17話:皇帝の勅使
馬蹄の音が聞こえた。
春の雪解けが交易路の土を柔らかくし、馬の蹄が泥を跳ね上げる音が、鍛冶場の壁越しに響いてきた。ルシェンは炉の前で手を止め、耳を澄ませた。
一頭ではない。少なくとも五頭。蹄鉄の音が揃っている。軍馬だ。農耕馬や荷駄馬とは打ち方が違う。
「師匠」
ボグダンは答えなかった。すでに炉から離れ、鍛冶場の入口から交易路を見ていた。
「帝都の紋章だ」
ボグダンの声が低くなった。
ルシェンも入口に立ち、外を見た。交易路を五頭の馬が進んでくる。先頭の馬に乗った騎手は、深紅の外套を纏い、胸に金糸で五種族の連合紋章を刺繍した帝都の正装だった。護衛が四名。いずれも軽装の剣を帯びている。
帝都からの使者。
村の住人たちが戸口から顔を覗かせ、交易路に集まり始めた。ファトマが杖をつきながら広場に出てきた。アーリアが書斎から現れ、ボグダンが鍛冶場の前で腕を組んだ。三人の長老が、使者を迎える態勢を整えている。
「帝都からの使者は、通常良い知らせを持ってこない」
ボグダンが呟いた。ルシェンに向けた言葉か、独り言かはわからなかった。
***
使者は広場で馬を降りた。
中年の男だった。種族はヒューマン。痩せた顔に鷲鼻、灰色がかった金髪を短く刈り込んでいる。笑顔はなかったが、敵意もなかった。官吏特有の、感情を見せない表情だ。
「皇帝陛下の巡察官、セドリックと申します。メシャラ村の長老にお目通り願いたい」
声も平坦だった。抑揚が均一で、訓練された発声だとわかる。
ファトマが前に出た。
「メシャラ村の長老代表、ファトマです。ようこそおいでくださいました。お疲れでしょう。まずはお食事を」
「ご厚意に感謝します。しかし、まず公務を」
セドリックは外套の内側から羊皮紙の巻物を取り出した。帝都の封蝋で密封されている。封を切り、広場に居合わせた住人たちの前で読み上げた。
「皇帝ゼノヴァル陛下のご命により、連邦各地域の現況を視察し、民の安寧を確認すること。それが今回の巡察の目的であります」
表向きは、それだけだった。
住人たちが顔を見合わせた。巡察。現況の視察。安寧の確認。言葉は穏やかだが、帝都が辺境の村にわざわざ使者を送る理由はそれだけではない。誰もがそれを感じていた。
ファトマが使者を集会所に案内し、アーリアとボグダンが同行した。護衛の四名は広場に残り、馬を繋いでいる。
ボグダンが鍛冶場を振り返った。
「ルシェン。馬の蹄鉄を見てやれ。長旅で磨り減っているはずだ」
「はい」
蹄鉄の修理。使者の馬の世話。鍛冶場の弟子としての仕事だ。
***
護衛の馬を一頭ずつ鍛冶場に引き、蹄鉄を外して点検した。予想通り、四頭すべての蹄鉄が磨り減っていた。帝都からここまで、相当な距離を走ったのだろう。
三頭目の蹄鉄を炉で赤めて叩き直しているとき、集会所から出てきたセドリックが鍛冶場に立ち寄った。
「見事な仕事だな」
ルシェンが顔を上げると、使者は鍛冶場の入口に立ち、蹄鉄を打つ手元を見つめていた。
「ありがとうございます」
「この村の鍛冶師の弟子か。名は」
「ルシェンです」
「ルシェン。ヒューマンだな」
「はい」
「ドワーフの鍛冶師に師事するヒューマンは珍しい。腕は確かなようだ」
世間話のように始まった。だが、次の言葉でルシェンは使者の意図を察した。
セドリックが共通語から切り替えた。
「エルフ語は話せるかね」
エルフ語だった。流暢な北部方言。
「話せます」
ルシェンもエルフ語で答えた。
セドリックの目がわずかに動いた。
「ドワーフ語は?」
今度はドワーフ語だった。西部山岳方言。
「話せます」
ドワーフ語で答えた。
セドリックが無言でルシェンを見つめた。平坦だった表情に、初めて何かが浮かんだ。驚き——というよりも、確認されたという顔だった。あらかじめ報告を受けていたものを、自分の目で確かめた、という顔。
「オーク語は?」
「少しだけ。日常会話ならなんとか」
「ノーム語は?」
「挨拶程度です」
セドリックが腕を組んだ。
「ルシェン。お前のような人材は貴重だ」
「人材?」
「帝都には、連邦全体を束ねるための人間が必要だ。五種族の言語を操れる者は、帝都の外交官僚の中にも数えるほどしかいない。お前の年齢でそれだけ話せるのは――帝都に来ないか」
ルシェンは金槌を置いた。
帝都。連邦の中心。五種族の首都。聞いたことはあるが、行ったことはない。そこに行けば、もっと広い世界が見えるのかもしれない。もっと多くの人に出会えるのかもしれない。
だが。
「ここが好きなので」
ルシェンは金槌を持ち直した。
「この村が好きです。鍛冶場が好きです。師匠にまだ教わりたいことがたくさんあります。ここには友達がいます。だから——申し訳ありませんが」
セドリックは数秒間ルシェンを見つめ、それから頷いた。
「わかった。無理強いはしない。だが、覚えておけ。世界が変わるとき、言葉を持つ者の役割は大きくなる」
その言葉の意味を、ルシェンはまだ完全には掴めなかった。
***
翌朝、使者一行は村を発った。
修理した蹄鉄を馬につけ、護衛が馬上に戻る。セドリックが最後にファトマの前で一礼し、馬に跨った。
去り際だった。
セドリックがファトマに歩み寄り、声を落とした。ルシェンは鍛冶場の前で馬を返す作業をしていたが、風の具合で声の断片が耳に届いた。
「——陛下のお命は——」
「——長くない——」
「——各自治領の動きに——注意されたい——」
全文は聞き取れなかった。だが、その断片だけで十分だった。
ルシェンはファトマの方を見た。
使者が馬を駆り、交易路を北へ消えていった。馬蹄の音が遠ざかり、砂埃が沈む。広場に残された長老たちが、互いの顔を見合わせた。
ファトマの表情が凍りついていた。
あの小さな老女の、いつも穏やかで、いつも毅然とした顔が——今は石のように動かない。目元だけがわずかに震えていた。
ルシェンは見てしまった。その表情を。
何が語られたのかは聞こえなかったが、ファトマの凍った顔が、それが何であれ良い知らせではなかったことを告げていた。
ボグダンが鍛冶場に戻ってきた。
「仕事に戻れ」
それだけ言って、父は炉の前に座った。ルシェンは金槌を握り直した。鉄を打つ。それだけが、今の自分にできることだった。




