27話:二つの文字
黒板に「秋」と書いてあった。
村の学校は石造りの小さな建物で、窓が三つ、扉が一つ、椅子が二十四脚ある。子供の数は二十二人。エルフが七人、ドワーフが六人、ヒューマンが七人、オークが二人——ベシムと、その妹だ。教師は二人。エルフの女性ミレナと、ドワーフの男性コフ。二人で交互に授業を受け持っている。
今日は筆記の授業だった。ミレナが黒板に第一文字で「秋」と書いた。共通語の秋を意味する文字。丸みのある曲線と縦の棒が組み合わさった字形で、ルシェンが最初に習った文字だ。
コフが立ち上がった。
「ミレナ先生、子供たちには第二文字で教えるべきではないでしょうか」
コフの声は穏やかだったが、全員が聞いた。
ミレナが振り向いた。
***
第一文字と第二文字の話は、ルシェンも知っていた。
共通語には正式な表記が二つある。北部森林領を中心にエルフが使い始めた第一文字と、西部山岳領でドワーフが普及させた第二文字。どちらも「共通語の公式表記」として連邦が認めている。発音は同じ。意味も同じ。ただ、字の形が違う。
メシャラ村では長年、どちらでもいいという慣習で処理されてきた。教師も子供の書いてきた方を受け入れた。両方読める者が多く、読めない方は後で覚えればいい、という空気があった。
それが今、崩れかけていた。
「第二文字を子供たちに教えることで、西部との取引にも役立ちます。最近の状況を考えれば——」
「最近の状況、とはどういう意味ですか」
ミレナが遮った。声のトーンが変わった。
「帝都の動揺を受けて、西部山岳領が独自の方針を打ち出し始めている。だから第二文字を先に教えるべきだ——そういうことですか?」
コフが顎を引いた。
「そういうつもりで言ったわけではありません。ただ、実用性を考えた場合——」
「実用性なら、第一文字の方が北部の交易には向いています」
「それも承知しています。だからこそ、一方に偏るべきではないと——」
「では、一方に偏ることを主張しているのは、どちらですか?」
言葉が止まった。
子供たちが黙って二人を見ている。ルシェンも黙っていた。黒板の「秋」が、教室の緊張の中に浮かんでいる。
***
ルシェンは手を上げた。
「先生方」
二人が振り向いた。
「少し前に出てもいいですか」
ミレナが無言で手を示した。どうぞ、という意味だ。
ルシェンは黒板の前に立った。チョークを一本取り、ミレナが書いた「秋」の隣に、第二文字で「秋」と書いた。
黒板に同じ言葉が二つ並んだ。形が違う。同じ音を指す文字が、二つの字形で並んでいる。
「同じ言葉なのに、なぜ二つの書き方があるんですか」
ルシェンはコフとミレナの両方に向けて聞いた。
誰も答えなかった。
コフが「歴史的な経緯がある」と言った。ミレナが「どちらが正しいかという問題ではない」と言った。その二つの答えが重なって、質問が空中に浮いたまま消えた。
「結論として、どちらで書いてもよい、ということですか」
「そうです」とコフが言った。「どちらでも構いません」とミレナが言った。
授業が再開した。子供たちはそれぞれのやり方で「秋」を書いた。
ルシェンは席に戻り、自分の板に第一文字で「秋」と書き、その横に第二文字で「秋」と書いた。
二つの「秋」を見つめた。
授業の終わりに、ルシェンは気づいた。
子供たちが提出した板には、第一文字で書いた者と第二文字で書いた者が、きれいに分かれていた。エルフの子供は第一文字。ドワーフの子供は第二文字。ヒューマンは半々。オークの二人は第一文字だった——南部からの難民の子供たちは、エルフの自治領政府に共通語を教わっていたからだ。
誰も指示していない。ただ、自然にそうなった。
***
帰り道、ティセラに会った。
アーリアのもとから戻る途中だったらしく、巻物を一本抱えていた。ルシェンの顔を見て「どうしたの」と言った。
「学校で、文字の話になった」
並んで歩きながら、ルシェンは今日の授業のことを話した。二人の教師の言い合い、黒板の二つの「秋」、子供たちが自然に分かれたこと。
ティセラが巻物を抱え直した。
「二つの書き方が、二つの種族に対応している」
「そうなってる。たぶん前からそうだったんだ。ただ、誰も意識していなかっただけで」
「意識するようになったのは——なぜ」
「わからない。でも」
ルシェンが交易路の石畳を見た。石畳は何年も前から同じ場所にある。だが、今日はその継ぎ目が、去年より深く見えた。
「言葉は一つなのに、書き方が二つある。書き方が違うと——読む人が変わる。読む人が変わると、同じ言葉を書いても、伝わる相手が変わってくる。そのうちに、第一文字しか読めない人と第二文字しか読めない人が出てきたら——」
言葉が続かなかった。続きが怖かった。
ティセラが「覚えておく」と言った。
ルシェンが横を向くと、ティセラは前を向いたまま歩いていた。翠の瞳が少し遠くを見ている。
その顔は、何かを記録しているときの顔だった。良いものを記録しているときではなく——避けられないものを記録しているときの顔。
二人は並んで歩いた。交易路が夕暮れの光を受けて、石畳の継ぎ目を濃い影で刻んでいた。
***
翌週から、分離授業が始まった。
ミレナが午前に第一文字の授業をし、コフが午後に第二文字の授業をする。内容は同じで、表記だけが違う。長老会議はこれを「両方学べる機会を増やす」という理由で認めた。
保護者の間では賛否が割れた。
エルフの親は午前の授業に子供を送り、ドワーフの親は午後に送る者が多かった。どちらに送るかは自由だ。誰も強制していない。
ただ、子供たちは気づいていた。午前に来る子と午後に来る子が、少しずつ違う顔触れになってきていることを。それを口に出して言う子はいなかった。言う必要もなかった。体が、自然に覚えていくからだ。




