第九章(後)・君の傍に
どれくらいそうやって布団の上に座っていたのか、どれだけ待ってもその姿が消えないのと喉の乾きがいよいよ強くなってきたのに、わたしはそうっと、起き上がった。
可能な限り音を立てないように、膝立ちで手をついてそろそろと布団の上を移動する。
河瀬さんはクッションを枕に、肩まで毛布をかぶって眠りこけていた。
……少し、やつれた気がする、そう思って胸がちくんと痛む。
無精髭が一面に生えているのも、そのやつれっぷりを助長させている。ああ、触れたい。
わたしはその頬に手を当てたいのをぎりぎりでこらえて、そうっと立ち上がって台所へ移動した。
シンクで立て続けに水を三杯飲むと、やっと人心地がつく。
時計を見ると、十時をまわっていた。
一体いつ、わたし、ここに帰ってきたんだろう……そして一体、いつあのひとは、ここへ来たんだろう。
わたしは首をひねりながら、またそうっと身を翻した。
手前の部屋から頭だけ突っ込んでちらりと見ると、河瀬さんはまだ熟睡していたので少しほっとする。
ほんとは布団の方に移してあげたいけど、そんなことしたら目が覚めちゃうよな、さすがに。
わたしは押し入れの中の衣装ケースの引き出しから着替えを取って、またそろそろと音を立てないように河瀬さんの隣を横切り、洗面所に入った。
シャワー、浴びたら……さすがに起きちゃうかなあ。
しばらく逡巡したけれど、いくら引き延ばしたところでいつかは絶対、向こうだって目が覚めてしまう訳で。
それに昨日の服でそのまま寝てしまったせいで体がべっとりしていたし、何となくお酒の匂いがするような気もして、相手が目を覚ます前にさっぱりした姿になっておきたくてわたしはシャワーを浴びることにした。
ああ、でも、ほんとに……どうして。
髪や体を洗いながら、何とか懸命に昨日の記憶をほじくり返そうと頭を振り絞ってみたけれど、やはり途中からの記憶がすっぱりと抜けている。
お酒、しばらく自重しよう。これまさに記憶喪失だよ。全身麻酔した時とおんなじ。
でもなんか、驚いて頭が飛んだせいもあるのか、気持ち悪いとか頭痛いとか、そういうのは全然ないなあ……むしろ最近ろくに眠れてなかったのに、久々にそれなりにもの食べて長時間睡眠も取れて、逆に調子が良いような。
体って現金だなあ……。
お風呂を上がって髪にタオルをぐるぐるに巻きつけ、洗面所でざっと歯を磨くと部屋への引き戸をそうっと開いて、あ、と息が止まる。
座椅子の上に片膝立てて座って、河瀬さんが眠そうな顔で、目を眇めてこちらを見ていた。
わたしは息を止めたまま、その場に立ちすくんだ。ああ、どう……しよう。
河瀬さんはしばらくわたしを見ていたと思うと、髪をばさばさ、とかきまわして大きなあくびをした。
「あっ、あの、良かったら、布団、どうぞ」
その姿につい、そう言ってしまう。いや、そんなこと今言ってる場合か、自分。
河瀬さんはちょっと不思議そうにわたしを見ると、唇の端にわずかに笑みの気配を漂わせた。
――きゅうん、と胸が切なく締まる。
抱きつきたい、切実にそう思うのを、わたしは何とかこらえた。
「いや、ええよ。おはよう」
「あ……あ、おはよう、ございます」
慌てて頭を下げると、今度こそ河瀬さんが、はっきりくすんと笑った。
……笑って、る。
あの時の氷のように冷たかった姿と声とのその違いに、わたしは泣き出しそうになった。
「あー……も、こんな、時間か。俺も、シャワー借りていい?」
伸びをしながらそう言うのに、わたしは「あ、はい」とうなずき、急いで部屋に入った。
「ほな、借りるわ」
河瀬さんは立ち上がるともう一度伸びをして、すたすたと部屋を横切っていく。隣をすれ違った瞬間に、胸がぐっと苦しくなるのを息を止めて乗り切った。
シャワーの音が聞こえてくる中、とにかく何も考えないようにして、布団をあげ、お湯をわかして、髪を乾かす。七分方乾いた髪を後ろでくるりとねじりあげ、バレッタでかちりと止める。
とにかく、落ちつこう。一体どうしてこんなことになってるんだか、そこはさっぱり謎なんだけど……落ちつこう、わたし。
――お前は、大丈夫や。
シンさんの声が頭をよぎって飛びつくように机に向かうと、もらったペンダントを取り出してぎゅっと握りしめた。
指の腹や手の平に角が軽く刺さる鈍い痛みを頼りにしながら、一度深呼吸する。
大丈夫だ……大丈夫、だって、シンさんの、保証付きだから。
だから、大丈夫。
お風呂から出てきた河瀬さんは、髭もきれいに剃って、ずいぶんすっきりした顔つきになっていた。けれどやっぱり、少し痩せた気がする。まあ、そこは多分、お互い様なのだろうけど。
こたつに入って濡れた髪をタオルでばさばさ、とこすっている河瀬さんに、わたしはお茶を入れて出した。
「ああ……おおきに、ありがとう」
わたしは自分の前に自分の湯のみを置くと、すとん、と座椅子の上に正座する。
「入りぃよ、こたつ」
ちらっと笑って、河瀬さんは手でうながした。
「……はい」
我ながら固い顔でうなずいて、わたしはこたつの中に足を伸ばす。
河瀬さんがタオルを置くと、ふう、と息をついた。
足を伸ばしてるのに、全身ががちがちで、体全部で正座してる、みたいだ……。
わたしは異様な程に緊張しながらその場に座っていて、はっと気がついた。そうだ、聞かなきゃ。
「あの」
口を開くと、河瀬さんがふい、と顔を上げてこちらを見た。
その目に言葉を失いそうになりながら、何とか話し続ける。
「どうして、ここに……ていうか、そもそもわたし自身、なんでここに……あ、ええと、ここはわたしのうちなんだけど、でもわたし昨日は確か、シンさんちで」
もそもそと話していると、河瀬さんが前髪をかきあげ、こたつに片肘で頬杖をついた。
「――夜中に森谷さんから、電話あって」
「え?」
意外なことを言われて、わたしは目をむいた。シンさんが、電話?
「夜分悪いけど、今家にあんたの荷物寝転がってるから、取りに来てくれんか、て」
「…………」
にもつ、て……ああもう、シンさんの莫迦!
わたしが内心でシンさんを罵っていることなど知らず、河瀬さんは、ふ、と微笑む。
「その荷物、ほんまに俺のんですか、て聞いたら、森谷さん、そうや、て……中身も外身も全部あんたのや、あんた以外の奴が引き取りに来ても俺は渡さん、そやし今すぐ持っていけ、て」
……シン、さん。
もう、ほんとに……もうほんとに、莫迦。
わたしは急に泣きたくなって、頬の内側を噛んでこらえた。
「夜中にタクシー、ぶっ飛ばして行ったわ……それから四時くらいまで、森谷さんと飲んで」
「え、ええっ?」
よ、よじ⁉
予想外の言葉に、わたしは目をむいた。ああもう、一体何話してたんだ、この二人。聞きたいけど、なんか、聞くのも怖い。
それにしてもシンさん、あれから更に、そこまで飲んだのか。やっぱりあのひとに「ザル」と呼ばれる筋合いは無い。
「ん。そんでその後、自分おぶって、ここまで連れてきて」
「あ……そ、それは、ごめんなさい」
思わず深々と頭を下げてしまってから、いや、でも別にわたしが頼んだ訳じゃないのに、とも思う。詫びるべきはシンさんでないか、この場合?
「いや。……そいで、寝て、目が覚めて、今ここ」
「あ、はい」
わたしはこくりとうなずいて。ひとまず経過は、それで判った。けど……どうして来てくれたんだろう、河瀬さん。
それが聞きたくて、でも聞くのが怖かった。
口を開けずにいると、向かいで相手が、ずずっとお茶をすすって、はー、と大きなため息をついた。
え、と見ると、ずるずる、とこたつの上に片手を伸ばしてその上に頭を突っ伏してしまう。
「ああ、もう、なんか……なんか俺、ほんま……ほんっま、森谷さん、羨ましい」
「え、ええっ?」
想像を絶した言葉を言われて、わたしはのけぞった。シンさんが羨ましい?
「な、なんで?」
熱でもあるんじゃないかこのひと、と思っていると、こたつに突っ伏したまま、河瀬さんがじろり、と目だけ動かしてこちらを睨んだ。
「そら羨ましいよ。自分の好きな子が、自分のことは全然判ってくれんのに、他の男のことはまるごと全部、判ってんねんで。羨ましいに決まってるやろ」
「え、えっ……」
他の男、って、だって、シンさん、なのに……いや、そんなことより。
自分の、好きな子。
胸の中が、じわあっと熱くなった。
「おまけにその当人も、俺より遥かに、その子のこと判ってんねんで。これが羨ましくなくて何が羨ましいねん」
「ちょ、ちょっと、あの」
ああもうほんとに、シンさん一体、何の話したのだろう。
「もう正直に言うけどな、俺前々からずうっと、ジェラシー全開やったで、自分等」
また睨まれて、わたしは面食らった。じぇ、じぇらしー?
「大体そもそも、仲良過ぎやしさぁ。家は近いわしょっちゅう行き来してるわ、ほんま……どんだけ、羨ましかったか」
「いや、ちょっとっ、ちょっと待って、でもそもそもシンさんて叔父さんだし」
「言うても去年初めて逢うたんやろ? そらこれがちっちゃい頃から仲良しやったとか、あるいは世間一般的な年齢差の叔父さんやったらいいで。でもあのひと、俺と二つしか違わんねんから」
「えええ、でも、二十九なんて、わたしからしたらパーフェクトおじさんなんだけど」
思わず言うと、また睨まれた。
「……それは、二十七もか」
「えっ、あ、いえ、あの……二十七は、違います」
実際のところは大差無い気もしたが、とりあえずそう答えないと大変まずいような気がして、わたしは急いでそう答えるとうなずいてみせた。
「よし。……ああ、でも、ほんまさぁ、全然、態度違うもん。自分いまだに、そうやって時々、俺に敬語使うし。ああでも、たまに敬語出るって、それはそれで結構ぐっとはくんねやけども……いやそういう話やなくて」
「……はあ」
何だかこう、だんだん、微妙にあほらしくなってきたのは気のせいだろうか。というか、ここ十日程、あれだけ深刻に落ち込んでいた自分は一体、何だったのか。
「森谷さんには、ガチのため口やしさ。俺のことはいまだに名字呼びやのに、あのひとのことはシンさん、呼ぶしさ。しかもそう呼んでええの自分だけて。どんだけベタベタやねん」
「いや、あの……だから、血縁だから……ベタベタだろうが何だろうが、所詮叔父さんだから」
何とも言えない脱力感を覚えつつも、わたしは力なくそう言った。
「叔父さんかってええわ。俺、立場替わりたい。俺もあのひとみたいに、自分にまっしぐらに信頼されたい」
「……え」
河瀬さんは頭を起こすと、どこかふて腐れたような顔で両手で頬杖をつく。
「自分あのひとのことは、全然、疑わんやん。言うことも、やることも……森谷さんが自分のこと好きなことも、絶対嫌ったりせんことも、全部丸ごと、頭っから信じてるやん。……俺、ほんまに羨ましい」
こく、と喉が勝手に鳴った。
「なんで俺のことは、そんな信じられんの……なんでそんなに、怖がんの」
伏せ気味になった相手の目を、わたしは息を呑んで見つめた。だって、だってそんなの。
だってそんなの、判り切ってるのに。
「……だって」
突き動かされるように口を開くと、河瀬さんは目を上げた。
「だって……だって、わたし……河瀬さん、好きだもの」
え、と言うように河瀬さんが上げた目を見開く。
わたしはその目に、必死に訴えた。
「好き、だから……わたしのことも、好きで、いてほしい。嫌わないで、ほしい。でも……でもそんなの、所詮わたしの勝手な願望だから」
あれ程苦しかったのに、いざ言い出してしまうともうわたしの舌は止まらなかった。
ああ、でももういい、言ってしまえ。だってシンさんが言った、「大丈夫」て。いくら言っても大丈夫、そう。
「そうあって欲しい、と思うから、だから目が曇ってるんじゃないか、そう思えて……このひと自分のこと好いてくれてる、嫌ったりしない、て思っても、それはわたしがそうあってほしいと思ってるから、期待値でそう見えてるだけなんじゃないか、て、いつも心配で心配で、すごく、怖くて」
河瀬さんは両手を下ろして、瞬きひとつせずわたしを見ていた。
「シンさんも、わたしやっぱり、最初の頃は嫌われるかも、て不安になったこともある。でもなんか、だんだん、そういう感覚、無くなって……それはシンさんを信じてる、ていうより、万が一嫌われたとしても、わたしはシンさんのことが好きだから、それだけで別にいいんだな、って。わたしがシンさんに望むのは、幸福であってほしい、それだけ。どこに誰といてもいいから、ただ幸福であってほしい。だからわたしはシンさんのことは好きだけど、シンさんにわたしを好きでいてもらいたい、て願望は無いの」
そこまで言うと、わたしは一度、言葉を切った。
「……でも、河瀬さんには……わたしを好きで、いてもらいたいもの」
そしてそう言い切った瞬間、どっと涙が出た。
「勝手で……わがままな希望だ、って、判ってるけど、どうしようもなくて。好き、だから……他の誰も見てほしくない、わたしを好きで……いて、ほしいもの」
涙の中から何とか言葉を紡ぎ出すと、もう耐え切れなくなって、わたしは両の手で顔を覆ってうつむいた。
指の間から、涙があふれていく。
ああ、もう……言ってしまった、本当に、言ってしまった。
ああ……。
どうにもできずにただ泣いていると、不意にすぐ近くに気配を感じる。
「……え、」
はっと顔を上げた瞬間には、もうきつく抱かれていた。
「え、え……」
背中をすくい上げるように、ぐい、と手をまわされ、頭がぐら、と後ろにのけぞり――あ、と思う間もなく、唇が押しつけられる。
「か、わ……」
今までのそれとは全然違う、噛みつくように何度も何度も、深く強く唇をむさぼられて、ふうっと、気が遠くなりかける。
あつ……い。
わたしは自分でも無意識のまま、その嵐から逃れようと身をよじったけれど、腕は固く固く、縛めのようにそれを許さなかった。
「――まだ足らん」
わずかに唇が離れる合間、荒い息と一緒に、河瀬さんがきつく囁く。
「まだ……足らん。もっとや。まだ……まだ全然、足らん」
そしてまた、深く唇が重ねられて――あ、ああもう、どう……しよう。
指先がじいんと痺れて、蒸気で体が膨らんでいるような感覚がする。
どれだけ時間が過ぎたのか自分でも判らず、やがてようやっと、河瀬さんが腕から力を抜いた。
わたしは体のどこにも力が入れられないまま、くったりと座椅子に沈み込む。
目も開けられずにいると、額にかかった髪を河瀬さんの指がすっと払った。そのわずかな動きにさえ、体がぴくりと揺れる。
真向かいで深く深く、河瀬さんが息を吐く音が聞こえてうっすら目を開けると、両膝の上に拳を乗せて、相手がこちらを見ていた。
その目と、目が合う。
河瀬さんはわずかに肩で息をしながら、じいっとわたしの目を見つめた。
「……言うてよ」
そして少ししゃがれた、低い声を出す。
「え……?」
「わがまま、全部……ひとつ残らず。隠さんと……言うてよ、俺に」
わたしは座椅子に沈み込んだまま、はっと息を呑んだ。
ああそうだ、そう言えば結局、まだ聞いてない……東京、一体どうなったのか。
聞きたい。
でも、聞くのが怖い。
それに何だか、自分のことながら、その答えを聞いてから言うのは、卑怯だと感じた。それでは自分がいつまでたっても、変われないと思った。
結果を知らないまま、言ってしまうのはとても苦しい。
胸の中に巨大で重たい石があって、それが自分を押しつぶしている気がする。
相手に自分の本当の気持ちを言うには、その石を何とか、動かさないといけなくて……必死で呼吸していると、目の中にじんわりと涙がたまってきた。
言わなくちゃ……ここでちゃんと、言わなくちゃ。今言えなかったら多分このまま一生言えない、今言わなかったら……わたしは今度こそ本当に、このひとを失う。
今言えなかったら、わたしは一生、自分を治せない。
――言っちゃ駄目だ、ずうっとそうやって自分の背中を押しつぶしてきた石を、わたしは全力で押し返した。
言ってもいい、そうでしょう、だってずうっとこんなわがまま、誰にも言わずに来た。自分のことを愛してほしいと、自分の傍にいてほしいと、さみしい夜には抱きしめてほしいと、そんなわがまま、誰ひとりとして……自分の親にさえ、かつての恋人にさえ、言わずに隠してきた。
本当はずっと、誰かにそうしてほしかったのに。
わたしはまだ体を動かせないまま、目だけを動かして河瀬さんを見た。
相手はきっちりと正座をして、キッと唇を引き締めてじっとわたしを見ている。
自分には価値が無い、ずっとそう思ってきた。他人から愛されるような価値など無い、つまらない、出来損ないの生き物だと。だから愛されたい、嫌われたくない、そんなのは全部、わたしの勝手な、わがままなんだと。
そう思っていたから、わたしはずっと、わたしの気持ちを押し殺して、ないがしろにして生きてきた。
けれどもそれは、間違っていたのではないだろうか。
向かいに座る相手の、わずかに細められた真剣なまなざしを見ていると、ふいにそんな思いがひらめいた。
だってわたしは、このひとが大事だ。辛い思いなんかさせたくない。
けれどわたしが自分の気持ちを言わないことが、確実にこのひとを苦しめている。
わたしが自分を大事にしないと、自分の気持ちを踏みにじってしまうと、それは結局、まわりまわって、このひとを傷つけてしまうのだ。
多分、今のわたしにはまだ無理だと思う。相手から嫌われる、という恐怖を完全に消し去ることは。
けれどもそれよりももうひとつ手前に、自分が自分の感情を大切に取り扱う、ということは、もしかしたらわたしにもできるのではないだろうか。そしてそれこそが、相手が自分に望んでいることではないのだろうか。
わたしは目を伏せ、一度ゆっくりと呼吸してから、また目を上げた。
けれど、いざ言おう、とすると喉がこわばってどうにも声にならない。
もう一度息を吸おうとしたがそれも難しくて、じわりと涙が目の奥からにじむ。
……一回だけ、わたしは自分の重荷を押し返す為に自分にそう言った。
一回だけ、今回だけ。それなら……それくらいなら、いいじゃないか。
今まで一度だって、誰にも言わずにきた。
わたしの人生の中で、一回くらいはいい。それくらいは自分を大事にしてあげてもいい。
もしこの一回が駄目だったら……そしたら潔く、諦めよう。諦めて今度こそ本当に、この先一生、誰にもわがまま言わずに生きよう。
だから、一回だけ。
けれどもし、この一回が受け入れられたら。
そうしたら……自分は、どう……なって、しまうのか。
全く、見当がつかなかった。
わたしは体を起こして相手の方に体をねじるようにして斜めに座ると、一度、無理矢理に深く呼吸した。
河瀬さんは身じろぎもせずにわたしを見ている。
一回。一回だけ。一回だけ……自分を、許そう。
わたしはもう一度深く息を吸って、何かが押し込まれたみたいに詰まった喉の奥から、必死で声を絞り出した。
「……行っちゃ、やだ」
河瀬さんの肩が揺れる。
わたしはその姿がどうしても見られなくなって、目を伏せた。
「どこにも、行って、ほしくない……ずうっとわたしの、傍にいてほしい」
言い終えた瞬間、焼けた鉄のような後悔と涙がどうっと、自分を襲った。ああ、どうしよう、駄目だやっぱり、こんなの駄目だ。
「ごめん、なさいっ……」
わたしはぼろぼろと涙をこぼしながら深く頭を下げた。ああ、言ってしまった、どうして言ってしまったんだろう、こんなの……やっぱり、許されることじゃ、ないのに。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
ああ、でも、言ってから謝ったってそんなの無意味だ、それこそ……卑怯だ。
「ごめん……なさい……」
膝の上の握った拳の上に、ぱたぱたと自分の涙が落ちるのを見ていると、もうたまらない気持ちになった。
「何を、謝ってんの」
頭の上から河瀬さんの声がして、わたしはびくりと、肩を震わせる。
「だっ……て」
ああ、涙が……止まらない。
「だって……勝手、だから、こんな……困らせたく、ないのに、無理言いたく、ないのに、こんな、わがまま……いけない、のに」
「それは、わがまま、なん?」
尋ねられる言葉に、わたしは何度も、首を縦に振った。その度に涙が、玉になって落ちる。
「ごめん、なさい……」
深くうつむくと、河瀬さんがわずかに近づいて、わたしのすぐ正面に座った。
視界の中に、相手の両膝だけが見えている。
「わがまま言うて、俺に悪いことしたと思てんの?」
しずかな声でそう尋ねられ、わたしはまた、首を縦に振る。
「……そう」
すると腕が伸びてきて、くい、と頭を引き寄せられたと思うと、とん、と河瀬さんの胸にもたれかけさせられた。
「そんなら……ほんまに俺に、悪いことしたと思てるなら、俺のわがままも、聞いてくれるか?」
「え……?」
思わぬ問いに顔を上げようとしたけれど、軽く押さえられているだけのように感じていた相手の手は意外に強く、それを許さなかった。
「どうなん?」
「あ……あ、はい」
そんなことは全然構わなかったので、わたしは普通にうなずいた。
すう、と頭の上で息を吸う音がしたと思うと、不意に腕がまわって、体をきつく、胸に押しつけるように抱かれる。
相手の顔がぐりぐりと自分の頭に押しつけられて、髪に熱い息がかかる。
「――もういっぺん、言うて」
「え」
息が、止まった。
「もう一回……いや、もう百回、もう千回……今の、言うて」
全身が石みたいに硬く固まっていて、耳から聞こえる言葉が、本当にその通りのものなのか、判らない。
「耳に染みついて取れんくなるまで……先刻の、言うて」
きいん、と耳鳴りがして、一瞬すべての音が、遠ざかって――ああ、頭が……くらくらする、これは……ほんとに、現実なんだろうか。
腕に抱かれたまま目眩を起こしかけていると、河瀬さんの指が顎にかかって、くい、と持ち上げられた。
すぐ目の前に、相手の瞳がある。
「言うて」
強い声に押されて、何も考えられないまま口を開いた。
「……傍に、いてほしい」
まるで棒読みの声で言うと、押しつけるように唇を重ねられた。
それがすぐに離れたと思うと、また囁かれる。
「もっと」
「どこにも……行かないで、ほしい」
続けて言うと、また口づけがおりてくる。
じわりじわりと胸が熱くなっていって、涙となってあふれてきた。
「もう一回」
「ずっ、と……ずっと、一緒に……いて、ほしい」
そして三度、唇を塞がれた。
それからきつく、抱きすくめられる。
……ああ。
ぽろぽろと涙をこぼしながら、わたしは手や足の指の先に、じんわりと血の気が通い出すのを感じていた。
生き返った、ような気がする……今初めて、この世に生まれたような、そんな気がする。
赦された、強くそう思った。何にかは自分でもよく判らなかったけれど、この世の一部であることを赦された、そんな気がした。
河瀬さんの手が、強く、けれどやさしく、自分の背中をなでている。
その、あたたかさ。
いいんだ、本当に……こんな場所が、ちゃんと、あるんだ。世界の中に、自分がこんな風にいていい場所が、本当にあったんだ。
ものすごく片隅の方で、ひとりで立って生きていられればそれでいいと思っていた。結局自分はそこからは出られない、生きる場所はそこにしかなくて、誰かに隣にいてもらえるような価値など無いんだ、いつしかそう思うようになっていた。
それなのに……こんな、場所が……自分にも、赦されるんだ。
わたしは全身がほんのりと温まってくるような感覚を覚えながら、しがみつくようにして、ずっと河瀬さんの腕に抱かれていた。
「……無うなってん、東京」
ようやっと落ちついて、一度顔を洗い直して座椅子に座ったわたしに、隣の辺でこたつに入り直しながら河瀬さんが言った。
「え……え?」
聞いた瞬間は何の話か掴めず、次の瞬間にはっとその意味を悟る。
「え、どうして」
「うちの社長、割と猪突猛進型で」
どことなく疲れた顔つきで、河瀬さんが言った。
「だってなあ、全社員の前で言い放って、俺以外にも、事務所できたら君と君にも行ってもらうから、て声かけてて、物件まで探しに行って……そらもう決定事項や思うやん。時期として例えば数ヶ月とか半年とかズレ込んだとしても、計画自体はもう動いてる、て。けど……全然、やって」
「ぜんぜん?」
「ん。うち、社長の父親が会長さんやねんけど、このひとまだ七十にもなってへんくて、現役バリバリやねん。そやのに社長、会長にぜんっぜん、話通してへんかったらしくて……会長もうカンッカンや。何勝手なことしてんねん、言うて。うちは先祖代々、都でお商売さしてもうてんねや、自分の目の黒い内は東京なんかにのれん出せるか言うて、そらもう壮絶な親子喧嘩目の前で繰り広げられてなあ……」
はあ、とため息ついて、河瀬さんはがっくり、肩を落とした。それは……確かに、疲れもする、だろう。
「なんかもう、そういうことはな……まず事前に家族会議済ましてから社員に告知してほしかったわ、ほんっまに」
「……ええと、あの、お疲れ様、です」
落ちた肩に、相手が非常に気の毒になってきて、わたしはそう声をかけた。
「あ、あの、お茶いれますね」
急いでお茶のお代わりを入れると、河瀬さんはぺこ、と頭を下げて湯のみを受け取る。
「なんかほんま、自分にも悪いことしたわ。ほんまごめんな、要らん心配さして」
「あ、いえ、あの、そんな」
わたしはぶるぶると手と顔を横に振って、こたつに座り直した。いや、だって、この場合最大の被害者って、河瀬さんを含めた全社員さんであろう、間違いなく。
……ああ、でも。
気分が落ちついてくると、ほうっとお腹の底が温かくなってきた。
そうか……行かなくて、済んだのか。良かった。
「それが、ええと、四日、前で……正直、悩んだ」
河瀬さんは両の手で湯のみをはさんで、目を伏せた。
「君に伝えるか、どうしようか……けど、それってなんか、もしそれでより戻したとしても、所詮、応急処置に過ぎんっちゅうか。表面に見えてる傷はちっさいけど実は内臓に達してるような怪我に、ばんそこ貼ってごまかしてるようなもんやん、て気がして……よう、言えんかった。ごめんな」
まともに頭を下げられ、わたしは狼狽した。だって、悪いのはわたしの方なのに。
「ずうっと、考えてて……それでもやっぱり、これでは終われんと思ったり、けど結局相手が俺を必要としてないんやったら何したって無駄やん、とも思ったり。なんかもう、自分でも出口無いみたいな状況になってて……どうしようもなくなってたとこに、森谷さんから、電話来て。あんなん言われたら、なんかもう、我慢できんくて……もう今千晴の顔見な、俺、死ぬわ、て気ぃしてきて、すっ飛んで、来てもうた」
手の中で湯のみをまわしながら、河瀬さんは照れたような笑みを漏らした。
――嬉しい、反射的にそう思い、それから、ああ、こういうのを言わないと駄目なんだ、と気づいてわたしは口を開いた。
「来てくれて、すごく、嬉しかった……ありがとう」
河瀬さんが少し意外そうに、けれど嬉しそうに目を細めてわたしを見る。
「それから、ごめんなさい。わたしが、もっと、ちゃんと……思ってることとか、もっとちゃんと、上手いかたちで伝えられてれば良かったんだけど」
小さく頭を下げると、河瀬さんが口先にふっと苦笑いを浮かべた。
「森谷さんに謝られてん、俺」
そしてそう言うのに、わたしはえ、と目を丸くした。
「あいつ、堪忍したってくれ、てさ……あいつは甘え方を知らんねや、て。誰にもそんなん教えてもらわんときたから、あいつはきちんと人に甘える、ちゅうことが判らんねや、て。ほんまは自分や佐和さんがそれ教えたらなあかんかってんけど、そうできんと、あんたにえらい迷惑かけて悪かった、すまん、て……謝らはって、さ」
……シンさん。
わたしは河瀬さんの言葉に、ひどく複雑な思いがした。そんなの、シンさんや伯母さんのせいなんかじゃ……ないのに。
「俺、千晴のそういうとこ、判っとった、つもりやったのに……千晴は気持ちがない訳や無うて、ただ怖がりなだけなんや、って。そやし時間かけて安心できるように俺がしたったらええ、そう思ってた、筈やのに……なんかあの東京の話来て、俺も焦って、混乱して、急ぎ過ぎてもうて……俺があかんかったのに、あんなんして森谷さんに頭下げさせてしもて、えらい情けななったわ、ほんま」
河瀬さんは口元を片手で覆って、はあ、と肩を落とす。
「いえ、そんな」
申し訳なくなってきて首を振ると、河瀬さんが頬杖ついてこちらを見た。
「あいつに、甘え方教えたってくれ、てさ」
「え?」
「あんたにしか、できんから……あいつにちゃんと、教えたってくれ、て。依頼と依存は違うもんや、何でもかんでも自分ひとりでできる思たら大間違いや、感情を伝えることと押しつけることとは全然違うねや、て、あいつに教えてやってくれ、て言われて」
――何でもかんでも自分ひとりでできる思たら大間違いやぞ、ハル。
河瀬さんの唇を通した言葉は、わたしの胸の中にシンさんの声で響いた。
じいん、と胸に熱いものが染みる。
判ってる、判ってるよシンさん……判ってるん、だけど。
「俺、最初に東京の話した時、もし千晴が行ってほしくない、て言うてくれたら、社長に直談判しようと思ってて」
「え……え?」
意外なことを言われて、わたしは面食らう。そんなこと……困る。
「そ、そんな重大なこと、わたしなんかの意見で決められても」
「千晴の気持ちは、俺にとって相当重大やけど。それに俺かて、千晴と距離開くのは嫌やし」
わたしは芯から困惑してしまい、当たり前みたいな顔をしている相手の目を見返した。
「そらさ、どないもならんことやったらしゃあないよ。けどこれ、必然やないもん。別に俺営業ちゃうねんし、事務所できたからって向こうにおらなあかん理由無いんちゃう? 今かて別に、東京の会社から依頼されたら、向こうまで打ち合わせに行ったりしてんねんから、俺がどっちにおろうがおんなじことやん、それ」
「え、まあ……うん、それは、そう……かもしれないけど」
「うちの社長かたちから入る人やからな、東京にもカッチリひと揃い揃ってます、みたいな感じにしたいだけで、深く考えてはないんやろし……まあ悪い人ではないし頭固くもないから、ちゃんと筋通して話せば我に返るやろ、て」
河瀬さんはそう言うと、湯のみのお茶を口に含む。
「どうもできんことかてあるよ、そら。けどまず、どう思てんのか、どうしてほしいんか、そこを言うてくれな判らんし。言うてくれたらそれに合わして、できるところは何とかしようと思うもん。それは別に、無理してる訳でもしんどいことでもないよ」
そう……なの、かな、でも……まあ、確かに、言わなければ判らない、というのは、その通りだ。
「その辺は何言うか、擦り合わせやん? 俺がこうしたいと思てることと、千晴がこうしてほしいと思てること、ちゃんと付き合わして間取ったらええだけのことやん? そん時に例えば、それが千晴から見てやり過ぎとか、そんなに無理して嫌になられたらどうしようとか、感じることはあるかもしれんけど……俺からしたら、自分がええと思った範囲のことをやってるだけの話やねんから。しんどかったら言うよ、俺かて。で、俺がしんどい言うたら、それ以上を要求するような子やないやん、千晴は」
――俺の保証付きや。間違いない。
シンさんの声が耳元で聞こえたような気がした。
「世の中にはいろんな人間がおるから、互いの生き方や暮らしには一切干渉しない、自分のことは全部自分で決めて相手の意思は反映しない、そういうつきあい方かてあるやろと思うよ、そら。でも俺はそれ無理やねん。俺は相手を自分の人生の中に受け入れたいし、自分も相手の人生の一部でいたい」
真面目な声で続ける河瀬さんを、わたしはまじまじと見つめた。
「でも言うたらそれは、俺の勝手な希望やし俺のわがままやから。もし君がそんなんは要らん、自分の人生の中に入ってこんといて、言うならそれはしゃあないと思う。でも俺は多分、そういう相手とは続けられん」
河瀬さんは言葉を切ると、一度わたしを見る。
「で、俺の見立てでは、千晴はそういうタイプやないと思う。……違う?」
わたしは言葉もなく、ふるふると首を横に振った。……違わ、ない。
河瀬さんが微笑む。
「ん。……千晴はきちんと、丁寧に相手と関わっていこうとする子やと、俺は思てるよ。そやし、言うてな、ちゃんと。思てること、隠さんと。言うてくれたら、一緒に考えられるから。……判った?」
「……はい」
何と言うか、返す言葉が見つからない程きっちりと説得されて、わたしはただうなずいた。自分の中で、あれ程「言ってはいけない」ときつく思っていたことが、どれ程頑なことだったのか、急激に理解されて。
「ほんま、森谷さんの言う通りや」
と、不意に河瀬さんがそんなことを言って苦笑する。
「え?」
「森谷さん、言うてな……あいつにはあいつなりの理屈があって、自分が筋通らんと思うことは絶対に譲らん、とにかく頑固や、て。けど逆に言うたら、あいつん中できっちり筋さえ通っとったら、相当のことでもあいつはやりよるし理解する、そやしきっちり、理屈通して説明したってやってくれ、てさ」
「…………」
わたしは半口開けて、河瀬さんを見つめて――なんかもう、口惜しい。
自分のそういう性格が、がっちりシンさんに把握されているのが何とも口惜しく、でも考えてみたら、わたしがシンさんのことを判ってる、ということはその逆もしかりな訳で。でもやっぱり、シンさんの思う壷、になってる自分が、口惜しい。
「ああ、俺やっぱ、森谷さん羨ましいわ……俺もああなりたい」
「えええ」
そんなことを思っているところに河瀬さんが呟いた言葉に、わたしは思いきりのけぞってしまった。
「いや、それ、やめてください。わたしは今の河瀬さんがいいです」
必死に言うと、河瀬さんは不思議そうな、でもどこか嬉しそうな目でこちらを見る。
「そうなん?」
「はい。あんなんなっちゃ駄目です。今のままでいてください」
「あんなん、て……」
河瀬さんは苦笑まじりに、でもやたらに嬉しげに唇をほころばせた。
「今の俺のまんまで、いいの?」
微笑みながら手を伸ばしてきて、指の甲でそっと頬をなでられる。
その感触に、ぴくり、とこころを震わせながら、わたしは小さくうなずいた。
「……河瀬さんが、いいです」
小声で言うと、いきなり腕がまわされ、ぎゅっと抱き寄せられた。
「むっちゃ、嬉しい」
耳元で熱い息と一緒に囁かれて、ぐっと体が固くなる。
「俺も、千晴がいい。……全部、欲しい」
どくん、と心臓が動いた。
一瞬で大量の血がどっと顔に上がってくる。
頬に手をかけられ上向かされて、すぐ近くで目を覗き込まれた。
「髪の先から爪の先まで、全部欲しい。……あかん?」
わたしは息も、できなくなって――いや、いけなくはない、いけなくなんかない、けど……でも。
頭の中でいっぺんにいろんな言葉が渦巻いては消える。
「千晴」
「あ、あのっ……あの、それ、あの、いつ、ですか」
放っとくと今にも唇を塞がれそうだったのに、わたしは慌てて言った。
「今」
「え、ええっ……い、今⁉」
そして即座に返ってきた言葉に、仰天する。
「うん、今」
「え、いや、だって、その……今昼間だし、まだ明るいし」
「それ、何か問題なん?」
「大問題ですよ!」
自分の顔が真っ赤になっているのを感じながら、相手の腕の中でわたしは大真面目に反論した。だって……いくら何でも、今、って。
「なんで夜やったら良くて昼間やったらあかんの。理由が判らん」
「だ、だって……だって、明る、かったら……ものすごく、よく見えちゃうじゃ……ないですか」
我ながら身をよじってしまいそうになる程恥ずかしいことを言い返すと、河瀬さんは実にけろっとした顔をして、
「そしたら、目ぇつぶっときいよ」
とあっさり言った。
「え、て……いや、いやそれじゃ、意味ないから!」
もう、もうもう、ほんとに有り得ない。河瀬さんに見られるのが恥ずかしいんだから、わたしが目つぶってたってそれが何になるのよ!
「なんで」
「だってっ……だって、そっちには……見えるん、だからっ……」
「ああ」
そんなことか、て顔で河瀬さんはうなずいて――だから「ああ」って、何なのその返し、そっちが恥ずかしいのに決まってるじゃないの!
「そしたら別に、夜かておんなじことやで。だって俺、電気つけるもん」
「なっ……」
もう、顔中の水分が蒸発しそうなくらいに熱が上がってくるのを感じながら、わたしは絶句した。そんな……そんな、無茶苦茶な。
「な……なんでっ」
「見たいから」
「なん、で」
「いやソコをなんで、て言われたら結構困るけど……そら見たいやろ」
「べ、別にそんな、人様に見ていただく程の大層なものじゃないですっ」
すこぶる真剣に言っているのに、河瀬さんは吹き出した。
「別に俺、グラビアモデルみたいなスタイルやから見てみたい、言うてる訳やないもん。千晴のやから見たいんやん。体型関係ない」
「どう……して」
「どうして、てさ……」
河瀬さんは苦笑しながら、爪の先ですうっと、わたしの額の髪の生え際をなぜた。――目眩が、する。
「ほんま君、理屈やなぁ……全部見たいし、全部触れたいよ。隅から隅まで、全部自分のもんにしたい。かけらも残さんと、全部」
ぐっと喉が詰まって、熱と共に涙が目の裏に上がってきた。そんな、もう、どうしよう……恥ずかしくて……死にそうだ。
わたしは泣きそうになりながら、それでも必死で口を開いた。
「どう、して……?」
そう問うと、微苦笑を浮かべながら、相手はゆっくりとわたしを床に横たわらせた。
「……教えたるから、もう黙っとけ」
そして、唇が降ってきた。
「……お願いが、あんねんけど」
もう言葉さえ上手く出なくなっているところにいきなりそう言われ、わたしはきつくきつくつむっていた目を、うっすらと開いた。
すぐ近くに、河瀬さんの顔がある。
「な……に」
気を抜くとうわずってしまいそうな涙声で何とか聞くと、河瀬さんはこの状況にそぐわない生真面目な顔で口を開いた。
「その、河瀬さん、て、もうやめん? 下の名前で、呼んでえや」
「した……の?」
「ん。まさか覚えてへんとか、言わんよな」
「え、や……そんな、訳」
息を切らせながら言うと、河瀬さんはほっとした顔をした。
「良かった。いや、なんか、有り得そうな気ぃして……そしたら、呼んでみて」
「え……え、で、も……どう、呼ん……だら、いい……の?」
もう、なんか、ずるい。そっちは全然平気なんだろうけど、こっちは……それどころじゃ、ないのに。
「どうとでも。呼び捨てでも、さんとかくん付けでも、好きなようで」
「ええ……?」
呼び捨ては、さすがに無理……て言うかもう、その手止めてくれないと、まともにものなんか考えられないのに。
「他、の……っ、人、は……なん、て」
それでも懸命に聞くと、河瀬さんは首をひねった。
「んー、連れは基本、呼び捨てやけど……親も呼び捨てやったなぁ。姉ちゃんは、ちっさい頃はユウくんユウくん、言うてたけど、大人になってからはユウ、やった。けど、怒る時だけユウジ! てきっつい声で呼んでさ。おっかなかったなぁ、あれ」
耳元でくすくす、と笑う声の息にさえ、体が大きく震えて――ああもう、本当に……本当に、ずるい。
「優しいけど、気ぃきっついひとやったわ……」
わたしはついどうしてもぎゅうっとつぶってしまう目を開いて、河瀬さんを見た。
それを弾き返すように、こちらを見返される。
射抜くようなまなざしに、体の芯がふるり、と震えた。
口を開くと、勝手に熱い吐息が漏れる。
それを抑え抑え、何とか声にした。
「そし、たら……じゃ……っ、ユウ、さん……は?」
呑み込まれそうなまなざしを浮かべていた目が、ふうっと細まってやわらかくなる。
「ええよ。……呼んで」
そう言った癖に、同時に急に指の動きが早くなった。
そんなの、もうっ……口なんか、きけない、じゃないようっ。
「呼んでよ、千晴」
こっちの気も知らずになおもうながされ、仕方なく、必死で息を吸い込もうとして口を開くと、待ち構えていたみたいに一段と動きがきつくなる。
「あ、ちょっ……だめ、ユウさんっ……!」
片手で目元を覆うと、その手をぐい、と外され、真上から顔を覗き込まれた。
すぐ間近で、唇の端がきゅっと上がって、笑みをかたちづくるのが見える。
「――ぞくぞくする」
言葉と共に首筋に顔を埋められて、わたしは声にならない叫びを上げた。
――うっすら、目を開くと、もう部屋の中は陽が陰り始めていた。
ああ……。
ぼんやりと目をこすりながら起き上がると、わたしは頭を振る。
時計を見ると、四時をとうにまわっていた。
どれくらい、寝ちゃったんだろう……て、どれくらいまで続いてたのか判らないから、そんなの判る訳がないんだけど。
わたしは大きく肩で息をして、すぐ隣で眠っている河瀬さん――ユウさんを、見た。
ああ、なんか、もう……たまらなく、恥ずかしい。
一気に頬に血がのぼってくるのを感じながら、膝を抱える。それにしても、あちこちの関節が痛いし、喉も腫れてがさがさだ。
まあ喉は判る、散々泣いたから……体は腰の外骨の辺りとか、太ももの裏辺りとかが痛くて、それに何故だか、やたらと肩が痛い、というか、かちかちに固まっている。
生まれて初めての腕枕で寝違えたのか、とそろそろと首を動かしてはみたけど、どうもそういうことでもないようだ。やっぱりただ純粋に、凝っているだけみたい。
腕枕って、肩が凝るものなのか?
わたしは不思議に思いつつ、こちらに伸ばされたままの相手の腕を見た。
まあでも確かに、想像してたより楽というか、寝心地の良いものでもないなあ、腕枕って。あれはおそらく、ハリウッドの人達がやってるみたいに、ベッドのヘッドのとこに大量にふかふかの枕とかクッションとかを置いた状況でやって初めて、気持ちが良いものであって、日本の布団と枕でやるようなものじゃないんじゃなかろうか。
何事も経験だなあ……。
わたしは膝と片手で布団を抱えながら、腕を片方ずつぐるぐるとまわした。やっぱり凝っている。
「……どないしたん」
と、下から寝ぼけた声がして、わたしははっとそちらを見下ろした。
河瀬さん――ああ、やっぱりまだ「ユウさん」て言い辛い――が、軽く伸びをしながらこちらを見ている。
「あ、えと、あの……あの、肩が、凝って」
また急速に恥ずかしくなりながら、わたしは口ごもりつつかすれた声でそう言った。
「肩?」
怪訝そうに首を傾げながら、相手は起き上がり――いや、あの、まあ自分もなんだけど、まだ服も着てないんだから、そう無防備に動かれると目のやり場に非常に困るんだけど。
布団を抱え込んで胸を隠しながらわたしが目をそらしているのに、まるっきり無頓着な様子で、ユウさんは立て膝でわたしの背後にまわり込んだ。
「……うわ、ほんま、カチカチやん」
そして軽く肩に手をかけ、驚いたような声を上げる。
「ちょっと、揉んだるわ、これ……普通に座って」
いや、でも、普通に座ると胸が見えてしまうから、それは無理なんだけど。
布団を抱えたまま身動きできずにいると、ユウさんは「ああ」と小さく声を上げ、手を伸ばすと傍に放られた自分のTシャツを取った。
「ほら」
頭からかぶせられたそれを急いで着ると、襟ぐりがやたらと大きく、ユウさんが着ていれば単なる半袖Tシャツだったのが、五分丈くらいまで袖の先がきた。
その大きさに、相手にくるまれているようで胸がきゅうっとなる。
下半身は布団の中に入れたまま足を伸ばして座ると、ユウさんが肩に手を置いて、軽くさすった。
「かったいな……自分、力入れ過ぎや。ずうっと肩すくめとったし。緊張し過ぎ」
……そんなこと、言ったって。
ああそれでか、と理由が判ると急に恥ずかしくなった。でも……力抜くなんて、無理。
「まあ、しょっちゅうしてたらすぐ慣れるやろ。それまでは揉んだるわ」
と、ユウさんは実にさらっと空恐ろしいことを言って、裸の体にさっと自分の長袖のシャツを羽織って下着を履くと、わたしの肩に手を当てた。
何言って、と思わず言いかけたけれど、その手の動きに声が止まる。
――上手い。
ユウさんはまずゆっくりと、手の平全体でさするようにして肩から背中を、上から下までなで始めた。しばらくそうしていると、じんわりと首から背中全体があたたまってくる。
それからおもむろに、効くのか、と一瞬思う程の弱い力でやわやわと肩を揉み始める。
少しずつ力が強くなっていきながらも決して食い込むまでには強くはならず、それがあたたまった体にとろけるように気持ち良くて、眠気を誘われる程だ。
「すごい、気持ちいい」
思わず言うと、ユウさんが笑った。
「そやろ。昔おかんが入院しとった時、よう揉まされてなあ。それがもうえっらい手厳しくて、力加減ちょっと間違うと、そやないやろ! て叱られて。おかげで上達したわ」
「それは、厳しい……」
「ん。長いこと病気しとったのに、最後の最後まで精神的にへたる、ちゅうことがなかったひとやったなぁ……今思えば、それで結構、俺等助けられとったわ。当人が萎んでしもたら、俺等やりきれんかったと思うし」
わたしは背中でユウさんが話す声を、しみじみと聞いた。本当に、いいご両親に育てられたのだなあ。
「逢ってみたかったな、わたし」
思わず言うと、肩の手に一瞬、わずかに力が入る。
「……ありがとう」
そう言うと後ろから、ぎゅっと抱きしめられた。
交代でシャワーを浴びた後――「一緒に」とユウさんが言うのを丁重に辞退した――服を着替えて、夕飯の買い出しに行った。よく考えてみたら、お互い半日以上、まるっきり食べていなかったのだ。
「自分、体しんどいやろから俺がつくったる」
とユウさんが言い、冷蔵庫の食材を覗いて買い物にでかける。
一瞬大丈夫か、と思ったけれど、よく考えてみたら、相手はわたしより長いことひとり暮らしをしている訳で、スーパーでかごにひょいひょいと食材を放り込んでいく姿もいかにも手慣れていた。
帰ってきた後も、台所のどこに何があるかをひと通り聞いてからは「判らんことがあったら聞くから、自分座っとき」と言われ、こたつに押し込まれた。気にはなったが放っている内、ずいぶんといい匂いがしてきて、見る間に今まで忘れていた空腹を強く感じる。
やがてこたつの上にずらりと、ご飯に味噌汁、豚の生姜焼きに山盛りの千切りキャベツ、かぼちゃの煮物にほうれん草の胡麻和えと、実に完璧な日本の夕食が並んで、わたしは目を見張った。
更に、食べてみてますます驚く。
おいしい。ことに生姜焼きは、まさにわたしの好みど真ん中の味だった。
「おいしい、これ」
思わず言うと、ユウさんが嬉し気に笑う。
「そやろ。自分、外でよう食べるやん。その度に、ちょっと甘過ぎとか辛過ぎとか、生姜弱過ぎとか、いろいろ言うてたやん。あれで大体、こんくらいの味付けが好きなんやろな、て見当つけて」
その言葉に、わたしは目を丸くした。そんなの、覚えててくれたんだ。
嬉しい、と思うより先に感心した。だってそれで相手の好みの味を類推できる、というのがまずすごいし、更に頭で判ってたって、それを実際の味付けに反映させるってなかなかできることではない。
「料理……上手、なんですね」
言うと、ユウさんはにっと笑った。
「おかんが入院し出した頃から、姉貴に家事ひと通り仕込まれて。またあのひとも厳しかったからなぁ……むっちゃスパルタやったよ。おかげで最初はろくに米もまともに研げんかったのが、一年でどこに嫁に出しても恥ずかしない、て太鼓判押されたわ」
「いや、嫁って……」
しかし河瀬家の女性は、基本スパルタなんだなあ。
感心しつつ、わたしはすべてをきれいさっぱり、おいしく平らげた。
つくってもらった代わりに洗い物をしながら、ふっと時間が気になる。
八時半。
……何時まで、いてくれるかな。
そう思うと胸がまたもやりと暗くなった。
明日は遅出、つまりは昼からの出勤で……で、日曜日。
帰ら、ないで……ほしい、な。
そう思うと、心臓がとくんとくんと早く打ち始めた。
言える、かな……言って、大丈夫、かな。嫌がられたり、しない、かな。
勝手にどんどん、胸に不安が降り積もる。
わたしは手を止め、ゆっくり深呼吸した。
――まず、どう思てんのか、どうしてほしいんか、そこを言うてくれな判らんし。
先刻のユウさんの声が甦る。
そうだ、まず、言わなくちゃ。こうしたい、と思うことを言い続けて、それでもし、「それを言う」こと自体でわたしが嫌われるなら……そもそもそんな相手とは、どう頑張ったって長続きしないのだから、一日も早く嫌われた方がマシだ。
わたしは冷たく濡れた手で、ぱん、と頬を叩いた。
タオルで手を拭いて、居間に戻る。
ユウさんはこたつに入って、お茶を飲みながら新聞を読んでいた。
「ユウ、さん」
その斜め前に膝をついて座ると、不思議そうにこちらを見る。
「どうしたん?」
不意に息が詰まって、声が出なくなった。
ああ……どうしよう。
わたしは自分の不甲斐なさに泣きたくなりながら、必死で息を吸い込む。
「千晴?」
ユウさんが新聞を置いて、怪訝そうにわたしの顔を覗き込んだ。
わたしは上手く肺に入ってこない空気を、懸命に吸い込んだ。
「……あのね」
「うん?」
「あの……お願いが、あって」
「うん」
ああ、涙が出そうだ……。
わたしは何とか、もう少しだけ息を吸った。
「もし、もし……良かったら、でいいんだけど……用事があったら、別にいいんだけど」
「うん、なに?」
ユウさんは相変わらず、何のことだか判らない、という様子で、それでもすこぶる真面目に、なかなか進まないわたしの話に耳を傾けている。
その姿に助けられて、再度口を開いた。
「あの……明日ね、遅出で……だから、嫌じゃ、なければ……帰らないで」
ユウさんの動きが、止まった。
たちまち、わたしは泣きそうになる。
ああ、だめ、かな……。
ユウさんが目の前で、ゆっくり深呼吸した。
「――千晴」
呼ばれて、胸の不安の渦が更に強くなる。
するとユウさんは、両手でわたしの手を取った。
「言うてくれて、嬉しい。……でも」
ぎゅっ、と胸が詰まった。
ああ、でも、言えただけ進歩だよね。少なくとも言ったことで嫌がられてはいないもの、それだけで充分だ。
ユウさんが言葉を続ける。
「あの、俺……すっかり、今日も泊まる気でおってんけど」
――え?
一瞬、頭が空白になった。
「え……え?」
「いや、遅出や、てシフト見て判ってたし、明日日曜やし、何つうか、こう、泊まること前提みたいな気ぃでおってんけど……あ、ああ、なんかごめん」
わたしの顔色を見て、ユウさんは慌てて頭を下げた。
「もうお互いそのつもりやと、勝手に決め込んでて。そういや同意、取ってなかった。俺が頼まなあかんかってんよな、ほんまは。すまんすまん」
「…………」
わたしは半口開けて、ユウさんを見つめた。ほんっとに……もう本当に、どこまで関節外し仕掛けてくるんだこのひとは⁉
そう思ったら急におかしくなって、軽く吹き出してしまう。
それを見て、ユウさんも笑い出した。
「ここ誰んちやねん。図々しいなあ、俺」
そう言いながら、くつくつと笑って。ああ、ほんとにもう。
ほんとに……大好きだ。
「ああ、でも、ええなあ……なあ千晴、もっかい言うてよ、先刻の」
「え、えっ?」
「お願い、って。帰らないで、って。なんかもうたまらんわ、そんなん言われたら」
ユウさんはとろけそうな笑みを浮かべたと思うと、ぎゅうっとわたしを抱きしめた。
「もっかい言うて、千晴」
一瞬で顔にばっと血がのぼった。そんな、改まって言われても。
「言うて。聞きたい」
つい先刻まで、不安で口に出すのが難しかった言葉が、今は恥ずかしくて言い辛い。
それがたまらなく、幸福に感じられた。
わたしは抱きしめられている胸に、軽く自分の額をこすりつけた。
「……お願い、だから……帰らない、で」
ごく小声で言うと、腕の力がぐっと強くなる。
「――帰らへんよ」
そして言葉と共に、唇が塞がれた。
次の日わたしは、ユウさんと一緒に家を出て、その足で仕事に行った。
無心に仕事を片づけて、夜の十時をまわって職場を出、一瞬悩む。
うん、でも……やっぱり、行かなきゃだよね、シンさんち。
一昨日の今日で顔を出すのはかなり気恥ずかしいものがあったけれど、でもやはり、報告もお礼もしないといけないだろう。
自転車をこいでいくと、シンさんの家は工房側も家側も明かりがついていた。
長屋の脇に自転車を停めて、工房の扉を開く。
「おう」
テーブルの脇で中腰になって、何やらごたごたしたものを箱に放り込んでいたシンさんが顔を上げた。
「……こんばん、は」
その顔を見た瞬間に顔が赤くなるのを自覚しながら、小さく頭を下げて中に入る。
と、次の瞬間、
「あぁ、千晴ちゃん!」
と明るい声がして、家側の引き戸がからりと開いた。
「あ……あ、レイコ、さん」
赤のタータンチェックのパジャマ姿で、レイコさんは廊下に膝をついて座り、こちらを覗いている。
開いた襖の奥に布団が見え――ああ、もうレイコさん休んでたのか、悪いことした。
「すみません、遅くに。帰ります」
「あぁ、いいのよ別に。横になってただけだもの」
わたしが慌てて言うと、レイコさんははきはきとした声でそう言って手を振る。確かに、眠っていた様子ではない。
「仕事帰り? 遅くまで大変よねぇ」
「いえ、まあ、もう慣れたので」
話している内にいつの間にかシンさんがお茶を入れてくれていて、とん、とカップをテーブルの上に置いたので、わたしはまあいいか、と思い椅子に腰掛けた。
「そうそう、ユウジくんのつくってくれたパッケージ、あれ、すごく評判いいのよ。特に大皿包むのが人気で。ありがとう、て伝えといて」
「あ、はい」
わたしがうなずいていると、自分のコーヒーを持って腰掛けながら、シンさんが呆れたような顔でレイコさんを見た。
「なんでひとの彼氏を誰よりもいち早く自分が下の名前で呼んでんねんな」
そして、そう突っ込んだのに、確かに言われてみたらその通りだと気がつく。というか最初に引き合わせて、その後に店に連れていった時からもう名前呼びだったような気がするが、何せ相手がレイコさんなので、わたしは全く気にしていなかった。
「え? だって、そうしないと困るじゃない?」
廊下にぺたんと足を曲げて座って、レイコさんが可愛らしく小首を傾げた。って、何が?
「何が」
同じくシンさんも、訳が判らん、といった顔で聞き返す。
「だって将来的に、千晴ちゃんが『河瀬さん』になるか、ユウジくんが『篠崎さん』になるかもしれないじゃない? そうしたら困らない? だったら最初っから、名前で呼んどいた方が手っ取り早いかと思って」
「なっ……」
実にしゃらっとしたレイコさんの物言いに、わたしは一瞬で顔に血がのぼった。
「ちょ、ちょっとレイコさん、何言って」
「ああ……成程」
わたしが思いきり動揺しているのに、シンさんは大きくうなずく。
「俺、お前が言うてることがこんなに筋通ってると思ったん、生まれて初めてやわ。確かに、言う通りや」
「でしょ? 正しいよね、わたし」
いやレイコさん、そこはそんなに胸を張るような台詞じゃないよ、とわたしは思ったが、無論そんなことに頓着するレイコさんではなく。
「そうやなぁ。今度から俺もあの兄ちゃんのこと、名前で呼ぶわ」
「ちょっともう、シンさん!」
顔が真っ赤になっていることを自覚しつつわたしが声を上げると、シンさんが吹き出した。もう……もう本当に、このカップルときたら、もうっ。
「ああもうほんま……レイ、もう戻れや。冷えるで、そこ」
笑いを収めながらシンさんが言うと、レイコさんは素直に「はあい」とうなずき、「じゃ、おやすみ」と言って引き戸を閉めて奥へ消えた。
「……おやすみ、なさい」
わたしは小さく頭を下げ、すとんと椅子に座り直して、横でまだくつくつ笑っているシンさんをきっと睨んだ。
「もう、からかうのやめてよっ」
「いや、俺はともかく、レイの奴はあれ全然、からかってへんで。ストレート本気やで」
……確かに。
先刻の真顔のレイコさんを思い出し、何だかがっくりきた。ああもう、頼むからレイコさんそれ、ユウさんの前では言わないでよ、恥ずかしいから。
シンさんはコーヒーをずっとすすると、ふっと顔を引き締めてわたしを見た。
「――昼間、来たで」
「え、……え、そう、なの?」
誰が、と言われなくてもそれが誰のことだかは明白で……そう、なんだ。
「ん。礼言いに、とさ。そんなん要らんのに……ほんま律儀やな、あの兄ちゃん」
「……うん」
わたしは小さくうなずいて、飲めるくらいに冷めてきたお茶をひと口すすった。そっか、じゃ、報告するまでもなくちゃんと知ってるんだ、シンさん。
「俺、あの兄ちゃん見てたらレイコ思い出すねん」
と、カップを置いてシンさんが言った言葉に、わたしは驚いて顔を上げる。
「え?」
「前々から、思っててんけど……あの全然物怖じせんとことか、あほかと思う程やたら前向きなとことか、何度叩かれてもぜんっぜんめげへんで食いついてくるとことか……ちょっと、ダブる」
わたしは少し目を見開いてシンさんを見た。そう言われれば、確かにその辺、似てるかも、あの二人。初対面で即意気投合してたし。
「お前ほんま、ええのん見つけたで。……もう離すな」
その言葉に、胸の奥がほわっとあたたかくなる。離すな、というその言葉がすなわち、自分もレイコさんを離さない、だからお前も、と言われている気がして。
「うん。ありがとう、シンさん」
素直に頭を下げると、シンさんは照れ隠しか、大きく手を振ると立ち上がって台所にカップを下げに行ってしまう。
「ありがとう、シンさん」
その背中に、わたしはもう一度、大きく声をかけた。




