第八章(後)・不安という病
疎水を渡って少し南に下がったところを路地に入っていくと、河瀬さんは閑静な住宅街の中の古い町屋にわたしを引っ張り込んだ。
え、ここ、人の家じゃないの、と一瞬思ったが、入口の端に小さな看板が置いてある。けれど見た感じは、どう見てもただの古い日本家屋だ。
立て付けの微妙な引き戸をがらがら、と開けると、中から「いらっしゃいませ」という女性の声がした。ああ、やっぱりお店なんだ。
「どうぞ。あ、あれ、河瀬くん」
中から顔を出したのは、物腰の柔らかそうな、ふんわかした頬をした中年の小柄な女性。え、知り合い?
「どうも、ご無沙汰してます。……こっち、いいですか」
土間で靴を脱ぎながら、河瀬さんは右手の部屋の方を指した。
「ええ、どちらでも」
「すんませんけど、ちょっと立て切らしてもうてもええですか」
「え、いいけど、どうしたの」
女性は不思議そうに言いながら首を巡らし、河瀬さんの後ろで立ち尽くしているわたしに目を向け、「あら」といった感じで目を見開く。
「ちょっと、込み入った話」
河瀬さんはちらっと笑って、わたしに目をやる。するといかにも心得た、といった感じで女性は大きくうなずいた。
「了解。そしたら、お茶出す時には、外から声かけるから」
「おおきに」
河瀬さんは頭を下げて中に上がると、わたしを手でうながした。小さく頭を下げると、わたしも後へ続く。
玄関の正面は階段が左に向かって伸びていて、一階の左右にそれぞれ、部屋がある。見える範囲内では、お客さんは誰もいない。
河瀬さんがこっち、と手招いたのは玄関右の小さな板張りの床の部屋で、丸いちゃぶ台に座布団、部屋の隅には褪せた抹茶色の陶器の一輪挿しに、桔梗が飾られている。
気持ちが落ちついていれば、多分、素敵だ、と楽しめたのだろうけど、今のわたしにはその余裕もなかった。
河瀬さんはメニューを見て冷茶を頼み、あまりものが考えられず、わたしもそれに合わせる。
注文を伝えると河瀬さんは部屋の障子を閉め、すとん、とあぐらをかいた。
「――さて」
小さく言うと、こちらを見て微笑む。
わたしははっと緊張して、背筋を伸ばした。
ふっ、と河瀬さんは苦笑して、「足崩し。しんどいで」と言ってくれた。けれど、さすがにそうはできずに、わたしは頑なに正座のままでいた。
「しゃあないなあ、もう……」
河瀬さんは苦笑いしながら顎をなでると、少し前に体を乗り出す。
「で……どないしたん、一体」
そう問われて、一瞬言葉を失う。どうしたの、て、だって判り切ってるじゃない、そんなこと。
「待たせてしまって、本当にごめんなさい」
とにかくその一言に尽きる言葉を言って、わたしは膝の上の手をぎゅっと握ると頭を深く下げた。
「ん。ええよ。……はい、これでこの話おしまい」
と、実にあっさりと相手はそう言い――え、えええ?
わたしは驚いて顔を上げた。だって、だってそんな。
「だって、そんな……わたし、あんなに待たせてしまって、それなのにそんな」
「俺は全っ然、気にしてない。それで? あと何か?」
「だっ……て」
わたしはぐっと言葉に詰まった。我ながらみるみる目の内に涙がたまってくるのが判り、狼狽する。
「だって……」
ああもう駄目だ、止められない。悪いのは自分なのに、こんなの駄目なのに。
どうしようもないまま、ぽろぽろ、とこぼれた涙が膝の上の拳に落ちる。
「ほんっまに……どないしてんな、もう」
河瀬さんは苦笑しながら手を伸ばすと、わたしの頭をくしゃくしゃ、となぜた。
「そないに恐縮するようなことちゃうやろ、ん?」
「だって……」
わたしはしゃくりあげながら、必死で言葉をつむいだ。
「だって、ちゃんと約束、したのに……時間、決めて、約束……したのに、守れ、なくて、たくさん、待たせて……そんなの、最低……なのに」
「うーん……」
河瀬さんは手を戻して自分の頭をかりかり、とかくと、よいしょ、ともう一度あぐらをかきなおした。
「言うても別に、炎天下や寒空ん中で延々待たされた訳でもないし。この時間の電車に乗らなまずいとか、そういう予定がある訳でなし、もしどうしても待ってられんかったら、呼びに行ったら良かっただけやねんから。別にそっちがそれ程気にするようなことでも」
「気にします!」
わたしはつい、声を上げてしまった。ああ、しかしどうして、悪い側の立場であるわたしがこんなにきりきりしているのか。我ながら理不尽な気がする。
「気に、します……だってこんなに、迷惑かけて、わがままな、ことして……こんなことしてたら、嫌がられても、仕方、ないのに」
声を抑えて言うと、またぽたぽた涙が出てきた。
「んー……」
河瀬さんが大きく腕を組んだのと同時に、外からほとほと、と障子を叩く音がした。
「河瀬さん、お茶入りましたよ」
先刻の女性の声がする。
河瀬さんは「あ、はい」と返事をすると、ちらりとこちらを見てから立ち上がって、障子を少しだけ開けてお茶を受け取った。
「おおきに。……すんません」
片手で拝むと障子を閉めて、それぞれのお茶が乗せられた小さな盆をちゃぶだいの上に乗せる。
気泡の多いガラスのグラスに入った、氷の浮かんだ濁った緑茶。その横に、小皿に小さなクッキーと一口大の琥珀羹が乗って、脇に黒文字が添えられている。
河瀬さんは一口飲んで、小さく「美味い」と口の奥で呟くと、座布団を引いてわたしの横に来て座り直した。
「……そしたらさ」
やさしい声で、河瀬さんがわたしの顔を覗き込む。
「そしたら、もしこれが逆やったら……千晴が待たされてる側やったら、自分どう思うの」
そしていきなりそう問われて、わたしは一瞬、ぽかんとなった。
……逆?
もう瞬間的に、答えが浮かぶ――全然、気にしない。
それは確かに、大丈夫かな、途中で何かあったのかな、という心配は間違いなくするだろう。けれど確認しに行って、ただ熱心に絵を見ているだけだと判れば、後は全然、気にしない。何時間だって待つだろう。
「約束、破ったからって……長いこと待たしたからって、俺んこと嫌なる? 迷惑な男やと思う? こいつ信頼できん、最低や、そう思うんか?」
わたしは言葉もなく、ただ首を横に振った。
「な? ほな、俺が全然気にしてないの、判るやろ」
「…………」
わたしは、まだほろほろと涙がこぼれ落ちる頬で、河瀬さんを見つめた。
でも……だけど。
こころの中で、ぐしゃぐしゃとした気持ちが暴れまくっている。
河瀬さんは、それはいいに決まってる。でも自分には、同じことは許されない。
論理としては破綻していることは判っているけど、感情はそう訴えていた。
他の人がわたしにするのはいい。でもわたしが同じことをしたら絶対に駄目だ。
わたしは自分でも無意識の内に、頭を横に振っていた。
「あのなあ……」
河瀬さんが呆れたように苦笑する。
「そしたら何か、千晴は俺のことを、彼女がたった一回、デート中に夢中で絵見てて時間忘れただけで腹立てて嫌いになって別れるような、そういう情の無い冷たい男やと思ってる訳?」
「……え」
また予想外のことを言われて、わたしは驚いた。やはりぶんぶんと、首を横に振る。
「でもそうやろ? なんぼ違う、言うても聞かへんねやから。俺のこと信じてない、そういうことやろ?」
「そうじゃ、ない……そうじゃない、違う、そうじゃ……ないのに」
わたしは必死で、首を強く横に振った。涙が玉になって、床の上に飛ぶ。
――お前、そんな俺のこと信じれんのんか。
不意に稲妻のように、昔シンさんがわたしに言った言葉が閃いた。
そうだ、あの時に、思った。わたしがいろんなことが怖いのは、わたしが相手を、信じていないからだと。相手の自分へのこころを、信じることができないからだと。
でも……違う。
あの時に自分の中で完全に納得できなかったことが、また甦った。
わたしはシンさんが自分を嫌わないことを知っている。そして今目の前にいるこのひとが、自分を本当に大事に想ってくれていることも、このひと自身が本当にいいひとだということも知っていて、信じている。
負があるのは、相手ではなくて、わたしの方だ。
その瞬間、頭の中で何かがかちっと嵌った気がした。そうだ、いけないのは……わたしの、方だ。
わたしは、相手を信じていないのではなく……自分を信じて、いないのだ。
自分に、価値があることを……誰かから大事にされる、愛される、そんな価値があることを、信じていない。わたしにはそんなものは無い。
だとしても、こうして大事だと言ってくれるひとがいるというのは、相手がわたしに対して何か勘違いをしているか、あるいはわたしが、努力をしたからだ。出来損ないの自分を、何とか外からはまともに見えるよう、壁を必死で積み上げたから。中身は空っぽなのに。
でもそんなものは所詮間に合わせに過ぎないから、ほんのわずかな失点もわたしには許されない。そんなことをしたら、今まで必死で積み上げてきたものすべてが、なしくずしになってしまう。
ミスが無いからこそまだ認めてもらえるものを、相手に余計な負担などかけてしまえばわたしはすべてを、一瞬で失う。他の人に許されても、同じことはわたしには許されない。相手がどれ程いい人であろうが関係ない。わたしにはもともと、価値が無いのだ。
……知らなかった。
殆ど呆然と、そう思う。
知らなかった、自分がここまで、根深く病んでいるなんて。
そうだ、これはどう考えても病気だ。それは自分ではっきり、判ってる……判っているのに、どうしたらいいのか判らない。
それは自分の中で厳然たる事実となってしまっていて、自力では到底覆すことができなかった。
「ああもう、ほんまに困った子ぉやなぁ、君は」
河瀬さんは軽く破顔しながら、あぐらをかいた片膝を立てて右腕を乗せ、左手でぐい、とわたしの頭を抱え込んだ。
頬をぐりぐりと、胸板に押しつけられる。
「ほんまに、どないしてんな……何が、そんなに怖い」
問われた言葉に、どくん、と胸が重たく揺らぐ。
「俺が、君の横にいるのは……そないに、しんどいか」
続いた言葉に、わたしははっと息を呑み――うん、そうだ、ああ、いやでも――違う。
頭が一気に混乱して、声も出なくなった。
――いつか消えるなら、いっそ今が。
ゆうべ考えたあれこれが、こころの中をさーっとよぎっていった。でも、だけど、離れたくないのに、でも。
「俺が、おらん方が……千晴は、楽か」
どうしよう、どうしたらいいんだろう……頭を縦にも横にも、振れない。
一度はおさまった涙がまたあふれてきて、押しつけられているシャツの上を濡らした。
河瀬さんがはっきり聞こえる程のため息をついて、手の平で髪をなでる。
「なあ、教えてえや……俺は、何したらいい? 何したら千晴は、楽になれんの?」
思わず見上げると、ちょうどこちらを覗き込んでいた河瀬さんの顔が驚く程近くにあって、肩が勝手にびくりと震えた。
「俺にできることやったら何でもするよ。そやし、言うて」
けれど相手は全く動じず、そのまなざしを深くこちらに射し込むように向けてくる。
わたしは浅く息をしながら、その瞳を濡れた目で見返した。
どうしたら、この苦しさが……楽に、なるのか?
ぐるり、と頭の中をひっくり返して考えてみる。でもそんなこと、答えはたったひとつで、だけどそれは、きっと無理なのだ。
わたしを、嫌わないで。わたしから離れていかないで。
そんなことは到底言えない。もし仮に言えたとして、それに相手が「うん」とうなずいてくれたからと言って、そんなことでこの不安が消えはしないことは目に見えている。だってわたしには、どうやったって、自分が相手に嫌われない、という確信なんて持てないのだから。だってわたしには、人に愛されるような価値など無いのだから。
わたしはぐっと胸が詰まるのを感じながら、小さく首を横に振った。
「千晴」
河瀬さんの声が、少し苛立ったように、かすかな怒気を含む。
「わたし……駄目なの」
わたしはそれに、懸命に訴えた。
「わたし、やっぱり、どうしても……おかしいの。だから河瀬さん、きっと……わたしから離れた方が、いいと思う」
あれだけ思う度に苦しかったことが、いざ声に出してみると案外すんなりと言えて、奇妙なことにこころがすうっと軽くなる感覚すら感じる。
けれど目の前の河瀬さんの顔は、その瞬間にぐっと歪んだ。
眉根がぎゅっと寄り、目が細くなって、頬骨とこめかみの辺りがぴくりとひきつって……ああ、怒ってる。
河瀬さんはその表情を浮かべたまま、一度大きく深呼吸した。
何を言われるのか、一瞬不安がよぎった。その唇が、ゆっくり開く。
「――ずるいわ、千晴」
押しつぶしたような、低い声。……えっ?
「千晴、ずるいわ、そうやって逃げんのか。俺に何にもチャンス与えんと、そうやって逃げ出すんか」
胸の奥がざわざわとざわついて、急に心臓が激しく動き出す。
ずる……い?
「それやったら、相手俺でも俺やなくても、自分関係ないってことか。自分がおかしいねやったら、相手が誰であっても、そうやって逃げ出すってことやろ。ほな俺は千晴にとって何やねな」
いつの間にか、先刻抱き寄せられた手からは力が抜けていて、わたしの体は自然と少し距離を置いて座っていた。
河瀬さんは、深くうつむいている。
「千晴にとって、相手が俺である意味なんか何も無いんか」
そこから、暗い呟きが聞こえた。ああ、どうしよう、そうじゃない、違うのに。
「違……う」
わたしは身を乗り出すようにして、必死に喉の奥から声を押し出した。ぽたぽた、と頬から顎をつたって涙が自分の膝の上に落ちる。
河瀬さんがわずかに顔を上げ、一瞬それを見て、顔をしかめた。
「ずるいわ、ほんま……そやったら俺ほんまどないしたらええの。俺は離れたないよ。けど君は離れた方がええ言うし。そんなら俺なんかどうでもええねや、思たらそうやって泣くし。俺八方塞がりやん」
わたしはぐっと、言葉に詰まった。ああそうだ、確かにこれでは、一体わたしは相手に何を求めているんだか……自分でも、訳が判らない、その通りだ。
何も言えずにいると、河瀬さんがため息をついて手を伸ばしてつん、とわたしの前髪を軽く引っ張り、くるくると指に巻いた。
「俺は千晴が好きやで。千晴は……違うんか」
ずくん、と胸の底がうずく。
「よう考えてみたら、ちゃんと言うてもうたことないわ……どうなん、なあ」
もう一度軽く、髪を引かれる。ああ、顔が上げられない。
「……好きやろ?」
どうしよう、泣きそうだ……。
涙を必死にこらえて小さくうなずくと、河瀬さんが少し身を乗り出し、下からぐっとこちらの顔を覗き込んだ。
「ちゃんと言うて」
「…………」
わたしは深く深く、息を吸い込んだ。言っていいの、本当に?
でも、どうしても……言いたい、それがわがままだと判っていて、こんな自分なんかからは離れていった方がずっといいのに、それが判っていて、でもどうしても言いたい。
「……好、き」
つっかえながら何とか声に出すと、河瀬さんの唇がふわりとほころんだ。
「で、も……」
それを目の前にしながら、どうしてもそれで言葉を終えることができなくて、わたしはつぶれそうな喉の奥から無理に声を押し出した。
「でも、わたし、なんか……人に好きでいてもらえるような、人間じゃ、ないし……そんな価値、わたしには、無いから……だから、無理……続かないと、思う」
何とか言い終えると、河瀬さんは一瞬、ものすごく不思議そうな、きょとんとした顔をしてわたしを見て、
「……なんで、そう思うん」
と、小声で聞いた。
「だっ、て」
どうして自分を、そんな風に思うのか。だって、それは。
わたしさえ、いなければ。
幼い頃からずっと烙印のようにこころに押されてきた言葉が、胸に浮かんだ。
どうしてうちはこうなんだろう、そう考え続けて、子供の自分なりに出した結論。
「わたしにそんな、価値があったら……わたしの親も、わたしを愛して、くれたと思う。でもわたしには、そんなもの無かったから……親にも愛されないような、無価値な人間が、他人に、愛される……訳が、ないもの」
「――――」
わたしを見ていた河瀬さんの目が、ゆっくりと、驚く程大きく見開かれた。
え、と思う間もなく、頬の辺りからじわじわと顔全体が赤く染まってきて、ぎゅっと結ばれた唇の端がぴくんとひきつって――怒って、る?
そう思った瞬間、すっ、と河瀬さんが息を吸い、不意にその拳が動いたと思うと、ガンッ、ともの凄い強さで壁を後ろ手に殴りつけた。
びく、と勝手にわたしの肩が震える。え、え?
相手のいきなりの怒りの噴出に息もできずにいると、とんとん、と外から障子を叩く音が聞こえてきた。
「河瀬くん? どうしたの、大丈夫?」
穏やかな声に、河瀬さんがはっとした顔でそちらを見た。
「あ、あっ……ああ、すんません、ちょっとぶつかってしもて……すんません、どうもないです」
「そう? ならいいけど」
声が遠ざかり、ふう、とはっきり息を吐いて、河瀬さんが肩を落とす。
ちら、とわたしの方に目を走らせて、どこか気の抜けた表情で微笑った。
「あかん、やってもたわ……古い家やのに、倒壊さすとこやった」
そこからは先刻の憤怒のいろは完全に消えていて、わたしもいつの間にかかちかちになっていた背中から力を抜いて、ふ、と息をつく。
「あー……」
河瀬さんは声を出して息を吐き出すと、壁を殴った手で髪をかきあげ、その壁にもたれて天井を見上げた。
「ああ、そうか、そなんか……君の根っこは、基本全部そこやねんな。そらそやな」
そしてぼやくように呟かれた言葉に、わたしはどきんとして河瀬さんを見る。
「そら……そうやな。そうなるわな。うん」
独り言のように言いながら、河瀬さんは一度うつむいて、それからわたしの方へ顔を向けた。
「あのなあ……ちゃんと説明したるから、落ちついて聞きいよ。そもそもなぁ、順番が、逆やねん」
「……じゅん、ばん?」
全く話が見えなくて、わたしはとまどって聞き返す。
「ん。あのな、人はな……それに価値があるから愛するんやないねん。愛するから……それに、価値が発生すんねんな」
わたしは河瀬さんの顔を見つめたまま、二、三度瞬いた。え、え……どういう、こと?
「あのな、ほら、例えば、よう男なんかで鉄道好きな奴とかおるやん。無くなった電車のヘッドマークとか、ものすごい値段つけて買う奴。あれなんか、典型やろ……好きやと思う人間がいるから、そこに価値がつくねん」
河瀬さんは人さし指を立てて、まるで先生のように話した。
「おんなじ物体でも、興味無い人間の前に置かれたら、それは無価値やろ。ええもんやから高い値段出して買え、言うても誰も買わんわな。まあ転売目的やなんかで買う奴はおるかもしらんけど、それはその物体そのものに価値を見い出してる訳やのうて、お金に価値を見い出してるに過ぎんし」
わたしは言葉もなく、語り続ける河瀬さんを見つめる。
「道端に落ちてるただのぴかぴかした石かて、それ見つけた子供にしたら宝やろ。好きに、なるから……愛するから、それが自分にとって大事で、価値があんねんな。愛される価値があるかどうかは、愛される側のものが決めることではないねん」
そう言うと河瀬さんは、ちょっと笑った。
「大体価値があるから愛されるんやったら、この世につきあってる相手に浮気されたりフラれたりする人間なんか、ひとりもおらんくなるわ。……そやろ?」
確かにそうだ。その通りなんだけど、でも。
「で、や」
わたしが何も言えずにいると、河瀬さんはそう言って、少し顔をしかめた。
「問題は、君んとこの親やねんけど」
そう話し出されて、急にぎゅっと胸が押しつぶされたように不安になる。何を、言われるのか。
「あのな、聞きたいねんけど……そやったら千晴、自分の親は、どんな人間やったら、愛してると思うの?」
「……え?」
が、あまりに思いも寄らないことを聞かれて、つい声が出た。あの人達が、誰かを愛する?
「千晴の親は、千晴の知ってる範囲で、誰かを愛してたことがある?」
「…………」
わたしはまじまじと河瀬さんの目を見つめ、それからゆっくり、首を振った。
あの人達は、誰も愛してない。
わたしのことは勿論、お互いのことも。そしてたくさんの外の女も、駆け落ちしようとしたどこかの男も。
「例えば相手がマザー・テレサみたいな聖人やったり、それかハリウッドスター並の美形とか、ものすごい芸術的才能の持ち主とか、アラブの石油王みたいなすごい財産持ちやったりしたら、自分の親は愛してると思う?」
……思わ、ない。
あの人達は……自分のこと以外、誰も愛してない。そしてきっとこれからも、誰ひとり愛さない。
わたしでなくても、あの人達は決して愛さない。
急に目の前がぱあっと開けたようで、わたしは呆然とした。
河瀬さんはどこか痛ましいものを見る顔で目を細めて、ほのかに微笑む。
「君にはほんまに可哀相で、運が無かったことやと思うけど……君の両親はどっちも、人を愛する、て能力を決定的に欠いてる人達やと、話聞いて俺は思った。せめてどっちかだけでもそれを持ってたらまだマシやったんやろうけど……ひとの血縁に向かってこういうこと言うのは失礼とは思うけど、ほんま……最悪やわ、その二人」
河瀬さんは最後の言葉を顔をしかめて、軽く吐き捨てるように言った。それからふとわたしを見て、あ、しまった、という顔をする。けれどわたしは、そうきつく言い捨ててもらった、それが逆に嬉しかった。
「まあ、とにかく……そやから君が親に愛されなかった、言うんは、ただ単に、君の親に誰も愛する能力が無かった、それだけのことやねん。そこにいるのは、君でも俺でも、他の誰であっても関係ない。どんな優れた人間が君の立場におっても、君の親はその相手のことを愛さんよ。……判る?」
わたしはこくん、とうなずいた。ああ良かった、といった感じで河瀬さんの顔にぱあっと笑みが広がる。
「そやから千晴は、そんな風に自分のことを考える必要、無いねん。俺にとって千晴は、この世で一番大事で、価値のある子ぉや」
そして河瀬さんはいきなりそんなことを言って、わたしの頭にぽんと手を乗せ、にこにこと笑って顔を覗き込んでくる。
「そやし、自信持て。ふんぞり返っとけ。……ええな?」
「…………」
そんなこと急に、言われても。
突然言われた言葉に、すっかり忘れていた涙がまた急激に復活してきた。
そんなことが、本当に……わたしに、許されるの?
「……また、泣く」
河瀬さんは苦笑を浮かべて、わたしをぐい、と抱き寄せた。
赤子をあやすように、ぽんぽん、と背中を叩く。
「まあずっと長いことそんな思いしてきてんから、そうそう簡単に変えられるもんでもないってことは判る、判るけどな」
そしてわたしの肩を掴んで引き離すと、すぐ傍から目を覗き込む。
「そやけどそれは、自分が変えな、どないもならんよ」
とくん、と胸の奥で心臓が音を立てた。
「俺は君が望むならどんなことでもする。物理的にできることなら何だってするし、こう言ってほしい、てことがあれば何でも言うたる。……けど、その君ん中からどぼどぼ出てくる、際限の無い不安を止めんのは……君にしか、できんことや。君が自分で止めな、他の誰にも止められん。俺にもどうもできん」
胸の中にもくもくとわき上がってきた不安の圧力が、一杯に高まってくる。これを、自分で?
そんなことが、本当にわたしにできる?
「君がそれを止める、て決めな、それは治らん。もし治さんかったら多分君はこの先ずうっと、そうやって俺の一言一言、一挙手一投足にびくびくして、萎縮して、傷ついて、しんどい、辛い思いを、するやろう。そんなん見てんのは、正直俺かってきつい。そやし……もしほんとに君にそれを治す気が無いんなら、確かに君が言う通り、俺等離れた方がええんやと思うわ」
わたしは思わず、息を呑んで河瀬さんを見つめた。ああ、どうしよう。
この不安を、捨てる。
それはある意味、別種の恐怖だった。
不安という盾無しで、相手に対峙する。それはもしも、万一相手に刺されたら、即致命傷に繋がる、そういうことだ。
断崖絶壁にかかった細い細い一本橋を、命綱無しで渡ること。
今度落ちたら、自分は完全に駄目になる。
知らぬ間に呼吸が浅くなって、目の中に水の膜が張った。
だって、でも、そんなこと言ったって……もしそんなことになったら、一体誰が守ってくれるの? わたしのこころは、わたし自身で守るしかないのに。わたしはもう、誰にも自分を、壊されたくないのに。
視界の向こうで、相手の顔がゆらゆらと揺れている。
ひどく真剣な、ひどく心配気なその顔。
壊されたくないなら……離れればいいのだ。
二度と落ちない為には、渡らなければいい。
そうなんだ、それが一番、楽な解決だ……けれど。
けれどそれで、わたしはこのひとを失う。
瞳の中がゆらめいて、頬を熱いものがつうっと伝った。
嫌だ、それは嫌、どうしても嫌だ、なくしたくない、でも。
わたしは殆どパニックを起こして、両の手で顔を覆った。
「千晴」
向かいから、河瀬さんの心配そうな、辛そうな声が聞こえる。
「頼むし、言うて。……何がそんなに怖い。俺にどうして欲しい」
どうしたら……いいの。
このひとと一緒にいながら、自分に怯えなくても済む方法。
わたしが、怖いのは。
「嫌わ、れるのが……怖、い」
涙で喉を詰まらせながらようよう言うと、河瀬さんがほっと息をつくのが聞こえた。
「わたしを……嫌いにならないで、ほしい」
「……ん」
くしゃくしゃ、と頭をかきまぜられたと思うと、顔を覆っていた手をいきなり取られて、目の前が不意に明るくなる。
驚いていると、河瀬さんが握ったわたしの両の手を引き寄せ、指に軽く口づけた。
「判った。……大丈夫、嫌わん」
そして実にあっさりと言われ、わたしはびっくりする。いやでも、そんなこと言われたって、それは今だけのことに過ぎなくて。
そう言おうとすると、河瀬さんは判ってる、と言うかのようにぎゅっ、と握った手に力を込めてわたしを黙らせた。
「それやったら俺は、大丈夫、て言い続ける。ちょっとでも不安になったり怖なったら、すぐに聞け。その都度毎回、大丈夫、言うたる。一日何回、聞いてくれてもいい。千回でも万回でも、聞いてくれていい。最初にそれは約束する、何回聞こうが、そのことで俺は絶対、君を嫌わん。必ず君の横にいて、一万回聞いたら一万回、大丈夫、て言い続ける。……そやし、絶対我慢だけはすな。自分の中に押し込んでしまわんと、何回でも聞き」
わたしは殆ど呆然として、目の前の河瀬さんを見つめた。
なんていう、ひとだろう……一体このひとは、何なんだろう。
相手の精神の強靭さ、その根の太さに、わたしは打ち砕かれる思いがした。
なんて、勁さだろう。勁くて、根太くて、がっしりと立っている。
そしてその時初めて、自分のこころの一番底に、わずかに曙光が射した気がした。
もしかして、このひとなら……このひとなら本当に、大丈夫、なのかもしれない。
このひとなら本当に、命綱無しの橋を渡り出しても、いいのかもしれない。
そんな風に感じたのは初めてだった。
「俺はそれを、千晴に約束する。そやし千晴も、俺に約束して」
もう一度わたしの手に口づけて、河瀬さんはわたしを見た。
「自分の中で、そやってぐるぐるまわってるもんを、自分で止めて。しんどいやろけど、頑張って。時間はいくら、かかってもいい。俺は待てる。そやし、頼むから……俺から、逃げ出さんといて」
わたしが見つめると、河瀬さんもじっと、こちらを見返した。
殆ど何にも考えられないまま、その目に吸い寄せられるようにわたしはうなずいていた。
河瀬さんの唇が、みるみるほころぶ。
「ありがとう」
そして体ごと引き寄せられ、きつく、抱きしめられた。
「……氷、溶けてもたな」
河瀬さんはぽつりとそう言うと苦笑して、すっかり汗をかいた自分のお茶のグラスをくい、と空けた。
「ここのお茶、美味いのに……悪いことしたわ」
その言葉に、わたしも自分のお盆に近づいてみる。氷が全部溶けてしまって、グラスの上の方に水がたまり、下に半透明のお茶が沈んで二層に分かれている。
そのまま一気に飲んでしまうのは勿体なくて、わたしは中身が混ざらないようにそうっとグラスを持ち上げ、唇を近づけて上澄みだけを吸い込んだ。
ぽたぽた、とグラスのまわりにびっしりついた水滴が落ちて、膝を濡らす。
上澄みの水を飲んでしまってから、ひと息にお茶の方を飲む。あ、本当だ、おいしい。
少しぬるくなってしまったそれは、意外な程に渋みのある、にも関わらず甘みも強い、その癖すっきりとした飲み口だった。
「でも、おいしい」
そう言うと河瀬さんが、にっこりと笑った。
「やろ? ここ昔、仕事関係の知り合いに教えてもうて、それからちょくちょく来るねん。……けど、人と一緒に来たんは、自分が初めてや」
そうなんだ、とわたしは微笑んでいる河瀬さんを改めて見た。何だかひどく、気恥ずかしい。
目を伏せてつまんだお菓子は、どちらもやっぱり、とてもおいしかった。
家に帰って夕飯を食べ、何となくテレビなどを見ている内に、気づくとわたしは、眠り込んでしまっていた。
――ふうっ、と意識が浮上して、まわりを目だけで見回すと、背が倒された座椅子の上で横になっているのが判った。体の上にはタオルケットがかけられている。
そのまま目を動かすと、座卓の向こうで、河瀬さんが何か熱心に手を動かしていた。
左手にペン、右手に黒の大きめの革の手帳のようなものを持っていて……確かあれ、先刻、美術館でも。
ゆっくりと体を起こすと、河瀬さんが顔を上げてこちらに微笑みかけた。
「よう寝とったな」
その言葉に時計を見るともう十時過ぎだった。確かに記憶がおぼろになった辺りから考えると、一時間以上は寝てしまっている。
「ごめんなさい……」
のたのたと起き上がって、座椅子の背もたれを起こすとわたしは座り直した。
「ええよ、今日結構歩いたし、疲れたんやろ」
言いながら河瀬さんはぱたんと手帳を閉じる。
「それ、何ですか」
指差すと、ちょっと慌てたように笑って、
「ん、まあ、言うたらネタ帳、かな。普段外歩いてたり、今日みたいに美術館行ったりした時、気になるもんとか仕事の参考になりそうなもんがあったら、すぐメモれる用に」
と答えた。
「そやし実言うと、俺美術館なんか行ったら、今日みたいに外には出んと、中でそのままメモ取ってること、結構多いねんな。メモしてる内にまた気になってきたもんとか、すぐ見に行けるし……何て言うか、あの雰囲気の中で書くのが、すごい集中できてええねん。そやから今日のことは、ほんま全然、気にすることなかってんで、自分」
「……うん」
わたしはこくん、とうなずいた。ああ、本当に良かった。
「どんなこと、書くんですか」
ふと気になって尋ねてみると、河瀬さんは何故だか、更に慌てた。
「いや、別にそんな、大したもんでも」
早口に言いながら最初の方のページをめくると、少しだけ何枚かこちらに見せてくれる。
「河瀬さん、それ……読めませんよ」
それを見てわたしは思わず、そう言ってしまった。ざっとしたラフスケッチのようなものが描かれていたり、その脇にメモが記されているのだけれど、それが見事なまでに崩れていて、まるっきり判読できない。ところどころ、これは「白」か?こっちは「右」か?くらいに、断片的に判断できる程度だ。
「ええねんて。自分用の覚え書きやねんから、俺が読めたらそんでええねん」
河瀬さんは軽く唇をとがらせ、そう言い返してくる。
「……まあ、それはそうだけど」
「あのな、言うとくけども、これほんま殴り書きやからな。そやし他人には読めんだけで、俺普通に書いたら普通に読める字書くからな」
「はあ……」
普通に書けば普通に読める字、て、それ当たり前な気がするんだけど。
と思っていると、何故だか河瀬さんはむきになって、
「ちょ待ってや、まともな字見したるから」
と立ち上がって、鞄の方に移動した。
「えっと、手帳……」
ぶつぶつ言いながら鞄をあさっているのに、わたしはちょっと、呆れてしまった。何もそこまでむきにならなくても。別にいいのに、字が下手なくらい。
そう思いながら座卓の上に目を戻すと、置きっ放しになっていた手帳が自然にめくれて、ページが開いている。
そこに描かれたものを見て、息が止まった。
耳元からすうっと音が遠ざかると同時に、その耳の裏辺りからじわっと顔全体が熱くなる。
「あった、ええと、ああ、これ、これ見たら判る……」
背後から声がしたと思うと、それがぴたりと止まり――「あ」と言ったと思うと、ばたばた、と河瀬さんがものすごい勢いで、卓の上の手帳を奪い取るように取り上げた。
わたしはそれを、自分でも真っ赤になっていることが容易に想像できる程に熱を帯びた顔で、ゆっくり見上げる。
「……見た?」
聞かれて、こっくりうなずくと、河瀬さんの顔も一瞬でかあっと赤くなった。
「いや、あの……あの、見てたら、可愛かったから、つい」
もう猛然と恥ずかしくなってきて、わたしは目を伏せた。まぶたの裏に焼きついてしまった、手帳にざっくりと描かれた、わたしの、寝顔。
「あ、ええと、あの……あの、風呂入ってくるわ、俺」
河瀬さんはものすごい早口で言うと、手帳を鞄の奥にぐいぐい、と押し込んで着替えを持って、さっと部屋を出ていってしまう。
ああ、もう……。
ひとり残されたわたしは、熱いため息をついて、肩の力を抜いた。ほんとにどれだけ、ひとの心臓をこき使うのか、河瀬さん。
ちらりと見ると、卓の上に何か書類のようなものが、畳まれて落ちている。
何だろう、と端をぺらっとめくって見ると、どうやら仕事関係の書類のようだった。何かの設計図が書かれていて、その横にあれこれと説明書きがある。
え、てことはこれが、「これ見たら判る」なのか?
わたしは思わず、それを手に取って開いて見てしまった。ええ、本当だ……上手い。
先刻の状況からして、そこに書かれた手書きの補足のようなメモは全部、河瀬さんのものだと推測されるのだけど、上手い、ものすごく。さらさらと綺麗な字で、読みやすい。
これが先刻のあの謎のアラビア文字崩れみたいなものと同一人物の手なのか……。
わたしは呆れてしまって、その紙と、先刻の手帳が押し込まれた鞄とを交互に見比べた。いやしかしそれいくら何でも、落差あり過ぎ。
見ていると何だかたまらなく可笑しくなってきて、わたしは軽く吹き出し、ひとりくすくすと笑い続けた。
……眠れ、ない。
布団に入って、わたしは途方に暮れた。
先刻中途半端に眠ってしまったのがよくなかったか、いざ布団に入っても、わたしは全然、寝つけなかった。もう三十分くらい、無意味に寝返りを繰り返している。
隣の河瀬さんは、もうずいぶん前に寝息を立て始めていた。
――駄目だ、これは。
しばらく寝返りをぱたぱたと打ってから、わたしは諦めてむくりと起き上がった。ちょっと、飲もう。そしたら、眠れるかも。
わたしは河瀬さんを起こさないように気をつけながら、布団を抜け出して台所へ向かった。
冷蔵庫の中を眺めて、奥の方から、前にもらった伯母の地元の白ワインを取り出す。ワインは辛かったり渋かったりするのが苦手で、その内シンさんちにでも持っていこうと思いながらずうっと忘れて、しまいっぱなしになっていたのだ。
スクリューキャップを開けると、氷を入れたグラスに注いでちょっとなめてみる。え、甘い。
口に含んでみたそれは、予想外にかなり甘かった。さっぱりした梅酒並だ。
へえ、ワインってこんなに、甘いのもあるんだ。なんだ、これおいしいよ。
わたしは安心して、とくとく、と注ぐとくいくいと飲み出した。ちょっとこれ、後で名前メモしておいて、その辺の酒屋さんで探してみよう。
二、三杯そうやって飲むと、お腹の辺りがふわっとあったかくなってくる。
いかんいかん、寝酒のつもりで始めたものが、つい本気飲みに移行しかけていた。目的が違うよ、わたし。
キャップを締め直すと、瓶を冷蔵庫に閉まって。うん、寝られそう。
安心して部屋に戻ると、布団をかぶって、ふう、と息をつき――と、
「……寝られへんのんか」
と隣から声がして、わたしは飛び上がった。
見ると、河瀬さんが顔だけこちらに向けて、薄目を開いてわたしを見ている。
「あ、うん、あの、先刻ちょっと寝ちゃったせいで、何となく」
「そっか……」
「あ、あの、ごめんなさい、起こして。もう寝られると思うから、そっちも」
「ん……」
目元をこすると、河瀬さんはごろり、と体ごとこっちを向いて、片手を伸ばしてきた。
「――おいで」
お酒の熱とは違う熱さが頬にふわっとのぼって、躊躇しながらもそうっと片手を上げると、いきなりその手首を掴まれ、ぐい、と引き寄せられた。
「あ、……」
腕の中に取り込まれたと思うと、唇が降ってきた。
ああ、もう、どう、しよう……息の根が、止まりそうだ。
「……あまい」
少し深く含んだ後に顔を離すと、河瀬さんがそう言って笑う。甘くて溶けそうなのは……こっち、だ。
「飲んだん? 夜中にだいどこで酒飲んで、て、それ立派なアル中予備軍やから。気ぃつけや」
すると、笑みを含んだ声でそうからかわれた。まあ言われてみたら、確かに。しかもわたし、立ち飲みだった。
「寝られるかなと、思って」
顔の熱さを押し隠して何とかそう言うと、河瀬さんはすぐ横にごろりと寝転がり、片手の肘をついて顔を支えて、くつくつと笑った。
「あんな、言うとくけど、寝酒ってかえってあかんねんで、寝るには」
「え……ええっ、そうなんですか?」
ものすごく意外なことを言われて、わたしは目をみはった。そんな、じゃなんで「寝酒」なんて単語がこの世にはあるのよ?
「うん。今時常識やで、それ」
「知らなかった、そうなんだ……え、なんでですか?」
「飲んで寝んのって、実は熟睡できんらしいよ。そやし直後は寝つけても、またすぐ目ぇ覚めたりとか」
「そうなんだ……どうしよう、えっと……吐いたら、いいのかな」
「いやそれやり過ぎ。冗談にならんから、それ」
自分としては至極真剣に言ったのだったが、即座にそう突っ込まれてしまう。でも、じゃどうしたらいいのか。
「じゃ、アルコールって、どう抜いたらいいんですか?」
「んー、そやなぁ。酵素で分解して排出する訳やし……体温上げて、汗出して、水たくさん飲んで、とか。あ、風呂、もっかい入ってみるとか?」
「うーん、でもこの時間にそれは」
「まあそうか。ああ、ごめん、そない気にせんでも寝られる思うし、一晩くらい多少寝不足かっても人間そうそう問題ないって。びびらせ過ぎたわ、悪い」
「はあ……」
とは言っても、寝られる寝られない、って気分の問題が結構強いので、一度「ああこれじゃ寝られないんだ」と意識してしまうと、ますます目が冴えてきてしまう。
「あああ、ほんまごめん。やり過ぎた。えっと……」
手で拝むようにして頭を傾けた河瀬さんが、不意にふっと微笑った。
「……そしたら、熱上げたるわ」
そう言ったかと思うと手が動いて、え、と思う間もなく、組み敷かれていた。
唇が塞がれる。
え、ちょっと……!
左手はぐっと手首のところで押さえ込まれていて、右手は深く、指を絡められる。のしかかられた、体が熱くて重い。
ちょっと、ちょっと待って、ちょっと……それは。
言葉もなくもがくと、相手の顔が離れた。
その前髪がわずかに、わたしの額に落ちかかっている。
ものすごく至近距離で瞳を覗き込まれて、唇の端がわずかに笑みを含む。
「ごめん、俺……スイッチ入ってしもたわ」
「え?」
聞き返す間もなく、また唇を奪われ――ちょっと待って、スイッチってそれ一体何の⁉
息が、できない……ああどうしようどうしよう……熱い。
「かわ、せ、さ……だめ、おねがい」
唇がわずかに離れる隙間に途切れ途切れに訴えながら、必死になってずり上がると、河瀬さんが動きを止めた。
ぷは、と水から上がった時みたいにわたしは息をついた。体中が、火がついたみたいにじんじんとほてっている。
「……体温上がった?」
不意に耳元で囁かれ、びくん、と全身が震えた。
くすっ、と笑い声が耳をかすめて――ああ、あああ、もう、ひどい。
頬から耳の裏の方に向かって更に血が集まって、目元にじんわり、涙がにじむ。
「も、うっ……」
力の抜けた相手の体をぐい、と押すと、寝返りを打ってそこから逃れた。河瀬さんはこっちの気も知らずに、まだくすくすと笑っている。
「も、信じられない……ひどい、もう」
「なんでえな。熱上げたったのに。大体ここで身ぃ引けるって、俺表彰もんやと思うで。全然ひどないで、これ」
「ひどいですよ!」
目尻の涙を拭いながらむくれると、河瀬さんはお腹を抱えて笑った。もう、ほんっとにひどい。
「もうっ、死ぬかと……思った」
「そこまで言う。この段階で死んでたら、後残りライフ幾つあっても足りんで」
「もういいですよ、ゲームオーバーで!」
やけになって言い返すと、河瀬さんは更に笑い転げた。
「もう、ほんま……ほんま自分、おもろい」
ううう、もう……もう、ひどい。あんまりだ、もう。
わたしはぎゅうっと唇を引き結ぶと、ぷい、とそっぽを向いた。
「ああ、ごめ……機嫌直せ、ほら」
まだ笑いながら、後ろから河瀬さんの手がくしゃくしゃ、と頭をなぜる。
もうっ……。
わたしは両の手をぎゅっと胸の前で握りしめながらも、頭をなでる手のあたたかさに、何だか違う種類の涙が目の奥ににじむのを感じた。
何かわたし、変だ……今、たまらなく、泣きたい。このあたたかい腕にぎゅうっと抱きしめてもらって、小さい子供みたいにただ思いっきり泣きたい。
ころん、と寝返りを打って腕の中に転がり込みたい気持ちを、わたしは懸命にこらえた。そんな風に甘えるのはやっぱり気がひけたし、それに今度こそ「スイッチ」が入りっ放しになられたら困る。
……困る、けど……いつかは、それも……アリ、なのかな。
ふっとそんな風に思って、そう思った自分自身にまた赤面する。
「そないに怒りなや、千晴」
と、まだ笑みを含んだ声が後ろからして、どきんと心臓が打った。
「なあ」
「もういいです。おやすみなさい」
わたしはさっと言うと、急いで自分の布団に戻った。
どうしても相手の側が向けなくて、反対方向を向いたまま布団をかぶる。
「……おやすみ」
背中から、くすっと笑う声がした。
二日間はあっという間に過ぎてしまって、ひとりになった部屋はひどくさみしく、広かった。
緊張感無く眠れるということには、ほっとした。けれど、やっぱり、どうしようもなくさみしい。
別れる時には、泣きそうになるのを我慢するのに必死だった。
――後少し。後五分、ううん、三分でいいから、一緒にいてほしい。
そう言いたくて、でも言えなかった。
それからもやっぱり、仕事の関係で、大体逢うのは週一、二ペース程度だった。でも本音を言うと、もっと逢いたい。逢えばできる限り長いこと、一緒にいたい。別れる時にはまだ帰ってほしくない、切実にそう思う。
けれどわたしは、そのどれもを口にすることができなかった。
聞けば何度でも大丈夫と言う、河瀬さんは確かにわたしにそう言ってくれたけれど、あれはすなわち、わたしが何か、相手にやらかしてしまったと思う時のことだ。つまりこの間みたいにわたしが無自覚に失敗してしまった時に、どうしよう、となったら確かに聞けると思う。けれどそれ以前にそもそも、自分は「これをしたら嫌われるかも」と事前に思ってしまっていることが、最初っからできないのだ。
わたしは月のシフト表を河瀬さんに渡してあって、大体週の始めか終わりに、相手が自分の仕事の都合と照らして、「この日はどう」と聞いてくる、というのが逢う日を決めるパターンだった。
勿論わたしにも、職場や学生時代の友達とのつきあいもある。そういう時は大抵、「その日はダメ」と言うと、「じゃこっち」と日を変えてくれた。けれど時には、「そしたら今週は無理」となる場合もあった。
基本わたしは、約束というのは先約順だと思っていて、河瀬さんがその日しか駄目でも先に友達と約束していればそちらを取った。だから逆に、それからはあまり友達とは約束ができなくなった。まず河瀬さんの予定を入れて、それから空いているところに友達、と、そういう順に。
とはいえ、卒業後にもつきあいのある学生時代の友人の殆どはサークルの同期の子、つまり大半がまだ学生だったので、わたしの不義理もそんなには目立たないものだった。けれど、自分がこんな風になってしまうとは今まで考えてみたこともなかったので、自分で驚いた。
こういう時期って、いつまで続くものなのだろうか。長くつきあって落ちつけば、こんなに逢いたくもなくなるのだろうか。
何度かそんな風に考えてもみたけれど、今の自分にそれは想像もできなかった。
もっと、逢いたい。もっと一緒にいてほしい。帰らないで……傍にいて、欲しい。
けれどそのどれも、実際には言えなかった。そんなわがままを言って、負担になるのが嫌で。
きっと言えば、河瀬さんはいくらだって無理をしてくれる、そう思えた。だから逆に、どうしても言えなかった。そんな風に相手の荷物になりたくなかった。
それに言ってしまえば、自分はきっと、際限がなくなる。
一度口にしてしまえば、自分はきっと、セーブが利かなくなる。もっともっと、と際限もなく欲しくなる。一度箍を外せば、もう元には戻せない。そんな確信もあった。
きっと、気持ちがあふれ出して、止められなくなる。
だから、言えない。
逢えば夢のように甘い時間を過ごしながら、わたしはどんどん、こころの奥に毒のように痛みを蓄積させていった。きっと時間が解決してくれるだろう、そう決め込んで見ないふりをした。
そんな風にして、自分達は四ヶ月目を迎え――
――そしてある日、唐突に終わった。




