第九章(前)・君の傍に
それは十月も終わりに近い、そろそろ風もかなり肌寒くなってきた日の、ことだった。
思えばその前に逢った時から、相手の様子は少しおかしい気がした。何だかひどく、そわそわしているような。
別れ際には何度も何かを言いかけ、結局言い止めていた。何だろう、気にはなったけれど、次に逢う予定がたまたま二日後だったので、まあいいか、その時に聞けば、とそう簡単に思っていた。
そのデートの日は平日だけれどわたしは休みだった。だからわたしが地下鉄で烏丸御池まで仕事終わりの河瀬さんに逢いに出て、三条で夕ご飯を食べた後、ぶらぶらと室町通を四条まで歩いていた。
河瀬さんのアパートは北大路だったので、街中で逢う時は、大抵いつも、四条で別れた。そういう時は送ってもらわなくても大丈夫なように、京都駅までは自転車で行くようにしている。
その日もそうだったのだけれど、何故かその晩の河瀬さんは、このまま京都駅まで歩いて送る、と言い出した。
少しでも長く一緒にいたい、と思う自分としては嬉しかったけれど、いつもと違う相手の様子にもやりとした不安が胸に広がる。
歩いている間、河瀬さんはあまり喋らず、ただじいっとわたしの手をきつく握りしめていた。
京都駅に着いて、自転車は、と聞かれ、八条側に停めてある、と答えると、河瀬さんはJRの改札前のエスカレーターに乗って、南北を結ぶ通路に上がった。
エスカレーターを下りて通路に向かうのかと思ったら、更にその上、大階段に向かうエスカレーターに乗る。
「え、どうしたの……?」
手を引かれるままについて行きながら尋ねると、河瀬さんがちらりと、こちらを振り返った。
「……ちょっと、話」
声の低さに、胸の不安がまた大きく膨らむ。
河瀬さんは大階段の前を南へ横切ると、下へ向かう階段へは向かわず、左に折れた。そこはまさに改札の真上で、小さな広場のようになっていて、上から改札外の辺りが眺められるようになっている。
大階段にはちらほらと人が座っていたけれど、こちらには誰の人影も無かった。
河瀬さんは、改札前を覗ける展望空間への短い階段に腰を下ろすと、わたしの手を引いて座らせる。
「……どうしたん、ですか」
ひどく心細くなりながら聞くと、河瀬さんはわたしの手を自分の膝の上に置いて、ぽん、と軽く叩いた。
「落ちついて、聞いてな」
その言葉だけで、わたしはもう落ちつけなくなった。
「あのな……まだ先のことで、いつになるか全然判らん話やねんけど、もしかしたら俺、東京行くかもしれん」
「え?」
言われた言葉の意味が一瞬掴めず、わたしは眩しいものでも見るように目を細めた。とう、きょう?
「来年の二月に、ウチとことよその工芸系の店とで、東京に京都をテーマにしたアンテナショップ、出すことなってんねん。で、こないだ急に、せっかくやしこの際やから、一緒に東京事務所立ち上げよか、て社長が言い出して。事務所できたら、自分はそっち行ってもらうからな、て」
――東京の会社、行くから。
こんな時に何故だか、もう普段は全く思い出すこともなくなった、かつての恋人の言葉が頭に甦った。
あの時は……どうだったっけ、確か……ああそうだ、あの時は、それならそれでもいい、と思ったんだった。何せ就職が決まらず、相手が本当に苦しんでいるのを見ているのが辛くて、東京だっていい、そう思った。ただ、決めてしまう前に一言言ってほしかったのに、本人がいいと思ってのことなら反対なんてしないのに、と。
わたしは目の前のことから逃げ出すみたいに、昔のことを反芻していた。そうしないと自分がどうなってしまうのか、自分でも判らなくて。
「……千晴?」
わたしが黙ってしまったのをどう取ったのか、河瀬さんが心配気にわたしの顔を覗き込んだ。
「あの、まあ言うても現時点では、まだまるっきり、社長の頭の中だけの話やから。ただあのひと、思いついたら結構動き、早あて……何か来週、物件探しに行ってくる、言うてホテル取ってはって」
わたしは……あの時、ほんとにそんなこと、思ってたのか。
河瀬さんの言葉を殆ど右から左に聞き流して、わたしは過去の自分のことを考えていた。
決めてしまう前に言ってほしかった、そしたら反対なんかしなかった、なんて……今のわたしが本当に、あの時のわたしに真顔でそう言えるだろうか? 逆にあの時のわたしが今のわたしにそう言ったら、わたしはすぐに、うなずける?
わたしは……。
「ちはる」
不意に耳元で強い声で名前を呼ばれて、我に返った。
はっと見ると、わずかに苛立った目をして河瀬さんがこちらを見ている。
「まだ何にも決まってもない時点で言うのもどうかなと思ったけど、ほんまに話が本決まりになる前に、もしそうなったら千晴はどう思うんか、聞いときたいと思って」
「……え」
わたし、が……どう、思うか?
まさかそんなことを聞かれるとは思ってもみなくて、わたしは目を瞬いた。
だって、そんな。わたしがどう思うかどうかとか、そんなの関係、あるのだろうか。
だって、仕事なのだから。これから新しく決める就職先をどこにするとか、そういうレベルの話ではない。選択の余地なんか無い話なのに。
「あの、だって、仕事、だから……わたしがどう思ってようが、関係ないし……そんなこと言える、立場じゃないし」
ぼそぼそと言うと、河瀬さんの眉がぎゅっと寄った。
「――そう」
そして低く呟いた声は、今まで聞いたこともないような冷たい、そっけないもので、急に激しく心拍数が跳ね上がる。
「判った」
そう言うと河瀬さんは、唐突に立ち上がった。
怖い、その背の高いシルエットを見て、わたしは反射的に思った。ぶる、と勝手に肩が震える。
「ほな、おやすみ」
ぽつりと言うと、河瀬さんはわたしをそこに残したまま、くるりと身を翻して歩き去っていってしまう。
わたしはしばらく呆然と、その後ろ姿を見送っていた。
その日の晩は、眠れなかった。
夜にいつもの、電話はあった。けれどそれは、やはりひどくそっけなく――もうお風呂には入ったか、寒くなってきたから湯冷めしないよう気をつけて、そんな二言三言で、あっさり電話は切れた。
布団に入っても、目は冴えたままだった。
でも、だけど……どう、言えば良かったと、いうのだろう。
「行かないで」と言えば良かったのか。
でもそんなこと、言えない……言える、訳がない。
だってお仕事なんだから。決まったら行かなければ仕方がない。そこでわたしが泣いて「行かないで」と言ったところで、あのひとを困らせるだけだ。
わたしはあのひとを困らせたくない。困らせて嫌われてしまいたくはない。
それに、万が一……もしもだ、万に一つ、わたしが引き止めたせいであのひとが転勤を断ってしまったりしたら、下手をすれば首にもなりかねない。そんなこと到底、自分にはできない。
気持ちのままにものが言ってしまえればそれもいい。でも自分には、それは無理だ。
……増して「自分も行く」なんて、もっと言えない。
何せ自分は、働き出してまだ一年にもならないのだ。そんな自分が今から転職活動をしたところで、地元でもない場所でそうそう仕事が見つかるとは思えなかった。それに、基本余程のスキルでもなければ、転職すれば給料は下がるものだ。今の職場もそんなに高給という訳ではないけれど、ここの家賃がやたら安いので何とかなっているようなもので……東京って確か異様に家賃が高い筈だから、今より安い給料で今より高い家賃でひとり暮らし、なんて不可能だ。
でもそうすると、自動的に遠距離恋愛になる訳で、それは本当に自信が無い。仕事の都合も懐の都合もあるし、どんなに頑張ったって月一逢えたらいい方だろう。
今でさえもっと逢えたらいいのに、などと思っている自分が、それで我慢できるとは到底思えなかった。
もしそんなことになったら、逢って別れる時、どれ程辛いだろう。今でさえさみしくて切なくてたまらなくなるのに、そんなことになったら、きっとこころが、切り裂かれるような思いがするだろう。
それは想像しただけで本当に恐ろしく、最近はあまり思わなくなってきたことを、またふっと思う。……いつか落ちるなら、いっそ今、と。
ぎゅっと瞳を閉じると、歩き去っていった背中がまぶたの裏に浮かんだ。
――行かないで、その背にこころの中だけで呼びかけると、じわりと涙が浮いた。
次の約束は、四日後だった。
わたしはその間、本当に本当に頭を絞るようにして考え続けた。
一度シンさんの家にも行ったけれど、そこにはお腹のすっかり大きくなったレイコさんがいて、それで何にも、言えなくなった。ただ、目の前に確かにある幸せが眩しく、羨ましかった。
待ち合わせの場所に向かう間、胃の中に重い石が入ったようで、わずかに吐き気すらした。
その日の待ち合わせは京都駅前で、本屋に行きたい、という河瀬さんの買い物につきあった。その後に「何が食べたい」と聞かれて、ここ数日またも食欲が減退していたわたしは、「あまり食べられそうにないから、自分が食べなくても大丈夫そうなお店にして」と頼んだ。
河瀬さんはしばらくわたしを見つめた後、「自分もまだ食事はいい」と言って、ふらりと歩き出す。
その後についていくと、この間と同じ場所へと到着した。
やはりその場所には人気は無く、河瀬さんはこの前と同じように無言で小さな階段に座る。
わたしは少し躊躇してから、少し間を空けてその隣に座った。
しばらくは、どちらも無言で――ああ、胃が重たくて、痛い。
口を開けば、自分が何を言ってしまうか、見当もつかなくて怖かった。
黙っていると、座った腰の下辺りからしんしんと寒さが体に染み込んできた。ぐっと上がってくる寒気を、肩を抱いてこらえる。
「……寒いんか」
河瀬さんがぼそっと言ってカーキ色のコートを脱ぐと、ぱさりとわたしの肩にかけた。
「あ、いい、大丈夫……です」
わたしは慌てて、それを突き返した。けれど「いいから」と強く、押し返してくる。
その強い口調にそれ以上何も言えずに、わたしは諦めてコートを肩に羽織った。あたたかさがじんわりと染み込んでくるのに急に泣きたくなって、抱え込んだ膝の上に頬をこすりつけて我慢する。
隣で河瀬さんが、はっきり聞こえるようなため息をついた。
「千晴、俺に何か、言いたいこととか聞きたいこととか……ないん」
「え」
わたしはその言葉に、一瞬本当にきょとんと河瀬さんを見上げた。するとこちらをまともに見下ろす暗い目と目が合って、思わず顔をそむけてしまう。
「こないだの話、どうなったとか……聞きたく、ないん」
――聞きたく、ない。
わたしはこころの中で、ぐっと耳を塞いだ。
そんなことは……もうひとつだって、聞きたくない。
ぎゅっと下唇を噛んでいると、河瀬さんがまた、ため息をついた。
「……なんか俺もう、自信無いわ」
どきん、と心臓が音を立てる。
「千晴にとって、俺って何なん?」
みるみる内に心拍数が跳ね上がるのが自分で判る。ああ、どうしよう、息が苦しい。
「俺がどこに行こうが、逢えなかろうが、千晴は特に、関心ないん? 離れたところで平気なん?」
そんな訳、ない。
わたしは胸の中で大声で叫んだ。目の裏が一気に熱くなり、鼻の奥がつうんとした。
そんな訳ない、でも、だけど、だって仕方がない。「行かないで」なんてとても言えない。
「よう考えてみたら、千晴から逢いたいとか、あんまり言うてもうたことないし……いっつも俺ばっかり逢いたがって、俺ばっかり一緒にいたがって……今までは別にそれでも良かったけど、さすがにちょっと、これは……俺かて、きついわ」
ああ、どうしよう……自分がこのひとを、苦しめている。
その事実に、頭が混乱した。
言えば、良かったの……言うべき、だったの? でもわたし、一度言ってしまったらきっともう止められない、そして取り返しのつかないことに、なってしまう。増して相手がこの土地を去ってしまうかもしれない、今になって、とても言えない。
「こないだこの話した時、千晴、言うたやん? 自分は関係ない、自分はそんなん、言える立場やない、て。ほな千晴は一体、どういう立場のつもりでおんの?」
「え……?」
「千晴は俺に対して、どういう立場のつもりなん?」
わたしは言葉に窮して、河瀬さんを見上げた。立場って、それは……こいびと、だけれど。
「なんかな、まるで第三者でしかないねん、あれ聞いてたら」
わたしの答えを待たずに、河瀬さんは言った。
「あれ、かなりショックやったわ……そんで、俺って千晴にとって何なんやろなあ、て、あれからずっと、考えてて」
わたしは殆ど呆然として、こちらを見つめる河瀬さんの目を見返した。
だって、恋人、って、そういうものなの……? 恋人だったら、そんな風に相手の人生に踏み込んでいって、いいものなの? そんな権利や資格があるの? 恋人だったら相手に思うまま何を言ってもいいの?
「いつやか千晴、俺に嫌われたない、て言うてくれたやん? あれ、むっちゃ嬉しかってんけど……よう考えてみたら『俺に好いてほしい』、ではなかったよなぁ、それってもしかして、似てるようやけど、中身は全然、違うんかなあ、て」
だって……だってそんなこと、わたし言えない。
目の奥が熱くなって、目元が濡れた。
それは勿論、好きでいてほしい。もっともっと、好きになってほしい。
だけどそんなこと、言えない。
わたしみたいな人間は、せいぜいがとこ、「嫌わないで」レベルくらいしか望む資格が無い。大したこともないのに、「好いてほしい」なんてとても無理だ。
……ああ、わたしはやっぱりまだ病気だ、こころのどこかで思う。あんなにたくさん、いろいろ言ってもらえたのに、それでもまだ、こんなにも根深く自分は病んでいる。
きっとこれはもう治らないんじゃないか、絶望的に思った。
――もしほんとに君にそれを治す気が無いんなら、確かに君が言う通り、俺等離れた方がええんやと思うわ。
あの時の河瀬さんの言葉が甦って、体が震えた。
でも……本当に……そうなのかも。
だってどうせ、遠く遠く、離れてしまうのだ。それなら……それで、いいのかも。
「千晴はただ単に、俺に嫌われるのが嫌やった訳やなくて、自分の身近な人に嫌われることが嫌やっただけなんかなぁ、って。考え出したらそんな気ぃしてきて、なんか……むなしい、なってきて。俺の努力、何やったんやろうなぁ、って……むなしい、なって」
河瀬さんは頬杖をついてひどく憂鬱そうにそう言った。またずっしりと、胃が重くなる。
「もう……あかんわ。俺、しんどい」
河瀬さんはそう呟くと、自分の膝に顔をうずめてしまった。
心臓が口から飛び出しそうに、どくどくと鳴っている。
胸の中に真っ黒い雲がぱんぱんに張っていて、ひどく息苦しい。
どう……しよう。
こころの中は、真っ二つに割れていた。
このままその背に手を置いて、何もかも、思うこと全部、洗いざらい言ってしまう。この際後先なんか、考えない。言いたいことを、全部言う。
それから。
このまま……何も言わずに、終わりにする。
どちらももの凄い勢いで、自分のこころを引っ張っていた。どっちにも同じだけ、こころが惹かれた。
どう、しよう。
爆発寸前の導火線のように胸の中で火花が散って――と、顔を伏せたまま、河瀬さんがぽつりと、
「このまま、東京行ったら……もう俺等、あかんかな」
と言った。
石のように、こころが固まる。
――言え、ない。
一瞬でそちらに針がふれた。
河瀬さんはゆっくり顔を上げ、わたしの方を見た。
わたしは何も言えずに、ただその目を見返す。
自分が今どんな顔をしているのか、自分では見当もつかずにいると、やがてかすかなため息をついて河瀬さんが立ち上がった。
「……帰るわ」
その言葉に、わたしも慌てて立ち上がってコートを差し出す。
「あの、ありがとう。……ごめんなさい」
それは、自分としては「寒い思いをさせてごめんなさい」だったのだけれど、口にした瞬間、はっきり相手の顔色が変わった。
その意味がその瞬間には判らず、けれど河瀬さんの次の言葉に、はっと気がついた。
「ん……判った。……さよなら」
あ、と思う間もなく、河瀬さんは身を翻した。え、待って、今の……違う。
声を上げそうになって、わたしはぎりぎり、それを思いとどまった。
背中が遠くなっていく。
本当に……ほんとう、に?
さよなら。
本当に……?
手の中にわずかに残ったコートのぬくみが、一瞬で風に奪い去られていった。
その日の晩から、電話は鳴らなくなった。
わたしは毎日、抜け殻のように仕事をした。
まるで何にも、ものが考えられなかった。
食事もろくに喉を通らなくなり、ほんの一週間程で四キロは痩せた。
何かまともにものを考えようとすると、頭が拒否した。思考はすぐに停止してしまい、夜は真っ白な頭のまま、ただただ天井を見つめ続けた。
そして十日目、わたしは仕事帰りに、シンさんの家に立ち寄った。
あの日からずっと行かずにいたシンさんの家にどうしてその日は立ち寄ろうと思ったのか、正直自分でもよく判らなかった。
ただ、このままこうして行かない日が続いたら、シンさんにまた不審がられる、また余計な心配かけてしまう、そう思っていた。それから、この前に見たレイコさんの幸福そうな姿、あれがもう一度、見たいと思った。完璧な幸福がちゃんとこの世にある、自分には無くてもちゃんとこうしてある、だから世界は大丈夫だ、無性にそう思いたかった。
六時半に仕事が終わって、その足でシンさんの家へと向かう。
窓に灯った明かりを久々に見ると、ひどく泣きたくなった。ここずっと、感情という感情がすべてひからびてしまっていた自分に、それは恐ろしく苦しく感じられた。
駄目だ、気持ちを動かしては駄目……ひとつ扉が開くと全部開いて、何もかもがこぼれ落ちてしまう。だから何にも、考えてはだめ。
からり、と戸を開けると、机で作業をしていたシンさんが顔を上げた。
「おう、……どないした、お前」
そしてこちらを見た瞬間、ぐっと眉を寄せる。
「何やその顔、病気か……最近顔見んと思てたけど、どこぞ具合でも悪かったんか。どうしてんや」
矢継ぎ早に言いながら立ち上がって歩み寄ってくると、ひとの額に手を当てる。
額に触れたシンさんの手は、硬く、ざらざらしていた。仕事柄なのか皮が厚く、ところどころにたこもある。
そのざらっとした肌触りに、あのひとの柔らかな手の平を思い出した。
――駄目だ、いけない。またこころの蓋が開いてしまう。
わたしは慌てて、胸の内で自分をぐっと押さえつけた。もう何にも、感じたくないのに。
「……うん、ちょっとここんとこ、熱続いてて。風邪だったかも、でももう……平気」
「ほんまに治ったんか。病院行ったか」
疑り深そうにこちらを見るシンさんに、少し申し訳ない思いをしながら首を横に振る。
「ううん、でもほんと、もう大丈夫」
「どうもお前の『大丈夫』は信用ならんからなぁ……」
ぶつぶつと言いながら、お湯をわかす為か、台所へ向かうシンさんのその台詞にどきんとした。無論、シンさんが言っているのは純粋に体調についてのことだと判ってはいたけれど、こころの中のことを、言い当てられた気がして。
「大体や、そういう時は真っ最中に言うてこい。なんでお前、いっつも事後報告やねん」
やかんに水を入れながら声を上げるシンさんに、またどきりとした。ああ、そうだ、確かに……そうだ、事後報告だ。
終わってしまった、と。
果たしてそれを言えるだろうか、そう思いながらわたしは適当な椅子を引き寄せ、テーブルの前に腰掛けた。するとふっと、その上に散らばったチラシや雑誌の切り抜きに目がいく。あれ、これって。
「シンさんこれ、新居?」
何枚かを取り上げて見ながら声をかけると、コーヒーメーカーをセットしていたシンさんが顔だけ振り返った。
「ああ、そう」
「まだ決まらないの?」
「そう、それ、頼むわ今度、自分あいつにつきあったってくれや。もうこのままやったらいつまでたっても決まらんわ」
「なんで……?」
わたしはきょとんと、シンさんを見た。余程条件が厳しいのか、レイコさん。
「なんや間取り見始めたらおもろなったらしくて……あっちこっちの不動産屋行きたくって、またそこの連中とえらい仲良うなってもうて、向こうもあれやこれや持ってきよるもんやからキリが無うて。なんかもう、あれは自分の家探すっちゅう目的、完全に忘れてるんやないかと時々思うわ」
「いや、いくらレイコさんでもさすがにそこまでは……」
と呟きながらも、確かに散らばっている間取りを見ていると、広いことはやたら広いけどワンルーム、とか、間取り全体の形が三角形だったりとか、シンさんでなくても「自分遊んでんのか」と突っ込みたくなるような代物が散見している。レイコさん、もうお腹大きいんだから、いい加減早く落ちつき先確保しようよ。
「俺は正直、屋根あって風呂あってトイレあったら他は何でもええねん。場所はどこかてあいつが好きなようにしたらええと思うし……そやし今度、あいつの不動産巡り一緒したってくれよ。そんでもうお前がええと思うとこで決めさすわ」
「えええ、そんな」
そんな責任重大なこと、任されても困るよう。
わたしは途方に暮れつつ、チラシをめくった。シンさんってこういう時、本気で言ってるから困るんだよな。それをわたしに決めろってのは、シンさんが良くてもわたしが良くない。さすがにそれは無茶だ。
「かめへん、俺はほんま、寝られたらええねんから。任すわ」
コーヒーを片手に、もう一方の手にティーバッグを入れたわたしのカップを持ちながら、シンさんが目の前に座る。
「任さないでよそんなこと、もう」
自分のカップを受け取りながら、わたしはぼやいた。しかしほんとにレイコさんと来たら、全く。
鼻先にくすんと笑いが浮いてしまい、次の瞬間、自分で軽く、驚いた。
ああ、わたし……笑えた。
自分自身を完全に切り離した仕事の時の笑顔ではない、本物の笑いは久しぶりだった。
同時にまた胸の内に感情が逆流しそうになって、わたしは慌てて、それをぎゅっと押さえ込んだ。お願いだから、じっとしていて。
熱過ぎてまだ飲めないカップの縁を唇にただ当てながら、わたしは何とか、気持ちをそらそうと努力した。
「……大体、二人の新居なんだから、二人で決めなよ」
「それが決まらんから言うてんねやん。あいつ俺の話なんか、ぜんっぜん、聞いとらへんねんで」
「そうなの? でもなんか羨ましい、そういうのも」
たくさんの間取り図を見ているとそんな言葉がぽろっと出てしまい、シンさんが怪訝そうな目でわたしを見る。
「……どないした、お前」
ああ、いけない、こういうのってすぐ悟られてしまうんだ。わたしは慌てて、口元をきゅっと引き締める。
「ん、ううん、別に、そりゃだって羨ましいよ、二人で住むおうち、二人で探すとか」
「なんや、そしたら自分等かて一緒に住んだらええやん」
早口に言ってずっ、とお茶をすすると、シンさんがすすったお茶を吹いてしまいそうになることをあっさり言った。
「なっ……」
もう全然、まるっきりそんな状況ではないのに、その言葉に自動的にぶわっと顔に血がのぼってしまう。それをどう取ったのか、シンさんが唇の端ににやっと笑みを浮かべた。ああ、からかう体勢だ、これ。
「なんも問題ないやん、だって。向こう親いてないし、お前も別に親に伺い立てる必要も無いやろし。お互いひとり暮らしやねんから、やろ思たら明日にかて家見つけて、即同棲可能やん」
「ちょ、あのね、シンさん……」
「ああまあ、佐和さんの許可は要るかな。そやな、あのひとやったらまずケジメつけ、言いそうや。まあそしたらそれはそれでええんちゃう、籍入れたら」
「あ、あのねえシンさん、わたしまだ二十歳で」
「女の人って十六で結婚できんちゃうの。二十歳やったらもう四年分とうが立ってもうてるやん」
「とうが立つとか言わない! もうっ、もう、同棲とか結婚とか、そんなの有り得ないんだから……!」
「なんでえな」
「なんで、って、だって」
なんで、って、それは……わたしとあのひとが、もう……恋人ですら、ないからだ。
わたしはいきなり勢いを削がれて、浮き上がりかけていた腰をすとんと椅子に下ろした。
「おい?」
もう……逢うことすら、きっと、ないからだ。
一度頭のネジが飛んでしまったせいで、開き始めたこころの蓋を閉じることがどうしてもできなくなって――あ、ああ、なんかもう……駄目だ。
顔の熱が、じわりと目の裏に集中し始める。
もう……もう、もう、シンさんの莫迦。
ああ、だめだ……。
膝の上の手に、ぽたりと雫が落ちた。
シンさんが息を止める。
一度落ちてしまったものは引き戻すことができず、続けて二、三粒と膝を濡らした。
「――ハル?」
シンさんが探るような声で名を呼んで、ぐっと身を乗り出してくる。
どうしよう、止まらない……。
「ハル……どない、した」
わたしは答えられずに、うつむいたままぽたぽた涙をこぼし続けた。
ああ、でも……でもやっと、泣けた。
わたしはあの日から、一度も泣けなかったのだ。
泣くことすらできない程、こころが麻痺していた。
やっと流すことができた涙は何故だかひどく甘く、カラカラになったこころの皹に染み込みながらあふれていった。
「ハル」
もう一度、今度はかなり強めに、シンさんがわたしを呼んだ。
涙を止められないまま、それでも何とか、顔を上げると、シンさんがわたしを睨むようにして見ている。
「あの兄ちゃんと……なんぞ、あったんか」
答え、られない。
何にも言えずに、でもそれがシンさんには答えになったようで、一瞬ぎゅっと眉根を寄せるとざっと立ち上がって、テーブルの端に放ってあった携帯を握りしめた。
「――あの兄ちゃんのとこ、行ってくるわ」
「え、え?」
そのいきなりの発言に、わたしは飛び上がった。
「ちょ、ちょっとシンさん」
「お前が言わんねやったら向こうに聞くしかないやろ。――行ってくる」
「あ、あ、待ってシンさん、話す、話すから」
わたしは泡を食ってぶんぶん両手を振る。あまりのことに涙さえ引っ込んでしまった。いくら何でもシンさん、それ突進し過ぎ。
しぶしぶとテーブルに戻ってきたシンさんに、わたしはふう、と胸をなでおろした。もう……もうほんとに、この「叔父さん」は。
「わたしが、悪いの。あのひとは……何にも、悪くない」
そしてわたしは、ぽつぽつと話し始めた。
東京に行くかも、と言われた日からのことを全部話してしまうと、シンさんは難しそうな顔をして腕を組んだ。
「で、その、東京行きって……結局、どうなってん」
「知らない」
わたしはハンカチで目元と鼻の辺りを押さえながら、首を横に振る。話している間、またたくさん泣いてしまった。我ながら情けない。
「知らんってお前……」
「だってもう、終わっちゃったもの……あれから全然、連絡無いもの」
わたしはすん、と小さく鼻をすすった。
「それに、もし、東京行きがなくなったとしても……何か問題って、そこじゃない気がするし」
「まあ、なあ」
シンさんは腕組みしたまま天井を見上げる。
「まあ、でも、そらお前の気持ちも判らんでもないけどや……まあ確かになあ、そこで『関係ない』とか『立場やない』とか言われたら……そらきついで、男からしたら」
「でも」
目の奥がまた熱くなってくるのを感じながら、わたしは口を開いた。
「だってそれじゃ、恋人なら何言ったっていいの? 言ったら相手が困る、って、それ頭から判ってて、それでも言っていいの? 好きなこと好きなようにしちゃっていいもんなの? でもやっぱり、それって違うと思うし……それにわたし、一度言ったら、きっともう止められない。際限なく言っちゃって、きっと困らせる」
シンさんはどこか困ったような目でわたしを見ると、ふ、と息を漏らした。
「まあ……お前それは理屈やけどさ。理屈では……どないもならんことも、あるやろ」
「そんなこと、判らないよ」
わたしは何だかたまらなく情けない気持ちになってきて、すとんと肩を落とした。
「わたし、判らないよ、そんなこと。理屈で生きてきたもの、理屈じゃないことなんて、今更どう扱っていいのか……そういうのどう調整したらいいのか、自分では判らないもの。こっちは理屈でこっちでは理屈じゃなくて、なんて器用なこと、わたしできない。そんなの……判らない、もの」
「あー……」
シンさんは両手を頭の後ろで組むと、足を大きく組んで上を見上げた。
「不っ器用、やなぁ……」
口の奥で小さく呟くと、大きくため息をつく。
その言葉に一瞬むっ、としかけるが、でも確かに、シンさんの言う通りだ。もうちょっと融通というものが自分にあれば、もっとマシだったろうに。ゼロか百か、みたいな極端な端と端のことを自分は言ってる、それは薄々、判ってるのだ。
シンさんはカップの底に残っていたコーヒーをずっ、と飲み干すと、組んだ足を戻してまともにわたしの方を見た。
「――ハル」
呼ばれて、どきりと相手を見る。
シンさんは少しこちらに身を乗り出して、わたしを見ていた。
「俺、結構……おっかなかってん」
そして話し出された言葉に、わたしはきょとんとする。
おっかない……こわ、い?
何が?
「お前やから言うけど……レイに子供できた、言われて、あの後、俺……結構、おっかなかってんや」
わたしは思わず、息を呑んでシンさんを見つめた。
「まあつくっといてこういうこと言うたらあかんねやけど、ほんまに大丈夫なんか俺、て。まともに子育てとか家族とか、そういうこと自分に勤まるんか、どないなん、無理ちゃう、て、何度もそう思て」
思わずじいっと見ていると、シンさんはわずかに目をそらして、片手で短く立った髪をがさがさとひっかくようにかきまわした。
「そんでも……お前、言うたやろ、俺に。……大丈夫、て」
とくん、と心臓が動く。
「大丈夫や、自分が言うから間違いない、保証付きや、て……言うたやろ、お前」
わたしは言葉もなく、小さくうなずいた。だって本当に大丈夫だもの、シンさん、絶対。
「あれなあ、結構、有り難かって……ああそなんや、て。俺には全然、そうは思えんかったけど、でもこいつが言うなら間違いない、こいつが言うなら確かや、こいつが言うなら信じられる、て……そう、思えてな」
……シンさん。
先刻までのものとは違う意味で泣きたくなって、わたしは膝の上の手をきゅっと握りしめた。
「あれから何度も何度も、あの言葉、思い出して……大丈夫や、て、その都度自分に、言い聞かして。何せこいつが言うてるんや、絶対大丈夫や、て」
「……うん」
わたしは強く、うなずいてみせた。ああ……嬉しい。
一体どうして、今この話になったのかは判らなかったけれど、シンさんが自分に寄せてくれる手放しの信頼がたまらなく嬉しかった。
「そやしお前も、俺を信じろ」
と、不意にいきなりそう言われて、面食らう。
「えっ?」
「お前は、大丈夫や」
真顔で正面から言われた言葉に、わたしは軽く、目を見開いた。
「俺は、お前を知ってる。お前って人間を、ちゃんと判ってる。その俺が言うねやから間違いない、信じろ。……お前は、大丈夫や」
「……何、が?」
「お前は一度寄っかかったくらいで根元から折れるような、そんなやわな人間やない」
とん、と胸を真正面から突かれたような衝撃が来て、わたしはわずかに、たじろいだ。
「俺はずっと、お前を見てきて判ってる。お前は何ちゅうか、ものすご弁えた奴や。その年でそんな、おっさんみたいな分別身につけてどないする、て時々こっちがいらっとするくらい。お前は自分の分っちゅうもんを弁えてる。……そやし、大丈夫や、心配ない」
……そこはせめて言うなら「おっさん」ではなく「おばさん」ではないのか、一瞬そんな思いが頭をよぎった。が、目の前のシンさんの顔が全くからかっている様子ではないのに、わたしは口をはさまず、ただその言葉を聞いていた。
「多分お前が、際限なくなると自分で思うくらいまで言い切って、世間レベルではまだ序の口や。お前ハードル、手前過ぎんねん。そんなに入口んとこで塞き止めてんと、全部出してまえ。そんでも多分、相手からしたら物足りんレベルやと俺は思うで」
シンさんに言われた言葉があまりにも予想外で、わたしは困惑した。だって、そんなの、本当……に?
「なんだかんだ言うてお前はほんま弁えてるさかい、多分自分でがっつり言うたつもりでも、お前が思うように相手困らせたりはせんよ。どんなに言いたいこと言うても、お前は勝手に、自分で自分にちゃんとブレーキ、かけてる筈や」
シンさんはぐい、とわたしの目の前につきつけた指を、軽く振ってみせる。
「ほんまのほんまに相手を困らすような、まずいところに追い込むようなわがままなんか、どんなけ言いたいように言うてもお前は絶対、言う奴やない。そもそもお前は、そんなわがまま、思いつくような人間やない」
本当、に……本当に、そう……なの?
言葉には出せなかったけれど表情から読み取ったのか、シンさんは力強くうなずいてみせた。
「俺の保証付きや。間違いない」
……シンさん。
また、目の裏がじわりと熱くなった。
そうなの、かなぁ。わたし本当に、大丈夫、なのかな。
言いたいことを全部言って、それで本当に……大丈夫、なのかな。
何もかもぶちまける、そう考えると胸の中にあの黒い不安が渦巻いた。
けれど。
――お前は、大丈夫や。
シンさんが、言うなら。わたしは自分のことは信じられないけど、シンさんのことなら信じられる。そのシンさんが言うのだから、自分は本当に、大丈夫なのかも、しれない。
……だけど、そもそも今更そんなことを言っても、自分とあのひととはもう、終わってしまったのに。
ふっとそこに思いが至って、わたしのこころはまた深く沈んだ。
「そやし、連絡せえよ」
そこにいきなりそう言われて、胸がずくん、と痛む。
「も一度逢うてこいよ。そんで全部、ぶちまけてきいよ」
肺の中の空気を細く吐き出して、わたしはシンさんを見た。
わたしの目を見て、シンさんは口をつぐむ。
「……無理、だよ」
じわり、と浮かぶ涙を止められないまま、わたしは言った。
「無理、だって、そんな……だってあんな顔、見たことなかったもの。あのひとのあんな顔、あんな……声、今まで……あんな、冷たい……あんなの、見ちゃったら……わたし、もう無理」
ほろほろ、と涙が頬をつたい落ちると、シンさんが心底困り切った顔をして、椅子の背に大きくもたれて顔をそむける。
「あああ、もう……」
声に出してため息をつきながら、ぐしゃぐしゃ、と自分の髪をかきまわしたと思うと、いきなり立ち上がって、
「――飲むで」
と一言、言った。
「え、えっ?」
頬に涙をつたわらせたまま見上げると、シンさんがちらっとこちらを睨むように見返す。
「お前明日、仕事か」
「え、ううん、休み」
そういえば明日は土曜だけど、休みなんだった。もともとは、逢えていた筈の日。
ちくん、とこころが痛んだのもつかの間、いきなりばん、と肩をきつく叩かれ、わたしは前につんのめった。
「なっ……」
「ほな、がっつり飲ますで。つきあえ」
そう言うとシンさんはわたしの腕を掴んで立ち上がらせ、家の方へと引っ張り込んだ。
こたつに押し込まれて待っていると、シンさんは土鍋に湯豆腐をつくって、それからあれこれと他にお酒のつまみになりそうなものを並べて、最後にどん、と一升瓶を卓の端に置いた。
一升瓶から直におちょこにお酒を注がれ、勧められるままに飲み始める。
最近殆どまともなものを食べていなかった胃の腑に、じいん、と痺れるようにアルコールが染みた。
「飲んでばっかいんなよ、ちゃんと食いながら飲めよ」
「はあい……」
熱々の湯豆腐を息で冷ましながら、レイコさんご推薦の旭ポンズで、はふ、と口に放り込むと、胃から体の全体に暖かさが広がっていくのが判った。
「おいしい」
つい呟くと、湯気の向こうでシンさんがふっと微笑む。
ああ、食べ物がおいしいと思うなんて……何日、ぶりだろう。
五臓六腑に染み渡る、をまさに実感として感じながら、わたしはひとりごちた。
ものの味を味わっていると、何だかやっと、人間らしい感覚が戻ってきた気がする。
あれこれとつまみながら差しつ差されつ、他愛無い世間話をしながらしばらく飲み続け、酔いがまわってくる内、やっぱり話は今度のことに戻った。
「そもそも、ついてく、て選択肢は無かったんか、お前は」
「え、だってそれ、無理だよ。今のご時世、ただでさえ仕事無いのに、一年も勤めずに辞めた人間なんか誰も雇ってくれないよ」
「うーん、ま、そらそやけど……」
「大体、東京ってすっごい家賃高いんでしょ? 生活費なんか、むちゃむちゃかかっちゃうんでしょ? わたし、今の給料より安くなって、今の家賃より高くなったら、もうやってけないよ。貯金もできないよ、それじゃ」
「え、いや?」
真面目に主張していると、シンさんが何故かえらく怪訝そうな顔をした。
「いや、まあ、俺も東京の家賃の相場なんか知らんけど……けど、二人で折半したらそこまできついこともないんちゃうの」
「……え?」
口元に運びかけていたおちょこを止めて、わたしはシンさんを見た。
シンさんもどこかきょとんとした顔でわたしを見ている。
え、折半、て、なんで?
「え、え……え、それ、……一緒に、住むってこと?」
「他に何が!」
「えええええ」
わたしは思わず、体ごと引いてしまい――おちょこからわずかに、お酒がこぼれる。
「いや、えー、て、こっちが驚くわ! ほな何か、お前わざわざ東京くんだりまで行って、別々に暮らす気でおったんか」
「だ、だって……だって、一緒、って、そういうの、どうかと……」
わたしは酒の酔いと言うより動揺で呂律がまわらなくなった舌で、言葉にならない声を上げた。
「いや、どう考えたかて普通同居やろ、そこは」
「えええ、だって、そんな、一緒とかって、そんなの困る」
「なんで」
「だっ……て」
ぶわっと頬に血がのぼってきて、わたしは口ごもった。それを見たシンさんが、あ、という表情を一瞬浮かべる。
あっ……何か今図らずも、わたし、とんでもないことをカミングアウトしてしまったような気がする。あああ、もう、恥ずかしい。
「……なんか俺、急にあの兄ちゃん、えらい気の毒になってきたわ」
シンさんはぼそっと呟くと、手酌で自分のおちょこに酒を注いだ。
「そんな、もうっ……」
わたしは顔がみるみるほてっていくのを止められないまま、半分やけになって、くい、と自分のおちょこをあおった。
「いやそれ、天然記念物並に貴重な逸材やで……やっぱ連絡せえよ、勿体ない」
わたしはわずかに涙ぐんだ目で無言でシンさんを睨むと、その手から一升瓶を奪い取って自分のおちょこに注ぎ込んだ。
「ハル」
「……もういいよ、その話」
我ながら愛想の無い声で言うと、シンさんは黙った。
わたしは何だかたまらなくなってきて、立て続けにおちょこをあおった。
その後の、記憶が無い。
――ふ、と気がつくと、布団の中にいた。
あ、れ……?
薄目を開くと、もうまわりはすっかり明るい。
あれ、もしかして、シンさんち? わたし、寝ちゃったの?
まだ体は重たく、動かす気にならないまま目だけをぐるりと巡らせる。あれ、いや、違う……ここ、シンさんちじゃない。
ここ、うちだ。
わたしはぱちり、と目を見開いた。
自分のうちの、自分の布団の中。
え、もしかして、シンさん、運んでくれたのか? それとも記憶が無いだけで、自力で帰宅したのか?
実のところ、お酒で記憶をなくしたことは、さすがのわたしも今まで一度もなかった。だから人からそういう話を聞いても、「そんなこと口では言うけど、ほんとは覚えてるのに、ばつが悪くてごまかしてるんじゃないのか」と内心思っていた。けれど、いざ自分がそうなってみると、本当にぱっつんと、シンさんの家で飲んでいた途中からの記憶が全然無い。
お酒って怖いな……。
そんなことを思いつつ、わたしはむっくりと身を起こした。喉が渇いていたしシャワーも浴びたい。
まず布団をあげよう、と体をまわして、その瞬間に全身が固まった。
え……え?
目の前に見えているものが理解できず、わたしは何度も瞬く。
あ、もしかして、これ……夢、なの?
そんなことを思い、ぎゅっと手の甲をつねってみた。――痛い。
いや、でも、つい今古典的な試し方をしたけど、よく考えてみたら、わたし結構、夢の中で痛かったり、もの食べておいしかったり、するよなぁ。じゃやっぱり、これ……夢、なんだ、きっと。
だってこんなこと、ある筈がない。
このひとがここに、いる訳がない。
部屋の片隅に、倒した座椅子を敷き布団代わりにして、河瀬さんが眠っていた。




