19話:西からの手紙
朝飯の前に、異変に気づいた。
ドラガンが階段を降りて台所に入ると、父ボグダンが食卓の椅子に座っていた。いつもなら日の出前に鍛冶場に向かっているはずの男が、まだ家にいる。
手紙を読んでいた。
厚い羊皮紙に、ドワーフの古い書体で何かが書かれている。封筒には西部山岳領の消印と、赤い封蝋の跡があった。
ボグダンの顔は石のようだった。いつもの寡黙さとは違う。怒りでもなく、悲しみでもない。何か重いものを飲み込んで、それが喉に詰まったまま動かないような——そういう顔だった。手紙を握る右手の拳が、わずかに震えている。
「親父」
ボグダンが顔を上げた。一瞬、ドラガンを見た。そしてすぐに手紙を裏返し、食卓の下に隠した。
「何を見ている。飯を食え」
声が硬かった。ドラガンは黙って席につき、黒パンを齧った。母が奥の部屋から出てきて、粥の鍋を火にかけた。母の目が赤い。泣いたのか、眠れなかったのか。
朝食の間、誰も口を開かなかった。
***
鍛冶場に入ると、ボグダンはいつも通り炉に火を入れた。
だが動きが違った。薪の組み方が雑で、送風の加減が荒い。炉の温度が安定するまでに、普段より時間がかかった。
ルシェンが来た。「おはようございます」と言い、師匠の顔を一目見て、黙った。余計な言葉は足さない。あいつにはそういう勘がある。
ドラガンも黙った。親父の震える拳を見たからだ。
午前の作業は黙々と進んだ。ボグダンが鉄を打ち、ルシェンが焼き入れを確認し、ドラガンが整形を仕上げる。言葉なしで回る鍛冶場の歯車。それだけが、今日の異変の中で唯一変わらないものだった。
昼前に、母が鍛冶場に来た。
「ボグダン」
「何だ」
「西部のミロシュ叔父さんから、また手紙が——」
「もういい」
ボグダンが金槌を作業台に置いた。
「もういい。あの話はするな」
母が唇を噛んだ。何かを言いかけて、やめた。背を向けた。鍛冶場を出ていく足音だけが残った。
ルシェンが目を伏せた。ドラガンは親父を見た。
ボグダンは金槌を握り直した。炉の前に戻り、鉄を打ち始めた。いつもより強く。いつもより速く。火花が散るたびに、壁の影が揺れる。
ドラガンは何も言えなかった。
***
夕食後。
ボグダンが暖炉の前に座り、朝の手紙を読み返していた。
ドラガンは台所で皿を洗いながら、居間の方を窺っていた。母はすでに寝室に引き上げている。家の中に残っているのは父と息子だけだった。
ボグダンが手紙を暖炉に投げ込んだ。
炎が紙を舐め、端から焦げていく。ドワーフの古い書体が一行ずつ赤く光り、灰になって崩れていく。ボグダンはそれを無言で見つめていた。
炎が消えた。残った熾火の中で、紙はほとんど灰に変わっていた。ほとんど。
ボグダンが立ち上がり、寝室に向かった。
「灯りを消して寝ろ」
足音が遠ざかる。寝室の戸が閉まる。
ドラガンは皿拭きの布を置き、暖炉の前にしゃがみ込んだ。
灰の中に、燃え残りがあった。紙の切れ端。端が焦げ、中央だけが辛うじて残っている。
指先で慎重に拾い上げた。熱い。だが、ドワーフの指先は鍛冶場の火に慣れている。
文字が残っていた。ドワーフ語の古い書体——公文書に使われる正式な書体だ。家族の手紙には使わない種類の書体。
読んだ。
「——ドワーフの未来はドワーフ自身の手に——」
一行目。文の途中からだった。前後は灰になっている。
「——西部自治評議会——」
二行目。差出人の署名の一部。ミロシュ叔父さん個人ではなく、組織の名前だった。
「——帰還は同胞の義務である——」
三行目。最後の一行。命令口調。義務という言葉が、灰の中で黒く浮かんでいた。
帰還は同胞の義務。
西部山岳領のドワーフの組織が、外に出ているドワーフに「帰ってこい」と言っている。帰還。まるで、ここにいることが間違いであるかのような言い方だった。
ドラガンは紙片を見つめた。
親父はこれを読んで怒っていたのだ。怒って、破り捨てるのではなく——燃やした。
「読んだか」
背後から声がした。
心臓が跳ねた。振り返ると、寝室の戸口にボグダンが立っていた。いつからいたのか。音もなく戻ってきたのか。暗がりの中に父の影が浮かんでいる。
「……うん」
隠す意味はなかった。手の中の紙片が、すべてを物語っている。
長い沈黙が落ちた。
暖炉の熾火がちりちりと爆ぜる音だけが、暗い居間を満たしていた。
ボグダンが歩いてきた。暖炉の前でドラガンの隣に座った。大きな体が軋みながら床に降りる。しばらく二人とも黙っていた。
「あの連中は鍛冶を知らない」
ボグダンが口を開いた。炉の残り火を見つめたまま。
「壊すことしか考えていない」
「壊す?」
「独立だの、自治権の拡大だの。言葉は立派だが、やっていることは壁を作ることだ。ドワーフはドワーフだけで暮らすべきだと、あいつらは言う。しかしな——」
ボグダンが太い指で暖炉の縁を叩いた。
「鍛冶はな、異なる金属を合わせることで強くなる。鉄だけでは脆い。炭素を混ぜて鋼になる。銅と錫を合わせて青銅になる。純粋なものは、美しいかもしれんが、脆い」
ドラガンは父の横顔を見つめた。炉の光が深い皺を照らしている。
「あの連中は純粋なドワーフの国を作りたがっている。だが、純粋な金属で打った剣は、最初の一撃で折れる。俺はそんな剣は打たん」
ドラガンは紙片を暖炉に落とした。残り火がそれを飲み込み、最後の文字が光って消えた。
「親父」
「何だ」
「俺たちは、ここにいていいんだよな」
ボグダンが息子を見た。暗がりの中で、ドワーフの黒い瞳が鉄のように光っている。
「ここが俺たちの鍛冶場だ。他にどこに行く」
それだけだった。
それだけで十分だった。
ドラガンは立ち上がり、暖炉の火を落とした。灰の中には何も残っていなかった。手紙も、文字も、帰還の命令も。すべてが灰になって消えた。
だが——「帰還は同胞の義務である」という一行だけは、ドラガンの記憶の中で消えなかった。完全記憶を持つティセラとは違う。ドラガンの記憶は曖昧で断片的だ。それでも、あの文字の形、あの墨の匂い、あの焦げた紙の熱さは——消えなかった。




