第七章(後)・窓の中
――寒い。
それと同時に、きいんと頭の奥が痛んだ。
寒い。どうして、こんなに……ああ、この部屋は、エアコンが効き過ぎだ。
この部屋。
四角く、白い壁。そして端には、ベッドがひとつ。
不思議だ、こんなに、広い部屋だったろうか……どうしてこんなにも、ベッドが遠いんだろう?
その傍らに、誰かが座っている。
あれは、伯母さんだ。
そしてベッドに半身を起こして身を横たえている、あの人。
耳の辺りまで裂けそうに口を開いて、あの人が叫んでいる――でも、聞こえない。
何を言ってるんだ?
何を――
……ああ、聞いては駄目だ。
こころのどこかで誰かがそう言っているのに、わたしはそちらに向かって近づいていき――ああ、いけない。
だめ。
「――ちはる!」
不意にぐい、と肩を抱き上げられて、わたしはぱちりと目を見開いた。
え……え、え……なに?
「千晴、どうした……大丈夫か、おい!」
すぐ隣で、膝の上にわたしの体を抱き上げるようにして、誰かが必死にわたしの肩を揺さぶっていて――あ……河瀬、さん。
目をぎゅうっときつくつむって、それからうっすら開くと、暗い部屋の中でぼんやりと、驚く程近くに相手の顔が見えた。
「あ……」
「むっちゃうなされててんで……どうしてん」
ひどく真剣な声で、河瀬さんはそうっとわたしの額を手の甲で拭ってくれた。その時初めて、自分が全身にびっしりと汗をかいていることに気がつく。
その汗が急速にエアコンの冷気で冷えていき、わたしはぶる、と身を震わせた。
「――千晴」
河瀬さんが眉を曇らせたと思うと、一瞬、ぎゅっと強くわたしの体を抱き――ああ、熱い――それから手を伸ばして、明かりをつけようとする。
「あ、待って」
思わず声を上げると、相手は動きを止めた。
「お願い、明かり……つけないで」
そう言う自分の声は、軽くかすれていた。ああ、きっとエアコンのせいだ、普段寝る時には滅多に使うことはない、この風のせいで……
……あの夢を。
また、体が勝手に震える。
「千晴……」
河瀬さんがわたしの肩をパジャマ越しにぎゅっとこすると、立ち上がってエアコンを消した。いつの間にか足元にはねのけていた薄い夏布団を取ってきて、それでわたしの全身をくるむと、一度、強く抱きしめる。
「どうしてん……何が、あった」
相手の腕の中でまだ上手くものが考えられないまま、しばらく夢と現実の間をうろうろとさまよって……ふと気がつくと、唇が勝手に動いていた。
「……ゆめ」
「え?」
「夢……見た、の」
体を離して、河瀬さんがわたしの目を覗き込む。
「昔の……夢」
そしてわたしは、たゆたうように話し始めた。
あれは、高二の夏だった。
多分、夏の補習か何かがあったのだと思う、わたしは学校に行っていて、まだ午後の早い時間に家に戻ってきた。
家の玄関の鍵は、開いていた。
母親が家にいる時には鍵を掛けていないことも時々あったので、何も考えずに扉を開き、中に入って――息が、止まった。
母親が血まみれになって、そこに倒れていた。
……今から思えば、「血まみれ」というのは言い過ぎな気がする。別段体中に血がついていた訳でも、倒れていたその床の下に血が大量に溢れていた訳でもなく、ただ頭からわずかに血が流れ出て、鼻や口元の辺りからも少し血が出ていた、それだけなのに――けれどその瞬間わたしは思ったのだ、「血まみれだ」と。
一体何があったのか、訳が判らないままとにかくわたしは救急車を呼び、それから恐る恐る、母の肩に指を触れ、何度か呼んだ。位置的には階段から落ちたような雰囲気で、だとしたら頭を揺すってはいけない。
何度か呼んだその後、わずかに母がうめいた。
わたしはほっとして、更に声を高くして呼ぶ。
遠くから、救急車のサイレンが近づいてくる。
「もう救急車来るからね、大丈夫だからね!」
そう耳元で叫ぶと、母の手が不意に動いた。
すぐ隣に手をついてしゃがんでいたわたしの手首を、ぐっと掴まれて、冗談抜きに、まるで死人に腕を掴まれたような気が瞬間して、わたしは飛び上がった。
「……はる」
もごもごと、母の唇が動く。
「え、何? 痛いの? もう救急車来るよ」
かがみ込んで口元に耳を近づけると、聞き取りにくい声で母が言った。
「階段から、落ちたの……お医者さんに、そう言って」
「うん。うん、判った」
何度もうなずくと、安心したような顔で母はまた気を失った。
やって来た救急車に乗ってわたしも病院に向かい、救急の待ち合いでしばらく待っていると、向こうから白衣を着たお医者さんらしき男性が近づいてきた。
「篠崎さんの娘さんですか」
立ち上がってはい、とうなずくと、相手は渋い顔をする。
「お父さんはどちらに?」
「あ……」
その瞬間までわたしの頭には「父」という単語は一度たりともよぎらず、そういえばこういう時には、まず一番に連絡すべきものだったか、そう我に返った。
「すみません、動転してて……連絡してみます、あの、けど、その前に……母は」
そう尋ねると、「大丈夫、命に別状はないですよ」と言いながら、何故か相手は、ますます渋い顔になった。
「あの、お母様は……階段から落ちた、そう言われたんですね?」
そして念押ししてくるのに、不思議に思いながら「はい」とうなずく。
すると「それ以外には何か?」と更に畳み掛けてきて、「いいえ」と首を振ると、渋い顔のまま、「お父様が来られたらすぐお知らせください」と言って立ち去ってしまう。
何なんだろう、と思いつつ、父の携帯を鳴らして――出ない。
いないことは判っていたけど、念の為家の電話を鳴らしてみたが、当然出なかった。
さすがにこの事態を自分だけで収めることはできなかろうと思ったので、わたしは父の会社に電話をかけ、事務の女性に「篠崎さんは一昨日から五日間、有休を取られてますよ」と言われたのに、呆然とした。こんな時に、どこかの女と旅行にでも行っているのだろうか。
万一、父から何か会社に連絡があったら、娘が母の携帯にすぐ連絡してほしいと言っていたと伝えてください、それだけ言ってわたしは電話を切った。どうしてだか、母の怪我のことを言う気にはなれなかった。
それから何度も、父の携帯にかけてはみたが、どうしても繋がらない。わたしは仕方なく、医者にそれを伝えた。ただし、「有休」のところは「急な出張」に変えて。
医者はいよいよ渋い顔をして、「仕方がない」という顔つきで座り直すと、まっすぐわたしに向かい合った。
「あのですね……お母様、なのですが……怪我の状態からして、どうも暴行を受けているようなんです」
自分の顔がぱっとこわばるのが自分で判る。それを見て、医者ははっとしたように、急いで手を振った。
「いや、あの、暴行と言っても、暴力の……殴る蹴るの、そっちの、方ですが」
……いやそれ、事態としてはそんなにマシになってる気もしないんだけど。
こんな状況にも関わらず、現実逃避か、ついそんなことを頭の中で突っ込んでしまう。
「階段からは、本当に落ちられたと思います。でも……それ以外にも、暴力を受けてる、みたいです」
わたしは言葉も無く、ただ膝の上で拳を握った。でもそれなら、どうして。
階段から落ちたと医者に言ってくれ、そう呟いた母の姿が脳裏をよぎる。
「このままだと……警察に、相談しなければならなくなりますが」
突然のその言葉に、わたしははっと顔を上げた。……けいさつ?
「ですから……娘さんから、どうか、お母さんに、本当は何があったのか話してくれるよう説得してもらえませんか。このままだとこちらは警察を呼ばざるを得ません」
とにかく明日まで待ちますから、そう言われてわたしは医者の部屋を出た。すっかり麻痺してしまった頭を抱えて、ずるずると病院の廊下を歩く。
警察って、そんな……ああ、一体どうしたら?
わたしは何も考えられないまま、とにかく何度も、父に電話をかけ続けた。そして、どうしても繋がらないそれに、疲れ果てて救急の待ち合いの長椅子に座り込み……気がついた時には、その場でしばらく眠り込んでしまっていた。
頭を振って起き上がると、もう一度電話をかけてみる。やはり、繋がらない。
どうしたらいいのか……どう、したら。
――伯母さん。
すっかり思考が停止した頭に、ぱっとその名が閃いた。さっと時計を見ると、夜の十一時だ。
この時間ならまだ大丈夫だ、そう反射的に思ってしまってから、自分で自分に突っ込む。あのな、これ非常事態、いやそれを通り越して、もう異常事態なんだから……たとえこれが夜中の二時や三時であっても、いいんだよ、かけても。
そう思いながらも何度もためらった挙句、ようやっと伯母の家の番号を押す。
何回かコール音が鳴った後に、出たのは敏行伯父さんだった。低い、ざらりとした声の響きに、少し安心する。
すぐに伯母に替わってもらって、わたしは事情を説明した。
『――判った、すぐ行く』
力強い伯母の声に、わたしはほっとする。
『今から車で、そっち向かうから……明日の朝には、着くよ』
「ありがとう」
お礼を言うわたしに、伯母は何度も何度も、しつこく戸締まりをしっかりするよう言い聞かせてきた。その心配っぷりに、こころがあたたかくなる。
とりあえず明日、伯母が来てくれることになった、そう医者に言うと相手もほっとした顔を見せ、わたしはひとり、帰宅した。
玄関の鍵を開けて家に入ると、しん、と暗く静まり返っている。
ぱちん、と明かりをつけると、すぐ目の前、階段の下の木の床に赤いものがこびりついているのに、わたしはたじろいだ。
これ……掃除、した方がいいんだろうか。でも本当に警察沙汰、すなわち犯罪がらみの話になるのなら、下手に掃除するのはまずいのだろうか。
その頃既にミステリ好きだった自分はそんなことまで考えて、とりあえず手をつけずに、やはりそちこちに血が飛んでいた階段の端の方をそうっとつま先立ちで二階へ上がる。
二階の廊下に出ると、両親の寝室の扉が大きく開いていた。
「……?」
わたしは忍び足でそこに近づいて、電気はつけずに、そうっと中を覗き込む。
……誰も、いない。
そんなことは当たり前なのかもしれないけれど、ひどくほっとする。かちり、と電気のスイッチを入れてみて、そこに見えたものにぎょっとした。
なんだ……これ?
部屋の真ん中、ベッドの上……それから床のあちこちに、服やアクセサリーが散らばっていた。そして、大きなボストンバッグ。
服はどうやら、そこから引きずり出されたものらしく、まだ半分くらいが中に残っている。
瞬間的に、やっぱり泥棒なんじゃないか、と思ったが、何かが違う、そんな気がして、わたしはそのバッグに近づいた。
着替えと、簡単な生活用品――まるで、旅行支度のような。
母さん、旅行にでも行くつもりだったのか?
わたしは疑問符だらけになりながら、とりあえず散らばった服をバッグの中に詰め込んだ。ああ、でも入院の準備持ってくるよう言われてたんだ、これすごい手間省けたかも。
そんなことを考えてしまう程、頭の中は現実に麻痺し切っていて、そして次の日の朝、やって来た伯母夫婦とわたしは病院へ向かった。
昨日の医者がもう一度、わたしは抜きで伯母夫婦に何かの説明をした。部屋から出てきた伯母の顔は、少し青ざめている。
事情が事情なので、母は個室に入れられていた。そちらに向かう途中、伯母が敏行伯父さんに向かって「とりあえず女同士で話してみたいから」と言って、わたしの背を押し、母の病室に入った。
母は顔に大きなガーゼを張って、頭と腕に包帯を巻いた満身創痍な格好で、それでも思ったより普通な態度でわたしを迎え――ところが後ろから入ってきた伯母の姿に、大きく目を見開く。
「なんで……まさかあんたが呼んだの、千晴?」
「え、だって……」
もごもごと聞き取りにくいながら、はっきりと非難のいろに満ちたその声音に、わたしはたじろいだ。どうして、母さん。
「純一が連絡取れないんだよ。仕方ないじゃないか、美代子さんがこんな大怪我して、この子だってひとりで心細かったんだから」
伯母が弁解するように言って、わたしと母の間に立った。
父の名を聞いた途端、母が押し黙る。
「一体、どうしたの……何が、あったの」
伯母はそんな母をなだめるように言いながら、部屋の隅にあった椅子を引いて、母の枕元に座って。
「そんな怪我……ねえ、話して、一体」
「――落ちたのよ、階段から」
やさしく尋ねる伯母に、母は突き放すようにつっけんどんに言って、ふっと、何かに気がついたようにわたしの方を見た。
「階段を降りようとした時、ちょうどその子が帰ってきて、いきなり下から声かけてきたから、驚いて……それで落ちちゃったのよ、足踏み外して」
……え?
わたしは耳を疑った。
棒のように突っ立っていると、母はなおも続ける。
「ねえ、そうだったよね、千晴? あんたが声かけてきて、それで母さん、落ちちゃったのよね?」
媚びるようなその声が、頭を右から左に素通りしていく。
「……美代子さん」
伯母がため息混じりに母の名を呼んで、ぽん、と軽く、布団の上の母の手を叩いた。
「いいの、もう、隠さなくていいから……お医者さんはね、階段から落ちた以外にも、あんたに殴られたり蹴られたりしたような怪我があるって、言ってる」
その瞬間、母の唇が一本に引き結ばれ――ああ、鬼みたいな……顔、だ。
うすぼんやりと、そんなことを思う。
「訳をちゃんと話してくれないなら、警察呼ばないといけない、って、お医者さんそう言ってるから……だから頼むよ、正直に……話して」
辛抱強い声音で伯母が言うと、母はますます、きつく唇を結んでしまう。
そして数分、じいっと黙り込んだ後に口を開いた。
「……あんたが、いけないのよ」
布団の上で握りしめられた母の両の手が、白く震えている。
「え?」
伯母が眉をひそめて、聞き取ろうと母の口元に頭を乗り出し――と、
「あんたがいけないのよ、千晴!」
と母が絶叫して、わたしを睨みつけた。
いきなり耳元で怒鳴られた伯母は、ひきつけたように体を引いた。がたん、と座っていた椅子が倒れる。
わたしはもう何ひとつ考えられないまま、そんな二人を見つめた。わたし、が?
「あんたのせいで……あんたのせいであたしはこんな目にあったんだから!」
「ちょ、ちょっと……ちょっと美代子さん、落ちついて」
伯母は椅子を戻して、母の肩をなだめるように押さえつけた。けれどそれを跳ね返すように、母はわたしの方に身を乗り出して叫び続ける。
「あんたがあたしを置いて出てくって言うから……だからあたしは、あの家を出ることにしたのに……それなのに、あいつが」
……寒い。
不意に急な寒気を覚えて、体がぶるっと震えた。
「ちょっと、美代子さん……それ、一体」
「あたしはあんな家出ていって、幸せになる筈だった、それなのに……あの人は皆知ってた、全部知っててもう全部処理は済んでる、今行っても相手は来ないよ、って……!」
「美代子さん!」
伯母が絶叫して、母の肩をゆすった。
「どういうこと、一体どういうことなの……まさか……まさかその怪我、純一が」
「あんたのせいよ、千晴!」
……ああ、どうしてここはこんなに、寒いんだろう……病室だっていうのに、空調の設定温度が低過ぎじゃないのか、この部屋?
わたしはそんなことを思いながら、ずいぶん遠くに感じられる二人の姿を眺めた。ああ、口が耳まで裂けている、まるで……般若だ。
「ちょっと美代子さん、落ちついて! なんでそれが千晴のせいになんのよ!」
「だってこの子、あたしを置いて出ていくって言うから!」
母――いや、あれは母じゃない、般若だ――はまっすぐわたしを指さして、伯母に向かって訴えた。
「家庭訪問で先生にこの子言ったのよ、京都の短大に進学する、もう学校は決めてある、って……その後になんでそんなところにしたの、そう聞いたら、短大なら四大より二年早く就職できる、そしたら向こうで就職して自立して、それでもう家には帰らない、って……そう、言うから……」
言葉の途中でぽたぽたと涙が目からこぼれ落ち、両方の手で伯母の腕をぎゅうっと握りしめる。
「だってそしたら、あたしひとりに……いいや、ひとりならいいのに、あの男と……あいつと二人で、あの家で暮らさないと、いけない」
声のトーンがすうっと落ちて、母の体も、ぶる、と震えた。
「だから……だからあたし、探したのよ。あたしをあの家から、連れ出してくれる人」
「美代子さん……」
伯母は自分の腕を掴んだ母の手から離れられないまま、絶望的な目をしてわたしを振り返った。
「千晴、あんた、外出てなさい……敏さんとこ、行ってて」
伯母の言葉にも、わたしの足は全く動かず――いや、足どころか……全身が、動かない。
「昨日、一緒に行く筈だったのに……幸せに、なれる、筈だったのに」
母は頭を低く垂れて、おいおいと泣き始めた。
「美代子さん、あんた……何言ってんのか、判ってんの」
伯母は苛立ったように声を上げ、ちら、とわたしが全く動こうとしないのを目で確認すると、すう、と息を吸って、覚悟したかのように母に向き直った。
「それのどこが千晴のせいだって言うのよ。あんたが勝手に浮気して、あんたが勝手に駆け落ちしようとして、それ見つかっただけじゃない。そりゃ、暴力に訴えたあの子は最低だけど……でもあの子から離れたかったんなら、もっとやり方ってもんがあったんじゃないの?」
まくしたてるような伯母の言葉に、ひく、と母の喉がひきつる。
「どうせあの子なんてあんなんなんだから、やろうと思えば幾らだって証拠が取れた筈でしょう。それ振りかざしてとっとと離婚すりゃ良かったのよ。そしたら幾らだって、新しい相手と恋愛だって結婚だってできたじゃないか」
――あなたがいるから、離婚できない。
子供の頃からずっと言われ続けた言葉が、不意に甦った。
あなたの為に、母さんは離婚ができないの。あなたの為に、我慢してるのよ。
ずうっと長いこと言われ続けて、そうなのかと思っていた。
だからわたしは、自分の進学の方向を、そう自分で決めたのだ。
家から遠く遠く離れた場所。そしてできるだけ早く自立できるよう、短大へ。
そうやって自分がここからいなくなって、完全に手を離れて、そうしたら母さんは心置きなく、離婚ができる。自由になれる。
そう思っていたのに。
覚えている、春の家庭訪問の、あの日。先生が帰った後、母は「自立してもう家には帰らない」と告げたわたしに、ヒステリーのように泣き喚いた。あんたは母さんを捨てるのね、と。
わたしは心底、とまどった。そういうことじゃない、だって……お荷物なのはわたしじゃないか。わたしの為にできなかった、ならわたしがいなくなればできるじゃないか。
そう言ったのに、母は全く聞く耳を持たずに、ただ泣き叫んだ。
「……どうせあたしが、全部悪いのよ!」
すると突然、母がまた絶叫して――その時の姿に、重なる。
「いっつもそう。悪いのは全部あたし。だから自分の旦那にも浮気され放題で、手をかけて育ててやった娘は自分を捨てて……えぇえぇ、そうでしょうよ、あたしが皆悪いのよ、そういうことにしとけば皆丸く済みますからね」
ふて腐れたように言う母に、伯母がかちん、と来たように口を開く。
「美代子さん、あんたね……!」
「もういいでしょっ、はいはい、判りました、あたしが悪かった、ごめんなさい。それでいいじゃないの、もう……どうせいつだってこの子もあの男も、あたしが皆悪いんだって顔して、それで自分達は知らんぷりしてるんだから……あたしのことなんかだあれも本気で考えちゃくれないんだから……」
母はそう言うと、膝に突っ伏して泣き出した。
「あの人は、あたし責めなかったのに……美代ちゃんは悪くないよ、一緒に逃げよう、って、そう言ってくれたのに……あたしを救ってくれる筈だったのに……」
……何だか、莫迦らしくなってきた。
目の前の光景にわたしは急速に興味を失って、それと同時に、ずる、といきなり足が動いた。
「あ、千晴……」
慌てたように伯母がこちらを向いて、はっと母が顔を上げる。
「千晴」
わたしはその声を無視して、ゆっくりと身を翻した。
「千晴、ごめん、ごめんよ……ねえ、あんたがいなくなったら母さん、もうほんとにひとりになっちゃうから、だからお願い、考え直して」
「美代子さん!」
「ねえ、千晴」
「……伯母さん、わたし、帰って寝るから」
わたしはそれだけ言うと、足をひきずるようにして病室から出た。
体が、重い。
ロビーの待ち合いに敏行伯父さんが座っているのが見えたので、見つからないよう非常口の方をまわって外に出ると、夏の日差しが眩しく、目を細める。
空っぽの頭のまま家にたどり着き、玄関を開けて何か飲もうと居間に入って、ぎくん、と足が止まった。
「――父さん」
父親がそこに、立っていた。
膨らんだバッグを持って居間の真ん中にいた父親が、こちらを振り返る。
「なんだ、千晴か」
その声は実に普通で、いや、いっそほがらかに響いて、わたしは瞬間、震え上がった。
「どうした……ああ、そうか、今は夏休みか」
何の変哲もないその様子に、わたしはもしかして昨日からのことは全部夢なんじゃないか、そんな風にさえ思った。相手が、母のことを尋ねるまでは。
「母さん、どうしてる」
実にあっさりと、夕飯の献立でも聞くみたいに父はそう尋ねた。
わたしの喉がこくりと鳴る。
「病院か」
買い物か、と聞くようなトーンで問われ、ひとつうなずくと、父は大きく首を振る。
「それで母さん、なんて言ってた」
わたしは何も考えられないまま、からからに乾いた喉で、ぽつりぽつりと母の言葉を話した。
「どこまでも他人のせいにするなあ、母さんときたら……」
父は呆れた顔で呟くと、ふっとわたしを見る。
「……それで、母さんを殴ったの?」
詰まった喉の奥から何とか声を絞り出しながら、わたしは自分の中に不思議な感覚があるのに気づいていた。
それは奇妙なことだが、感動だった。
それはもう明らかに世間的には間違ったものなのかもしれないけれど、それでも父は父なりに、母のことを愛していたのか、と。だから嫉妬もし、暴力もふるってしまったんだ、そう。
この二人の間にはもう愛など無いんだ、ずっとわたしはそう思ってきたけれど、やはり夫婦は夫婦なのだから自分には判らない何かがあったんだ、と。
そう思っていると、こちらを見ている父の目が不思議そうに丸みを帯びた。
「いや。邪魔だったから」
「……え?」
よく判らないことを言われて、わたしの頭は一時停止した。
「ドアを通れなかったんだ。母さんが立ち塞がってて。どれだけどくように言っても聞かないでわめき散らすんで、仕方がないからどかせた。約束の時間もあったしな」
――どかせた。
その、荷物を横に移した、程度の重みしか無い響きに、背中の芯が急にぞくっとして、つい今しがた覚えた不思議な感動がすうっと消えていく。
「あいつはねえ、父さんの妻なんだから、妻としての仕事があるだろう。それを放り出そうとしてるのが判ったから、手をまわして調べたんだ。そうしたらあっさり相手の男が判ったんで、弁護士からちゃんと書類を送らせたんだよ。家にも会社にもね。それで、慰謝料もきちんと請求してやった。妻子持ちなのに人の女房と駆け落ちしようなんて、全くおかしなことを考える男だね」
まるで世間話のように軽い口調で言うと、父は肩をすくめた。
「まあそれでも、もう二度と母さんの前には現れません、て念書も出してきたんでそれで良しとしたんだよ。だから昨日、母さんが待ち合わせ場所に行こうと支度してたんでそれを伝えてやったんだ。もう行く必要無いから、だからお前は家にいてちゃんと自分の仕事をしなさい、て。そうしたら急にわめき散らして殴りかかってきて、挙句父さんが出かけるのを止めたから、仕方がないんでどかした。全く、余計な手間がかかって大変だったよ」
わずかに開きかかったまま、わたしの唇からは全く声が出なくなった。
「それにしても俺や親父を捨てたあの女といい、母さんといい、全く女って奴は何を考えてるのかさっぱりだ、……お前も気をつけんとああなるぞ、千晴。何せ血が繋がってるからな」
足元からさあっと、血の気が引いていって――ああ、気がつかなかった、ここもずいぶん、エアコンがきつい。だから寒いんだ、こんなに。
「まあこれからは、母さんはもうそんなことはしないだろう。父さんがこれだけ家の為に身を粉にして働いてるのに、あいつはおかしいよ。母さんには母さんの仕事があるんだから、それを放り出すのは良くない」
あくまでも明るい父の声に、わたしはまた、ぞくりと寒気がした。
「家のことを放り出すなんてのは母親や妻である人間がするべきことじゃないからな。正直今まで、父さんは母さんを自由にさせ過ぎたんだなあ。反省した。もうこれからは、母さんは外には出さないようにするよ。外でうつつを抜かす為に養ってやってる訳じゃあないからな、父さんも」
晴れ晴れとした笑顔を見ていると、吐き気がこみあげてくる。
「それじゃ、母さんが退院したら、また連絡くれ」
そう言ってすたすたと父が家を出ていこうとするのに、わたしはさすがに驚いて後を追った。
「どこ行くの」
玄関を出ようとする相手に言うと、呆れたような顔で振り返る。
「だって、母さんがいないんじゃ、ここには誰も父さんの身の回りのことをする人がいないじゃないか。だから母さんが退院したら、戻るよ」
当たり前のことを諭すような口調で言うと、父は家を出ていった。
全身から力が抜けて、わたしはすとんと、その場に座り込む。
床についた手の先に、何かねとっとしたものが触れる。見ると、まだそのままにしてあった母の血が、ねっとりと固まって指先にこびりついていた。
――何せ血が繋がってるからな。
父の声が耳元をよぎる。
そしてわたしは、絶叫した。
「……結局母親は、これはあくまで痴話喧嘩レベルのことだ、階段から落ちたのは自分がたまたま足を滑らせたからで父親は関係ない、そう言い張って……伯母さんが、わたしをうちに引き取ってくれる、そう言ったけど、高二で編入するのも面倒だったし、高校生活そのものは、すごく楽しくて好きだったし……どうせもともと、高校出たら、二度と帰らないつもりだったから、後二年足らずだし、いいよ、て言ったの」
取り憑かれたみたいにそこまで一気に喋ると、急に喉がいがらっぽくなってきて、わたしは軽く、咳き込んだ。
わたしを抱きかかえるようにした相手の手が、反射的に背をなでようとして、その瞬間にわずかに震えた。
ああ、引かれたな、とはっきり感じて、こころが冷える。
人にこの話をしたのは、初めてだった。友達にもシンさんにもかつての恋人にも、誰にも話したことはない。
こんなことを聞けば、誰だってわたしに距離を、置くだろう。当たり前だ。あんな異常な親の間に生まれた子供だ。
よくも。よくも、あの親と十八年間、ひとつ屋根の下で過ごして……よくも自分が、頭がおかしくならなかったものだと、自分自身につくづく感心する。いや、でも……おかしくないと思っているのは自分だけで、まわりから見たらやはりわたしも、おかしいのかもしれないけれど。
「……卒業するまで、どっちとも、最低限に必要なこと以外は、絶対、会話、しなかった……絶対受かる自信あったから合格発表の前に引っ越し先を探して、発表の日には、もう家を出てた。敏行伯父さんがトラックで荷物運んでくれて……引っ越してきた日の晩は、嬉しかった、なぁ」
相手のこころがもうすっかり自分から離れているだろうことを感じながら、それでもわたしはどうしても止めることができずに、ただただ喋り続けた。
「他に誰もいなくて、静かで……誰の泣き喚く声も、罵る声もなければ、嫌な感じの、じっとりした沈黙でもなくて、ただただ静謐で……幸福ってこういうもんなんだ、て、つくづく思い知った」
その時の気持ちを思い出すと、自然に唇に笑みが浮かぶ。
「ひとりって……いいなぁ、って」
ああ、もう、別にいいや。このひとと知り合ってからの幸福は確かに目も眩むようなものだった。今までの人生の中で、一度だって経験したことがなかった。けれどもう、仕方がない。消えてしまう、ものだったのだ。
所詮わたしは、人の出来損ないだから。
わたしは到底、このひとにはふさわしくない。
そう諦めてしまうと、すっと楽になった。
闇の中で、相手の呼気が震えるのを感じる。
「……なんで」
そして低い、声がして――その声もわずか、震えている。
「なんで……」
もう一度呟くと、片手が包むように、頬に当てられた。
その温かさに、胸の奥がびくりと震える。
もう死んだ筈のこころが。
「なんで、笑うねん……」
そしてまた、声が震えて、ぽとん、とわたしの頬に何かが落ちる。これ、は。
――涙。
それは河瀬さんの瞳からまっすぐ、わたしの頬に落ちていた。
瞬間、頭が真っ白になる。
「そんな話して、なんで笑うねん……泣いてええのに、自分こそ……泣き喚いて、ええのに」
涙の間から、河瀬さんはぐっと歯を食いしばるように言った。
え、え、どうして……一体どうして、このひとが泣いてるの?
わたしは激しく、混乱した。
「いや、泣くんとちゃうな……怒ったら、ええねん。怒りぃや。そんな連中、怒鳴りつけて蹴り飛ばしてきたったら良かったのに……なんで、そんな顔して笑うねん」
言葉と共に、腕がきつくきつく、わたしを抱きしめた。
何が何だか全く判らず、なすがままにされながら、わたしはひたすら混乱する。
「――可哀相に」
そして言われた言葉に、背筋がびくっと動いた。
「可哀相や、自分……ほんまに、可哀相やわ」
そう呟くと、相手はわたしの両肩を掴んでぐっと引き離して、闇の中でもはっきり見える程近くに顔を寄せ、こちらの目を間近に覗き込んだ。
「なあ、千晴、自分でちゃんと、それ判ってるか……自分は、可哀相なんやで」
わたしはただただ、呆然とその目を見返した。わたしが、かわいそう?
「千晴はただただ、一方的に、被害者やねんから……それちゃんと判りや、なあ」
軽く肩を揺さぶられて、体に全く力が入らず、わたしの上半身はぐらぐらと揺れる。
「俺な、おかん亡くして、その後姉ちゃんにあんな風に死なれて、それから親父も……そん時むっちゃ嫌やってん、まわりの人に『可哀相』って言われんの」
わたしは軽く目を見開いて、河瀬さんの顔を見た。
「哀れまれてるみたいで、むちゃ気分悪くて……何が可哀相やねん、て言われる度に内心でむっちゃ反発してた。……けどなんか、時間が経つ内、だんだん変わってきて」
ぎゅっと肩の手に力を込めて、相手は続ける。
「なんか、もうええわ、って……言いたい奴には言わしといたらいい、可哀相と思うなら思っとったらいい、俺には関係ない、まわりがどう言おうが俺は絶対可哀相くなんかない、知ったことやない、そんな風にずっと思ってて……けど、あの……あの姉ちゃんのペンダント、見て」
とくん、と心臓が動いた。
「あんなに汚れて、ぼろぼろんなって……あれ見た瞬間、こころの底から、ああ、可哀相に、って思って……それからなんか、判ってきてん」
河瀬さんはまた、よいしょ、とわたしの体を子供のように自分の膝の上に抱き上げると、そっと揺すった。
「俺が、可哀相や、って人から言われるたんびに反発してたんは、それがほんまのことなんが自分で判ってたからや。だって客観的に見たらこれが可哀相やのうて何が可哀相やねん。高校で母親亡くして、姉貴はあんな風に死んで、そのすぐ後に父親も、て、これ百パーセント可哀相やろ。けど……それをどうしても、認めたなかってん」
わたしはまだまともにものが考えられないまま、河瀬さんの言葉をするすると耳から頭に、流し込むように聞いていた。乾いた紙が水を吸うように、胸に言葉が染み込んでいく。
「認めてしまったら、自分がまともに、立てん気がして……可哀相とちゃう、だって俺はこうやって自力でちゃんと立って生きてる、どこが可哀相や、て肩肘張って……そうせんと倒れてしまうの、どっかで判っててん」
河瀬さんは腕の中のわたしを見下ろし、照れたような笑みを浮かべた。
「そやけど、あれ見て……すんなり、思えてん。ああ、俺……可哀相やってんな、て」
そう言うと、少し困ったように眉をひそめる。
「ええと、どう言うたらええんかな……もう大丈夫に、なってん。かつて自分が、『可哀相』やったことを……認められるように、なってんや」
思いも寄らない言葉に、わたしは目を見張った。
「どう考えたってあの時の俺の状況は『不幸』で『可哀相』やった。でもそれは何て言うか、ただの事実に過ぎんねん。厳然たる事実やねんけど、それ以上でもそれ以下でもないねんな。あん時の自分を可哀相、て認めても、今の俺は揺るぎもせんし、たじろがんと立っていられる。それが自分で、判ってん」
河瀬さんはそう言うと、またわたしの目をじっと覗き込んだ。
「それで、初めて……初めて俺は、あの頃の自分に自分で、『可哀相やな』て認めてあげることが、できてん。ずうっと自分が否定してた、そんなんと違うって思ってた自分を……ちゃんと認めて、頭なでて、自分の中に受け入れることができてん」
そこまで言うと、河瀬さんは一度言葉を切って、深く呼吸した。
「千晴も同じや、ちゃんと……判りや。自分は、可哀相やねんで」
――殴られた、ような気がした。
そんな、ことは……考えてみたことも、なかった。
わたしも、このひとと同じだ。
家においでと言った伯母の言葉を、わたしははねのけた。敏行伯父さんも、いつもの寡黙さに似合わず「うちは子供がいないから、いっそ養子においで」と何度も言ってくれたけれど、わたしは頑なに首を横に振り続けた。
いやだったから。
――可哀相な子、そう思われているのが、それをはっきりと相手の態度に感じられるのが、たまらなくたまらなくいやだったから。哀れまれたく、なかったから。
……ああ。
あんな話をしていてさえ、一度たりとも浮かんでこなかった涙が、すうっとこころの底から浮かび上がってきた。
わたしは逃げたかった。
「可哀相な子」である自分から逃げたかった。
もう全然、可哀相じゃない子になりたかった。
そうやってわたしは、あの時の自分に背を向けた。
もうあのわたしは要らない。
あんなみじめでみっともない、「哀れで可哀相な」わたしは要らない。
そう、決めたのだ。
それなのに……あれは結局、一度だってわたしの傍を、離れなかった。いつだってこころの裏側にぴたりと影のように張りついて、隙あらばわたしのこころを喰らい尽くそうとして待ち構えていた。
わたしが認めてあげなかったから。
わたしが見ないふりをしていたから。
あんなものは無かったものだ、わたしのこれからの人生には些かも関係も無いもの、そう決めたから。
そうやってわたしはわたしを、自分の手で突き放した。
「千晴の話って、叔父さんや伯母さんのことはよう出てくるけど、親の話、一度も出てきたことなくて……あの、窓ん中の話やら聞いて、ああ、この子、きっと……すごくちっちゃい頃に、二親とも亡くしたんやろな、それからずっと、ひとりぼっちやってんやろな、でも自分からその話はしたないねやろな、なら話してくれる時が来るまでは聞かんとこう、って、そう思っとってん……けど、ちゃうかってんな」
何の言葉も出てこないままのわたしを、河瀬さんはそう言って揺すった。
「ひとりぼっちより……しんどい思い、しとってんな」
相手の言葉に、こくん、と喉が勝手に鳴る。
「……もう、大丈夫やからな」
歌うように言うと、またわたしを揺すって。
「もう、大丈夫やから……もう落ちついて、安心して、自分で自分、認めてやっても、大丈夫やから……もう誰も自分のことを苦しめに追いかけて来たりせんから、もう何も怖いことなんか起きひんから……安心し、もう、大丈夫、やから」
何度も何度も、手の平が背をなでさすって――ああ。
一気に目の裏が熱くなり、見る間に滂沱の涙となって頬をこぼれ落ちる。
「……ええ子や」
それを見て河瀬さんはふっと微笑んで、思いきりぎゅうっと、背中に手をまわして抱きしめてきた。
ああ、そうか、そうなんだ……わたしは「可哀相」だったのだ。
その言葉には、あれ程忌み嫌っていた哀れみも憐憫も無かった。そんなウエットなものは何ひとつなく、まるでぽかりと空に浮かんだ太陽のように、どうということもなく当たり前のようにそこにある事実に過ぎなかった。そしてその事実は、今のわたし自身を脅かしはしなかった。
あの時の「可哀相なわたし」は、今のわたしにとって、それ以上でもそれ以下でもなかった。かつてそういう自分が確かにそこにいた、それだけのこと。
――可哀相に。
小さな手を握ってよその家の窓を見上げていた自分に、母の繰り言を黙って聞いていた自分に、父の暴挙を見つめ続けた自分に……そしてあの日の自分に、わたしは手を繋ぎ肩を抱いて頭をなでて、一言ずつそう言った。
可哀相に、でももう……大丈夫、だから。
ほら、こうしてわたしは、今ここで元気でやってる。だからもう、大丈夫。ほんとに可哀相だったね、でも安心して、今わたしがいるここには怖いものも嫌なものももういない、だからもう……大丈夫、だからね。
「言うてくれたよなぁ、こないだ俺に、五年分、泣いていいって……今度は俺が言うわ、千晴……二十年分、泣いてええねんで」
やわらかな笑みを含んだ声で、相手がそう言って――ああ。
どうしよう、もうどうしたらいいんだろう……わたしはもう、このひとから離れることが……できない。
胸にすがるようにして、わたしはわあわあ、泣き続けて、その背中を河瀬さんはいつまでもいつまでも、やさしく辛抱強くなで続けた。
次の日の朝、さすがにお互い少し寝坊して、それから地元民らしく、市内の観光地には子供の頃の遠足以外に殆ど行ったことがない、という河瀬さんに、何故かわたしが観光案内をする羽目になった。
と言ってもわたしの経験も大したことがないというか、実のところ、多少、いやかなり偏っている。何せ学生の頃に友達とした「市内観光」といえば、ミステリの舞台になった名所巡りだ。「そういう基準で寺社仏閣にでかける子初めて見たわ」と河瀬さんには大分笑われた。
少しだけお寺をまわった後、街に出てお茶をして、夕暮れの鴨川の岸をぶらぶら歩きながら南へ下がっていくと、すうっと自然に、手が握られて――それだけで熱が出そうになる自分を自分で持て余す。中学生じゃないんだから、そう内心で思って、いやでも中学の時にそういう経験があればその叱咤はアリだけど、実際そんな経験皆無なんだからレベル的に自分は中学生と大差無いだろう、と自分で自分に反論してみたりして。
指を包み込むように手を握られている、それだけでもうたまらなく恥ずかしくて顔を上げることさえできない。
急に無口になってしまったわたしに気づいているのかいないのか、河瀬さんはきらきらとした川の流れに目をやりながら、機嫌良さそうに歩いている。
ああ、もう、ほんとに……わたしひとりだけこんなに激しく体温上げ下げして、この先保つのか、わたしの心筋。
七条の辺りで遊歩道から道路に上がると、階段の終わりで河瀬さんがくい、とわたしの手を引くようにして上りながら振り返り、ひとの顔を見てくすんと笑う。
「……先刻から、真っ赤や」
なんだもう、気づいてんじゃないのよ、もう、ほんとに……ほんとに、意地悪だ。
ちょっと泣きそうになって唇をぎゅっと引き結ぶと、河瀬さんは空いている方の手の人差し指でわたしの頬をちょんちょん、とつついた。
「そないな顔、しなや……なんか俺、犯罪者みたいな気分になってくるわ」
河瀬さんはそう笑いながら言うと、繋いだ手にきゅっと軽く力を込めて橋を渡り始めた。
「……叔父さんちって、近い言うてたよなぁ」
そしていきなりそう言われたので、わたしはきょとんとその横顔を見上げる。
「はい?」
「今から行って、おるやろか」
「え……え、はい、多分」
「ほな、連れてってもうてもええ?」
「え……?」
驚いて見ると、河瀬さんもちらっとこっちを見下ろす。
「いや、何つか、ほら……ちゃんと真面目に、つきおうていこと思ってるから」
ちょっと生真面目な顔と声でそう言われて、またわたしの顔に熱がこもる。
いいよそんなこと恥ずかしいから、と言いかけて、いや、でも黙ってたら黙ってたで後でいろいろ面倒というか、死ぬ程からかわれそうな気もしてきて、もう覚悟決めてさっさと報告済ませた方が無難なのかも、とも思う。
……それに、相手がこのひとなら……絶対「やめとけ」とは言わない、シンさん。
そう思うとふうっと口元に笑みが浮いて、わたしは「はい」とうなずいた。
シンさんちに着いた時――「ほんまに近いな、これ」と河瀬さんはやたら感心していた――には、もう陽は落ちていたもののまだ周囲は充分に明るかった。
工房の扉の前に立つと、さすがにちょっと緊張する。
道に面した窓はカーテンはかかっていたが開いていて、スタンドの明かりが透けて見え、中からカツカツ、鏨の音がする。ああ、いるな、シンさん。
わたしは軽く息を吸い込んで、扉をひと息に開けた。
「――おう」
窓辺の机から、シンさんが目を眇めてこちらを見て、わたしの後から「こんばんは」と頭を下げて河瀬さんが入ってきたのに、ちょっと目を見開いた。
「……どうも」
シンさんはひょこっと頭を下げながら立ち上がり、ふと思い出したように、ぱち、と壁のスイッチを入れる。
薄暗くなりかけていた部屋がぱっと明るくなった。
部屋の隅で軽いモーター音をたてて扇風機がまわっていたけれど、風が通りにくい長屋の工房は少し蒸し暑い。
シンさんは首にかけたタオルで汗を拭きながら、多分コーヒーを飲む為だろう、奥に足を向けた。と、その背に河瀬さんが声をかける。
「――あの」
シンさんが足を止め、体半分だけ振り返った。
「あの……あの」
河瀬さんは言いよどんで、軽く唇をなめ――緊張してるのか、とその時は思ったが、後で聞いてみたらシンさんの名字をど忘れしていたそうだ――意を決したように顔を上げて、「あの、叔父様に、お話が」と言った。
シンさんはちょっと度肝抜かれたような顔で河瀬さんを見る。そんな場合じゃないと判ってはいるけど、でもどう考えてもこのひと「様」って柄じゃないよ、とわたしは内心、河瀬さんには申し訳ないけど頬の内側で笑いをかみ殺すのに必死だった。
「あの……まずお礼を、申し上げたくて。彼女に……電話かけるよう勧めてくださって、ありがとうございました」
真面目に頭を下げる河瀬さんに、シンさんはちょっと途方に暮れたような顔でわたしをちらっと見た。いや、そんな顔されてもわたしだって困る。
「叔父さんが言ってくれなかったらかけられんかった、って、千晴さんそう言うてはって……ほんまに、感謝してます」
もう一度頭を下げると、河瀬さんは指先まできちっと伸ばして直立不動の姿勢になった。
「自分は……姪御さんと、真面目におつきあいしていきたいと、思てます。それで今日は、叔父様にご挨拶しにうかがいました」
そう言うと、またきっちりとしたお辞儀をして。ああ、しかし本当に気恥ずかしい。
自分の頬に血がぱあっとまわるのを感じながら、わたしはシンさんに見られないよう、そうっと顔をそむけた。
その瞬間、
「――気に入らん」
とぶっきらぼうな声でシンさんが言ったのに、驚いて顔を上げる。
河瀬さんもえ、という顔でシンさんを見たが、すっかり不機嫌な顔をしたシンさんは、ふい、と向こうを向いて工房の奥へ行ってしまった。
壁際の冷蔵庫からガラス製の水出しのコーヒーポットを出すと、いつものカップにざぶざぶと注いでいる。
「あ、の……」
河瀬さんがとまどいがちに声をかけると、カップを手にシンさんはじろり、と相手を睨み上げた。
「自分、幾つや」
「え、二十七、ですけど……いや、そら確かにちょと年は離れてますけど、でも」
「どこが離れてんねな! 大して違わんわ!」
ますますむっとした顔でシンさんは声を上げる。え、いや、ええ……そうか、なあ?
「俺は今年二十九や。二歳しか違わんねんぞ」
大股でこちらに戻ってきながら、シンさんはカップを持ったままどすん、と乱暴にテーブルの前の椅子に腰を下ろした。……え?
「なんで二歳しか年違わん奴に『オジさん』呼ばわりされなあかんねん!」
……って、そっちかよ、シンさん!
わたしはこころの中で盛大に突っ込んだ。隣で河瀬さんも、絶句している。
「大体、俺はこいつの叔父貴ではあるけど自分の叔父さんちゃうわ。自分にそんな呼ばれ方される筋合いあるかい」
「ええと、あの……いや、あの、それは大変、失礼しました。以後、気をつけます」
河瀬さんは軽く咳払いすると、ごくごく真面目に頭を下げる。
ああ、きっとこれシンさん、わざとだな。わたしが気恥ずかしいのと同様、多分シンさんもこういうの、真正面からまともにやられるの、相当こっ恥ずかしいんだろう。全くほんとに、この「叔父さん」は。
どうしても我慢しきれず、くすっと笑みを漏らしてしまうと、シンさんがじろ、とこっちを睨んだ。ああ、わたしが気づいたことに気がついたな、シンさん。
シンさんはふい、と目をそらすと、テーブルの上にカップをかつん、と置いた。その横顔に一瞬にやりと笑みがよぎるのを見て、何となく嫌な予感を覚える。
「……そんで自分、俺が許さん、言うたらどうする」
そして意地の悪い笑顔でそう言って河瀬さんを見上げて――ああもうシンさん、根性悪!
「え?」
「俺がこいつとつきあうの許さん、言うたら自分どうすねな」
くい、と親指でわたしを指してみせる。ほんっとに大人げないな、このひとはもう。
「――お願い、しに来ます。認めていただけるよう」
実際シンさんの言ってることは、ただわたしをからかっているだけに過ぎなかったのだけれど、そんなことは露知らぬだろう河瀬さんは、実に生真面目に、ストレートにそう言って頭を下げた。
その直球ぶりに、シンさんの方が軽くたじろぐ。
「って……そんでもあかん、言うたら?」
「また来ます」
河瀬さんはまっすぐにシンさんの前に立って、真正面から見下ろした。
「何度でも。毎日でも、来ます。認めていただけるまで、何年でも」
そう言い切った河瀬さんの姿はちょっとした迫力で、わたしは何だか、状況を忘れてじいんとしてしまった。
シンさんはかすかに唇を開いて河瀬さんを見上げ、ふい、と顔をそむけると立ち上がった。
「冗談や。大体成人してる社会人がどこの誰とつきあおうが、反対する理由も何もあるかいな。好きにしたらええねん、俺の許可なんか要らんわ」
「要ります」
言いながら手を振って軽くいなそうとしていたシンさんに、河瀬さんが正面切って言い返した。……ええ?
驚いていると、シンさんもぎょっとした顔で河瀬さんを見る。
「他の誰でもなくて……貴方の、許可が要ります」
河瀬さんはあくまで真剣な面持ちでシンさんに詰め寄って、予想外なことにシンさんの方がその迫力に押され気味に、軽く上体をのけぞらせる。
「って……なんで」
「それが無いと、千晴さんが幸せになられへんからです」
つっかえ気味に尋ねたシンさんに、河瀬さんはきっぱり言い切った。と胸を突かれて、わたしは息が止まる。
シンさんも一瞬言葉を失い、まじまじと河瀬さんの顔を見つめた。
やがて、ふう、と大きく息をつくと、頭の後ろをかいて、
「……判った、許す」
と目を合わせずに言うと、くるっと向こうを向いてしまう。
「まあ……コーヒーでも、飲めや」
「はい、いただきます」
「いや、だからその固い喋りもやめえや……言うてるやろ、二つしか違わんねんぞ」
「いえ、でも会社なら、二期上は充分、先輩なんで」
「ここ自分の職場か。ほんまにもう……」
シンさんはぼやきながら冷蔵庫からコーヒーを取り出して……なんか、すごい。
わたしは前に立っている河瀬さんの横顔を見つめて、改めて感心した。
シンさん相手に競り勝ちするなんて、もしかしてわたし、すごいひとを選んだのかも。
そして、その言葉。
――貴方の許可が無いと、千晴が幸せになれない。
胸の奥が、またじいんとした。ああ、ほんとに……ほんとに判ってくれてるんだ、河瀬さん、わたしのこと。
足元からじわじわと嬉しさが全身に広がって、わたしは思わず、微笑んだ。
結局その日の夕飯はシンさんちで適当に何か料理して食べよう、ということになり、何故か河瀬さんを工房に残して、シンさんはわたしを買い物に連れ出した。
近所のスーパーに向けてぶらぶらと先を歩きながら、シンさんは目だけでちらりとこちらを振り返る。
「――ハル」
呼ばれて、はっとわたしは顔を上げた。
斜め後ろから、シンさんの横顔がわずかに見える。
「お前……ええのん、見つけたな」
その言葉にわたしは一瞬、目を見開いた。それからゆっくり、顔いっぱいに笑みが広がっていくのを自分で感じる。
「……うん」
こくん、とうなずくと、わたしは少し足を速めてシンさんの隣に並んで、ぐい、とその腕に自分の腕をからめた。
シンさんが度肝抜かれた様子でちょっとのけぞる。
「何やねなお前、暑いやんか」
うわずった声で文句を言うのを無視して、更にきゅうっと、腕をからめて。
「ありがと……叔父さん」
小声で言うと、なおも文句を言おうとしていたシンさんが口をつぐみ、ふい、と顔をそむけるようにして横を向いてしまい……けれど、わたしの腕を振り払おうとはしなかった。
ちらっと見ると、自分の位置からわずかに見えているシンさんの耳元が赤く染まっていて――ああもう、ほんとに……ほんとにこのひとが、自分の「叔父さん」で、良かった。
わたしは唇が自然とほころぶのを止められないまま、ひどく幸せな心持ちで、シンさんの腕に掴まったまま歩き続けた。




