25話:記憶の重さ
長老の書室は、いつも薄暗い。
窓が一つしかなく、壁の三面が巻物の棚で埋まっている。蝋燭を一本灯すと、羊皮紙の白と羊皮紙の黄が交互に影を作り、部屋全体が揺れているように見える。ティセラはその揺れに慣れていた。三年間、毎週ここに通っている。
アーリアが椅子に座り、膝の上で手を組んでいた。今日は巻物を開いていない。
「今日は、三百二十年前の秋のことを話しましょう」
いつもと同じ、穏やかな声だった。語りの稽古はいつもそういう導入から始まる。ティセラは背筋を伸ばし、羽ペンを持った。
「記録することはありません。聞くだけでいい」
アーリアがそう言った。ティセラはペンを置いた。
***
アーリアが語り始めた。
連邦ができる前の時代。五つの種族が五つの領域で互いを疑い合っていた時代の末期。北部森林領の南端、エルフの村落群が十七あった地域の話だ。
ある秋、ドワーフの軍勢が南から進んだ。背後にヒューマンの民兵が続いた。目的は土地の奪取だった。土地の下に鉱脈があることが発見されたからだ。エルフの集落が邪魔だった。
「十七の村が、三週間のうちに十三まで減りました」
アーリアの声は静かだった。感情が込められていない。それが語り部の訓練だ——感情を入れない。事実だけを語る。だが、その感情のなさが、かえってティセラの胸に重くのしかかった。
「残った四つの村は、逃げた者たちが集まってできた村です。北に逃げた者。山に逃げた者。今の北部森林領のエルフの一部は、その子孫です」
「加害者は——」
ティセラは声が震えないように注意した。
「ドワーフと、ヒューマンですか」
「そうです」
アーリアが静かに答えた。
ティセラは手を膝の上で組んだ。頭の中に、いつもと変わらぬ顔が浮かんだ。赤毛のドワーフ、がっしりした肩幅、ぼんやりした笑顔。ドラガン。それから、黒髪のヒューマン、琥珀色の目、火を見つめる横顔。ルシェン。
二人は、その事件とは無関係だ。
無関係のはず、だ。
(はず)
その言葉が、今日初めて必要になった。
***
アーリアが続けた。
虐殺の後の話だ。残されたエルフの集落は長く孤立していた。外との交易が途絶え、人口が減り、文化が失われかけた。そこに現れた一人のエルフの語り部が、散り散りになった各集落を回り、十三の村の記憶を集めて語り継いだ。
「忘れることが救いだと言う者もいました。あれは過去のことだ、今を生きろと。しかし語り部はそれを拒んだ。覚えていることが、死んだ者への礼儀だと言って」
「でも——」
ティセラは口をついて出た言葉を、一度飲み込んだ。それから改めて言い直した。
「でも、覚えていることで——憎しみを持ち続けることになるのではないですか」
アーリアがティセラを見た。翠の瞳が蝋燭の光を受けている。三百年生きた瞳。
「それが、語り部の問いです」
「答えはありますか」
「忘れてはならない。だが、憎しみに変えてもならない——語り部はそう伝えました」
ティセラは黙った。
「その二つを同時に保てますか」
「保てないから、語り部が必要なのです」
アーリアが静かに言った。
「感情を持つ者が怒り、悲しみ、憎むのは自然なことです。だが語り部は——その感情を持ちながら、それに支配されずに記録する。事実だけを語る。感情を失うのではなく、感情を超えて、事実を守る」
「難しい」
「そうです。非常に難しい。だからこそ——長い修行が必要なのです」
アーリアが席を立った。棚から古い巻物を一本取り出した。
「今日語ったことは、この巻物に収められています。三百年前のエルフの語り部が記録した、事実だけの記録です。今日はまだ読まなくていい。ただ——存在することを知っておいてください」
ティセラは巻物を受け取った。羊皮紙は古く、乾いている。軽い。これだけの軽さに、十三の村の記憶が収まっている。
***
帰り道。
夕暮れの交易路を歩きながら、ティセラは巻物を胸に抱えていた。
頭の中がうまく整理できない。三百二十年前の話だ。今とは関係ない。今生きているドワーフもヒューマンも、その事件には関わっていない。関わっているわけがない。
では、なぜ——ドラガンとルシェンの顔を、あの話を聞きながら思い浮かべてしまったのか。
それは正しくない、とティセラは思った。あの二人は無関係だ。三百年前の加害者とは、名前も顔も種族が同じなだけで、別の人間だ。個人として——誰よりも知っている。
(知っているから、考えてしまう)
巻物を握る指に力が入った。
ルシェンの鍛冶場の前を通った。窓から灯りが漏れている。日が落ちてからも作業を続けているのだ。板戸の隙間から、炉の赤い光とルシェンの後ろ姿が見えた。一人だ。ドラガンはもう帰ったのだろう。
ティセラは足を止めた。
声をかけようとした。今日聞いた話を——すべてではないが、何かを——ルシェンに話してもいいかもしれない。あいつならちゃんと聞く。ちゃんと受け取る。
だが、口が開かなかった。
今夜は、声をかけない方がいい。
なぜかはわからない。ただ、そう感じた。アーリアの話を整理しきれていないうちに、誰かに話すことへの抵抗感。それとも——自分の中に、あの話を聞いた後のドラガンとルシェンへの感情を、まだ確かめきれていないという不安。
ティセラは歩き出した。
振り返らなかった。鍛冶場の灯りは背中で遠ざかる。交易路が夜に沈んでいく。手の中の巻物が、乾いた羊皮紙の重さで、静かに温まっていた。




