29話:遠雷
使者は朝の早いうちに来た。
アーリアの書室に通される前に、ティセラは隅の低い椅子に座り、膝の上に羊皮紙と羽ペンを置いた。記録係だ。発言するためではなく、聞くために呼ばれた。書記の役割を担うようになってから、ティセラはこの椅子の存在に慣れていた。部屋の中にいるが、会話の外にいる位置。
使者は三十代のエルフだった。北部の正式な使者の証である緑のマントを羽織り、旅装のまま座っている。顔は無表情だ。道中のすべての感情を消費し尽くしたような乾いた顔。
「北部森林領エルフ評議会より、ご報告申し上げます」
使者の声は低く、平坦だった。
「帝都よりの急報をお伝えいたします。皇帝陛下の御容態が、先週から急変されました。侍医団は予断を許さない状態と申しており、評議会はこれを重大事と受け止めております」
アーリアは机を挟んで対面に座っていた。背筋が真っ直ぐで、表情は動かない。
「連邦議会は現在、緊急の協議を重ねております。各自治領に対し、連邦の将来に関する立場を明確にするよう求める声が高まっています。北部評議会としては、メシャラ村を含む各拠点の長老に——今後の状況への備えを要請したい」
「備えとは」
アーリアの声も平坦だった。
「具体的にお聞かせください」
「評議会の意向としては——万が一の際、北部森林領のエルフ住民が安全に移動できるよう、連絡網と物資の確認をお願いしたい、ということです」
沈黙が落ちた。
ティセラは羽ペンを動かし続けた。「万が一の際」という言葉を書き留めた。「安全に移動」という言葉を書き留めた。文字が紙の上に残っていく。消えない。
アーリアが答えた。「承知しました。村の状況を確認の上、評議会に報告します」。それだけだった。使者が立ち上がり、一礼して出ていった。
部屋に二人が残った。
***
「記録したか」
アーリアが言った。
「はい」
「何を書いた」
「使者の言葉、すべてを」
「何を書かなかった」
ティセラは考えた。書かなかったもの。使者の顔の乾き方。アーリアの背筋の硬さ。「万が一」という言葉を口にするときの、かすかな早口。沈黙の長さ。
「感情を書きませんでした」
「なぜ」
「書くべきものではないと思ったから」
「正しい」
アーリアが立ち上がり、窓の方へ歩いた。窓の外に、村の広場が見える。まだ人の往来がある、いつもの朝の光景だ。
「これで、連邦は変わる」
アーリアが窓を見たまま言った。
「どう変わりますか」
返事はなかった。アーリアは翠の瞳で広場を見ていた。三百年生きた瞳が、今何を見ているのか、ティセラには読めなかった。
「お前の記録を持って帰りなさい。お前自身の巻物に清書しておきなさい。今日のことは、長く残るかもしれない」
それだけ言って、アーリアは書室の奥の椅子に戻った。
ティセラは羊皮紙を丸め、書室を出た。
***
知らせは夕方には村中に広まっていた。
ティセラは村の中を歩きながら、各種族の家々の様子を見た。語り部の修行の一部だ——人々の反応を観察し、記録する。
エルフの家は戸を閉めていた。窓から声がする。囁き声。評議会との連絡を取り合っているのだろう。
ドワーフの家では男たちが表に集まっていた。声は囁きではなく、押し殺した怒鳴り声に近い。「西部に連絡を取れ」という言葉が聞こえた。「今すぐ」という言葉も聞こえた。
ヒューマンの家では、主婦が夕食の準備をしながら夫に何かを問いかけていた。夫は答えなかった。答えられないのか、答えたくないのか、ティセラには判断できなかった。
三つの様子が、同じ夕暮れの中で、全く違う色をしていた。
***
鍛冶場の灯りがまだついていた。
ティセラは走った。駆け込んで、炉の前に立っているルシェンに声をかけた。
「聞いた? 皇帝が重篤だって」
「ああ」
ルシェンは炉から目を離さなかった。鉄を焼いている。赤くなるまで待っている。
「驚いてないの」
「……そんなに、驚いていない」
「なぜ」
沈黙。炉の中で炎が揺れた。
「なんとなく——こうなる気がしてた。前から」
「どうして」
ルシェンが炉から鉄を引き出した。赤い。ちょうどいい。金床に置いて、金槌を持つ。話しながらも手は動いている。
「うまく説明できない。ただ——皇帝が長く続くとは思えなかった。死んだ後に何が起きるかも、なんとなくわかる気がした。気がする、というだけで、確かじゃない」
「でも、怖くないの」
一打。鉄が形を変える。
「怖い。怖いけど——知らないふりをする方が、もっと怖い」
ティセラは炉の前でしばらく立っていた。
ルシェンの横顔は、いつも通りの横顔だった。琥珀色の目が炉の光を受けている。だが、その目の奥に——いつか、何度か見た「知っている」という色が、今夜は濃かった。
ティセラはルシェンに、今日の使者の話を伝えた。「万が一の際に備えよ」という評議会の言葉を。ルシェンは鉄を打ちながら聞いていた。打ち終えてから、静かに言った。
「準備してるんだな。向こうは」
「そう見えた」
「そうか」
それだけだった。
ティセラは鍛冶場を出た。夜の村の中を歩いて家に帰りながら、窓の灯りを数えた。
いつもと数は同じだ。だが——エルフの家の灯りは早く消えていく。ドワーフの家は遅くまで燃えている。ヒューマンの家は、ちょうど中間あたりで揺れている。
同じ村の同じ夜に、こんなに違う色の灯りが並んでいる。気づかなかっただけで、ずっとそうだったのか。今夜初めてそう見えるのか。
ティセラには、もう、判断できなかった。
***
翌朝、ドラガンがやって来た。
鍛冶場の入り口でルシェンに声をかけた。表情がいつもと違う。何か決めた後の顔ではなく、何かが決まりかけている途中の顔だ。
「叔父さんが来る。ミロシュ叔父が」
ルシェンがドラガンを見た。
「西部から?」
「ああ。一週間ほど村に滞在するって、昨日親父に手紙が来た」
ドラガンが言い終えた後、少しの間があった。何か付け足しそうな顔をして、付け足さなかった。炉の方に目を向けて、炎を見た。
「それだけだ」
それだけではないだろう、とティセラは思いながら、羽ペンで記録を続けた。




