第八章(前)・不安という病
八月の終わりに、シンさんとレイコさんはめでたく入籍した。
レイコさんのご両親は、数年前から二人でマレーシアに移住して暮らしているそうで、お盆の帰国のついでに顔合わせして挨拶をして籍を入れて、ということになったのだ。
東京で働いているというレイコさんの妹さんまでやって来て、伯母と敏行伯父さんに加えわたしまで同席させられて、食事会はやたらとにぎやかだった。始まるまではえらく緊張したが、さすがあのレイコさんを育てた二人と言うべきか非常にテンションが高くて、正直あれは「顔合わせ食事会」ではなくただの「宴会」だった。そんな中、レイコさんの妹さんはこの一家の一員とは思えない程クールで舌鋒鋭く、実の親でも姉でも些かの容赦もなく突っ込むので、食事中わたしは殆ど、笑いっ放しだった。
婚姻届を出すのに証人の署名が要る、というのに、レイコさん側からお父さんが、そしてシンさんからはわたしに署名するよう言われて、ものすごく緊張した。自分の名前を書くのにあんなに緊張したのは受験の時以来だ。
当分は今の家にお互いそれぞれ住んで、来年までにはちょうど間くらいの位置でどこか借りるなり買うなりして新居を探すつもり、とレイコさんは話してくれた。刃物も使えば騒音も出るシンさんの仕事は、さすがに子育てをする新居に持ち込めるようなものではないので、今の家と工房はそのまま置いて、通いで仕事をする予定らしい。それはわたしには、正直嬉しかった。
レイコさんと河瀬さんは初対面の時から一発で気が合った。レイコさんの店に連れて行った際、陶器のパッケージをつくりたい、と河瀬さんが言い出し、とんとん拍子に話が決まって、着々と試作品を完成させているらしい。
せっかくなので、わたしは伯母夫婦の来京に合わせて夏休みを取り、観光に連れ回す中、勢いに任せて河瀬さんを紹介してしまった。
伯母はもう、何と言うか狂喜乱舞して――どうも「子供に恋人を紹介される」というシチュエーションにえらく憧れていて、自分に子供がいないことの無念のひとつがそれだったらしい――口にチャックをつけてやろうかと思うくらいに、河瀬さんを質問攻めにしていた。どうしてくれようかと思ったが、河瀬さんが実にあっさり、笑顔でひょいひょい質問の矢をかわしていくのに、わたしはほっとさせられた。
最後まで怒濤の勢いで喋りまくる伯母と、黙っているだけの敏行伯父さんを新幹線に押し込み、ホームで見送ると、勝手にほうっとため息が出た。
「いやー……何言うか、あのひとと森谷さんが、血の繋がった姉弟ってことが驚きやわ。凄いなあ、あのマシンガントーク」
隣に並んで、河瀬さんが感心しきった様子で腕組みしている。
「ああ、あの、ほんと、ごめんなさい……あの、普段はもう少し、いや少しだけど、もうちょっとだけ落ちついてるんだけど」
我ながら疲れた顔で頭を下げると、河瀬さんは吹き出した。
「あの位置からちょっとて、それ、落ちついてる言わんわ。しかしこう、見事なまでに対照的なカップルやったなぁ」
「敏行伯父さん、基本喋らないから……でもあれで、ラブラブなんだけど」
「見たいなー、あの二人のラブラブな会話」
喉の奥でくつくつと笑いながら、ホームから改札への階段を下りていく。
「ほんま楽しかったわ。でも……」
改札を抜けると、河瀬さんは手を繋いできて、にっこりと微笑んだ。
「……やっと、ふたりっきりになれた」
まっすぐに見つめられて、一瞬で頬が熱を帯びる。ああもう、だからどうして、このひとはこうあっさりと、こっちをたまらなく恥ずかしくさせるようなことを言うのよ⁉
河瀬さんはひとりで赤面しているわたしに全く頓着せず、楽しそうにひとの手を引いて駅を出て、コインロッカーから荷物を取り出す。
心臓がぴり、と痺れるように震えた。
明日と明後日で夏休みはおしまい、それはちょうど土日に当たっていて――せっかくだからまた泊めてほしい、そう頼まれて、わたしは断ることができなかったのだ。
だって、逢いたかったから。一緒に……いたかったから。
あれから今日まで、土日の休みは一度もなかった。逢うのは大体、週末でわたしの勤務が遅出でない日の夜か、わたしが休みの日の晩に、京都駅の近くか相手の職場に近い四条辺りで逢うかのどちらか、週に一、二回程度だった。
それは大体毎回、逢ってご飯をしたら終わってしまうくらいの長さの時間で、別れの挨拶をする時はいつも泣き出しそうなくらいにさみしかった。
別れて家に帰ると、がらんどうの部屋にいるような気がした。
ひとりの部屋があれだけ幸福だったのが、ひどく昔のことのように思えた。
河瀬さんとつきあうようになって、わたしは自分が、相当な逢いたがりだということを初めて知った。先輩の時にはおそらく、自分で自分をかなりセーブしていたのだと。
あの時にはセーブできて、今はできない理由も、自分ではっきり、判っていた。既に自分の相当の部分を相手にさらけ出してしまっているのですっかり安心してしまっていることと、もうひとつ――こっちの理由の方が遥かに大きい――そもそも河瀬さん自身が、わたしに対してまるっきりセーブをしないからだ。
つきあい出してひと月と少し、わたしはその間に、きっと自分の記憶にない赤ん坊時代を含めたとしても間違いなく、今までの人生で他人から言われた回数の十倍は言われたと思う――可愛い、と。
やはり子供時代を含めても、自分が「可愛かった」という記憶も認識も皆無のわたしには、それはもう言われる度に身悶えする程恥ずかしく、その様子を見てまた笑うのだ、「可愛い」と。
言葉で溶けそうになることがあるなんて、今まで知らなかった。
もうまるっきり惜しむことなく、河瀬さんは雨のように、わたしに甘い言葉を注いだ。
逢っている日も逢わない日も、河瀬さんは毎日、夜の十一時に電話をくれた。もし特に事前の連絡もしていないのにわたしが出なければ、十五分置きに十二時まではかけ直す、そうあらかじめ決めてくれた。これは本当に、驚く程自分にとって気持ちが楽で、いつかかってくるか判らない、一度逃したら次がいつなのか判らない、そんな不安が無いということが自分の精神をこんなに軽くしてくれるとは思わなかった。
そんなやり方ひとつ取っても、相手が自分のものの考え方、何に不安を感じるか、ということを熟知してくれていることがよく判って、嬉しいと同時に、その度少し心配になった。こんなことまで、してもらって……その内わたしを、嫌になったりしないだろうか。このひとがわたしにしてくれる程、わたしはこのひとに返せているのだろうか。
降り注がれる幸福の量が多ければ多い程、わたしは同じ深さの不安に溺れそうになった。
いつかこれがすべて失われるのかもしれない、そう思うことが止められず、たまらなく怖かった。
もしそんな時が来るのなら、これ以上幸福になってしまう前に全部捨ててしまった方がいっそ楽なんじゃないか、そんな考えが頭をよぎる程に。
――こういうのがいけない、こういうのが自分の「病気」だ、そう頭では判っているのだけれど、わたしはいつもこころのどこかに、ひそやかにその思いを隠し持っていた。
河瀬さんがそれに気づいているのかいないのか、わたしには判らなかった。
ひとの手をしっかり握って、隣で機嫌良く歩いている横顔を、わたしは盗み見る。
一緒にいられる、そう思うと胸のどこかにぽっと明かりが灯るように嬉しかった。
けれどどこかで、こわい、そう誰かが囁いた。
――聞きたくない、わたしは胸の中でそっと、耳を塞いだ。
この間の時のようにお風呂に入ると、河瀬さんは途中のコンビニで買い込んだビールを一気に干した。
「ああ、美味い……生き返る」
実においしそうに口元をぐっとぬぐう姿に、お酒を楽しそうに飲む人って見ていて気持ちがいいな、と思いつつ、わたしも一緒に買った日本酒をおちょこに注いで唇に当てた。
さて寝るか、という段になって、さすがにまた、しかも今回は二晩も相手を座椅子で寝させるのはやはり忍びなく、わたしは当初に考えていたように、敷き布団とマットレスを分け、それぞれの布団として使うことにした。
悪いなあ、としきりに申し訳ながるのを流して、片方を居間に、片方を押し入れのある部屋に敷こうとすると、あ、と河瀬さんが声を上げる。
「あの……隣では、あかん?」
何だろう、と見た途端にそう言われ、わたしは一瞬、固まってしまう。
「あ、いや、違うから! そういうつもりで言うてるんではのうて……ただ、あの……少しでも近くに、おりたいだけで」
ものすごい勢いで手を振ってそう言う河瀬さんに、わたしは一度、深く呼吸する。ああもう、どうしよう……どう、しよう。
「いや、あの……俺、ちゃんと判ってるから」
すとん、と畳の上にあぐらをかいて、河瀬さんがこちらを見上げる。
「千晴がそういうつもりで、俺に泊まってもいいよ、て言うたんやないことくらいは、俺かてちゃんと、判ってるから。ただ少しでも一緒におりたい、そう思てくれてのことやて……ちゃんと、判ってるから」
つくん、と胸が痛んだ。そう、そうなんだ、いつでもちゃんと、そうやってわたしのことを、判ってくれる……そうやってわたしを泣きたい程幸福にさせて、同時に底無しの不安に溺れさせる。
「そやし、安心して、くれてええから」
わたしはもう一度深呼吸してから、ひとつうなずき、隣の部屋に敷きかけていた布団をずるずると居間に移した。
河瀬さんがほっとした顔で微笑うと、座卓を隣に移すのを手伝ってくれる。
しかしそうは言っても、さすがに二つ並んだ布団を見ると、相当恥ずかしくなり――ああもういいや、だって万が一そういうことになったとしたって、どうせ自分には未知の世界というか未体験ゾーンな訳だから、そういうことを無知な状態でやきもきしたところで無意味ってもんじゃない、そうだよね?
恥ずかしさが極限に振り切れたのかそんなことまで考えつつ、わたしは枕代わりのクッションを河瀬さんに渡して、自分も自分の枕を抱えると、ぺたんと布団の上に座り込んだ。
河瀬さんがくすんと鼻先で笑って、クッションを置くと隣の布団の上にあぐらをかく。
「……ほんま、可愛い」
言うやいなや、抱えた枕ごとぐっと引き寄せられぎゅうっと抱きしめられる。ああもう、ほんとに……ほんとに、何度言われても慣れることができない。
全身が火だるまになりそうな思いで、わたしはそっと息を吐いた。まわされた手が、ゆっくりと背中をなでる。
その手がだんだん上がってきて、頭にまわされて、あ、と思った時にはもう唇を奪われていた。
――熱い。
エアコンが壊れているんじゃないか、そんなことが一瞬頭をよぎって――ああ、でももう駄目、何にも……考え、られない。
目眩がして、頭がくら、とした瞬間に、相手の唇が離れていって、すぐ近くで湿った息が顔にかかる。
「ああ、俺……あほちゃうか」
その息と共に、河瀬さんが呟いた。
「何をわざわざ、自分で自分を追い込んでんねん……真夏のサウナ大会とか真冬の水泳大会参加者か俺は。どんだけ我慢好きやねん」
とぼけた口調でぼやくと、こつん、と額を当ててきてくすくす笑って。ああもう、本当に……本当に、だからこのひと、好きなんだ、わたし。
かちかちだった肩の力が抜けて、わたしもつられてくすんと笑う。
河瀬さんの手が、ぽんぽん、とわたしの肩を叩いた。
「ほな、おやすみ。今日しんどかったやろ、よく寝えや」
わたしはこくんとうなずいて。
「うん……おやすみ、なさい」
ぽっかりと、目が開いた。
部屋はまだ暗い。
寝返りながら見ると、三時間に設定していたエアコンのタイマーは切れていた。けれど部屋はまだ充分、ひんやりと涼しく、多分いわゆる、丑三つ時だ。
急に目が開いたけれど、何か夢を見た記憶もなければ、トイレに行きたいとか喉が渇いたとか、そういう生理的な欲求もなかった。ただ本当に、ぽかりと目が開いたのだ。
わたしはもう一度、ころんと寝返りを打った。
――あ、いる。
隣に河瀬さんが寝ているのを見て、とくん、と心臓が鳴るのと、ふわり、と胸があたたかくなるのを同時に感じる。
河瀬さんはややこちらに傾きかけた体勢で仰向けに眠っている。
わたしは相手が寝ているのをいいことに、その寝顔を存分に見つめた。
最初は殆ど見てとれなかった顔立ちが、闇に目が慣れる内、だんだんとはっきり見えてくる。
鼻筋がすっと通っていて、顎もしっかりとしていて……骨になってもきっと格好良いんだろうな、と莫迦気たことをぼんやりと思った。
閉じられた目のまつげが長い。
本当に、わたしなんかのどこが良かったんだろう、と、毎日のように繰り返し思うことをまた思った。
何かこう、わたしに対して大いなる勘違いというか、間違った思い込みをしてるんじゃないか、そんな気がしてならない。際限なく豊潤に注がれる愛情が、自分にふさわしいものとは到底思えなくて。
こんなにいいひとなのに。中身も見た目も。
わたしみたいな出来損ないより、もっとずっと似合う人がいるだろうに。
つらつらと考えて、ふと気がついた。そういえばいつかシンさんも、似たようなことを言っていたっけ。
レイコは俺のことなんか判ってないから一緒におれるんや、判っとったらよそいくやろ、レイコには俺よりもっとマシな男が合う、と。
同じ、感じなのかな、今のわたしと。でもわたしから見て、シンさんとレイコさんはまさにベストカップルであって、てことはわたしと河瀬さんも、外から見たらそう見えるのだろうか。
一瞬そう思いかけて、自分で突っ込む。いくら何でも年季が違い過ぎる。あっちは年月を重ねたまさに盤石状態で、自分達はまだ何もかも始まったばかりの、ふわふわと頼りない、マシュマロの上にいるみたいなものなのに。
わたしはかすかにため息を漏らして、河瀬さんの寝顔を見つめた。
こんなに近くにいるのに……何故、遠いように感じるのだろう。
頭の中が、全然判らない。
判らないから、不安だ。
いつ嫌われてしまうか、そう思うとひどく不安で、泣きそうになる。
いつまで傍にいてくれるんだろう。いつ……いなくなって、しまうのだろう。
そこまで考えて、わたしはいつの間にか、「いつかきっとこのひとは自分の前からいなくなる」と確信していることに気がついた。だって、こんないいひとが、いつまでもわたしなんかと一緒にいてくれる訳がないのだもの。
……いつかいなくなるのなら、それは早い方がいいな。
ふっとそんなことを思って、何を考えてるのか、と自分で自分を叱咤し――でも。
だってそれが後になればなる程、喪失の穴が大きくなる。
ずっと一緒にいてほしいのに、これ以上一緒にいるのが怖い。
こんなに、大事にされているのに……何の曇りもなく、幸せでいていい筈なのに。一体何が、ここまで怖いのか。
ああ、やっぱり自分は病気だ、本当に……駄目だ、もう。
目頭にじんわりと涙がにじんでくるのを感じて、ぱたんと枕に仰向けになる。
でもそれじゃあ一体、どうしたらいいって言うの?
一体何をどうすれば、このわたしの際限ない不安は消えるの?
判らない。
それが自分で皆目判らないから、この幸福が、まるで断崖絶壁の上に架けられた細い一本橋の上を歩いているようで、「いつか落ちるならいっそ今」と思うのだ。
……不健全だ、我ながらそう思う。不健全で、後ろ向きだ。
でも、もしも勇気を奮って前向きになったところで、それで突き落とされたらその時の自分のこころを誰が守ってくれるというのか。
結局は自分のこころは自分で守るしかなくて……そうしたらわたしには、後ろ向きになる以外手段が無いのだ。
今度突き落とされたら、自分はもう完全に駄目になる。
自分の親については、わたしは彼等を自分から切り捨てることで自分を守ることができた。あんた達なんか欲しくない、あんた達はもうわたしの人生に要らない。
けれどこのひとには、それができない。
わたしは涙ぐみながら、頭を動かして隣の寝顔を見た。
このひとにもしも背中を向けられたら、自分がどうなってしまうか見当もつかない。その時の計り知れない痛みは想像するだけで、胸が震える。
それくらいなら、いっそ。
わたしはそうっとそうっと手を伸ばして、河瀬さんの頬に触れた。
ちくん、と指先に、棘のように伸びかけた髭が刺さる。
手放したくない。背を向けられたくない。
なのに、逃げ出したい。
わたしは自分でもどうしようもない程矛盾しきった思いを抱え込みながら、相手の寝顔をじっと見つめ続けた。
次の日、わたしは多少寝不足気味なのを隠しつつ、河瀬さんに誘われた美術展に出かけた。河瀬さんは仕事柄、美術展には割とよく行くらしい。
「展示そのものもええけど、グッズ系、燃えるよね。この展覧会ならうちでこういう品がつくれるかも、とか、よう考える」と、そんなことも言っていた。
土曜日、昼過ぎの美術館は、割と込んでいた。
「俺な、興味あんのは長いけど、どうでもいいのってほんま一瞬で流すねん。そやし、人と一緒のペースで見んのって無理やから、時間決めて展示会場の出口手前で待ち合わせ、でいい?」
入口の前でそう言われ、わたしもどちらかと言うと、人に合わせて見るのは苦手なタイプなので、一も二もなく賛成する。
「そしたら、うーん、二時間くらいみて……二時半。どう?」
「はい、それで」
わたしはうなずいて、中に入った。
人込みの中を進みながら河瀬さんの動きを目で追って、これは確かに、と思う。
自分もこういう時、すべての展示物を同じ時間で見るタイプではないけれど、河瀬さん、実にその差が激しい。というか、見切りをつけるかどうかの選択が実に早い。見る、と言うより一、二秒目をやるだけ、でも気に入ったものには相当長く立ち止まっている。
羨ましいのはその背の高さで、頭ひとつ抜けているので、流すかじっくり見るかを決めるのに人の頭の上からさっと見て判断できるので、とにかく早い。わたしはそれぞれの絵が見えるところまで行くのに、まず時間がかかるのだけれど。
これは確かに、一緒には動けないよなぁ。
わたしは苦笑しながら、まあ時間はたっぷりあるし、のんびり人の流れについていこうと決め、ぶらぶらと移動した。
そして幾つかの部屋を抜け、メインに近い部分にたどり着いて――あれ、河瀬さん。
かなり先に行ったと思っていた相手の、背の高い姿が人混みの中に見えた。
わたしは人の間を縫ってその隣に追いつき、絵の方を見て、息が、止まった。
そこに描かれているものは、本当に何ということもない情景だった。森の中の小道から、外へと草原が広がっている。
ただそれだけの絵に過ぎないのに、そこにはまごうかたなき輝きがあった。
口を開けたまま取り憑かれたように見ていると、横からそっと、肘でつつかれる。
「……あ」
我に返って見ると、河瀬さんが隣で微笑って、わたしの方を覗き込んでいた。
「ええやろ」
と言われて、わたしは無言で何度も首を縦に振る。
「今回の目玉。……ええよなぁ」
腕組みをして、感に堪えないといった顔で首を振ると、河瀬さんはまたじいっとその絵を眺めた。
わたしも絵の方に目を戻す。ああ、やっぱり綺麗だ。
本当に、ただ何てことない光景なのに、何故、息をするのも憚られるような気持ちになるのだろう。
絵の風景はちょうど人の目の高さになっていて、まるで自分がその小道に立っているかのようだ。
手前左右には森の木が茂り、その葉の緑が先へゆくにつれ明るくなって、ちらちらと陽の光を合間から覗かせている。小道は森から出た後もずっと続いていて、なだらかな丘になった草原の向こうに、とん、と突き抜けるようにせいせいとした青空が広がっていた。
その雲の白さと空の高さが目を通して心まで突き刺さってきて、胸の奥の方まですうっと澄んでくる。
そしてその絵の横には、同じ作者が描いた海辺の絵があった。
浜辺を遠くの方から眺める構図で、白いドレスに青いパラソルをさした女性が小さく描かれている。
海の遠くの方の濃い青と岸に近い波間の薄白さ、輝くような砂浜の白、ところどころに覗くごつごつとした岩の灰色。どうしてだろう、現実にだってよくある眺めの筈なのに、どうしてこうも、目が離せないのか。
わたしはその二つの絵の間を何度も行ったり来たりした。片方を眺めてはもうひとつが見たくなってまたそちらを見、しばらくするとまたこちらが見たくなって戻る、それを飽くこと無く繰り返し続けた。
夢中になって時が経ち――横に立ったカップルの会話が、突然耳に飛び込んでくる。
「ねえ、今何時?」
「え? ……ええとね、三時十分」
「……え?」
他人の会話に、つい声が出てしまう。三時、十分⁉
慌てて自分の時計を確認すると、まさにその通りの時間だ。顔から血の気が引くのを感じながらぐるりと辺りを見回してみたが、当然のごとく河瀬さんの姿は無い。
ああ、しまった……どうしよう。
わたしは慌てて、展示室を先へと進んだ。気持ちとしては走り出したいのだけれど、さすがにそれはできないので精一杯の早足で移動する。
いつの間にか人は更に増えていて、なかなか先へと進めず気持ちばかりが焦る。
どうしよう。どう……しよう。
あちこちに頭を下げ、体を傾けて人の間をすり抜けながら、わたしは泣きそうになった。
ああもう、どうしてこんなに時間が経つまで気がつかなかったんだ? 莫迦じゃないか? 普通もっと早くに自力で気がつくだろう?
わたしはこころの中で自分に悪態をつきつつ、必死で移動した。そうしていないと、本当に泣き出してしまいそうで。
どうしよう、こんなに待たせてしまって。怒ってるだろうか、うんざりしてるだろうか、それとも……呆れて、先に帰ってしまっただろうか。
……嫌われた、ろうか。
胸の中にもくもくと黒雲のように不安がわき上がってくる。ちりちりと心臓が下からとろ火で炙られているようで、胃がせり上がってきて軽く吐き気すらした。
きゅっと唇を引き結んで泣きそうになるのをこらえつつ、とにかく少しでも早く出口にたどり着こうと必死に足を進める。
幾つかの部屋を抜けると、少し広めの部屋に出た。するとその真ん中に背もたれの無い長椅子があり、そこに河瀬さんが座っているのが見えた。
足を組んで椅子に座って、手元に少し大きめの黒い表紙の手帳のようなものを持ち、何かを熱心に書き込んでいる。
「…………」
口から勝手に息が吐き出されるのと同時に体中から力が抜けて、座り込みそうになった。いきなり足を止めてしまったわたしに、後ろから来ていた人が軽くぶつかってくる。
「あ、ごめんなさい」
わたしは慌てて場所を開けて、軽く頭を下げた。顔を上げると、河瀬さんがこちらを見ている。
――どくん、と心臓が不吉に鳴った。
「あ……」
わたしはまた目の裏に熱がたまってくるのを何とかこらえて、小走りに相手に近づく。
「ごめんなさいっ……」
小声で言いながら、深々と頭を下げる。良かった、まだいてくれた、良かった。
「え、どないしたん? あれ、もしかして自分、あの後の絵、全然見んと来たん?」
頭を下げたままのわたしの耳に、やはり小声ながら、実に普通の声音の河瀬さんの言葉が響く。……ええっ?
顔を上げると、呑気な笑顔で河瀬さんがこちらを見ていた。
「ええのに。見ておいでえや。待ってるで」
相手の言葉にわたしは息が止まり、ぶんぶんぶん、と凄い勢いで首を横に振ってしまう。これ以上待たせるなんて、到底できない。そんな状態で絵なんて見ていられない。
「いいです、わたし、もう……すみません、ほんとに」
言っている内にまた涙ぐんできてしまう。ああ駄目だ、こんなところで。
河瀬さんは驚いた顔でわたしを見つめ、不意に、ふっと微苦笑を浮かべると立ち上がった。
「……ほな、行こ」
わたしの腕をくい、と掴んで外に歩き出す。ああ、やっぱり怒らせたろうか。
展示会場を出ると、河瀬さんはグッズ売場を指差し、「図録やら買うから」とそちらへ向かっていった。
わたしはさすがにグッズなど見る気には到底なれずに、売場の出口辺りの壁にもたれて待つ。
河瀬さんは図録以外にも、実に熱心にグッズを眺めて、あれこれ手に取っている。
ああ、本当に……デート中にすっかり相手のことが頭から抜けるだなんて、ひどいことをしてしまった。わたしは、なんて、駄目なんだろう。
あのひとはこんなにもわたしにいろいろ気を遣って、あれこれしてくれるのに。わたしときたら、もう全然駄目だ。甘えっ放しだ。
胸の中には、後悔が渦巻いている。
どうしてもっと早く、あんなに時間が経っていることに気づけなかったろう。全部の展示を二時間で見るとしたら、配分というものがあるじゃないか。いい年をした大人が、誰かと一緒に行動している時にあんなに我を忘れてしまうなんてどうしようもない。
わたしは目の端ににじんできた涙を指先で押さえた。
嫌がられて、しまったら、どうしよう……。
深く深く息をつくと、上から声がかかった。
「ごめん、待たした。……行こか」
見ると、両手にあれこれ袋をぶら下げた河瀬さんが立っている。いや、今の待たせたなんて言わない、待たせたのはわたしの方なのに。
また泣きそうになりながら、わたしは河瀬さんの後について美術館を出た。
「……本当に、ごめんなさい」
やっと普通に話せるところに来て、改めて深々と頭を下げる。
「わたし、全然、気がつかなくて……こんなに待たせてしまって、迷惑かけて、ほんとにごめんなさい」
ひたすら謝るわたしに、河瀬さんは苦笑して手を振った。
「いや別にそんな……あんまり来いひんから、もしかして途中で貧血でも起こして倒れてへんか、て心配なって見に行ったら、まだ夢中で見てたからさ。ああ、気に入ってんな、良かったなぁ、て思っててんけど」
「……え?」
あまりにも意外なことを言われて、わたしは一瞬、頭が真っ白になる。え、戻って、きてたの?
「え、じゃ、どうして」
「え?」
「じゃ、じゃあ、どうして……その時声かけてくれたら良かったのに、どうして」
わたしは驚きのあまりつっかえつっかえ、相手に尋ねた。だって、そうしてくれてたらあんなに待たさずに済んだのに。
「いや、だって熱心に見てたから」
「そんな……!」
この状況で自分から文句を言うのはおかしい、それは頭から判っていて、それでもわたしはつい声を上げてしまった。だって、声をかけてくれたら、こんな思いをしなくても済んだのに。
「どうして、呼んで、くれなかったんですか……!」
言っている内に今度こそ涙がこらえきれなくなって、一粒落ちる。
河瀬さんが目をまん丸に見開き、それからやれやれ、といった顔で微笑んだ。
あ、どうしよう、呆れたかな。確かにわたしが文句言える立場じゃないってことは判ってるんだけど、でも。
「――千晴」
名を呼んだと思うと、手が動いてぽん、とわたしの頭の上に乗った。そのままぐりぐりと頭をなでられる。
「お茶、しに行こか」
そしてそう言うと、その手でぐい、とわたしの手首を掴んで歩き出した。




