思っていた。融和とか共存とか、きれいな言葉を使いながら、実際には——」
「刺さりました」とティセラはもう一度言った。「でも、刺さったからといって、何かが決まるわけではないとも思っています」
三人が少し静まった。
「どういう意味」
「わかりません」とティセラは言った。「まだわからないんです」
三人が顔を見合わせた。ティセラは頭を下げて、その場を離れた。背中に視線を感じた。
***
夜、書室に戻ったティセラは自分の巻物を広げた。
記録する。語り部は記録する者だから。
「評議会議長ヴーク・アルヴァリスの演説を写した。言葉は正しく、そして危うい。正しいから、より危うい。正しい事実が、一つの方向にだけ向けられるとき——その先にあるものを、語り部として記録し続けなければならない」
筆を置いた。
書室の外で、夜の虫が鳴いていた。
翌朝、アーリアが書室に入ってきたとき、ティセラはまだ巻物の前に座っていた。アーリアは静かに言った。
「昨晩、シャフィルから書状が来た。ヴーク様に支持を表明する手紙を北部に送りたいと申し出たそうだ」
シャフィル。村に若い頃から住む、エルフの青年だ。
「私はまだ返答していない」とアーリアは続けた。
そのまま棚の前に向かった。ティセラは巻物を閉じた。




