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七つの国境、ひとつの故郷  作者: Jint
第1章:黄金の揺籃

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16話:凍てつく道

 吹雪が三日続いた。


 三日目の朝、ルシェンは小部屋の窓を開けて外を確認した。開けた瞬間に粉雪が吹き込み、顔が凍りついた。交易路が消えている。一メートル先も見えない白い壁が、村のすべてを呑み込んでいた。


 窓を閉めた。


 鍛冶場に向かおうとしたが、裏口の戸が開かなかった。雪が腰の高さまで積もっている。しばらく掘り返し、なんとか外に出ると、村は見慣れない風景に変わっていた。屋根の線すら雪の中に沈み、煙突から立ち上る煙だけが、ここに人が住んでいることを示している。


 鍛冶場に着くと、ボグダンがすでに炉に火を入れていた。


「今日は客は来ない。在庫の整理をしろ」


 それだけ言って、ボグダンは炉の前に座った。冬の閑散期、鍛冶場の仕事は緩やかになる。急ぎの注文はなく、春に備えて材料を点検し、工具を手入れするだけだ。


 ドラガンが雪を払いながら鍛冶場に入ってきた。赤毛に白い粉がこびりついている。


「道がない。雪に埋まった。隣のハサンの畑がどこかもわからん」


「交易路も?」


「完全に消えた。あれは当分溶けないぞ」


 村が孤立する。冬場の恒例とはいえ、今年の雪は例年より早く、深い。交易路が使えなくなれば、外部からの物資は途絶え、村は自分たちの備蓄だけで冬を越さなければならない。


 ルシェンは工具棚の奥にある鉄の在庫を数えた。銅が七塊、錫が三塊、鉄が十二。蜜蝋は残り少ない。木炭はこの冬を越すには足りるが、余裕はない。


「師匠。木炭の追加は」


「裏山の炭焼き小屋にある。雪が止んだら取りに行く」


 ボグダンの声に焦りはなかった。この村で何十回と冬を越してきた男だ。備蓄の加減を知っている。


 それでも日常は続く。炉に火を入れ、金属を磨き、工具を整え、壊れた鍋の鋳掛けを仕上げる。吹雪の外の世界がどうであれ、鍛冶場の中には鉄と火の秩序がある。


 ***


 午後になって、ボグダンが「今日はもういい」と言った。


 仕事が片付いたわけではない。だが吹雪が収まる気配もなく、これ以上やることもない。ドラガンが「ティセラの家に行こう」と提案し、ルシェンは頷いた。


 三人は雪の中を歩いた。


 交易路の痕跡を辿って村の東へ向かう。膝まで埋まる雪を踏みしめ、ドラガンが先頭で道を開く。ドワーフの短い足だが、幅広の靴底と体重が雪を圧し、後ろの二人が歩けるだけの踏み跡を作っていく。


 ティセラの家の戸を叩くと、母リューバが驚いた顔で迎えてくれた。


「この吹雪の中を来たの? 凍傷にならなかった?」


「ドワーフは寒さに強いんです」


 ドラガンが胸を張ったが、耳は真っ赤だった。


 リューバが暖炉の前に毛布を敷き、温かいシチューを運んできてくれた。根菜と干し肉をエルフの香辛料で煮込んだ、リューバの得意料理だ。体の芯から温まる。


 ティセラが奥の部屋から出てきた。厚い毛糸の上着に身を包み、手には巻物を持っている。修行の途中だったらしい。


「来ると思った」


「なんで」


「吹雪が三日も続けば、あなたたちが退屈していることくらいわかるわ」


 四人——リューバを含めて——が暖炉の前に座り、シチューを食べた。暖炉の炎が部屋を橙色に染め、窓の外では依然として白い雪が舞い続けている。


 食べ終えた頃、リューバが台所に下がり、三人が残された。


 暖炉の前の静けさ。炎がぱちぱちと爆ぜる音。窓に当たる風の音。ここだけが世界の全てであるような、冬の午後の親密さ。


 ルシェンが毛布に包まって壁にもたれ、ぼんやりと炎を見つめていた。


「なあ」


「何?」


「将来の話をしようぜ」


 ドラガンが言い出した。珍しいことだった。普段は目の前のことしか考えない男だ。


「将来って?」


「大人になったら何をするか、とか。ここを出るのか、残るのか、とか」


 ティセラが巻物を膝の上に置いた。


「私は決めてる。すべての種族の歴史を一冊の本にまとめたい」


「一冊? それ、何百ページになるんだ」


「何千ページでも構わない。エルフの歴史だけじゃなく、ドワーフの歴史も、ヒューマンの歴史も、オークの歴史も。全部を一つの物語として書きたい。今は種族ごとに歴史が分かれているでしょう。エルフの語り部はエルフのことしか語らない。ドワーフの年代記にはドワーフのことしか書いてない。でも、本当はみんな同じ世界に生きているのだから、一つの歴史として語れるはずよ」


 ルシェンは目を細めた。ティセラらしい夢だと思った。壮大で、知的で、気が遠くなるほど難しい。


「ルシェンは?」


「俺?」


 考えた。将来。大人になったら。


 脳裏に浮かんだのは、交易路の白い線だった。裏山から見下ろした、村を貫いて南北に走るあの道。


「この村をもっと大きくしたい」


「大きく?」


「交易路をもっと長く、もっと太くして、もっと多くの種族が行き来できるようにしたい。今はメシャラ村を通るのはたまたまここに道があったからだけど——もし道をもっと整備して、宿場を作って、市場を大きくすれば、もっとたくさんの人が集まるだろ。エルフも、ドワーフも、ヒューマンも、オークも。もっとたくさんの人が出会う場所になる」


 ティセラが小さく笑った。


「あなたらしい」


「変か?」


「ううん。あなたはいつもそう。人と人を繋ぐことを考えてる」


 ルシェンは照れて目を逸らした。炎が映る壁を見つめる。自分でも、なぜそういう夢を持つのかはよくわからない。ただ、この村の交易路が——異なる者たちが交差し、行き交い、混ざり合う道が——守るべきものだという感覚が、胸の底にある。


「ドラガンは?」


 ティセラが訊いた。


 ドラガンは腕を組み、暖炉の炎を睨むように見つめていた。


「父さんより凄い鍛冶師になる」


「お父さんより?」


「ああ。誰にも負けない剣を打つ。ルシェンにも負けないやつを」


 一瞬、鍛冶場での日々が三人の間に蘇った。ボグダンの鉄の歌。ドラガンの力任せの打撃。ルシェンの繊細な火加減。


「俺はまだ下手くそだ。でも、いつか——鉄の声が聞こえるようになったら、そのとき親父を超える」


 ドラガンの声は静かだった。いつもの威勢のいい「まかせとけ」ではなく、腹の底から絞り出すような、低い決意だった。


 三人は黙って炎を見つめた。


 それぞれの夢が暖炉の火に照らされ、部屋の中で静かに温まっている。実現できるかどうかはわからない。大人たちの世界で何が動いているかも、まだよく見えていない。だが、この瞬間——吹雪に閉ざされた村の、一軒の家の暖炉の前で、三人が夢を語り合っているこの瞬間だけは、世界は完璧に安全だった。


 沈黙が落ちた。暖炉の炎が弾ける音だけが、三人の間を満たしている。


 ルシェンの口が動いた。言葉は考えて出たものではなかった。


「なんでだろう。この村が壊れる気がするんだ」


 暖炉の火が一度大きく揺れた。


「壊れる?」ドラガンが怪訝な顔をした。「何が壊れるんだ」


「わからない。理由はわからないけど——そんな気がする。ずっと前から」


 ティセラが膝の上の巻物をそっと置いた。翠の瞳がルシェンの横顔を見つめている。


「ルシェン。あなた、前にも変なことを言っていたわね。歴史は繰り返すのか、って」


「……うん」


「覚えてる。一字一句」


 完全記憶の声は静かだったが、その奥に探るような鋭さがあった。


「あなたは時々、この世界の人間が知らないことを知っている顔をする。合金の比率もそう。輪作の話もそう。今の言葉も——予感というより、何かを思い出しているように聞こえた」


 ルシェンは答えなかった。答えられなかった。自分でも何を知っているのかわからないのだ。


 ドラガンが二人の間の空気を嗅ぎ取ったように鼻を鳴らした。


「難しい話はいいだろ。今は三人でいる。三人でいれば、何でもできる」


 ルシェンは笑った。笑おうとした。


「ああ。そうだな」


 窓の外で、吹雪がわずかに弱まった。雲の切れ間から白い光が差し込み、雪の表面を銀色に輝かせた。


 ***


 帰り支度をしていたとき、ルシェンは見た。


 廊下の奥の、リューバの私室の戸がわずかに開いている。その隙間から、リューバの背中が見えた。机に向かい、何かを読んでいる。手紙だった。紙は白く、封筒には北部のエルフ文字の消印が押されている。


 リューバの肩が小さく震えていた。


 ティセラは玄関で靴を履いている。気づいていない。ドラガンはすでに外に出て、帰り道の雪を踏み固めている。


 ルシェンだけが、廊下の奥を見ていた。


 手紙の内容は読めない。だが、リューバの震える肩と、北部からの消印だけで、何かが動いていることは察せられた。


 リューバが振り返る前に、ルシェンは視線を外した。


「ルシェン、早く! 雪がまた降り出す前に帰るぞ!」


 ドラガンの声が外から響いた。


「ああ、行く」


 ルシェンは玄関を出た。振り返らなかった。見なかったことにした。


 吹雪の中を三人で歩いた。ドラガンの踏み跡を辿り、ティセラの背中を見ながら、ルシェンは一つだけ思った。


 変わらないと信じている。変わらないでほしいと思っている。


 だが、変わらないものなどないことを——ルシェンはなぜか、骨の髄まで知っていた。


 ***


 その夜、夢を見た。


 最初は声だった。


 大勢の声が重なって、崩れていく音がした。何かが燃えている。橙と黒が視界を塗りつぶし、煙の匂いが鼻を突く。建物が傾いでいる。窓の向こうで火が上がっている。走る影。遠くから響く何かの音——それが砲声だと、夢の中のルシェンはなぜか知っていた。


 気づいたら、暗い部屋にいた。


 見覚えがある。白い壁。透明な管。規則的な音。あの場所だ。


 煙の匂いが消えていた。代わりに紙の匂いがした。古い紙。インクの匂い。


 手の中に本が開かれていた。


 ページの上に地図が描かれている。見たことのない形の大陸。海の輪郭、山脈の走り方、河川の流路——この世界のものではない。地図の上に線が引かれ、領域が色分けされている。赤、青、緑、黄。色の境目に、小さな文字が書かれていた。


 指が文字を辿った。唇が動いた。


 声が出かかった——言葉が来なかった。どこかで切れた。


 そこで意識が揺らいだ。だが、指は止まらなかった。


 頁をめくる。次の頁にも地図がある。同じ大陸だが、色の分布が変わっていた。赤い領域が細く裂け、青が侵食し、緑が萎縮している。境界線が増殖し、一つだった領域が砕けるように分裂していく。地図の上の一点が、黒く焼け焦げていた。街のあった場所だ。


 最後の頁。色はなかった。灰色一色の地図。線だけが残っている。無数の線が、かつて一つだったものを切り刻んでいる。線と線の間に、小さな名前がびっしりと書き込まれていた。読めなかった。その数だけが、残った。


 目が覚めた。


 寝台の上で膝を抱えた。額に汗が浮いている。炉の余熱もない夜明け前の冷たさの中で、汗だけが熱かった。


 本の内容は思い出せない。文字も完全には読めなかった。だが、地図の変遷だけが——一つの国が砕けていく過程だけが、網膜に焼きついていた。そして最初の場面、あの炎の橙色が。


 手探りで、枕元の作業着を引き寄せた。胸ポケットから布切れを取り出した。夜間の仕事で手を拭うのに使う小さな端切れだ。


 炭の欠片を探した。見つけた。


 布の上に、炭で文字を書いた。


 この世界にない書体で。指が形を覚えていた。いくつかの文字を書いて、止まった。


 続きが来なかった。それ以上は、わからない。


 だが、この六文字が——この村に、この世界に、やがて起きることと繋がっているという確信だけがあった。


 布切れを折り畳んだ。作業着のポケットの奥に押し込んだ。


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