15話:冬の炉辺
冬が村を覆い尽くした。
雪は三日前から降り続いている。交易路は白い布で覆われたように姿を消し、屋根の上に積もった雪が軒先から氷柱となって垂れ下がっていた。井戸の水が凍り、家々の煙突からは一日中煙が立ち上っている。
ティセラは朝から長老アーリアの家にいた。
冬は語り部の修行に最も適した季節だった。外に出られない日が続くと、やることは限られる。本を読むか、語りを学ぶか。ティセラにとっては後者だった。
アーリアの書斎は小さかったが、壁の棚に巻物と羊皮紙の束がぎっしりと詰め込まれている。エルフの歴史書、口承の記録、各種族の条約文書の写し。北部森林領の図書館から持ち出したものもあるという。
「今日は現代の話をしよう」
アーリアが炉辺の椅子に座り、白い湯気の立つ薬草茶を一口飲んだ。いつもより声が低い。歴史の語りではなく、現実の話をするときの声だ。
「現代、ですか」
「千年前の話ばかりしていても仕方がない。お前にはもう少し、今の世界を知ってもらう必要がある」
ティセラは背筋を伸ばした。
「北部森林領の評議会が、南部荒野領のオークの自治権について議論している」
ティセラは目を瞬かせた。南部のオーク。ベシムたちの話を、ルシェンとドラガンから聞いてはいない。だが、バザールで耳にした断片、母リューバの言葉の端、アーリアの表情の曇りから、何かが南部で起きていることは感じていた。
「議論とは、何を?」
「オークの集会を制限するのが妥当かどうかだ」
アーリアが茶碗を膝の上に置いた。
「南部荒野領では、オークの住民が独自の言語と文化を維持するための集会を開いている。歌を歌い、口承を伝え、祭りを行う。エルフの自治領政府は、それを『分離主義の温床』と見なしている」
「集まって歌を歌うだけなのに?」
「歌を歌うだけではない——と、評議会は主張している。オークの集会は政治的な結社の隠れ蓑であり、南部の独立運動を煽る場だと。だから集会を制限し、オーク語の公的使用を禁止すべきだと」
ティセラの眉が寄った。
「でも、私たちだってここでエルフ語を使っているわ。守護精霊祭ではエルフ語で祝詞を唱える。それを禁じられたら——」
「そう。だから問題なのだ」
アーリアの翠の瞳がティセラを見つめた。皺の奥に、長い年月の疲労が滲んでいる。
「ティセラ。お前に問いたいことがある」
「はい」
「オークの集会を制限するのは、正しいことだと思うか?」
ティセラは口を開きかけ、閉じた。
即座に「正しくない」と答えそうになった。集まる自由を奪うのは間違っている。歌を禁じるのは間違っている。言語を奪うのは——
だが、アーリアの目がそれを待っていない。即答を求めているのではなく、考えることを求めている。
「……わからない。情報が足りない。なぜエルフの政府がそこまでするのか、理由を知らないと判断できない」
アーリアが微かに頷いた。否定でも肯定でもない頷きだった。
「正しさは、誰の立場から見るかで変わる」
「でも、長老——」
「エルフの自治領政府には、南部の安定を維持する責任がある。オークの集会が本当に独立運動と結びついているなら、制限に合理性がないとは言い切れない。だが、文化を奪うことで安定が得られるかどうかは、別の問題だ」
アーリアが炉の火を見つめた。炎が老エルフの顔に赤い影を落としている。
「私が長い年月をかけて学んだことが一つある。正義を叫ぶ者ほど、自分の正義しか見えていない。語り部の務めは、すべての立場の声を記録することだ。どちらが正しいかを判じることではない」
ティセラはその言葉を記憶に刻んだ。一字一句。抑揚まで。完全記憶はこういうとき便利であり、同時に残酷だ。この言葉は永遠に消えない。
アーリアが薬草茶を一口飲み、ティセラの目をまっすぐに見た。
「ティセラ。お前に一つ、頼みがある」
「何ですか」
「エルフの語り部は、エルフの歴史を語り継ぐ者だ。それが本来の務めだ。だが——お前は、この村で育った。ドワーフの隣で遊び、ヒューマンの言葉を聞き、オークの歌に触れた。お前には、エルフの歴史だけでなく、すべての種族の声を記録する耳がある」
ティセラは息を止めた。
「すべての種族の歴史を、一人の語り部が記録する。そんなことをした者は、今までいない。だが——もし世界が変わるなら、誰かがすべてを覚えていなければならない。お前がその者になれ」
書斎の静けさの中で、アーリアの言葉が重く落ちた。
ティセラの胸の奥で、何かが形を変えた。ぼんやりとした夢が、使命に変わる瞬間。すべての種族の歴史を一冊の本にまとめたい——それは単なる夢想ではなく、長老から託された務めだった。
「やります」
声が震えなかった。自分でも驚くほど、明瞭だった。
アーリアが目を細めた。微笑みではない。もっと複雑な——安堵と、哀しみと、祈りが混ざったような表情だった。
***
午後になって雪が小降りになり、ティセラは鍛冶場を訪ねた。
ボグダンの鍛冶場は冬でも炉が燃えている。村の暖房器具の修理、農具の手入れ、壊れた鍋の鋳掛け。冬の仕事は地味だが途切れない。
戸を開けると、炉の熱気が顔に当たった。煤と金属の匂い。ルシェンが炉の前で小さな金具を叩いており、ドラガンが作業台の上で鉄鋲を磨いている。ボグダンの姿はなかった。買い出しだろうか。
「あ、ティセラ」
ルシェンが金槌を置いた。
「外、まだ降ってる?」
「少し止んできた」
「よかった。昼から何も食べてないんだ」
「何のためにここに来たと思ってる」
ドラガンが鉄鋲を放り出して立ち上がった。
「パンを持ってきてくれたんだろ」
「持ってきてない」
「使えないな」
「なんであなたに食べ物を運ぶ義務があるのよ」
ルシェンが笑った。ティセラも口元が緩んだ。この軽口は何度も繰り返されてきた。同じ冗談、同じ返し、同じ笑い。変わらないやりとりの重なりが、三人の間にある安心感の厚みだった。
ティセラは炉の前の丸椅子に座った。鍛冶場の熱気が冷えた体に染み込んでくる。冬のこの場所は、村で最も暖かい場所だった。
「今日はアーリア長老のところだったの?」
「うん。現代の政治の話を聞いた」
「政治? エルフの?」
「北部の評議会が、南部のオークの自治権について議論しているって」
ルシェンの表情がわずかに変わった。何かを思い出したような、あるいは何かを隠したような、微妙な翳り。だが、すぐに元に戻った。
「難しい話だな」
「難しいわ。正しいことが何なのか、長老にも答えが出ないみたい」
ドラガンが炉の前に戻り、あぐらをかいた。
「難しい話はわからん。腹が減った」
「さっきから腹の話ばかりね」
「腹が空いてたら難しいことは考えられないだろ。まず飯だ」
ルシェンが鍛冶場の棚から干し肉と黒パンを出してきた。ボグダンが弟子のために常備しているものだ。三人で分け合い、炉の火で温まりながら食べた。
干し肉は硬く、黒パンは固かった。だが、炉の熱で温められた鍛冶場の中で、三人で食べるそれは、どんな祝祭の料理よりも温かかった。
食べ終えたとき、ティセラは口を開いた。
「ねえ」
「ん?」
「正しいことって、一つだと思う?」
ルシェンが顔を上げた。翠の瞳と、鍛冶場の煤で汚れた少年の目が合った。
ルシェンが答えようとした。口が開き——
「腹が減った」
ドラガンが言った。
「さっき食べたばかりじゃない」
「足りない。ドワーフは燃費が悪いんだ」
三人が笑った。ティセラの問いはうやむやになり、鍛冶場の空気は軽いまま保たれた。
だが、ルシェンの目が一瞬見せた真剣さを、ティセラの完全記憶は逃さなかった。あの目は——何かを知っている目だった。正しさが一つではないことを、知っている目。
答えを聞けなかったことが、少しだけ惜しかった。
***
帰り道、雪が止んでいた。
灰色の空の切れ間から、冬の星がいくつか覗いている。交易路に積もった雪を踏みしめながら、ティセラは家に向かった。
息が白い。指先が冷たい。だが、胸の中にはまだ鍛冶場の温もりが残っていた。
正しいことは一つではない。
アーリア長老の言葉が、記憶の中で繰り返されている。正しさは立場で変わる。語り部の務めはすべての声を記録すること。
ならば——すべての種族の歌を歌えるルシェンは、語り部にこそ向いているのかもしれない。
その考えに自分で微笑み、家の戸を開けた。




