第十章(前)・光
それからの一ヶ月は、結構バタバタし通しだった。
シンさんはやはり新居探しをわたしに押しつけるつもりで、困り果ててユウさんに相談したところ、ユウさんはその足でレイコさんのところに行き、希望をひと通り聞き出してきた。
そして、今の時点で買い物件の方には適合するものが無い、そうであるなら何しろ一生の買い物なのだから、子供が学校に上がるまでは賃貸にしてその間にじっくり探せばいいのではないか、と話した。その上で、今ある賃貸の候補内で、設備や間取りや家賃など条件に合うものはこれとこれだ、とみるみる結論をつけ、レイコさんがそれに一も二もなく同意して、今までが一体何だったんだ、と思う程にさっくりと新居は決定した。
それは東福寺駅近くの借家の一軒家で、レイコさんの今の家からは歩いて十分程、シンさんの工房にも自転車があれば二十分ちょっとで、築年はまだ五年程できれいな家だった。家主さんが関東に転勤になって、借り主を探していたらしい。
シンさんの今の家は工房として今後も引き続き使うし、レイコさんのところはもともと三人暮らしだし、ということで、大半の家具や家電は一から揃えることになった。家具はともかくとして家電のことはさっぱりのレイコさんと、そもそもその類のことにろくに興味がないシンさんに、またユウさんが面倒を買って出た。レイコさんの希望を聞き出し、家のサイズを計り、予算を聞いて、友達から車を借りて何軒か電器屋をまわったと思うと、まとめ買いするから、と店と交渉し当初の予算より遥かに安い値段で一式、あっという間に揃えてきた。
その手際の良さたるや目を見張る程で、シンさんは真顔でわたしに、「あいつがレイコに似てるとか言うて悪かった。俺の目が曇ってた」と謝ってきたくらいだ。
まあそれはともかくとして、確かにその実務能力や決断力の高さは大したもので、正直に言って、惚れ直した。今まで自分のまわりにはいなかったタイプだ。
互いの家からは服や多少の日用品程度しか運ぶものがなく、それもユウさんが車を借りてくれて、半日足らずであっさりと済ませてしまった。
「なんかこんなにいきなりさっくり、何もかも全部済むとは思わなかった。ユウジくんのおかげね」
その日の夜に、新居の居間で出前のお寿司を並べながら、レイコさんが感心しきりに言った。
居間にはシンさんレイコさんを始め、わたし達二人に幸さんと美由紀さん、田上沢さんもいて、座卓ひとつでは足りなく、まだ開封してない段ボール箱を並べてテーブル代わりにしている。
「ほんとに助かった。ありがとう」
「いや、別に、そんな……つか、なんでここまで伸ばし伸ばしにしてたんかの方が、俺からしたら謎ですけど」
「まあそれは、いろいろあったのよ。ねえ」
レイコさんが同意を求めるようにシンさんを見ると、シンさんは真面目に、「いや、俺にはなかったけど……?」とビールを片手に首をひねった。
レイコさんを除いて全員お酒も進み、お寿司やおつまみもかなり消費されてきたところで田上沢さんが隣に来た。
「あれが、千晴ちゃんの彼氏?」
レイコさん達三人と、お酒の席だというのに新しいパッケージのアイディアで盛り上がっているユウさんの方を、グラスを持った片手の指を伸ばして指す。
「あ、はい」
わたしはちょっと顔を赤くしながら、こくんとうなずいた。
「ふうん? なあんだ、いつまでたっても俺の気持ちに応えてくれないと思ってたら、そういうことかぁ」
「お前はまた何適当なこと言うてんねなコラ」
田上沢さんが話しながらわたしの肩にまわそうとした手を、横からシンさんがぐい、とつねりあげる。
「大体先月言うてたオンナ、あれどうした」
「え、あれ? もう別れた別れた、とっくだよ。……いや、千晴ちゃんが来てくれるなら、俺の隣はいつでもすぐに空けるからね」
「一生空けとけ、ボケ。自分そのカップル壊し、大概にせえよ」
「俺は自分に正直に生きてるだけなんだけどなぁ……ほんと、いつでも言ってよ、千晴ちゃん。順番なんか俺気にしないし。最後に横にいたもんが勝ちでしょ」
まるっきり邪気の無い笑顔で言ってくる田上沢さんに、わたしも思わず笑った。だって全然本気じゃない、と言うか、これただ単にわたしをダシにしてシンさんからかって遊んでるだけ、てこと、シンさん以外には丸判りだし。
「ちっとは気にせえよ! ほんまにもう……おい、ユウ!」
シンさんが立ち上がってユウさんの方に行くのに、田上沢さんはへえ、という顔で眉を上げてわたしを見た。
「……気に入ってんだ、あいつ」
「みたい、です」
わたしも思わず微笑んで田上沢さんを見返す。
「レイコさんに、似てるって」
「ああ……へえ、成程」
くすん、と田上沢さんは口元で笑った。
「そりゃ気に入る訳だ。うん、ほんと……ほんと、良かった、千晴ちゃん」
そう言うと田上沢さんは、グラスを少しこちらに傾けてみせる。
「そりゃ、あいつもこれで、安心だ。……おめでとう」
「あ、ありがとう、ございます」
ぺこ、と頭を下げてわたしが自分のグラスを出すと、チン、と田上沢さんが自分のそれを合わせた。
「――ほらお前、ちゃんと横座っとけ」
と、後ろからシンさんがやってきて、何が何だか判らない、といった顔をしているユウさんの首根っこを押さえ、無理矢理わたしと田上沢さんの間に割り込ませて座らせた。
「え、え……?」
「あのな、言うとくけどこの男ケダモノやからな。こんな世間知らず、一分で食われんぞ」
シンさんは後ろから手加減なしにわたしの頭をぺしっ、とひっぱたいて、田上沢さんの逆隣にどすんとあぐらをかく。
「痛っ、もう……」
「一分? それは凄い」
頭を押さえてシンさんを睨むわたしの横で、ユウさんは何だかよく判らないことにしきりに感心している。
「そこかい!」
「いや、それがほんまなら後学の為に、ぜひ教わりたいと思って」
突っ込むシンさんに実に真面目にユウさんは答え、その横で田上沢さんが華々しく吹き出す。
「お前この期に及んで他のオンナ食いに行く気かコラ!」
「いやそういうことやなくて、この子を一分で落とす妙技ならぜひ俺が身につけたいと」
「お前は一分の必要無いやろ! ちゃんと時間かけろ、時間!」
「ああ、もう……」
田上沢さんはお腹を抱えて床に寝転がって笑い出し、ユウさんの背中の後ろから、わたしに向かってにかっと笑ってみせる。
「ほんと、レイコちゃん似だ。……良かったね、千晴ちゃん」
「はい」
わたしも思わず、ふうっと微笑んで――と、ぐい、とシンさんの腕が伸びてきて田上沢さんの襟元を掴んで引き起こした。
「ほんまにもう、油断も隙も無いやっちゃな……!」
すぱん、と田上沢さんの頭をはたくシンさんを、ユウさんは呆れ顔で見つめてから、ふっと隣のわたしに目を落とす。
「……ほんまに、一分で落ちんの?」
小声でそう心配気に尋ねるユウさんに、わたしは可笑しくなって目を細めて笑って、小さく手招いて耳元に口を寄せた。
「ユウさんに、ならね」
そう囁くと、相手が一瞬、ぎょっとしたような顔でこちらを見た。それからいきなりわたしの腰に手をまわして、ぐい、と引き寄せたと思うと今度はわたしの耳に唇を寄せて、
「――今夜、寝れると思うな」
と、低く、言った。
あの初めての日からいろんな意味で、わたしの日常は一変した。
ユウさんはわたしが頼むまでもなく、本当にこまめに、逢いに来てくれて――大抵は、泊まっていった。
今までだってそうだったけれど、そうなってからは更に遥かに、ユウさんはわたしをまるで小さい子のように甘やかした。
わたしは人からそんな扱いを受けることが本当に初めてで、最初はひどくとまどった。
と言ってもそれはひとつひとつを取ってみれば本当に些細なことで――気づくといつも車道側を歩いていたり、約束通りほんとに毎回肩を揉んでくれたり、何もしない夜でもわたしが寝つくまで抱きしめて背中をなでてくれたり、ほんのわずかに熱を出したくらいで寝かしつけられて手厚く看護されたり、外でちょっとくしゃみをすればすぐに自分のマフラーや手袋を外してわたしにつけさせたり、と、本当に小さな……けれど何もかもが自分にとっては初めてで、くすぐったいような不思議な気持ちがした。もしかしたら普通の女の子なら、「子供扱いしないで」と反発したくなることなのかもしれないけれど、親にさえ子供扱いされたこともなければ、こんな風に大事に扱われたことも甘やかされたこともなかった自分には、その感覚はひどく新鮮だった。
こんなに甘やかされたら自分は駄目になってしまうんじゃないか、そんな心配もした。けれど意外なことに、それはずぶずぶとはまり込むようなものではなく、逆に自分の中の深いところで、何か少しずつ安定した根が張っていく心地がした。自分が丸ごと肯定されている、ということに、少しずつ少しずつ、実感と自信が湧いてくるようで。
その安心感は、そういう日常の小さな積み重ねからだけではなく――間違いなく、体が深くなるごとに、自分の中で大きくなっていくのが判った。
その明らかな事実に、わたしは自分で驚いた。何と言うか、肉体と精神というものがここまでしっかりと結びついているだなんて、こうなるまでは知る由もなかったのだ。
きちんとした愛情をベースとして自分という存在そのものを強く求められる、ということがこれ程までに精神に安定をもたらすものだとは思いもよらなかった。
つくづくとわたしは理屈で構成されている人間だと思っていたのだけれど、その間はそれがすっかり、押しつぶされてしまう気がした。自分がいくら抵抗してもそれはどうにもならなくて、最後にはすっかり、お手上げになってしまうのだ。
その時にはいつも、わたしの中のかちかちに硬い、ぶ厚い殻が、辛抱強くさすられ、何度もなでられている内、少しずつ少しずつひび割れてやがては完全につぶされて中身がすべて流れ出てしまう、そんな感じがした。
そうやって自分の頑なな自我が浸食され押しつぶされて消えてしまうのは、逃げ出したい程のたまらない恐怖と共に、惹きつけられて止まない底無しの魅惑のようなものを同時に感じた。だからそれはいつも怖くてけれど魅力的で、やめて、と思うのと同じ強さでやめないで、と思った。
自我がなくなる、というのが恐怖だけでなく、ここまで精神的に陶酔を伴うものだと、わたしはこうなって初めて知ったのだ。
壊れ物のように繊細に、けれど同時に乱暴なまでに激しく扱われていると、胸のどこかで、もっと、と誰かが囁いた。たまらなく怖いのに、同時にもっと強く、完全に自分を叩き壊してほしい、そうこころのどこかで思っていた。
その瞬間に、間違いなく自分が愛されていて、存在を強く求められていることがどんな言葉で言われるよりもはっきり理解されて、たまらなく嬉しく、もっともっと、と際限なく欲しくなった。相手が自分のことを強く欲しがっている気配を肌で感じると、呑み込まれそうになり背筋がぞくぞくとして、どうにかしてそこから逃げ出したい、という思いと、強引に閉じ込めて捕まえていてほしい、息の根が止まる程きつく抱きしめられたい、という矛盾した思いを同時に感じた。
「……なんかこういう時のちぃって、廊下の隅に追い詰めていじめたなるような顔してる」
ある日の晩、ひとのパジャマのボタンに手をかけながら、ユウさんがそんなことを言った。
ユウさんはいつからかその時にわたしのことを「ちぃ」と呼ぶようになっていて、最近は時々、外を歩いていてもそう呼ばれることがあり、その度にわたしはえも言われぬ程恥ずかしい思いをした。
「え、何……それ」
わずかに息をはずませながら聞くと、ユウさんはぐっと額を近づけ、わたしの目を覗き込んだ。
わたしは逃げ出したくなって、軽く身をよじる。
「ほら、その顔する……その泣き出す寸前、みたいな顔。それほんま、たまらんわ……廊下の隅っこにとことん追い詰めて、むちゃむちゃいじめたくなる」
「何それ、ひどい」
あまりと言えばあまりの言いっぷりに唇をとがらせると、ユウさんがちょっとむっとしたように自分も唇をとがらせた。
「ひどないよ。自分があかんねん、そんな顔して。言うとくけどそんな顔、絶対他の男には見せなや。その顔されたら、おとなしくしとる男なんかおらんからな」
「そん、な……大体そんな機会、ある訳ないじゃない」
「自分気づいてないか知らんけど、外でもするで、たまにその顔。大抵、俺が可愛い、て褒めた時やけど……ええか、よそで他の男に褒められても、絶対その顔、すなよ」
「そんなこと、言われても……自分で判らないもの、そんな。それに、心配しなくてもユウさん以外いないよ、わたしの見た目、褒める人なんて」
「俺視力両方、一・二やぞ」
「いや、見えてる見えてないの問題じゃ、ないと思うな……審美眼、て言うか」
「それじゃ何か、ちぃは俺のデザイナーとしての能力に問題がある言いたいんか」
「いやっ、いや、そういうことじゃなくて」
もう、なんか、ずるい。絶対勝てる訳ないんだもん、こういう時。なんでこう関西人って皆、揃いも揃って口から先に生まれてきたような人達なの?
「いや、そう言うてるようなもんやん。……ああ、なんか俺、自分の仕事に自信失った」
「ええ、ちょっとそんな」
慌てふためいていると、枕に突っ伏したユウさんが喉の奥でくくっと笑った。
「あ……もう、もう!」
「ああもう、ほんま、可愛い……たまらんわ、ほんま」
ごろんと仰向けに寝転がって、ユウさんは額を覆って可笑しそうに笑って――ああもう……ほんっとに、ずるい。
「俺、この年になって、こんなずぶずぶの恋愛、自分がするとは思わんかったわ……もうちょっとなんつかこう、自分には分別ってもんがあると思ってた」
思わず見ると、ユウさんは額に手を乗せたまま天井を見つめていた。
「こんなに……自分の中に誰かの存在が位置取るなんて、思たこと……なかったわ」
その瞳が何だかひどく遠いところを見ているようで、わたしはどきんとした。
ユウさんはそのまま、一度大きく深く息を吐き出す。
それからごろりと寝返りを打って、片手で頭を支えてこちらを見た。
「……俺は多分、千晴を甘やかすことで千晴に甘えてんねん」
「え?」
咄嗟に相手の言葉の意味が掴めず、わたしは聞き返す。
「千晴に甘えてもらえばもらう程、何言うか、自分の……根ぇが、立つ言うか。足元がしっかりするみたいな。居場所が定まる、て言うんか……存在意義みたいのんを感じる」
思いも寄らない言葉に、わたしは息を止めた。
「今までの、俺はさ……別に、いつ消えてもいいっちゅうか、どこ流れていってもいいっちゅうか……何せ根無し草みたいなもんやから。もう誰も俺の帰りなんか待ってへんし、帰る家も自分で売ってもうたし」
……ユウさん。
こちらを向いているユウさんの目は、わたしを通り越してどこか定まらないところをゆらゆらと見つめている。
「出張でひとりで新幹線乗ったりする時とか、よう考えた……このまんまずうっと終点まで行ってしまって、そのままどっか適当なローカル線乗って、名前も知らんような街まで行ってしもたかて、別にええねんなぁ、て。
いや、そら会社にはどえらい迷惑かけるかしらんけど、でもそんなんそん時だけの一過性の話に過ぎんもん。そやし、そうやって姿消して、定住もせんと、あっちこちの街、ふらふら流れていったかて別にええねんなぁ、て……誰にも迷惑かからんし、誰も気にする人もおらんし……このままふらぁっと姿消したかてええよなぁ俺、て、そんな風に思たりしてた」
……ああ、手を握りたい。
切実に、そう思った。
それは最初に逢った時、「あの家にひとりで帰るのがしんどい」と相手が呟いた時に胸の中いっぱいに広がった思いと、同じだった。
「でも、今は俺……出張行ったら、できる限り早いこと仕事片付けて、一本でも早いの乗って帰れますように、て思う」
そう言ったユウさんの目が動いて、しっかりとピントがわたしの顔に合った。
わずかに歯を見せて、微笑む。
「千晴、何回かホームまで迎えに来てくれたことあったやん。あれ、嬉しいてなぁ……こう、山科んとこのトンネルくぐって、窓からだんだん、京都タワー見えてくるやん、そしたらもう、胸がわくわくしてきて……ホーム見えてきたらもうたまらんことなって、荷物まとめて扉んとこ行って。窓から君がぽつんと立ってるのが見えるやろ、そうしたらもう、早よ止まれや、何してんねや、て新幹線に苛々して。一番に飛び降りてぎゅうって抱きしめたい、って、そう……いっつも、思う」
微笑んでいるユウさんを向かいに、わたしは何だか、泣きたくなった。いつも明るく笑うこのひとがひそかにその背に負っている、巨大な孤独の影に。
「千晴がいることが、俺ん中で杭みたいになってて……それががっしり、刺さっててくれるから、俺はもうどこにも流れていかんくても良くて、いつでもそこに帰ったら良くて……千晴が俺の手ん中ですっかり安心してて、幸福そうに笑って、ぺったり甘えてくれるんが、もうたまらん居心地良くて……そやし俺は、千晴を甘えさすことで千晴に甘えてんねやわ、きっと」
そう言うとユウさんは手を伸ばして、泣き出しそうなのを必死でこらえているわたしの頬をぷに、とつまんだ。
「だから、もっともっと、ようさん、甘えて……俺を、安心さして」
……ああ、もうだめ。
わたしはもうそれ以上耐え切れなくなって、ぽろ、と頬が涙をつたうのを感じながら、ユウさんの胸に飛び込んだ。
「……どないしてんな、自分」
頭の上でユウさんがふっと笑った。その手が背中を、やさしくなでる。
「なんで、君が泣くねん……俺なんか悪いこと言うたか?」
わたしはしゃくりあげながら、首を何度も横に振った。
「ほな、泣くことない。ほんまに、もう」
手を伸ばしてぎゅうっとユウさんのパジャマのシャツを握ると、ユウさんが苦笑してわたしの頭をぽんぽん、と軽く叩いた。
「ええ子やなぁ、千晴は」
その言葉にまた新たな涙を誘われながら、わたしはひたすら、相手の胸にきつくきつくしがみついた。
どうか。どうか……わたしがこのひとにひとつでも、何かを返せますように。
このひとの礎に、わたしがなれますように。
十二月も始めの頃、わたしは休日にひとりで、普段は行かない北の方へと向かった。
クリスマスにシンさんに、と思って、シンさんがいつも買っている豆の袋を見て、そのお店にでかけたのだ。
バスで出町柳まで出て、叡電の駅のすぐ傍のいかにも街の喫茶店、といったレトロな構えのお店に入った。
お店のご主人に正直に自分はコーヒーが飲めないことを告げて目的を話してみたところ、意外なことに相手はシンさんとセンセイのことを知っていた。もともとは別の常連さんの紹介で、センセイが通い始めたのだとか。
シンさんはセンセイが亡くなった後からお店に来るようになったそうで、いつもひとりで豆を買い、コーヒーを飲んで、煙草を一本吸って帰るのだという。
殆ど自分のことは話さないから姪御さんがいたなんて知らなかった、髭をたくわえたご主人はそう言って穏和に笑った。
それならちょっと珍しい豆を仕入れたから、お店に出すかはまだ決めてないけどこれは間違いなく彼の好みだから、と勧められた品を素直に買って店を出る。
袋を大事に抱えて、街を歩いた。
お店の片隅で、白いテーブルにひとりで座ってコーヒーを飲んでいるシンさんの姿が容易に想像できて、胸の内がほっとぬくまるような気がした。
引っ越しの日の二日程前、仕事の後にシンさんの家に立ち寄った時のことを思い出す。
シンさんは洋服に多少の日用品を段ボールに詰め込んでいた。
手伝おうかと聞いたけれど、そんなに大した量ではないから、と断られ、座ってお茶を飲みながら見ていると、あらかた片付けたシンさんが腰を伸ばしてふっと工房を見渡した。
「……ここが、家やってんけどな」
わたしに聞かせる気があるのかないのか、判らない程の小声で呟く。
「え?」
「センセイんとこで働き出した頃、俺は近くでアパート借りててんけど、でもそこは俺にとっては家や無うて……センセイのいる、ここが……センセイがおらんくなってからも、ずっと……ここが、俺の帰る、家やってんけどな」
わたしは思わず、目を上げた。
自分の位置からはシンさんの顔は半分程しか見えなくて、その目はどことも判らない場所を見つめ、腰に手を当てて立っている。
……さみしいんだ、シンさん。
ここに……この、「センセイ」と過ごした場所に、もう、「帰る」ことができなくなるのが、きっとさみしいのだ。
ここに「センセイ」を置いていってしまうようで、それがさみしいのだ。
わたしはかすかに息を吐いて、手の中のカップに視線を落とした。
「家、幾つもあったって、いいじゃない」
シンさんがわずかに顔を動かしてわたしの方を見たのを感じる。
「ここはセンセイの家で、シンさんの家だよ。この先も、ずっと」
しばらくわたしを見下ろしていたと思うと、シンさんはつと首を巡らせて部屋を見渡した。
「……そやな」
小さく呟くと、ふ、と息をついて、すたすたと棚に歩み寄るとコーヒーメーカーと豆を取り出す。
「ここの豆、もともとはセンセイがずっと、行きつけの店で買うてはったもんで……センセイはその店にはいっつもひとりで行っとって。一杯だけコーヒー飲んで、一本だけ煙草吸って、豆買って帰ってくんねんて。リセットや、て言うてたわ」
「……ふうん」
その時のシンさんの、しずかでしみじみとした微笑みがこころに刻まれて、ああ、クリスマスにはそこの豆を贈ろう、そう思ったのだ。
あの店のカウンターで、「リセット」しているシンさんの姿が目に浮かぶ。
きっとそれは、この先シンさんに新しい家族が増えたとしても、何十年と変わらず続くのだろう。
そこにいる時は、きっとシンさんは「センセイ」とふたりなのだ。
豆の袋を鞄に隠して、工房に立ち寄った。
レイコさんと一緒に暮らし始めてから、遅出の仕事の後にはもう基本シンさんはそこにはいないので、わたしはもっぱら、早出の帰りや、予定の無い休日の日中に顔を出すことが多くなっていた。
「おう」
わたしの姿を見ると、シンさんはテーブルいっぱいに紙を広げてデザイン画を描いていたのを、さっと立ち上がって窓脇の机の方に移す。
「ああ、別にいいのに。忙しい?」
「ん、いや。ちょっと去年で反省して、今年は結構、前倒しで注文受けたさかい。まあ、去年程では、ないわ」
「そうか……あの、さ」
わたしは描き散らしたスケッチをまとめているシンさんの向かいに、椅子を引いて腰を下ろした。
「なに」
「あの、そしたら……時間、大丈夫そうなら、お願いが、あるんだけど」
「なんやな」
シンさんは物珍しそうな顔をしてわたしを見た。
「お願い、って言うか、依頼か……あのね、つくってほしいものが、あって」
「え?」
わたしは一度息を吸って、思いきって言葉を出した。
「あの……ネクタイピン、つくって……くれないかな」
シンさんがまじまじとわたしを見下ろし――勝手に頬にじわじわ熱が上ってくるのが自分ではっきり判る――それから、唇の端を持ち上げるようにして微笑った。
「……どんなんが、いい」
そう言いながらシンさんは椅子を引っ張ってきて、わたしの真向かいに腰を下ろす。
「うーん、どんなん、て言われても難しいけど……そもそもどういうのがあるのかもよく知らないし」
「具体的な何かのかたちがええんか、抽象的な方がええんか、石とか入ってんのと無いのんとどっちがええんか、とか」
「ああ、そういう、ことか……うーん」
ユウさんは普段はラフな格好で会社に行っているけれど、出張の際には当然スーツを着ていて――それがたまらなく格好良くて見る度に惚れ直していることは当人には内緒だ――その時にネクタイのピンを見て、ああ、クリスマスはこれだ、と直感的に思った。が、自分が今まで全く無縁な物なだけに、どういうものがいいのか全然見当がつかない。
「石とか入れんねやったら、今無いもんは取り寄せなあかんから、その辺は早よ決めや」
「あ、判った。あの、大体三、四万くらい、て思ってるんだけど、どうかな」
「は? お前それブランドもんレベルやで。まあ入れる石にもよるけど、その半分も要らんわ」
「え、ええ? そうなの?」
わたしは思いきり面食らった。わたしの為に安く言ってるんじゃないか、と思ったけれど、シンさんは立ち上がって家の方へ行き、何冊かのアクセサリー雑誌を持って戻ってくる。
「……ほんとだ」
ぱらぱらとめくってみて、確かに、と思う。いや、高いものは確かにやたらめったら高いんだけど、安いものはかなり安い。
いや、とは言ってもこの場合オーダーでつくってもらう訳だし……ほんとにいいのか、そんな値段で。
悩みつつぱらぱらと雑誌をめくっている内、ひとつのモチーフが目に留まった。
ああ……そうだ。
これ、だ。
わたしは顔を上げた。
「あの……」
「ん?」
ああ、でも作家のひとにこういうの頼むっていいのかな……いや、でも。
「あの……クロスって、変、かな」
「――――」
シンさんは動きを止めて、まっすぐにわたしを見た。
わたしは緊張しながら、その目を見返す。
やがてふうっと、相手の唇にほのかな笑みが浮いた。
「……あいつ、誕生日何月や」
「えっ? あ、五月」
「そしたら……エメラルドか、翡翠やな。判った、石はそのどっちかで、適当にええの、見繕うから」
「……あ」
わたしは小さく、口を開けた。受けてくれたんだ、シンさん。
急いで立ち上がって、大きく頭を下げる。
「あの、ありがとう、シンさん」
「アレンジはするで。同じ姿にはつくらん」
「うん。うん……ありがとう」
もう一度深々と頭を下げると、シンさんはもういい、とでも言いたげに軽く手を振った。
「そしたら、そやな……二十二日くらいには、間に合わすわ。その辺りで取りに来い」
「うん、判った。ほんとに、ありがとう」
また、もういい、といった感じでそっけなく振られた手を、わたしは衝動に任せてぎゅっと握った。
「な……」
「うれしい。ほんとに。ありがとう、シンさん」
そのままぶんぶん、と手を振ると、鳩が豆鉄砲食ったみたいになっていたシンさんの顔に、ぱっと朱が散った。
「おま……お前もう、ほんま、子供か」
ひったくるように手を引っ込めると、シンさんは顔をそむける。
「だって、嬉しかったんだもの」
その前でにこにこしていると、ますますシンさんは顔を隠すように向こうを向いた。
「……お前、変わったなあ」
「え?」
「変わったよ。あいつに逢うてから……ちょっと、似てきたわ」
「ええ?」
そう言われたことが意外で、わたしはそっぽ向いてるシンさんを見つめた。わたしが、あのひとに似てきた?
「そう、かな……?」
「ん。……まあ、良かった」
シンさんは最後の言葉を口の中でぼそっと呟くと立ち上がった。
「ほな、今日はもう帰れ。これからデザインから起こさなあかんねんから」
「あ、うん。ごめん」
うなずくと、シンさんは小さく手を振った。
「ええから。……また、来いや」
わたしはもう一度うなずいて、シンさんに深く頭を下げると、飛び出すようにして工房を後にした。
シンさんが約束してくれた二十二日当日、わたしはシンさんの家に立ち寄り、クリスマスの前倒しで、コーヒー豆に加えて、足元に置いて使う電熱パネルヒーターをプレゼントしてきた。工房は床がコンクリート敷きなので、ストーブをたいていても足元が冷えるのが前から気になっていたのだ。
シンさんは豆の袋を見て驚いた顔をすると、何のコメントも無いままそれでコーヒーを淹れ、ひと口すすって、渋面をつくった。
「お前な……俺、引っ越しやら何やらで今、物入りやのに。こんなん飲んでしもたら、これ以下のランク、飲めんくなるやろが」
あくまで不機嫌な顔でそう言うシンさんに、わたしは嬉しくて笑った。
「これ、普段見かけんヤツやのに……どないしてくれんねな、ほんま」
ぶつぶつと言いながらもシンさんはカップを離さず、そのまま家の方へ上がって、すぐに手の中に何かを持って戻ってきた。
「――ほら」
ずい、と突き出されたそれを、わたしは両の手で受け取る。
青いビロード張りの小さな箱。
それを開いて、わたしは小さく、声を上げた。
「きれい……!」
箱の中に置かれていたネクタイピンは、銀の細い板状の十字架に、やはり銀でつくられた細い蔓が、くるくると全体に流れるように絡まっていて――クロスしている横棒の端にくるりと巻いた蔓の先に、小さなエメラルドの葉がひとつ、光っている。
「凄い……」
わたしは手を伸ばしかけ、そのあまりの繊細さに、ふっとためらった。触れると輝きを損なってしまいそうな気がして。
結局触ることができずに、そのまま眺め続ける。
言葉も無いままどれくらい眺めていたのか、やがて、シンさんが流しでコーヒーメーカーを洗う音に、はっと我に返った。
「あ……」
わたしは首を巡らして、シンさんの背中を見る。
「シンさん」
声をかけたけど、シンさんは振り返らなかった。
「シンさん……ありが、とう」
それでもわたしは、その背中にそう声をかける。そんなことは言わなくたって伝わっているのは判っていたけれど、それでもどうしても、言葉にして言いたくて。
わたしはそうっと箱の蓋を閉めると、両の手でそれを包むように持って、胸の前できゅっと抱きしめて目を閉じた。
ああ……うれしい。本当に、うれしい。
ひとへのプレゼントだというのに、まるで自分が貰ったもののように嬉しかった。
その喜びに浸り切っていると、不意に後ろから気配が近づいて、くしゃ、と頭をなでられる。
「……あ」
顔を上げると、二杯目のコーヒーを入れたカップを持って、シンさんが斜め向かいの椅子に腰掛けた。
その姿を見て、はたと思い出す。
「あ、シンさん、これ、お代」
「要らん」
「え、え……いや、それは駄目だよ、プロの人に仕事頼んだんだから」
唇とがらせて言うと、シンさんは片手でカップを少しもたげて、片手で床に置いたヒーターの箱を手に取った。
「これで十二分や。釣り渡さんなんくらいや」
「でも……」
「物々交換。そんで手打ちや」
わたしは少し言葉に詰まって、でもこうなるとシンさんは梃でも動かないことは判っているので、渋々うなずいた。
「判った。ありがとう」
頭を下げると、シンさんはふい、と目をそらした。
全く、ほんとに照れ屋なんだからなあ……。
わたしは微笑みを隠せないまま、箱をもう一度大事に握りしめると立ち上がった。
「じゃ、今日は帰るね。ほんとに、ありがとう」
「ああ」
こちらを見ずにぶっきらぼうに答えるシンさんに頭を下げて、わたしは鞄の中に大事に箱をおさめる。
鞄を斜めがけに肩にかけると、わたしはテーブルを離れた。
「じゃ、おやすみ」
そう言って扉を開いて外に出かかった瞬間、
「――ハル」
と、後ろから声がした。
え、と振り返ると、向こうを向いて座ったまま、シンさんの声だけがした。
「美味いわ、これ。……それからこっち、助かる。ありがとうな」
わたしは息を呑んで、その背中を見た。
シンさんはそれきり、何も言わない。
わたしはすう、と息を深く吸った。
「――わたし、シンさんがわたしの叔父さんで、良かった」
ひと息に言い切ると、わたしは相手の反応を見ずにぴしゃん、と扉を閉めて、走って辻を飛び出した。




