第十章(後)・光
一時間程ぼんやりとした後、わたしは重い体を引き上げてまた自転車をこぎ出した。
そして今度は、シンさんの工房に向かう。
多少、気は重かったけれど……でもやっぱり、直接逢ってお礼を言わなければ。
長屋の脇に自転車を停めると、わたしは一度、深呼吸した。
思いきって、扉をからりと開ける。
「――おう」
テーブルの脇に立って、シンさんがこちらを見た。何故か左手の人差し指の先を、口にくわえている。
その奇妙な姿に、ここへ来るまでに自分の中にあったもやもやとしたものが一瞬で飛んだ。
「……どうしたの?」
そう尋ねながら近寄ると、シンさんは右手で、テーブルの上に置かれた古びた木の救急箱を開けようとしているところだった。あ、もしかして。
「久々にやってもうたわ。……ああ、大したこと、ないねんけどな」
口から外した指に、救急箱から取り出した消毒液をしゅっと吹きかけた。うわ、血だ。
傷はよく見えなかったけれど、流れ出た血が爪の先に入り込んで赤く染まっている。
その赤さに、自分の中の奥の方で、何かがうずいた。
シンさんは右手で救急箱の中をがさがさと探って、絆創膏の箱を取り出そうとしている。
「あ……あ、やろうか」
その様子にわたしは慌てて手を貸した。
箱から一番大きな、正方形に近いかたちの絆創膏を取り出して封を開く。
「悪いな」
シンさんが差し出した指に、それをくるりと巻いて止めた。
すぐにじわりと、ガーゼに赤い染みが透けて見えてくる。
「痛い?」
「いや、どうもない」
シンさんはその手を頭の上の辺りに上げると、血を止めるようにきつく手首を押さえた。
わたしは救急箱のまわりに置かれた消毒液や絆創膏の箱を中に戻して、ぱちん、とその蓋を閉める。
「これ、どこにしまったらいいの?」
「ああ……後でまた使うかもしれんし、とりあえず、だいどこにでも」
「ん」
わたしはうなずいて、それを台所の流しの脇に置いた。
振り返るとシンさんはもう手を下ろしていて、かたん、と椅子を引いてテーブルの前に座っている。
わたしはその場に立ったまま、深く息を吸い込んだ。
「――シンさん」
「ん?」
「あの……」
わたしはわずかにためらってから、思いきって口を開く。
「こないだ……ユウさんに、貰った。ありがとう」
「――ん」
シンさんは鼻先でそっけない音を出して、ふい、と顔を横に向けると右手でテーブルの上のものを片づけ始める。
「すごく、綺麗だった。ほんとにありがとう、大事に使うね」
「あれ、やらかいから、洗う時とかしまう時とか、気ぃつけろ。いがむぞ」
「あ……あ、うん。判った」
あくまで事務的な口調でそう言うシンさんに、わたしはこくんとうなずいた。
「――で?」
それから、こちらを見ないままシンさんが放った声に、わたしはきょとんとなる。
「え?」
「で、どうなん。あいつになんて、返事したん」
「え……」
思わぬ問いに、みるみる頬に血がのぼるのが判った。いや、だからもう……だから。
「いや、あの……返事とか、別に。待つから、って、ゆっくり考えてくれていいから、って……言って、くれたし」
「は? 何やねなそれ」
シンさんがじろりとこちらを片目で睨む。
「別に考える必要とかあんのかい。ええやん、あいつで」
「いや、だからもう……」
わたしは何とも情けない気持ちになってきて、大きく手を振った。
「もう、どうして皆そうやって結論急かすの? 大体シンさん、自分が二十歳の時にまともに結婚なんか考えたことある?」
「言うても俺二十歳の時なんかまだ学生やもん。そもそもオンナなんかいてへんかったし、立場がちゃうやろ」
「う……まあ、そう……だけど」
わたしは言葉に詰まって前髪をかきあげると、無意味に数歩歩いて、立ったまま引き戸の脇の壁にもたれかかった。
「え、それ何、つまりまだ遊び足らんってこと?」
「いや、そういうことじゃ……でも、まだ……一年も、つきあってないのに」
「今見極めできてへんようなら一年後でも見切れてないやろ」
「まあ……そう、かもしれないけど」
「少なくとも、あいつは間違いないで」
シンさんはテーブルの上に置かれた鉛筆を手に取り、軽く振ってみせた。
「心配せんでも、あいつは一生、気は変わらん。浮気せん男なんかこの世におらん、言うけどあいつだけは無い。絶対無い。男の俺が言うねやから間違いないわ。たとえ隣に裸の女が寝てたとしても、あいつは絶対、手出さんよ」
真顔でそう言うシンさんを、わたしは何とも言えない思いで見つめた。それは……確かにわたしも、そんな気がする。だけど。
「あいつは何が自分にとってほんまに大事か、ちゃんと判ってる男や」
わたしの沈黙をどう取ったのか、シンさんが身を乗り出してテーブルに肘をついた。
「そやし目先のことにはふらつかん。結局最後に自分に必要なもんが何か、ちゃんと見極めついてる奴や。一度、全部なくしとるから……そやからあいつは、絶対にそこ、見間違うことも見失うこともない。そんな男、滅多におらんぞ」
「……うん」
わたしは小さく、うなずいた。まさにシンさんの、言う通りだ。あのひとは、そういうひとだ。
シンさんが安心した様子で笑みを浮かべる。
「ほな……ええやん。何も心配することない」
「いや、うん……そんな、心配は……して、ない、けど」
「は?」
シンさんは一瞬きょとん、とした顔をして、それからむっと眉根を寄せた。
「ほな何……他に何か、あいつ問題でも? 借金でもあんのか?」
「いや、そういうことじゃ……ユウさんがどう、て言うんじゃなくって」
わたしは慌てて手を振りながら、もごもごと言葉を濁す。
「え……ほなお前か? って、なんか不満でもあんのか、あいつに」
「そうじゃない、だから……ユウさんだからとか、そういうことじゃ……なくて」
わたしはもう何をどうしたらいいのか判らなくなって首を振り――ふっと、テーブルに肘をついたシンさんの手が目に入った。
指に巻かれた絆創膏、そのガーゼにぼんやりにじむ、赤い、血。
それを見た瞬間、先刻感じたとの同じ、ぞわりとしたざわめきが胸の底で揺らいだ。
目の前に、遥か昔の情景が浮かぶ。
指にぺったりとこびりついた、生乾きの餅のような感触の、赤。
多分もうそれは黒っぽく変色していた筈だろうに、脳裏には何故か、真紅が焼きついている。
「……血、が」
気づくと唇から、ぽろりと言葉がこぼれていた。
「え?」
シンさんが顔をしかめて、わずかにこちらに上体を乗り出して。
「血が……繋がってる、から」
小さく硬い塊のように、口からぽろぽろと言葉が落ちる。
わたしは殆どものが考えられないまま、ただ言葉をこぼした。
「わたしの、母親……昔、男と駆け落ちしようとしたことがある、わたしが家を出て、残されるのが嫌だから、って……でも、全部バレてて、当日に阻止されて……父に蹴られて、階段から転がり落ちて」
わたしは何かに取り憑かれたみたいに一本調子な声で喋った。
目の前にあるものが皆薄っぺらい板のようになって、もののかたちが見てとれなくなり――だから、後になっていくら思い返してみても、その時にシンさんがどうしていたのか、どんな顔をしていたのか、どうしても思い出すことができなかった。
「その時にあの人がわたしに言った、お前も、そうなる、って……自分の母親もそうだった、母さんも、だからお前もそうなるぞ、って……何せ血が繋がってるからな、って、そう」
――ああ、そうか……呪い、だ。
殆ど麻痺しきっていた頭のどこかで、悟った。
あれはわたしに、かけられた呪い。
でも、そうだ、あの時には瞬間的に、思ったものだ――それは自分には関係ない、と。
だって自分は、絶対誰とも結婚なんかしない。だからそもそも、そんなことになりようがない。だからこの人が何と言おうが、それはわたしの人生には関係が無い。
わたしはそう思うことで、その呪いを無効にしたのだ。
自分はあの家にいて、結婚にも家庭にも憧れどころか、嫌悪に近いものを抱いていた。何故わざわざひとつ屋根の下で、互いにこんな感情を抱き合い精神を蝕みあって生きなければならないのか。そうまでして継続しなければならない婚姻とか家庭とかいうものに一体何の意味があるのか。そんな思いをするくらいなら、最初っから結婚なんかしなければ良かった、そうすれば……わたしみたいな思いをする人間も、存在しなくて済んだ。
自分は絶対、こんな不幸を再生産しない。だからわたしは、絶対結婚なんてしない。そうすればあの呪いは、決して発動しない。
ずっと、そう思って生きてきたのに。
「だから……」
言いながら、わたしはふっと、自分の手を見下ろした。
あの時、指の先にぺたりとへばりついた血。
あれ、一体……どう、したんだっけ?
「洗って……全部、きれいに、したら……消せるかと、思って」
そうだ、確か、掃除を……した、ような、気が、する。玄関のところと階段、上から下まで、一段一段、ほんのわずかな染みさえ、木目の模様さえも血に見えてきて、ぴかぴかになっても、まだ、こすり、続けて……。
「でも……きれいに……ならなくて」
わたしはその時、自分がまだ何かを喋っている、という自覚すらなく――と、突然ガタン、と目の前で大きい音がした。
ぱん、と風船が割られたみたいにはっと意識が自分の中に戻ってきた次の瞬間、
「――もうええ」
とシンさんの声がすぐ目の前でして、同時に、ぐい、と右手で肩を抱き寄せられ、逆手にした左手で、ぐっと口を塞がれた。
「――――」
息が止まって――ああ、頭が……真っ白だ。
「もう言わいでええ。もう……それ以上なんも、言わいでええから」
頭のすぐ上で、シンさんの声がする。
手の平で口を塞がれたまま目だけを動かして見ると、シンさんはひどく厳しい、昏い目をして、どこかよく判らない、遠くの虚空を睨みつけていた。
わたしは真っ白な頭のまま、ようよう息を吸う。
ああ……煙草の匂いが、する。
ごわついた感触のシンさんの指の間から、ごくほんのわずかに、煙草の香りがした。
何故だかそれは、嫌な匂いではなかった。
「――しっかりせえ」
肩を抱いた右手が、ぐい、とわたしの体を揺さぶる。
「しっかりせえよ、ハル」
声がわずかに苛ついたようないろを含み、また、肩が揺すられる。
「そんなら何か、お前は人殺しの子供に、だからお前も人殺しになる、言うんか。泥棒の子供に、だからお前の未来も泥棒や、て言うんか」
わたしは長い息を吐き、もう一度目を動かして、シンさんを見上げた。
すると今度は、シンさんは眉をぐっとひそめて、わたしの方を見ていた。
その目と目が合った瞬間、わたしは反射的に顔を横に振っていた。
「そやろが。そやし、しっかりせえよ……俺なんか父親がどこの誰かも知らん。名前も顔も、どう生きてきてどう母親と知り合って、なんで別れたんか、今どこで何してんか、生きてんのか死んでんのかも知らん。……そんでお前は、俺がまともな父親になんかなれんと思うんか」
わたしは大きく、目を見開いた。
シンさんの細い目が、わたしを睨んでいる。
――違う、絶対に、絶対に……違う。
先刻よりも遥かに強く首を横に振ると、その目のきつさがわずかにやわらいだ。
ゆっくりと、そうっとそうっと、シンさんがわたしの口元から手を離す。
そしてその手で、もう一方の肩を強く掴んだ。
「しっかりせえ。しゃんと立て、ハル」
叱りつけるように言うと、今度は両の手でわたしの体を揺さぶる。
「立てるやろ? 立てる筈や。お前なら立てる」
言い聞かせるように何度も繰り返すと、シンさんは肩の手にぐっと力を込めた。
「そんなんでつぶれるようなタマかお前が。なぁ、しっかりせえよ」
わたしは深く深く、肺の底まで息を吸い込んだ。
それを吐き出すのと同時に、こくん、とひとつうなずくと、シンさんの頬にわずかに安心したような笑みがよぎる。
「――よし」
そしてそうっと、手から力を抜いて――わたしはすとん、とそのまま、後ろの壁に倒れるように寄りかかった。
シンさんはそれを見届けてから、身を翻して大股に部屋を横切り、棚からわたしのカップを取った。伯母が送ってきた蜂蜜の瓶を開けると大きなスプーンで何杯かすくって中に入れ、ストーブの上に置かれたやかんのお湯を直接、カップへと注ぐ。
シンさんはそれをスプーンでくるくるとかきまぜながら戻ってきて、ずい、と目の前に突き出してきた。
「――飲め」
わたしはカップを、両手で受け取った。すごく、熱い。
「早よ飲みいや」
また、子供を叱るような声でシンさんが言った。でも、そんなこと言ったって。
「何とろとろしてんねん、飲め」
「って、無理……これ、何度あると思って」
更にうながされたのに、わたしはやっとこ、喉の奥から声を押し出した。
シンさんが一瞬、ぎょっとしたような目でわたしを見る。
「え……え?」
「熱いんだってば。いきなり飲めって、それ無理」
「え……あ、ああ、そうか」
夢から覚めた人みたいにシンさんは目をぱちぱちさせると、拍子抜けした声を出してうなずいた。
「そら……そうか。そらそやな」
「そうだよ。火傷するよ、こんな」
わたしはそう言いながらも、どうにかならないかとカップに口を近づけてみたが、カップ自体がもう相当な熱さで唇を当てることさえできない。
仕方がないので片手でカップの取手を持って、もう片方の手でスプーンで少しだけ中身をすくい、息を吹いて冷ましてみた。
ずっ、とすすって――うわ、甘っ。
思わずむせそうになりながら、わたしはそれを何とかこらえた。今むせたら、カップの中身、こぼしてしまう。
「シンさん、これ……激甘」
「へっ?」
「何杯入れたの、蜂蜜。奥歯浮きそう」
「え……え、そうか?」
心底怪訝そうな顔で覗き込んでくるシンさんに、わたしはカップを突き出した。
シンさんはそれを受け取り、熱さをものともせず中身をわずかにすすって、思いきり顔をしかめた。
「うっわ……ほんまや、なぁ」
「でしょう?」
「うわ、きっつ……薄めよか?」
「って、言ったって」
わたしはシンさんの手の中のカップに目を落とし、相手も同時に、その中身を見る。
もう本当に、縁のぎりぎりまでなみなみとつがれたお湯。
これは……足せったって、無理だろう。
今にもあふれそうにゆらゆらと揺れるお湯の表面を見ていたら、何だか急に、可笑しくなってきた。これを、どうやって薄めろって?
こらえきれずに軽く吹き出すと、つられたようにシンさんも笑った。
「これは……無理よな、どう考えたかて」
笑った勢いでこぼしかけ、お、と慌てたようにバランスを取りながら、それが可笑しかったのかまたくっくっとシンさんが喉の奥で笑う。
「もう、いいよ、飲むから。少し飲んでから、薄める」
笑ったことで急速に体中のこわばりが取れ、すっかり楽な気持ちになって、わたしはシンさんに両手を伸ばした。
「別に無理して飲まいでも」
「だって、勿体ない。いいよ、わたし、蜂蜜好きだもの。蜂蜜直舐めするより甘くないと思えば」
「まあそうやけど……」
そう言いながらも、シンさんはわたしの手に、カップを戻してくれた。
戻されたカップに、ちょっと唇をつけてみる。ああまだやっぱり、熱い。
「――まあ、座り」
シンさんはふうっと微笑んで、テーブルの脇から椅子を引いてきて、わたしの前に置いてくれた。
そして自分は、床に倒れた椅子を持ち上げて腰を下ろす。ああ、先刻のあれ、椅子が倒れた音だったのか。
わたしはカップを手に、シンさんが出してくれた椅子に座った。
スプーンで中身をすくってひと口飲んでみる。もう、本当に甘い。これを全部飲んだら、晩ご飯食べなくても済みそう。
舌にじいんと染み込むようなその甘ったるさは、それでも何だか、こころにまで甘く染み込んでいくようで、自分の中のこわばった塊がほのほのとほぐれていく。
シンさんがいてくれて、良かった。
わたしはそのむせそうに甘い液体を少しずつすすりながら、心底そう思った。
そうだ、立てる、わたし、立たなければ……あんなものに、やられて、たまるか。
わたしはぐっと、下唇を噛んだ。
「……お前それ、よう飲むなあ」
と、ひとが内心で気持ちを引き締めているのも知らず、テーブルに肘をついてシンさんが呆れた声を出す。
「って、自分がつくったんじゃない。もう、努力して消費してるんだよ、わたし」
「いや、そこまで頑張ってくれんかてええねんけど」
「だって……」
だって……嬉しかった、んだもの。
わたしはそこまでは口にできずに、また熱い液体を少しだけすすり込む。
「……シンさん」
口の中の甘さをもてあましながら、わたしは口を開いた。
「ん?」
「あの、こないだの……なんで、箸置き、なの?」
わずかためらいながら、わたしは聞いてみた。
わたしがレイコさんの「野望」、その影にあるエピソードを知っている、などとはきっと夢にも思っていないだろうシンさんは、特に動揺する様子もなく淡々と口を開く。
「いや、そら普通は指輪とかやろけど、あいつ指輪は本番に、言うしさ。あいつの普段の感じ見てたら、アクセとかつけそうにないし。そしたらまあ、日常的に使えるもんの方がええかと思て」
「……ふうん」
まあ、何と言うか、無難だ。知らない人が聞いたら「それはそうだ」と素直にうなずける、答え。
けれど「野望」を知っているわたしには、数ある日用品の中から何故「食器」を選んだのかが、やっぱりどうしても気になってしまう。
「シンさん、アクセ以外のものも、つくるんだ」
慎重に言ってみると、シンさんはわずかに顔をしかめて短い髪をかきまわした。
「んー、まあ……今回は、たまたまな。なんつうか、なんぼ本番先言うても、言うたかて結局は結婚したい、て意思表示しよゆう話やしさ……そしたらやっぱ、日用品で、毎日確実に使うもんで、外や無うて家ん中で使うもんで、て考えてったら、あれ」
「ふうん?」
「ふたりで……おんなし家で、毎日、一生、一緒に飯食う訳やろ、結婚したら。そやから……お前と、ユウのおる、そこに……俺がつくったもんがあんのも悪ないな、と思たんや」
「――――」
わたしは思わず、カップから顔を上げてシンさんを見た。
シンさんは自分でも言い過ぎたとでも思っているのか、ごくごくわずかに耳元を赤くして、脇を向いている。
「シン、さ……」
声をかけようとするのと同時に、シンさんはがたん、と椅子を揺らして立ち上がって、棚に歩み寄るとコーヒーを淹れる準備を始めてしまった。
わたしはその背中をただただ見つめる。
ああ……そうか……そうなのか、シンさん。
わたしは急にたまらない気持ちになって、何も言えないまま、甘いお湯をすすった。
わたしの「呪い」のように、シンさんの「食器」も……これは自分とは無関係だ、そう決めて生き続けてきた、それはそういうことを切り捨てないと自分が生きてこられなかったからだ。人並みに暖かいものなんかを求めていたら凍死してしまう。無いのだから、何ひとつ。だからそんなものは要らない、寒くても生きていける体になるしかない。
そうやってそこを生き抜いてきた、今になって、さあここにあるよ、手を伸ばせば取れるよ、そう言われても……どうしても、手を出すことができないのだ。
それはその場所を生き抜いてきた自分を、裏切ることのような気がするから。
その厳しい、きつい場所を通り抜けたからと言って、ほいほいと手を出すというのは、例えて言うなら苦しい時にだけ「行いを改めます、だから神様助けて」と言い、喉元過ぎたら平気で悪いことをする、というのと同じだと思えた。そこを捨てることで生きてこられたのに、切り抜けたからと言って何を今更、と。そんなことが自分に赦されるとは到底思えなかった。
それがごく普通に暖かさにくるまれている人から見たらどれ程頑なで下らないことであっても、その瞬間にそこにいて、他に手だてが無かった自分にとっては切実だった。だって、そうしないと死んでいたのだから。それを今になって、なんて、あの頃の自分に対してあまりにも不誠実だ。
それはあの場所でひとりで苦しんでいた自分を、自分自身がそこへ置き去りにしてしまう気がして、それがどうしても辛かった。せめても自分がそこに留まって、ついていてあげなければいけない、そんな風に。
そこを捨てることは、そうやって長い時間をかけてできあがった自分を壊してしまうようで、考えるだけでも苦しかった。
けれど。
――お前と、ユウのおる、そこに……俺がつくったもんがあんのも悪ないな、と思たんや。
そうか……そうなのか、シンさん。そういう方法が、あったのか。
いつかレイコさんに子供ができた、と聞いた時、たまらなく幸せだったことを思い出した。窓の中の世界にシンさんがちゃんと入っていける、そのことが。
多分、シンさんも同じように思っているのだ。わたしとユウさんとを、見て。
自分にはまるぎり無縁だったその世界を、すぐ身近で、大事な相手のそれから引き寄せてたどり着く、そういうやり方も……あり、なんだ。そういうやり方で自分を赦す、ということができるんだ。
確かに、それなら……自分を、なだめられるように思えた。もういいんだ、とふっと力を抜いて、留まらねばならないと頑なに思う自分を赦してあげられるかもしれない、と。
――ゆっくりと、部屋の中にコーヒーの香りが満ちてくる。
わたしは顔を上げて、シンさんの後ろ姿を見た。
自分も、いつか、越えられるだろうか……かつての自分と折り合いをつけて、もう一度新たに手を繋いで、ずっと立ち止まっていたその場所から、歩き出せるのだろうか。
わたしも……いつか、シンさんの後に、続けるのだろうか。
答えは出ないまま、わたしは黙って、熱く甘い液体を口に含んだ。
それはいよいよ年も押し迫った、二十九日のことだった。
ユウさんはその日から年明け四日までお休みで、それなら家で夕飯準備して待っといたる、と言われ、既に合鍵を渡してあった。
わたしはその期間は三十日と四日が休みだったけれど、どうせお互い帰る実家もあるでなし、もう千晴んちに泊まり込みで専業主夫するわ、とユウさんは笑っていた。
五時過ぎに仕事を終えて外に出ると、もう冬の空は真っ暗だ。
わたしはとりあえず、シンさんの家へと向かった。ちょうど昨日、伯母から年越し蕎麦用に、と地元名産の蕎麦が届いていて、お裾分けを頼まれていたのだ。
外を歩き出すと、ちらちらと雪が舞い始めていた。天気予報では、今夜はひと晩中降り続けそうだという。
積もるかな、と雪の経験があまりないわたしは、大変だ、と思うより前に少しわくわくしてしまう。
シンさんの工房の窓には、明かりがついていた。
中からごーっと、何かのモーター音が聞こえる。
「こんばんは」
からりと引き戸を開けると、シンさんが顔を上げた。
「――おう」
見ると、珍しく床に掃除機をかけていた。ああ、大掃除か。
「あれ……今日、ユウ来てんちゃうんか」
テーブルの下の箱を、手で動かさずに掃除機のヘッドでぐいぐいと押しているシンさんのズボラさに内心呆れていると、いきなりそんなことを言われて、わたしはえ、と顔を上げた。
「え、なんで知って」
「あいつ今日、昼間来たもん」
実に適当な感じでざっとその辺りもかけまわすと、シンさんはかちり、と掃除機のスイッチを切った。
「え……あ、そうなんだ」
なんかほんと、いつの間にかわたし抜きでえらい仲良くなってるような。まあ、有り難いことではあるんだけれど。
わたしはちょっと肩をすくめて、テーブルの上に鞄を置き、中からお蕎麦を取り出した。
「これ、伯母さんから。年越し蕎麦。シンさんちにも持っていって、て」
「え? ああ、そうか」
掃除機を部屋の隅に片付けながら、シンさんが振り向いた。
「わたし、四日、休みだから。レイコさんに、その日にお年始行くね、て言っといて」
「ああ、判った」
「じゃあ」
「――あ、ハル」
鞄を取って帰ろうとすると、後ろから呼び止められる。
「うん?」
振り返るとシンさんが、部屋の隅に立ったままこちらを見ていた。
「あいつが……言うてた」
「え?」
「自分は……ゆっくり、やりたいから、て」
「……え?」
わたしはシンさんの言っていることの意味が判らず、首を傾げたまま一歩中へと戻る。
「千晴とのことは、ゆっくり時間をかけていきたいから、て……今の千晴を焦らしたって何もいいこと無いし、焦らせる必要も無い、時間はなんぼでもある、そやから……ゆっくり、やりたいんです、てさ」
「――――」
わたしは大きく、目を見開いた。
「今の千晴は長い時間をかけてできあがったもんやから、もしその何かを変えたいと思うなら同じくらい長い時間が要る、自分にはその覚悟があるし、それは全然しんどくはない、むしろ楽しいぐらいや、て……そやから千晴を、焦らさんとってくれ、て釘刺されたわ」
胸の底が、大きく震えた。
……ユウ、さん。
じわり、と目の裏が熱くなる。
「ほんま、大したもんや……負けたわ、あいつには」
シンさんは軽く苦笑いして、けれど驚く程やさしい目をして、わたしを見ていた。
わたしは何も言えずに――何か言ったら泣き出してしまいそうで――ただ、立ち尽くす。
「俺、自分がこんなんやけど、でも、運命がどうとか信じん質やけど……それでも今回だけは、思ったわ」
シンさんはわずかにうつむき、照れたように鼻の頭をかいた。
「あれな、あの、ペンダント……多分お前とあいつを逢わす為に、ずっとあそこに、あってんで。あいつの、姉貴が……あいつの為に、お前、待っとったんやわ、ずっと」
シンさん……。
わたしは泣き出さないように必死になりながら、深く、震える息を吸い込んだ。
「ほら、早よ帰れ……待っとんで、あいつ」
やさしく微笑みながらシンさんが手でうながして、わたしはこくん、と大きくうなずくと、後も見ずにシンさんの工房を飛び出していた。
一歩も立ち止まらずに、家まで走った。
唇からもうもうと、煙のように激しく白い息があがる。
角を曲がって、もうアパートが目の前に見えてきて――
――そこでわたしは、立ち止まった。
「…………」
一歩、二歩、よろめくように足を踏み出しながら、二階の窓を見つめる。
……ああ。
そこに明かりが、灯っていた。
二階の、自分の部屋の窓。玄関側に面しているそれは台所の小窓で、すりガラスになっていて、そこに黒っぽいシルエットが、動いているのがはっきり見える。
ああ……。
わたしは痺れたように、その場に立ち尽くしていた。
髪に、コートの肩に、雪がちらちらと舞い落ちて積もっていく。
小窓の脇には換気扇があって、それがかすかな音を立ててまわっていて……ああ、これ……カレーの、匂いだ。
開いたままの唇から、湯気のように白い息が漏れた。
窓の……中、だ。
殆ど呆然と、そう思った。
暗闇の中、何も持たない手を握って、ずっと立ち尽くして見つめていた。あの中に自分の知らない、とてつもなくあたたかいものがある、そう思いながらただ見つめることしかできなかった……窓の、明かりだ。
あそこに、ある。
ガラスの向こうで、影が揺れている。
あれは、わたしを待っているひとで……あそこにあるのは、わたしの為の、明かり。
……ああ。
突然、堰を切ったようにどっと熱い涙があふれて、わたしは必死に、鞄の中をまさぐった。
震える指で鍵を取り出すと、玄関の鍵穴に差し込む。
いつの間にか指がすっかりかじかんでいて、一度鍵を落としてしまい――もう、こんな時にどうして――頭にカンカンに血が上がってくるのを感じつつ、わたしは何度も失敗しながら、やっとのことで鍵をまわした。
息つく間もなく、扉を開く。
土間に入って急いで靴を脱いでいると、階段の上の扉が開いた。
「おう、おかーえり」
ものすごくのんびりとした声と共に、ひょい、とユウさんが顔を覗かせる。
それを見た瞬間、わたしはもう矢も盾もたまらなくなって、乱暴に靴を脱ぎ捨てると勢い良く階段を駆け上がった。
「……え、ちはる?」
面食らった顔の相手に正面から飛びついて、体に両腕をまわしてきつくきつくしがみつく。
「千晴? どないした?」
後から後から涙があふれてくるのを、もう留めることができないまま、ユウさんの胸にぎゅっと顔を押しつけ、わたしは声を殺して泣いた。
「千晴……?」
ユウさんは困惑しきった声を出しながら、それでも大きな手で、なだめるようにやさしく、ゆっくりと背中を包むようになぜてくれる。
……ああ。
胸の中いっぱいに熱さが充満していく感覚をこらえながら、思う。
今なら……言える。
それは初めての時にこのひとがわたしの耳元で囁いた言葉で、それから何度も何度も、いろんな時に言われてきた、でもわたしはいつもただそれを受け取るだけで、どうしても自分からは返すことができなかった……自分にはその言葉が胸の奥からわきい出る心地というものが判らずに、どうしても言えなかった。
それが……今なら、言える気がする。こういう時に言う言葉なんだ、それがはっきり、胸に落ちてきた。
わたしは両腕に一層、力を込めると、涙の中から何とか息を深く吸った。
そして、唇を開く。
「――愛してる」
それは年も明けて二月、中旬に入ろうとする頃だった。
次の日はちょうどわたしの誕生日で、ユウさんはそれに合わせて有休を取ってくれていた。わたしはずいぶん恐縮したが、「よう考えてみたら親父の忌引き以来、有休なんか一度も使ってないねんから、ええねん、こんくらい」とユウさんは笑っていた。
仕事が終わった後に外で待ち合わせてご飯を食べて家に帰り、お風呂から上がって、ちょっと飲もうか、という雰囲気になっていた、その時に――
――電話が、鳴った。
時計を見ると、もう十一時近い。
一瞬何だろう、と思って、次の瞬間、はっと気がつく。もしかして。
わたしはユウさんと顔を見合わせながら、電話に飛びついた。
「はい、もしもし」
急き込んで言うと、受話器の向こうからシンさんの声がした。
『――始まったわ。今病院』
わたしは息を呑んで、ユウさんの方を振り返った。
『来れるか』
「うん、判った。すぐ行く」
『ああ、そしたら……入れてもらえるよう、頼んどくさかい』
「ん。――じゃあ、後で」
電話を切ると、背後でユウさんが立ち上がる。
「今どこて?」
「もう病院だって。直接こっち、来てって」
「そうか……」
ユウさんは慌ただしく着替えを始めた。わたしも急いで、パジャマのボタンを外す。
「外寒いで。ちゃんと着込みや」
「うん」
焦る指をもどかしく思いながら服を着替えて、最後にシンさんのペンダントを胸から下げる。
「なんか、ええと、何だろう……別にわたし等が何か持ってく必要とか、ないよね」
「それはないやろ、多分。ああ、カメラくらい?」
「あ、それは要る! すごく要る!」
わたしは肩にかけたユウさんに貰った鞄に、慌ててデジカメを突っ込んだ。ええと、確か充電、まだ大丈夫だったよね?
「ああ……クリスマスプレゼント、ビデオカメラにするべきだったかも」
「今更何言うてんねんな」
階段を駆け下りながら後悔しきりで言うと、ユウさんが笑った。
「それくらいとっくに買うてんちゃう? もしまだやったら、出産祝いで一緒に買おうや」
「ああ、そうだよね……」
わたしはもつれる指で家の鍵をかけると、ユウさんと一緒に外へ出た。
小走りに歩いて大通りに出ると、タクシーを拾う。
行き先を告げて座席にへたり込むと、ユウさんが横からぎゅっと、手を繋いできた。
わたしは軽く息を吐いて、もう一方の手でペンダントを強く握ると、早鐘のように打つ心臓を落ちつかせる。
タクシーが病院へ着くと、転がるように車を降りた。
病院の入口脇でインターホンを押して名乗ると、少しして看護師さんが扉を開けに来てくれた。
暗く照明の落とされた病院内を、教えられた階に向かう。
エレベーターを降りて廊下を曲がると、一番奥が分娩室で、その手前が待合室になっていた。
扉の大窓からちらりと覗くと、中の長椅子に、シンさんが自分の膝に両肘をついて組んだ指を口元に当て、どこか祈るような姿勢で座っているのが見える。
こんこん、と窓を叩くと、はっと顔を上げてこちらを見た。
わたしとユウさんは、扉を開けて中に入る。
「あれ、お前、どうして……」
「ちょうど電話の時、うちに一緒にいたから。ついてきてもらった」
わたしの後ろのユウさんを見て怪訝そうな顔をするシンさんにそう言うと、ああ、とうなずく。
「で、どうなの?」
「いや、どうて……ちょうど今分娩室入ったとこやから、あと数時間はかかるらしい」
「ああ、なんだ、そうなんだ」
わたしはちょっと気が抜けて、すとんと椅子に腰を落とした。
「いや、けど、そこに至るまでが結構大変やってんから……女のひとは凄いわ」
シンさんはため息混じりに言うと、ふう、と大きく椅子の背にもたれる。
「結局、ほんとに立ち会わなかったんだ」
まあもともとレイコさんが、「立ち会いはやだ」って言ってたんだけど。でもいざとなったらやっぱり横にいてもらいたいもんじゃないのかな、と思ってたのに。
「ん。もう、集中できんからどっか行っといて、て叩き出された」
シンさんは唇の端を持ち上げて苦笑いして。ああ、なんかそのレイコさん、すごくリアルに想像できるな。
「まあ男は何もできることないわ、そうなったら……ああ、なんか損やなあ」
シンさんは髪をかきあげるようにして天井を見上げる。
「こうやってここで苛々してるだけやもんなぁ……」
そうぼやく姿に、わたしは何とも言えないほのぼのとした、けれど心配も入り交じった心持ちがして、シンさんの隣に体を寄せるとぎゅっと手を握った。
シンさんは少し驚いたようにわたしを見て、けれどそのまま、何にも言わずにその手をわたしに預けていた。
――気づくと、椅子の上に横たわって、わたしは眠り込んでいた。
はっと見回すと、体に自分のコートとユウさんのそれとが重ねてかけられていて、隣の長椅子にシンさんとユウさんとが並んで座っていた。
「……まだ?」
声を上げると、二人が同時にこちらを見る。
「ああ、うん。まだあれから、一時間ちょっとやし。寝とけや、起こしたるさかい」
「ん……ううん、起きる」
わたしは頭を振って、体を起こした。いつの間にか寝てしまった、まあ今日早出だったからなぁ。
「ここって、自販機とかあったっけ?」
「ああ、一階の外来の待ち合いんとこにある」
「じゃ、なんか買ってくる。要る?」
「コーヒー。熱いの。ブラックで」
「ん。ユウさんは?」
「ああ、俺も行く」
ユウさんは立ち上がると、わたしの背中を押して廊下に出た。
「……あんな森谷さん、初めて見たわ」
廊下を歩きながら、ユウさんは少し可笑しそうに笑った。
「ん、わたしも……」
つられてわたしも、少し微笑む。
勿論お産、それも初めての出産なのだから、そういう意味では大変だし心配で、けれどこころのどこかで、ひどく安心している自分がいた。あんなに自分自身のことを「大丈夫だろうか」と心配していたシンさんが、すっかり「夫」として、「父親」としての顔つきになっているのが、たまらなく嬉しくて。
ああ、ひとは、変わるんだな……三つ子の魂百までなんて、あれ嘘だ。いや、変わらないものも無論、あるんだろうけど、こんなにも自分の中の根っこまで食い込んでいる部分でさえ、ちゃんとこうして変わるんだ。変えることが、できるんだ。
胸の奥に、じいんと熱いものが広がる。
一階に降りるとわたしは自分用に熱いお茶とシンさんのコーヒーを買い、ユウさんもそれと同じコーヒーを買った。
外来のロビーは照明がすっかり落とされていて、人の気配も無い。
戻ろうとすると、急に後ろから、くい、と袖を引かれた。
え、と振り向くと、ユウさんが何故だか、わたしの手の中から缶とペットボトルを抜き取ってしまう。
「え……?」
どうしたのか、と思っていると、自分の缶と一緒に、それを待ち合いの長椅子にころんと置いた。
「ユウさ……」
尋ねようとした瞬間、腕がまわって、突然ぎゅうっと、きつく抱きしめられる。
「え?」
驚いていると、耳元で囁かれた。
「――誕生日おめでとう、千晴」
「あ」
わたしは二、三度瞬いた。ああ、そうか……日付が、変わったのか。
「お揃いやん。良かったなぁ」
「あ、ほんと、だ」
そう言えば、そうだ。いつかレイコさんも言っていたけど、ほんとに揃うとは。
「うわ……うわぁ、嬉しい」
わたしは一気にテンションが上がってきて、腕の中からユウさんを見上げた。
「すごい。どうしようユウさん、うれしい」
「ん」
ユウさんは微笑んで、わたしの頭をなぜる。
「うれしい……」
唇から笑みが吹きこぼれるのを止められないまま、わたしはごしごし、と猫がよくやるように、ユウさんの胸に自分の額をこすりつけた。
ふふ、と頭の上でユウさんが笑う。
「――かわいい、ちぃ」
そう言われたのと同時に、顎をくい、と持ち上げられて唇が重なった。
部屋に戻ってコーヒーを渡すと、シンさんはそれをひと息に飲み干した。
わたしはその横に座って、ちびちびと自分のお茶を飲む。
ふっと見ると、肘が置かれたシンさんの膝が、ごくごくかすかに震えていた。
わたしは思わず、大きく息を吸う。
「――シンさん」
自分でも何を言おうとしているのかよく判らないまま、わたしは口を開いた。
シンさんがどこか睨むような目でこちらを見る。
「わたし……シンさんに逢えて、良かったよ」
気持ちが流れるままに言うと、その細い目がわずかに見開かれた。
「わたし、なんて言うか、もう……自分はこのまんま、生きるんだと思ってた。ひとりで、でもすごく安定したかたちで、端っこの方に立って、ずうっとそうやって、生きてくんだと思ってた……それでいいと、思ってた」
唇からこぼれる声は我ながらひどくかすかで、シンさんはそれに、瞬きすらせずにじっと耳を傾けている。
「でも、シンさんに逢って……シンさんと、一緒にいて、ユウさんにも、出逢えて……そうじゃなくても、いいんじゃないか、て思うように、なった」
わたしは自分の膝の上で、飲みかけのまだ温かいペットボトルをぎゅっと握りしめた。
「もっと、何か、いろんな道や場所があって……全然思いも寄らなかったところが、まだ世界の中にいっぱいあって、自分もそっちに行ってもいいんじゃないか、って、そう思った」
何故だか急に泣きたくなってきて、わたしはきゅっと、唇を引き締めた。
「わたしにも……それが、赦されるんじゃないか、って……そう、思った」
わたしは瞬きで涙を隠して、小さく息を継ぐ。
「シンさんの……おかげだ。ありがとう」
一度言葉を切って、再度息を吸い――ああ、そうだ、今言わなければ、きっともうこの先二度と言えない。
「――大好き、シンさん」
何とか言い終えると、隣でシンさんが、深く深く息を吸った。
わたしは急に気恥ずかしくなってきて、顔も上げられずに膝の上のペットボトルを見つめる。
シンさんが長く息を吐き出すと、また大きく吸った。
「――あほか、お前は」
吐き出すように、言って――え?
思わず見ると、目を眇めてじろりと睨まれた。
「そんなことは言わんでも判ってんねや。判ってることいちいち言いないな。知ってんねや、俺はそんなことは」
叱りつけるようなきつい口調でひと息に言うと、シンさんは顎に手を当てて口元を隠すようにして、ふい、とそっぽを向いてしまう。
「…………」
わたしはその横顔を呆れた思いで見つめた。勝手に、唇の端に笑みが浮いてくる。
ほんとに……ほんとに、このひとは……どこまでも。
もう言い返す気にもなれなくて、ただにこにことして見つめていると、シンさんはますます脇を向いた。その耳元が、赤い。
それをたまらなく微笑ましく見つめていると、そっぽを向いたまま、シンさんが小さく、口を開いた。
「――それは、俺の台詞や」
「え?」
微笑みを破られたような思いで声を上げると、シンさんは向こうを向いたまま言葉を続ける。
「お前が今言うたんは、全部俺のもんや。ひとが言いたいことを、勝手に全部取るな」
息が、止まった。
……シン、さん。
「お前が……俺の、姪っ子で……良かった」
一度消えていた涙が、また目の裏にじわりと復活して。ああ……ああ、本当に。
わたしは深く息を吸って、少しずつ吐き出した。
「……シン、さ」
何を言っていいのか判らないまま、その名を呼んだ瞬間、
――遠くから、布を裂くような激しい泣き声が聞こえた。
「……!」
わたしも、そしてシンさん、それから少し離れて立っていたユウさんが、同時に顔を上げ、そして同時に、顔を見合わせる。
息を激しく吸い込むような音を立てて、断続的に響く――大きな、産声。
弾かれたように、シンさんの体が動いた。
――かん、と高い音を立てて、空のコーヒーの缶が床に転がる。
シンさんはそれに振り向きもせず、待合室の扉を開け放って廊下に飛び出して。
わたしとユウさんも、急いでその後に続いた。
耳をつんざくように、泣き声が扉の向こうから聞こえる。
廊下で立ち尽くすわたしの手を、隣のユウさんがきつく握った。
ゆっくりと、内側から分娩室の扉が開く。
聞こえてくる声が、一層大きくなる。
目の前に、シンさんの背中。
やがて大きく、扉が開け放たれる。
――その向こうに、光がある。
作・富良野 馨




