18話:北からの風
客人が来たのは、春の終わりだった。
ティセラが朝の修行を終えてアーリアの庭から帰ると、家の前に見慣れない馬が繋がれていた。北部森林領の馬だ。メシャラ村の馬より脚が細く、毛並みが銀がかっている。鞍にはエルフの紋章が刻まれた革袋が括りつけられている。
戸を開けると、母リューバの声が聞こえた。
「——タマラ姉さんの紹介で来てくださったのね。遠いところをありがとうございます」
居間に入った。食卓に見知らぬエルフの男が座っていた。
中年——エルフの基準で中年なので、ヒューマンなら壮年に見えるだろう。痩せた顔に深い翠の瞳、銀髪を後ろで一つに結んでいる。旅装は質素だが、仕立てが良い。学者か官吏の類だとティセラは直感した。
「ティセラ、こちらはヴラドさん。北部森林領のシルヴァン図書館の学者よ」
リューバが紹介した。ヴラドが立ち上がり、エルフ式の会釈をした。右手を胸に当て、軽く首を傾ける。
「お嬢さん。タマラ殿からお話は伺っています。若くして語り部の修行をされているとか」
「まだ見習いです」
「謙虚だな。アーリア長老の弟子であれば、見習いでも相当なものだ」
ヴラドの声は穏やかだった。知識人特有の落ち着きがあり、言葉の選び方に隙がない。ティセラは好感を持った——最初は。
***
夕食は母の手料理だった。
父ユーリスが仕事から帰り、四人で食卓を囲んだ。ユーリスはメシャラ村生まれのヒューマンとエルフの混血だ。がっしりした体つきにエルフの尖った耳を持つ、温厚な男。林業を営み、村の木材の管理を任されている。
食事の間、ヴラドは旅の話をした。北部森林領の都市の様子、シルヴァン図書館の蔵書の規模、エルフの古典文学の最新の研究。知的な話が多く、ティセラは興味深く聞いていた。
だが、食後の茶の時間になって、話の色が変わった。
「メシャラ村は珍しい場所だ」
ヴラドが茶碗を持ち上げ、窓の外を見ながら言った。
「エルフとドワーフとヒューマンが、これほど自然に混ざり合っている場所は、連邦でも希少だ。北部では考えられない」
「ここは昔からそうです。交易路の村ですから」
ユーリスが答えた。
「そう。交易路の村だからこそ、混ざり合う。だが——」
ヴラドが茶碗を置いた。
「それは本当にいいことなのだろうか」
食卓の空気が変わった。
「何がおっしゃりたいの?」
リューバの声に、微かな緊張が混じった。
「エルフの言語、文化、血統。それらは千年をかけて培われてきたものだ。エルフの子供がエルフの社会で育ち、エルフの言葉で学び、エルフの歌を歌い、エルフの歴史を語り継ぐ。それが自然な形だと、私は考えている」
「ここではエルフ語も使っています。ティセラはアーリア長老から口承を学んでいます」
「もちろん。だが——」
ヴラドがティセラに視線を向けた。
「ティセラ。君の友人は何人だ」
「二人。ルシェンとドラガン」
「ヒューマンとドワーフだな」
「はい」
「エルフの友人は?」
ティセラは口を閉じた。答えは明白だった。同年代のエルフの友人はいない。村にエルフの子供が少ないのだから仕方がないが——そう答えようとして、ヴラドの問いの意図に気づいた。
「友人の種族は関係ないと思います」
「関係ないように見えるだろう。今は。だが、十年後、二十年後——君がエルフとしての自分を確立しようとしたとき、エルフの中で育った者と、他種族の中で育った者では、根の張り方が違う」
「根?」
「アイデンティティだ。自分が何者であるかという確信。エルフの文化が薄まることを、私は心配しているのだよ」
ティセラの胸に、鋭いものが刺さった。
薄まる。エルフの文化が薄まる。自分がここにいること、ルシェンやドラガンと過ごすことが、エルフの文化を薄めているのだと——そう言われた気がした。
「ここではエルフもドワーフもヒューマンも一緒に暮らしている。それのどこが悪いの?」
声が尖った。自分でも驚くほど、反論の言葉が鋭く出た。
ヴラドは表情を変えなかった。
「悪いとは言っていない。ただ、エルフの文化が薄まることを心配しているのだ。薄まった文化は、戻らない。言葉が失われれば、歌は消え、記憶は途絶える。語り部の君なら、それがどれほどの喪失か、わかるだろう」
それは正しかった。
ティセラは反論できなかった。言葉の喪失が文化の死であることを、語り部として学んでいる。アーリア長老が伝えようとしている口承の数々は、まさにその喪失を防ぐための営みだ。
だが——だからといって、他種族の中で暮らすことがエルフの文化を殺すのだろうか。
ティセラには答えが出なかった。
***
夜。
ティセラは自分の部屋で横になったが、眠れなかった。
壁の向こうから、両親の声が漏れてきた。抑えた声。聞くつもりはなかったが、エルフの耳は人間の耳より遠くの音を拾う。
「あの男の言うことを真に受けるな」
父ユーリスの声だった。低く、苛立ちを押し殺している。
「タマラ姉さんの考えに影響されすぎだ、リューバ。ティセラはここで育ち、ここで幸せに暮らしている。北部に送る理由がない」
「でも——」
母リューバの声。震えている。
「この村にいつまでいられるか——」
「何を言っている」
「南部の話を聞いたでしょう。オークの難民が増えている。北部の評議会が動き始めている。帝都の使者も来た。世の中が動いているのよ、ユーリス。この村がいつまで安全かなんて、誰にもわからない」
沈黙が落ちた。
ユーリスが何かを言った。低すぎて聞き取れなかった。
リューバが答えた。
「ティセラだけでも——」
それ以上は聞きたくなかった。ティセラは枕に顔を押しつけ、耳を塞いだ。
***
翌朝。
ヴラドが出発の支度をしていた。馬に荷物を括りつけ、リューバと最後の会話を交わしている。ユーリスはすでに仕事に出ていた。
ヴラドがティセラに近づいた。
「短い滞在だったが、楽しかったよ」
「私もです」
嘘ではなかった。ヴラドの知識は本物であり、その博識に触れたことは刺激的だった。思想には賛同できないが、学者としての力量は認めざるを得ない。
ヴラドが旅装の内懐から、一枚の紙を取り出した。
「これを」
差し出されたのは、丁寧に折りたたまれた厚手の紙だった。開くと、エルフ語の美しい書体で文章が記されている。
「北部のシルヴァン図書館の入学案内だ。お前のような才能がある者は、こちらで学ぶべきだ。アーリア長老のもとで学んだことを、さらに深められる」
ティセラの手が止まった。
受け取るべきではない。受け取れば、それは北部への扉を一つ開けることになる。ヴラドの思想に同意したことになる——少なくとも、母はそう受け取るだろう。
だが、手が動いた。
紙を受け取った。
なぜ受け取ったのか、自分でもわからなかった。図書館という言葉に惹かれたのかもしれない。すべての種族の歴史を一冊の本にまとめたいという夢を語ったばかりだ。そのために学べる場所があるなら——
ヴラドが馬に跨った。
「考えてくれ。急がなくていい」
馬が交易路を北へ歩き出した。銀色の毛並みが朝日に光り、やがてエルフの学者の姿は交易路の彼方に消えた。
ティセラは手の中の紙を見つめた。
折りたたんで、上着の内側に入れた。捨てなかった。捨てられなかった。




