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第十章(中)・光

 

 間違いのない稼ぎ時であるクリスマスイブは勿論仕事で、けれど何だか、それはひどく楽しい一日だった。

 無論そんな日だってビジネスでやってくる人もいるけれど、やはりこの日は八割九割がクリスマスを楽しみに来ているお客さんで、見ているこちらが嬉しくなる程、誰もの顔が幸福でぴかぴか輝いている。

 仕事柄最初っから判っていたこととはいえイブに仕事なんて、と愚痴る同僚も勿論多い。けれどわたしは忙しいながら、心底楽しい一日を過ごした。体調や当たるお客さんの性格などで、どうしてもつくり笑いにならざるを得ない日だってある中、その日は本当にほぼ一日中、本物の笑顔で働いた。

 職場を出るともう外は真っ暗で、わたしは急いで待ち合わせ場所へと向かった。

 駅ビルの西の端から階段を上がって南遊歩道に入り、大階段の方へ小走りに行くと、目の前に巨大なクリスマスツリーが見えてくる。

 大階段のすぐ下にはいつかの東京行きを告げられた広場へ続く通路があって、一瞬どきんとした。が、次の瞬間、上の方から「千晴」と声をかけられ、我に返る。

 座り込んでいるカップルや親子連れの間を縫って、階段の端の方をユウさんがとんとん、と降り、目の前に立った。

 目元に漂う優しい気配に、一瞬胸をよぎったいつかの痛みがさっと消え去る。

「仕事、お疲れさん」

「うん。少し、上の方で見ていい?」

 指でツリーを指すと、ユウさんがうなずいた。

 今降りてきた階段を並んで上りながら、ほら、と差し出されるユウさんの腕に、わたしは素直に掴まった。

 階段を途中まで上って、ちょうどツリーの真ん中辺りが目の高さになる位置まで来ると、並んで座り込む。

 階段の上には他にもたくさんの人がいて、皆熱心にツリーにカメラを向けていた。

「きれい、だねぇ」

 わたしは膝の上に両肘をついて、ツリーを眺める。

 去年は先輩とあんな状況になっていて、こうしてここまでひとりで見に来る気にはさすがになれなかった。こうやって大階段まで上がってツリーを眺めるのは、一昨年、一回生の時にサークルのシングルの子達ばかりで見物に来た、その時以来だ。

「わたしこれ、今まで見たツリーの中で一番大きいかも」

「そうなん? まあ確かに、これはでかいな……後こっちやったらどこが大きいかなぁ。USJのんでっかいらしいけど、俺行ったことないしなぁ。あぁ、梅田におっきいのあったかも、来年、行ってみよっか」

「……ん」

 まるで当たり前のことのように話す言葉が嬉しくて、わたしは微笑んだ。一年後、という見えない程先の未来にも、一緒にいることを確信しているその言いっぷりが。

 ぴかぴかと光る電飾を眺めながらゆっくりと首を巡らすと、ビルの壁面の窓が磨き上げられた鏡のように、巨大なツリーを映し出していた。

 ……綺麗だ。

 その姿に何故だか、胸が強く打たれた。

 不思議だ、どうして……本物が目の前にあるというのに、どうして、本物よりもガラスに映った姿の方が、遥かに美しく純粋なものに見えるのだろう。

 ガラスに映ったツリーの姿は、余計な光の雑味や影などがすっきり拭いさられて、真っ黒い闇の中に()しとられたように美しく浮かび上がっている。

 不思議だ、どうして……現実ではない方が、あんなにも澄んでいて美しいのだろう。いつか見ていた、窓の中の眺めみたいだ。

 入りたくて入りたくて、でも決して自分には入ることができない、遠い遠い眺めのようだ……。

「――ちぃ」

 吸い込まれそうになりながら見つめていると、不意に肩を抱かれた。

「……え、え?」

 わたしは急に夢から覚めた心地で、何度か瞬いた。ゆっくり、意識が現実へと戻ってくる。

「どこ、行ってんねんな……ちゃんと、俺の隣におりいよ」

 ユウさんがやさしげにそう言って微笑って、ぎゅっと肩の手に力を入れた。

「あ……」

 こころここにあらずだったことを見抜かれていたのに、ひどく恥ずかしくなる。

「よし、ほな……冷えてきたし、もう行こか」

 ぽん、と一度肩を叩くと、ユウさんは立ち上がってわたしに手を差し伸べた。



 駅から烏丸をしばらく上がった、東本願寺の向かいのお店に入ると、わたしとユウさんは食事をした。そこは紅茶が専門の店なのだったが、食事がとにかくおいしく、特に野菜のおいしさは特筆に値するのだ。

 クリスマスだというのにそこはちょっとした穴場で、客席は半分も埋まっていなかった。

 全体的に照明を落とし目にした店の中でゆっくりご飯を食べると、ひどく満ち足りた気分になる。

 デザートと一緒に食後の紅茶を飲みながら、わたしは鞄からシンさんのネクタイピンを出し、ユウさんに手渡した。

 箱を開いた瞬間、相手の動きが止まる。

 わたしは自分も息を止め、緊張気味にその姿を見つめた。

 ユウさんは瞬きもせずにそれをしばらく見つめていた後、ふう、と大きく息を吐く。

「……これ、森谷さん?」

 聞かれてわたしは、こくんとうなずく。

「凄いなあ……なんちゅうか、もう、ほんま……凄いわ。それしか、言えん」

 言いながら箱の中に指を伸ばしかけ、初めて見た時のわたしと同じように、わずかにためらった。

「綺麗過ぎて……触んの、怖いな」

「うん」

 わたしはその言葉に、もう一度うなずいた。同じ物を見て、相手が同じように思ってくれたのが嬉しい。

「めっちゃ、嬉しい。俺、でも、これに釣り合うネクタイ、無いなぁ……急いでちょっと、高島屋辺りでええのん、探さんな」

「え、ええ?」

「いやもう、スーツ一式総(あつら)えせなあかんレベルちゃう? これに見合うのんって」

「え、いや、そんな」

 まさかそこまで余分な負担を、と慌てて声を上げると、ユウさんがくすっと笑った。

「いや、さすがにそこまではようせんけど。でもほんま、その辺のやっすいネクタイではいかんわ、これは。ピンが泣く」

 そう言うとユウさんは指の先でそうっと、十字架の縁をなぞった。

「大事に……する。ありがとう」

「あ、うん」

 小さく頭を下げられて、わたしはどぎまぎと手を振った。何と言うか、お礼言われるのってわたしよりシンさんだよね、この場合。

 ユウさんは大事そうに箱を鞄にしまい込むと、待ち合わせの時から持っていた、やたら大きな紙袋をひょい、とこちらに手渡した。

「え、あ、ありがとう」

 テーブルの上から手渡されたそれを、ポットやカップに当たらないよう気をつけながら受け取って、中を覗くと、紙袋の中に更に黒い不織布の袋が入っている。

 紙袋に入れたまま、その中を覗いてみて――あ、鞄。

「あ……あ、わあ」

 うわ、これ、欲しかったんだ。黒染めの帆布に藍の絞りのテープの入ったショルダーバッグ。

 そこのブランドのジャケットをユウさんが着ていたことがあって、いいな、と思った。お店に連れていってもらった時に、鞄もいいな、とずっと見ていて、でも普段安物ばかり使っていた自分には、その場ではとても買う勇気が出なくて見るだけで終わってしまっていたのだ。

 気がついてたんだ、あの時わたしが、これ見てたの。

「そんだけではさみしいから、もう一個奥」

「え?」

 言われて、急いで紙袋の底の方を見ると、やはり黒染め帆布の文庫サイズのブックカバーがあった。

「うわぁ……うわぁ、嬉しい、すごく。ありがとう」

 ぎゅっと胸に抱くようにして急いで言うと、ユウさんの唇がほころんだ。

「欲しかったんだぁ、これ」

「ん。ずーっと見とったから、買うんかなと思ってたら、すとんと諦めてもうたから。その場で買うたげても良かってんけど、何の理由も無かったら受け取ってもらえん気がして、今日まで待ってみた」

 その言葉に、わたしは思わず相手の顔を見直した。何かこう、すっかり自分の性格を把握されてる気がする。まあ、でもいいか、嬉しいから。

「で、さ」

 わたしが鞄を元通り不織布の袋に包み直していると、ユウさんが軽く咳払いして椅子に座り直した。

「え?」

 紙袋を脇に置いて見ると、相手がわずかに、目をそらす。

「あの、それは……俺から、やねんけどさ」

「え? え、うん」

「あの……」

 ユウさんはためらうように口ごもって、ふと辺りを見回したと思うと、自分の鞄の中から小振りな紙袋を取り出した。

「……あのな」

 けれどそれはそのまま脇に置いてしまって、またこちらを向いて座り直す。

「俺さ、今月の頭くらいに、森谷さんとこ、行ってん」

「え?」

 思いも寄らないことを言われて、わたしはきょとんと目を見張った。シンさん、とこに?

 ざっと頭の中をさらったが、そんな話はシンさんからもユウさんからも聞いた覚えが無い。

「なん……で?」

 心底不思議に思って聞くと、ユウさんは一度大きく、深呼吸した。

「あの……予約を、しようと思って」

「よやく?」

 また訳の判らない単語が出てきて、わたしは一層、首をひねる。

「ん」

 ユウさんは三度座り直すと、背筋を伸ばしてわたしをまっすぐに見た。

「もう数年、経ったら……姪御さんに正式にプロポーズしようと思うんで、そん時は指輪、つくってください、て」

 わたしは一瞬、空白になって――え、……え?

 ええと?

 頭の中身の大半は完全に停止していて、動いているほんの一部分もただ闇雲に疑問符を連発するばかり。ええ、えっと、え、それは……それは、どういう?

 わたしは声も出ないまま、ただただ相手の顔を見つめていた。

 ユウさんはわずかに耳を赤くして、わたしから目をそらしてテーブルの上を見つめている。

 えっと、だから……だから、つまり。

 ――プロポーズ。

 突然頭のどこかでカチッとスイッチの入る音がしたと思うと、体が勝手に弾かれたように後ろに引かれて、ぱっと口元に自分の手が当たった。

 ユウさんが驚いた顔でこちらを見る。

 自分でもみるみる内に、首筋から額にかけてばーっと熱が広がっていくのが判って――あ、ああ、どうしよう、そんな。

「ちはる」

「あっ……あ、あの、あのでも、でもわたしまだ二十歳だし、まだそんなの全然」

「判ってる。判ってるって」

 我ながらものすごい早口になってしまっているのを、なだめるようにユウさんが両手を上げた。

「そやし、予約。あと二、三年経っても、まだ千晴が俺の横におってくれて、俺でええと思ってくれたら、そん時の話」

「いや、予約、って……」

 頭の上から湯気が出そうな感覚を覚えつつ、口元を押さえたままわたしは椅子にずるずると沈み込んだ。ああ……ああもう、そんな。

 だってそもそも、プロポーズって、言うならば「結婚の予約」みたいなもんじゃないの? じゃ「プロポーズの予約」って一体何だ?

「そういうのって……予約、するもんなの?」

「するよ。だって普通、プロポーズ受けたら他の男とは結婚せんやろ? そやし、プロポーズの予約を受けたら、他の男からプロポーズされても、断ってもらわな」

「えええ……そういう、もんなの……?」

「そらそうやろ」

 何だかやたらに自信ありげな相手の態度に、軽く頭痛がしてきた。いや、でもそもそも、貴方以外の誰が一体、わたしにプロポーズなどという酔狂な真似をすると?

「で……どうなん」

「え?」

「受けて、くれんの」

 ただでさえ熱を持っている頬が、更にかあっと、熱くなる。いや、いやでもそれ、もう普通にプロホーズの承諾するかどうか聞いてるのと変わりないから!

 わたしは口元を押さえたまま、目を泳がせた。ああ、何だかもう……泣きそう、だ。そんなこといきなり言われても、そんなこといきなり回答求められても。

 顔を真っ赤にしたまま途方に暮れていると、身を乗り出していたユウさんが、不意にふう、と肩を落とすと体を戻して座り直した。

「ごめん、ちょっと……我ながら変なとこにギア入ってもうたわ。うん……いやほんま、ええねん。今はええ。何年かかけて、ゆっくり考えてくれたらそんでええ。ただ、俺はそのつもりやってことだけ、覚えといてくれたら」

 その言葉に全身の力が抜けて、わたしはますます、ずるずると椅子に沈み込む。

「後は、俺が努力したらええだけやもんな……一日も早く、そっちがその気になってくれるように」

 そんなわたしを尻目に、ユウさんは自分に言い聞かせるように呟くと、ひとつうなずいた。努力って一体、何する気なのか……ああ、なんかもう、こわい、この力の入りっぷり。

 涙目になっている自分を自覚しながら、わたしは肩で息をついた。もう……もう、本当に。

 ユウさんはゆっくり深呼吸すると、カップに残った紅茶をきゅっと飲み干して、傍らに置いていた紙袋を手に取った。

「……そんで、これ」

 袋の中から何かを取り出し、テーブルの上に置く。

「え……?」

 殆ど椅子から落ちかけそうなくらいに沈んでいたわたしは、何とか体勢を立て直してそれを見た。

 手の平を二つ並べたくらいの大きさの、そら豆に似たかたちをした純白の紙の容器。

 ユウさんが手でうながすので、わたしはそれをそうっと手に取り、蓋を開いた。

「……え」

 そこにあるものを見た瞬間、とん、と胸を軽く押されたような感覚がして、わずかにのけぞる。

 容器の中にはサテンの布が張られていて、そこに収められた――これは、一体?

 ちょうどそら豆の左右のふくらみに当たる位置にひとつずつ収められた、その片方を、わたしはそうっと、細心の注意を払いながら手に取った。

「これ……」

 それはちょうど、底が平らで、上の部分が馬の鞍のような曲線を描いた、縦は三センチ、横は四センチ、高さは二センチ程度の大きさの物体だった。

 わたしが手に取った方は、一面、細い銀の糸が、ところどころ笹の葉のようなかたちに太くなったり細くなったりしつつ、うねるように絡まりながら全体を形づくっていた。空洞になっている中心部分に小さな金の玉が入って、中でころころと転がっている。

 そして中に残ったもう一方は、その金と銀の色構成が逆になっていた。

 きれい、ものすごく、でも……でもこれは、一体。

 そのかたちを見た瞬間、頭の中にひらめいた名前はあった、けれどにわかに、それは信じられなかった。

「指輪、予約さしてください、て森谷さんに言うた時、したらそれは、そん時まではあいつには言わんのか、て聞かれたんで、いや、自分にそのつもりがあることだけは言おうと思ってます、て言うたんや。そしたら……十日くらい、してからかな、森谷さんから『時間あったら寄れ』て電話来て……そんで行ってみたら、これ渡されて」

 わたしはユウさんの話を、殆ど頭半分で聞いていた。だって……だってこれ、どう見ても、やっぱり。

「いくらただの宣言に過ぎんかて、プロポーズのつもりあるって相手に言うんに何にも無しじゃ格好がつかんやろ、持ってけ、て……入れもんは自分でつくれよ、言われて。あ、そうそう、それ、箸置き、やて」

 わたしは弾かれたように、がばっと顔を上げた。

 こちらに身を乗り出していたユウさんが、面食らったように少し上体をのけぞらせる。

「ユウさん」

「な、なに」

「箸置きって、食器だと思う?」

「え……えっ?」

 我ながら今にも噛みつかんばかりの勢いで聞いた問いに、ユウさんは目をまん丸にした。

 わたしはその目をじっと見つめて、答えを待つ。

 ユウさんは目を白黒させながら首を傾げて、しばし考え込んだ。

「ええと……食器、て、器か。いや、でも、食事に使うもん、は食器でええんよな、一般的に。食卓で使うもん、やし……うん、食器で、ええんと違うかな」

「――――」

 わたしは言葉もなく、肺がぱんぱんになる程、深く空気を吸い込んだ。

 手の平に置いた、小さく美しいそれを見つめる。

 ……ああ。

 胸の中いっぱいに、温かい水がどっとあふれた。

 自分が直接聞いた訳ではない言葉が、シンさんの声で耳の中でわんわんと鳴っている。

 ――食卓っていうのは、幸福でなきゃいけない。

 ――俺はあったかい食卓ってもんを知らん。

 ――だから俺には食器はつくれん。

 ――俺には、無理や。

 わたしはもう一度、深く息を吸い込んだ。

 手の中にある、その確かな輝き。

 ああ……。

 目の裏が一度にかあっと熱くなって、涙が浮いた。

 シン、さん……。

 わたしはそうっと、それを両手の中に包み込んだ。

「千晴?」

 ユウさんが怪訝そうに、探るようにわたしの顔を覗き込む。

「どないした?」

 ――越えたんだ、シンさん。

 わたしはそう、胸の内で呟いた。

「あったかい食卓」を知らない自分を、それを知らないということに(つまず)いて手が出せなくなってしまっている、そんな自分を……越えたんだ。

 それはきっと、レイコさんやレイコさんのお腹の中の存在のおかげで……それから、ほんの少し、ほんの少しくらいは、わたしも手伝っていると、思いたい。

 ――レイコさんに、逢いたい。一刻も早くレイコさんに逢って、これを見せたい。

 わたしはむくむくわき上がって来るその衝動をじっとこらえた。どう考えたって、今レイコさんのところに行ったら、そこにシンさん、いるだろうし。シンさんがいないところで、レイコさんとふたりきりで話がしたい。

「……レイコさんに、逢いたい」

 それでもどうしてもその思いを留めておけずにぽつりと呟くと、ユウさんがきょとん、と首を前に突き出した。

「え、なんで? なんでそこで、レイコさん?」

 シンさんが食器をつくる、ということの意味を全く知らないユウさんは、当然のごとく訳が判らないといった顔をしていた。その不思議そうな表情にようやく気持ちが落ちついてきて、ふ、と唇から笑みが漏れる。

 ああ、本当に……本当に、うれしい。

 わたしは手の中を開いて、もう一度それを見た。

「きれい」

 呟くと、ようやく自分にも意味が判ることを言った、という雰囲気で、ユウさんが安心した顔で笑みを浮かべた。

「なあ、綺麗よな、それ。そんな豪華で繊細な箸置き、見たことないわ……またそれもやっぱ、ええ箸買わなあかんのちゃう? 今のんでは到底勿体のうて置けんわ」

「うん、確かに」

 とびきりほっそりした繊細な竹箸とか、綺麗な螺鈿(らでん)の入った漆の箸なんかを置きたい。ちょっと探して、奮発しよう。

「これもし普通に買うたら、絶対、高いよなあ」

 もうひとつの方を手に取って、ユウさんが呟いた言葉にわたしは顔を上げた。

「え、これ、もしかして」

「んー……」

 ユウさんは片割れを手に持ったまま、大きく椅子の背にもたれて天井を見上げた。

「渡されて、お代払います、言うたんや。したら、高いで、言われて……そらそやろな、思て、覚悟はしてます、言うたら……あいつの一生分や、て」

「え」

「あいつの一生の幸福分や、て……そやし高いぞ、一生かけて払え、て」

 わたしは声も出せずに、ユウさんを見つめた。

 シンさん……シンさん、本当に……ほんとに、もう。

 一度は引っ込んでいた涙がまたこみあげてきて、今度は瞳からあふれてひと筋、頬を伝い落ちた。

「――望むところです、言うてきた」

 わたしの涙を見て、ユウさんがやさしく微笑み、身を乗り出して指先でそれをぬぐった。



 その二日後、わたしは休みを利用して、昼間にレイコさんに逢いに行った。

 ちょっと姑息かとは思ったが、事前にシンさんの工房を外から偵察し中にいることを確認してから、駅の公衆電話でレイコさんに電話をかける。

 遊びに行っても良い、と聞くのに良いよ、と答えるレイコさんの声は、何だかいつもよりずっとやわらかく、もしかしてレイコさん、もう知ってるのかな、と思う。

 ついでにお昼買ってきて、と頼まれて、リクエスト通りに百貨店で鍋焼きうどんを買い、自転車をこいでレイコさんちに向かう。

「いらっしゃい」

 玄関先で迎えてくれたレイコさんは、確かにお腹は出ているけれど、正直、これが妊婦さんか、と思う程にまだまだ充分、ほっそりとしている。けれどわずかにふっくらとした頬に浮かぶ笑みのまろやかさが、お母さんだなぁ、と思わせる雰囲気を漂わせていた。

 買ってきたうどんを渡すと、嬉しそうに手を叩く。

「よし、早速食べよう。嬉しい、ちょうど食べたいなー、けど買いに出るのもなー、て思ってたとこだったの」

「あ、じゃわたしやるから、レイコさんは座ってて」

「ほんと? ありがと。じゃ土鍋、出すね」

「あああ、いいから、場所言ってくれたらわたしやるから」

「もう、そんなに心配する程のこと、ないんだけどなあ」

 気遣うわたしに、レイコさんは破顔した。いやでも、そんなこと言ったって。

「大体わたし、今でも殆ど毎日、窯に行って土こねてるんだから。家事くらいどうってことないのに」

「えええ……大丈夫なの、それ」

「平気よう。今時妊婦さんだって、多少は運動しなくちゃいけないのよ?」

「土こねって……多少ってレベル、超えてる気が」

 わたしは首をひねりつつ呟いた。まあでも、土を触れなくなったらその方がレイコさんにはストレスなんだろうな、と自分を納得させて、棚の上から土鍋を取り出した。

 二人分を大きな土鍋にまとめて入れてしまって、くつくつと煮込み始める。

「……ああ、おいしそう」

 やがてしっかりと煮込まれた鍋を食卓に運んでいくと、レイコさんが嬉しそうに声を上げた。

「あ、レンゲとお箸、要るね。ちょっと待ってて」

 とんすいをわたしに手渡して、レイコさんが立ち上がる。

「はい、レンゲ……それから、これ」

 ひょい、と渡されたものを見て、わたしははっと、目を上げた。

 ――シンさんの、箸置き。

 イブに貰ったものと同じ。

 わたしの目を見返して、レイコさんが目を細めて微笑んだ。

「試作品や、もう要らんもんやけど捨てんのも勿体ないから使え、て……ユウの奴が、指輪は二、三年後、とか悠長なこと言うてるから、とりあえず何かかたちになるもん渡さして既成事実化さしたろ思てつくたんや、それの試作や、って」

 シン、さん……シンさん、本当に、もう。

 わたしはこみあげてくるものを押さえて、手の中の美しく光る金と銀の箸置きを見つめた。

「千晴ちゃん、ねえ……これって、食器、よね?」

「はい」

 確認するようなレイコさんの声に、わたしは力強くうなずいてみせた。

「よね、食器でいいよね。いや、箸置きって微妙なところかも、てちょっと悩んでたんだけど……食器よね、これは」

 レイコさんは目の端に皺を寄せるようにしてうっとりと微笑み、わたしの手の中の箸置きをそうっと指の先でなでた。

「野望が……かなったわ」

 その声はとろけるようにやわらかく、甘く、輝いていて……ああ、レイコさん、本当に綺麗だ。

 見とれていると、見る間にその瞳がきらきら、と本当に星のように輝いて、水晶のような涙がぽろりと玉になって落ちた。

「わたし……千晴ちゃんに逢えて、良かった。千晴ちゃんがリュウの姪っ子で、良かった。千晴ちゃんがリュウのとこに来てくれて、良かった。千晴ちゃんの相手が……ユウジくんで、本当に、良かった」

 夢のように美しい涙をこぼしながら、レイコさんが幸福に満ちた笑みを浮かべて言った言葉に、わたしはと胸を突かれた。

「リュウね、相当、ユウジくんのこと、気に入ってるわよ。あれこれぶつくさ言いながら、結構褒めるのよ」

 細い指先でその涙をぬぐって、レイコさんはにっこりと微笑んだ。

「……ああいけない、うどん、のびちゃうね。食べよう食べよう」

「あ……あ、はい」

 その言葉にわたしも我に返って、ふたりで慌てて食卓についた。

「うん、おいしい」

 とんすいに取ったうどんをふー、と冷ましてひと口すすり、レイコさんは嬉しそうに唇をほころばせる。

「シンさん、ユウさんのこと、なんて」

 まだかなり熱いうどんを冷まし冷まし聞くと、レイコさんはふふ、と微笑った。

「あいつは底抜けやとか律儀過ぎて面倒くさいとか……でも、真っ当だって」

「え?」

「莫迦がつくくらいあいつは真っ当や、て。あいつはきっとどんな目にあっても根が()がらん、あほみたいにまともで真っ当や、ハルにはああいう男が必要なんや、って」

 心臓がことり、と音を立てた。

「もうね、何が何でも結婚させるつもりでいるみたいだから。千晴ちゃん、覚悟しといた方がいいわよ」

「え……えっ?」

 そしてレイコさんが朗らかに笑いながら言った言葉に、わたしは面食らう。

 レイコさんは笑顔で、卓の上に置いた箸置きを指でなぞった。

「二人で一生、一緒に飯食べさす為につくたんや、て。そうでなかったら誰がここまでするか、て……数年後とか悠長なこと言うてんと、とっとと同棲でも何でもせえや、てぶつぶつ言ってたよ、リュウ」

 そ、そんな無茶苦茶な……。

 頬が熱を帯びるのを感じながら、わたしは自分の前に置かれたそれを見た。

 ――二人で一生、一緒に飯食べさす為につくたんや。

 シンさん……わたしの「叔父」さん……ほんとに、本当にこのひとは、もう。

「まあでも、それはわたしもそう思うな。お互い縛り無いんだし。て言うか、ほんともう、結婚しちゃえば? 別に数年も時間かける必要なくない?」

「え……えええ」

 実にストレートなレイコさんの物言いに、わたしは思いきりのけぞった。い、いやだから、どうして皆そう人生を生き急ぐ訳?

「い、いやっ、でもあの、まだわたし二十歳だし」

「結婚できる年じゃない、二十歳って。別に早くたって構わないと思うけどなあ」

「いや、あの、いくら法律的に問題なくたって、その、そんなの考えてみたこともなくて」

「じゃ考えようよ」

 にっこり、と文字が書いてあるような見事な微笑みを浮かべるレイコさんに、わたしは絶句した。大体、普段よく会ったり電話で話したりする同い年の友達は皆まだ学生で、話すことと言えば大学や就職活動のことが大半だ。恋愛がらみでもせいぜいがサークル内やバイト先の先輩とかの恋の相談やのろけ話で、結婚なんて話は遥か遠くのことのようにしか思えないのに。

「そりゃ千晴ちゃんはまだその年だからそうかもしれないけど、ユウジくんもう二十七だもん。三年待ったら三十だよ。三十前には籍入れてあげたら?」

 そして、それこそ考えもしなかったことを言われてわたしはまた返す言葉を失った。確かに、まあ、七つも違うんだから、そういうことに対する捉え方はわたしとは違って当たり前、なのかもしれないけれど。

「わたしとリュウは、二十九でひとの親になる訳だし。ユウジくん、後二年で二十九じゃない」

 いや、でも、レイコさん、ほんと、待ってよう。結婚だけでも想像の埒外(らちがい)なのに、その上に更にそんな、もう……無理、そんな。

 わたしはすっかり食欲がなくなってしまって、ぱちりと箸を置いてしまった。

「え、千晴ちゃん、もういいの?」

 びっくりした顔でこちらを見るレイコさんに、わたしはこくりとうなずいた。まだ鍋の中には大量にうどんが残っているけれど、何せレイコさんだ、問題ない。

 そうわたしが踏んだ通り、レイコさんは残った分を見事なまでにきれいに平らげ――しかしほんと、この体のどこに入ってるんだ――すぐに動こうとするレイコさんを制して、わたしは後片付けを買って出た。

 せっかくだからもうこのまま夕飯までいれば、というレイコさんに、用事があるから、と適当なことを言って家を辞する。

 自転車で帰路につきながら、わたしは何となく鴨川のほとりでそれを降り、坂を下って河原へと降りた。

 もう年の瀬も近いのに今日は不意打ちのように暖かく、水の流れがちらちらと細かく太陽を反射して白く光っている。

 自転車を停めて、わたしは川縁に腰を下ろした。

 抱えた膝に、ことんと頭を乗せる。

 ああ、なんか……何だか、どっと疲れた。

 シンさんが「食器」をつくってくれたこと、それをレイコさんにも贈っていたこと、それは本当に素直に嬉しい。けれど同時に、何だかひどく羨ましい、そんな思いが今ここに来て初めてわいていた。

 ずうっと思っていた、レイコさんとのことできっとシンさんは窓の中へと行けると。それがわたしにはたまらなく嬉しかった。あますところなく幸福になる、その姿を見たい、そう。

 その気持ちは無論今も変わらず、その上にこうしてシンさんが自分の中の何かを乗り越え、「食器」をつくったこと、それが更に嬉しく……でも……羨ましい。

 シンさんは一体、どうやってそれを越えたのだろう。

 自分が明らかに間違っていることは判っていて、でも自分にはどうしてもできない、どうしてもそこを飛べない――それを、どうやって越えていったのか。

 自分には与えられることがなかったものを、自分には無縁なことだと、要らないものだと切り捨てて生きてきた。まわりの誰がどう言おうが、それが自分にとって死なずに生き抜く唯一の方法だった。だから今更……それはできない、そう決めて手を出さなかったものを、どうやって。

 レイコさん、そしてそのお腹の中の存在、それは本当に大きいと思う。でも……やっぱり、それだけではどうにもならない、核のようなもの。それをどう、越えたのか。

 結婚とか……増してや、子供とか……そんなことは、わたしにはまだとても考えられない。

 それは先の全く見えない、濃く真っ黒い霧の中に消えていく細い山道のようだった。

 そこへ進んでいくことが本当に幸福へ繋がるのか、判らなくて、不安だ。

 自分には、無理だ。

 いつかユウさんがわたしに言った、君の不安を止められるのは君しかいない、と。

 シンさんに周囲の様々な支えがあったことは間違いがない、けれど最後の最後にそこを飛び越えることは、自分ひとりでしかできないことで……シンさんは、それを越えたのだ。

 それが、羨ましい。

 わたしは……越えられる、気がしない。

 少なくとも、今はまだ。

 

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