表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
七つの国境、ひとつの故郷  作者: Jint
第1章:黄金の揺籃

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
32/80

32話:皇帝崩御

 夜明け前に炉に火を入れていた。


 鍛冶場の戸が薄く開いている。夏の終わりの朝は、まだ薄暗くても空気に温みがある。外の石畳に、夜露が光っている。


 蹄の音が聞こえたのは、その光が白んでくるかどうかという頃だった。


 馬一頭。速い。通常の旅人や商人の速さではない。急使の走り方だ。ルシェンは炉から手を離し、戸口に立った。


 交易路を駆けてくる馬が見えた。騎手は赤と金。帝都の紋章。


 馬はファトマの家の前で止まった。騎手が降り、戸を叩いた。


 ルシェンは炉の前に戻った。火を見つめた。


(来た)


 確信だった。驚きではなかった。この日が来ることを、ルシェンはずっと前から知っていた。名前のある恐怖として知っていた。知っていながら、来るなと祈っていた。しかし祈りが叶わないことも知っていた。


 しばらくして、鐘楼の方から音が聞こえた。


 一度。


 二度。


 三度。


 そこで止まるかと思った。三の鐘は重病の知らせだ。


 四度、鳴った。


 鍛冶場の中で、金槌が作業台から転がり落ちた。ルシェンが手を離したからだ。炉の火が揺れた。四つ目の鐘の音が鍛冶場の石壁に染み込むように消えた後、村全体が静まり返った。


 ***


 広場に人が集まった。


 各家の戸が開き、人々が出てきた。老人も子供も、まだ寝間着のままの者もいた。誰が呼んだわけでもない。四つの鐘が、それぞれの家に「出てこい」と告げた。


 ルシェンが広場に着いたとき、すでに百人近くが集まっていた。


 無言で立っている。


 ルシェンは広場を見渡した。


 エルフは広場の左側に集まっていた。自然に。指示されたわけではなく、気づいたら同じ側に立っていた。ドワーフは右側だった。ヒューマンは中央。オークは、少し迷うように端の方に立っている。


 これまでの村の集会では、そういう分かれ方はしなかった。少なくとも、こんなにはっきりとは。年に一度の全種族の追悼——その最初の瞬間から、村はすでに三つに分かれていた。


 ファトマが広場の中央に立った。白い頭巾、杖、曲がった背中。手に紙を持っている。急使が持ってきた文書だろう。


 広場が静まり返った。


「皆さんに、お知らせがあります」


 ファトマの声は小さかったが、広場全体に届いた。


「連邦の父、種族なき皇帝ゼノヴァルは、今朝未明、帝都にて崩御されました」


 鐘の音で知っていた。分かっていた。それでも、言葉になると違った。


 広場の誰かが息を飲んだ。どの種族の誰かは見えなかった。


「陛下は七十三年の御生涯を全うされました。連邦の礎を築かれ、兄弟愛と統一の理念のもとに、五つの種族が共に歩む道を示されました。謹んでご冥福をお祈りします」


 ファトマが頭を下げた。広場の人々が頭を下げた。スポメニックの方角を向いている者が多かった。


 沈黙が落ちた。


 ルシェンは頭を下げながら、広場を見た。


 エルフの老人が静かに泣いていた。音もなく、肩を揺らして。ゼノヴァルの時代を生きた世代だ。連邦が生まれる前の時代も知っている。その老人にとって、皇帝の死は何十年かの信頼の終わりだろう。


 ドワーフの男たちは顔を前に向けていた。泣いてはいない。表情がない。顎が微妙に上がっている。頭を垂れているが、完全には垂れていない。


 ヒューマンの主婦が隣の者の手を握っていた。握り返されていた。


 ルシェンはどちら側でもない場所に立っていた。


 ***


 その日の夜、村の空気が変わった。


 エルフの家々の灯りが早く消えた。戸が閉じられ、窓の布が降りた。密かに話し合いをしているのだと、ルシェンには分かった。何を話し合っているのかは、推測できた。


 ドワーフの男たちは逆だった。夜が深まっても声がした。囁き声ではなく、低く抑えた声で、だが複数が集まって話している声だ。通りを一人の男が早足で歩いていくのを、ルシェンは窓から見た。伝令のような足取りだった。


 ヒューマンの家は静かだった。静かすぎた。何かを待っているような静けさだった。


 嵐の前の静けさとは、こういうものだろう。昨日まではなかった息を詰めたような重さが、村の空気に満ちている。


 ***


 夜遅く、ルシェンは鍛冶場の裏手に出た。


 炉の火は落ちている。昼に入れた火が、今は灰になっている。余熱だけが残っていた。手をかざすと、石の隙間から微かな温みが返ってくる。それだけだ。


 月が出ていた。夏の終わりの月が、鍛冶場の屋根の向こうから白く照らしている。


 遠くにスポメニックが見えた。幾何学的な黒い輪郭が、月光の中に浮かんでいる。抽象的な形。どの種族の名前も刻まれていない碑。誰のものでもない碑。


 前世の記憶が、静かに浮かんできた。


 押し寄せるのではなく、漂うように。


 カリスマの指導者が逝き、強権で抑え込まれていた対立が解放された——


 いくつもの民族、いくつもの境界線——


 男が死んだ後に、国が壊れた——


 その後、国は七年かけて崩壊した。七年。


 七年という数字が頭の中に浮かんだ。この世界の連邦も同じ速度で壊れるとは限らない。もっと早いかもしれない。もっと遅いかもしれない。だが方向は——同じだ。


(知っていた)


 丸括弧の中の声が、誰のものかわからない形でそこにあった。


(ずっと知っていた。名前も知っていた。仕組みも知っていた。なのに——これからどうする)


 答えは来なかった。


 月が雲に入った。スポメニックが暗くなった。ルシェンは手を鍛冶場の石壁に当てた。冷たい。余熱はもう届かない。炉は完全に冷えていた。


 ファトマの言葉が蘇った。才能が使える場所が消えていっている。使える場所がなくなる前に——考えておけ。


 なにを考えれば、いいのか。


 ルシェンは空を見上げた。月が雲から出た。スポメニックがまた白く浮かんだ。誰のものでもない碑が、誰も答えをくれない夜に、静かに立っていた。


 ***


 翌朝。


 交易路に馬の足音が増えた。


 北から南へ。南から北へ。旅人の馬ではない。商人の馬でもない。急いでいる。紋章をつけている。各自治領の紋章。帝都の紋章。見たことのない紋章もあった。


 使者たちが行き来している。何かを伝えている。何かが動き始めている。


 ルシェンは鍛冶場の戸口に立って、交易路を見ていた。


 炉にはまだ火が入っていない。今日もまた火を入れる。今日も、まだ火を入れられる——そのことに、ルシェンは昨日と同じように気づいていた。


 だが昨日と一つだけ違うことがあった。


 昨日は「それがまだ、できるうちは」と思った。今日は、「あとどれだけできるのか」と思っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ