第七章(中)・窓の中
初めて逢った時と同じ生成りのTシャツに、黒のシャツに黒のジーパン姿で、河瀬さんはわたしを、困ったような怒ったような目でじっと見下ろした。
わたしは何にも言えずに、相手が中に入れるように軽く身をひく。
「なんで……」
声を上げかけながら、中に入ってきて――その言葉が、途中で止まった。
「え、え、何これ……え、階段?」
土間で立ち止まり、河瀬さんは仰天したような声を上げた。あ、ああ、確かにこの構造、最初は驚くかも。
「え、いきなり階段? なんで? どうなってんの?」
「あの……あの、うちは、二階で」
いきなり何の話になってるんだ、そんな思いが頭の中をかすめたけれど、河瀬さんがあまりに呆気にとられているのに、とにかく説明しようと口を開く。
「え、じゃ……玄関だけ、一階ってこと?」
「はい」
「ええと、てことは、ここも自分の家に含まれてるってこと?」
「はい、そうです」
言いながら、わたしはどうぞ、と手で上を示した。あ、と慌てたように軽く頭を下げて、河瀬さんがスニーカーを脱ぐ。
とんとんと階段を上がりながら、不思議そうにまわりを見回した。
「そしたら、この下は一階の別の人の部屋? この部分、どうなってんねやろ」
「さあ、わたしは下の部屋には入ったことがないので」
「ああ、そらそか。へえ、面白い、こんなん初めて見た……ああでも、これってつまり、ロビーから自分の部屋まで直通通路があるみたいなもんやんなぁ。へえ、ええかも」
「わたしも最初は驚きましたけど、結構いいです、このつくり」
「うん、ええわこれ」
何と言うか、会話がもうまるっきり世間話モードに入ってしまったのに、わたしはすっかり安堵した。先刻までの破裂寸前の緊張から、一気に空気が抜けていくのを感じる。
階段を上がって部屋の中に相手を招き入れると、わたしは一応、座卓の奥の側の方に置いてみた座椅子を手で勧めた。
「あ、俺こっちでええよ」
けれど相手はあっさりと言って、さっさと下座側に置いていた座布団に座ってしまい――ああ、まあ……座ってしまったものは致し方がない。
そういえばエアコン、つけてなかった。風が苦手で、普段殆ど使わないのだ。
わたしはばたばたと窓を閉め、エアコンのスイッチを入れた。それから冷蔵庫から麦茶を取り出し、氷と一緒にガラスのグラスに入れると相手の前と自分の前にそれを置く。
えっと、後それから、何か……。
他に何かあるだろうか、ときょろきょろしていると、河瀬さんが苦笑して、
「まあ……とりあえず、座りぃさ。って、客の俺が言うのもヘンやけど」
と言った。
「……はい」
うなずいて、座椅子の上にすとんと腰を下ろすと、どことなく気まずい沈黙が部屋を支配した。
かすかにエアコンの運転音が鳴っているのが、やけに耳障りだ。
一度はしぼみ切っていた緊張がまたどんどん膨らみ始めるのを感じて、わたしはぐっと息を詰めた。
どうしよう……どう、したらいいのか……大体河瀬さん、一体何しにうちに来たのか。
胸の中の圧力がだんだん苦しい程高まってくるのを感じていると、不意に河瀬さんが大きくため息をついて、かりかり、と片手で頭をかいた。
その急な動きに、どきんとして相手を見る。
河瀬さんはあぐらをかいて、わたしと目を合わさずに座卓の端の辺りを見るようにして目を伏せていた。
「あの……」
と、唐突に話し出したのに、わたしの背がぎくっと伸びる。
「あの、俺……こないだ、フラれた思っててんけど」
そして続けられた言葉に、わたしはぎょっとした。
「え……え?」
一瞬で頭が大混乱に陥る。
フラれた?
え?
誰、が……誰、に?
目を見開いたまま言葉を失っていると、河瀬さんは実に気まずそうな顔をして、また大きく息を吐いて顔を横にそむけた。
ちょっと待って、「ふられた」って……それは「雨に降られた」とか「仕事を振られた」とか、そういうことでは……ない、よね? そうだよね?
でも、じゃ……どの「ふられた」なの?
いや、おそらくこれだろう、という使い道は頭には浮かんではいる、いるけれども、それは普通、何らかのアクションがあった後に成立する事柄であって……そう、だって、もし、もしもこれがわたしの思っている「ふられた」で、その当事者がわたしとこのひとならば……まずはわたしが、ふろうと思うようなことを、相手がわたしにしていなければいけないのではないか?
混乱のあまり、わたしはつい、細かく細かくものごとを頭の中でこねまわしてしまった。ああ、でもやっぱり判らない、だってそんなことあったか、あの晩に、自分達に。
「……なんで、そうなるんですか?」
もう駄目だ、聞かなければこれ以上いくら自分の頭の中だけで考えてたって全然判らない。そう完全ホールドアップしてしまったわたしは、もつれる舌でそう尋ねて。
「大体、そもそも……ふるようなこと、わたし……された、覚えがないんですが」
何かもう、どっか別の誰かと勘違いしてるんじゃないか、あるいはこのひとが知っているあの晩は自分が知っているそれとは違う、平行宇宙かなんかの出来事だったんではないか、とまでわたしの思考は飛んだ。目の前の現実から逃避してる、と判ってはいつつ、この状況のあまりの有り得なさにどうしても止められない。
すると河瀬さんが、ちょっと心外そうな目でわたしをちらっと見た。
「……言うたやん、俺。俺がそっち、行くから、て……俺では嫌か、て」
また、頭の中が一瞬真っ白になって、あの晩のことが一気に脳裏を駆け抜けるようによぎって、頬にぶわっと血がのぼった。
いや、いや、でも、待って……でもあれって、「告白」なのか⁉
脳味噌がふっ飛びそうになりながら、かろうじて自分の考えにしがみつく。そりゃわたしは恋愛経験なんて先輩以外無い、けど本だって読むし映画だって見る、ドラマはあんまり見ないけど……いや、でもとにかく、そんなまわりくどい、遠いとっからの台詞が「告白」って、それアリなのか⁉
いや、いやそれ以前にそもそも、「告白」って……だって、河瀬さん、ええ⁉
もう頭がぱんぱんになりながら、わたしはふらふらと額に手を当て――ああ、熱い。
だってあんなの、何て言うか……自分としては、ああなんていいひとなんだろう、天然記念物レベルにいいひとだ、と、そんな風にしか受け取っていなかった。すごいなこのひと、みたいな。
そう、それに、それはともかく、あれが「告白」なのかどうかはともかくとして、その後わたし、このひとを「フッた」か⁉
どう思い出してみてもそんなことは露程も思い当たらず――大体あの時、わたし「嫌です」とは言っていないぞ。そりゃ「いいです」とも言ってはいないけど、でもだからって。
「あん時もいいともあかんとも言われんかったし……それに千晴ちゃん、結局携帯、俺に教えてくれへんかったやろ?」
ひとりパニック大会状態になっているわたしに、河瀬さんは少し唇をとがらせるようにしてそう言った。って、ええ?
また斜め上に予想外なその台詞に、言葉を失う。
「そもそも、最初電話してきてくれた時……あん時、わざわざ叔父さんの携帯からかけてきてたやん。あれで、ああ、警戒されてんのかなぁとは思っててんけど……自分では結構、これいけるんちゃうか、て思ってたとこに、言われたん家電だけやったから……ああ、あかんねやこれ、て」
わたしは言葉が出ないまま、目を見張って相手を見つめた。
その沈黙をどう取ったのか、河瀬さんはますます気まずそうな顔で、あぐらを組み直して脇を向く。
「番号もメルアドも教えてもらわれへんかったし、連絡せんといて、てことなんやろうなぁ、て……ソフトに断られてんねんなこれ、て。でもって帰りがけには『ごめんなさい』言われて、ああ、なんやこれあかんねや、て……あの後、俺が手振った時さ、あん時千晴ちゃん、お辞儀しとったやん。ああ、これほんま、完璧アウトやねんなあ、ごめんなさい、さよなら、てことなんやろな、て」
事ここに至って、わたしの思考は完全に停止した。どういうことなの、それ。
「俺、あの晩ほんまへこんでや、寝られへんかってんで。あれから毎晩、家でひとりやけ酒」
ちょっと、だって、待ってよ、ねえ……待って。
頭の中で、意味を成さない言葉が幾つもぐるぐるまわる。
この十日程の自分の苦悩が頭をよぎった。
じゃ、何だ、あれか……ここずうっと、わたしは――いや、相手も――実際のところは些かも苦悩する必要がないことに、お互い真剣に苦悩し続けてたってことなのか? そうなのか?
ゆっくりと事態が理解されてくると、だんだんと唖然とした思いがむくむく胸底からわき上がってきた。
一体それ、何なんだ……そんなことでわたし、あんなに苦しんでたのか。ああもう、だから嫌なんだ京都人の深読みって!
わたしは一瞬、自分の思い込みっぷりを完全に棚に上げてそう内心で叫んだ。
その思いが顔に出たのか、目線をそらしがちにしていた河瀬さんが、ちょっとぎょっとしたような顔でこっちを見る。
「千晴ちゃん……」
「――有り得ないです、もう」
恐る恐るかけられた言葉に、肺の息を全部吐き出す勢いで言った声は、我ながらドスがきいていた。
「え?」
「もう、何もかも全部、有り得ない……そもそもわたし、携帯持ってないです」
「――は?」
その瞬間の河瀬さんの顔は、後になってから思えば実に見ものだった。目が落ちそうな程に大きく見開かれ、口がぱくんと開いて。
「シンさんの携帯借りたのは、あの時シンさんちで、電話あれしかなかったからだし……携帯持ってないんだから、そもそも家の番号しか教えられるものがないです」
「…………」
「ごめんなさいって言ったり、帰りがけにお辞儀したのは、あんなにいろいろ、迷惑かけて、心配もさせて、それなのにお礼も言ってなかったのが申し訳ないと思ってだし……とにかくもう、それ全部河瀬さんの深読みです。読み過ぎるにも程があります」
一気に言うと、ぱちぱち、と河瀬さんは数度瞬きをして、上を見て下を見て、また上を見てからわたしに目を戻す。
そのまま言葉もなく数十秒見つめ合って――やがて、がくっと河瀬さんの上半身が崩れた。
「え……」
「……俺、それでこの十日ばか、ずっとへこんどったんか……あほか、俺……」
がっくり肩を落として呟く姿に、ちょっとカッとしていた頭がいきなり冷える。
「あ、あの」
「何があかんかってんやろ、て……やっぱ俺、自覚無いけどよっぽどまずいこと言うたんやわ、最悪や、思て、もう毎っ晩、無茶飲みして……箱では足らんくて、瓶ビールケース買いとかしてしまったわ。あほちゃうか俺……」
どうも真剣に落ち込んでいるらしいその姿に、わたしは慌てた。
「いや、あの……あの、わたしも……あの、莫迦、だったので」
手を振って必死に言うと、相手がゆっくり、顔を上げた。
「わたし、あの……あの後ずうっと、電話待ってて」
もつれる舌で話すわたしを、河瀬さんがまじまじと見る。
「連絡する、て、言ってくれたから……いつかかってくるんだろう、て、毎日毎日、莫迦みたいにひたすら待ってて」
話している内、その間の苦しさがまざまざと甦ってきて、目にじわりと涙が浮いた。
仕事と家の往復、帰りがけにちょっと買い物する以外、ほんのわずかでも家を離れていてその間に出られなかったらと思うと、怖くてもう全然、外出すらできなかったこと。お風呂に入っていてもすぐに出られるように、子機まで設定して扉の外に置いていたこと。鳴らない電話に、あれは社交辞令に過ぎなかったんだ、あっちには全然そんなつもりはなかったんだ、と毎日毎日、噛み締めるように落ち込んだこと。うっとうしがられるのが怖くて、自分からはどうしてもかけられなかったこと。
そんなことをつらつらと話していると、こらえきれずに頬をつうっと涙がつたった。
河瀬さんは眉根にちょっと皺を寄せるようにして、わずかに唇を開いてじっとわたしを見つめ続けている。
……ああ、言ってしまった……全部、言ってしまった。
わたしははずませるように息をついて、その目を見つめ返した。
河瀬さんは一度ゆっくりと深呼吸すると、口を開く。
「そしたら、今日は、なんで……かけて、くれたん」
その問いに、また目の裏が熱くなる。
「……シンさん、が」
「え?」
「わたし、だからここんとこずうっと、全然シンさんち、行ってなくて……連絡も、してなくて。それでシンさん、心配して電話くれて……話したら、かけろ、て」
河瀬さんがいぶかしげにわたしを見つめる。
「すぐにかけろ、って、電話なんか三分で済むやろ、その三分の為にお前この十日悩んで、これから後もずっと悩み続けんか、て……しんどくても三分や、踏ん張れ、て」
話している内、どんどんどんどん、目から涙が溢れてきた。
「わたし、もう、怖くて……かけなきゃ、って、そう思っても怖くて怖くて……何度もやり直して、すごくすごく苦しくて……でも……必死に、頑張って」
だって、シンさんが言ったから。踏ん張れ、て。
だからやれた。
「…………」
河瀬さんは大きく息を吸うと、おもむろに立ち上がった。どきん、とわたしの胸が大きく動く。
相手は数歩近づくと、距離を開けてわたしの真横にあぐらをかいて座り直した。
「……あのさ」
あぐらをかいた膝の上に両手をかけて、河瀬さんは少し上体をこちらに傾けた。
「あの……」
ためらうように片手で顎をなでると、ちょっと目をそらす。
「あの、もし……もしこれも深読みやったら、即指摘してほしいねんけど……あの、それはつまり……つまり、俺は……OKもらった、っていう理解で……ええん、かな」
一瞬で、顔全体にかあっと血がのぼった。
頭がぱんぱんに膨れ上がったみたいになって――いや、だって、ちょっと待って……でも、だって。
わたしはふき上がってくる涙を止められないまま、わずかに頭を横に振って後じさった。
「え……」
「……わから、ない」
涙の中から、何とか言葉を押し出す。
歪んだ視界の中で、河瀬さんが驚いたような顔でわたしを見た。
「だって、こんな……だって、こんなの知らない」
自分の涙に溺れそうになりながら、わたしは途切れ途切れに声を押し出す。
だって、知らない。
こんな激情を、わたしは知らない。
こんなものが自分の中にあっただなんて、この年まで知らずにいた。
「だって、こんな気持ちに、なったことない……こんなめちゃくちゃなの、知らない……こういうの何て言うのか、判らない」
相手に対して流れていく、自分で全く制御できない、この強い思いを……これをなんて呼べばいいのか、自分には判らない。だってこんなの、経験が無い。
これがもし、もしも「恋」だと言うのなら……かつての恋人とのそれは、一体何だったのか。
あの時に自分が真剣じゃなかったなんて思わない。胸が熱くなるような思いも、不安も、ときめきも……すべてどれも自分には切実だった、それなのに。
いや、それだからこそ……これが何なのか、自分には判らない。
この奔流を、なんと呼べばいいのか知らない。
「こんな、風に……なったこと、ない、もの」
わたしはもうどうしようもなくなって、両の拳を目元にぎゅうっと、きつく押し当てた。その指の上を、どんどん自分の涙が熱く濡らしていく。
頭の中はぱんぱんで、もう何ひとつ考えられず――と。
「――千晴」
驚く程近くで名が呼ばれたと思うと、次の瞬間、抱きすくめられていた。
「……!」
これ以上熱くなることなどない、と思っていた頬の熱が更に一気に上がる。ああ、どうしよう、どう……しよう。
引き寄せられた、腕の力は信じられない程強くて――ああ、気が……遠く、なりそうだ。
背にまわされていた手がすっと肩にかかって、わずかに引き離されて、片手が頬を包み込むようにやわらかく持ち上げたと思うと、もう唇が重なっていた。
え……え、え?
その瞬間、一気に相手の肌の匂いが胸を一杯に襲って――目眩が、する。
熱くて……ああ、頭の中が……めちゃくちゃだ。
キャンディをなぶるみたいに、相手の唇が何度も自分のそれに重なって、やがて離れていったと思うと、またきつく抱かれた。
反射的に腰から後じさってしまいそうになるのを、腕の力で止められる。
「……逃げなや」
頭のすぐ上で、鋭く囁かれた。
頬を押しつけられた薄いTシャツの下で、相手の心臓が驚く程速く打っているのが判る。
「これ以上のことは、せんから……そやし、逃げんな。逃げたら……逆に、抑えが利かんく、なるからな」
その言葉に、また信じられない程頬がかあっと熱くなる。ああ、もう、そんな……そんな無茶な。
相手の腕の中で、自分の息が蒸すように熱い。
「ああ、もう……」
背中をくるみ込むように手をまわして、河瀬さんがため息をついた。
「もう、ほんま何やねなこれ……なあ、俺等まだ逢うの今日で四回目やぞ、そやのに……何だってもう、こんな……こんな、たまらんく愛おしいねん、ほんまに……」
言葉と共に、こつん、と顎が頭の上に乗せられる。どうしよう、恥ずかしくて死にそうだ。
「こんなあっちゅう間に懐に突っ込んできた子、君が初めてや……どないしてくれんねな、ほんまに」
そんなこと……そんなこと言われたって、困る。
わたしは恥ずかしさに悶えながら、泣きそうになった。
「ああー……」
深いため息と一緒に声を吐き出すと、相手が天井を仰ぎ見る気配がした。
「ああ、もう……また君の叔父さんに、借りつくってしもた」
言葉と共に腕の力がゆるんで、わずかに浮き上がりかけていたわたしの腰が、すとんと座椅子の上に落ちる。
わたしは、は、と息を吐き出して、腕の中から河瀬さんの顔を見上げた。
「もう、今度はどういう、礼したらええねん……あのひとおっかなそやし、下手なことしたら今度こそしばかれそうや」
情けなさそうなその声に、ようやっと気持ちが楽になってきて、くす、とつい笑うと、相手がこちらを見下ろし、やっぱり笑った。
片手が上がって、くしゃくしゃ、とわたしの髪をかきまわして、その間にもくつくつと河瀬さんが笑っているのに、つられてわたしの口からも更に笑いが漏れる。
そうやっているとどんどん気持ちがほぐれてきて、わたし達はしばらくの間、互いに向かい合って笑い続けた。
何となく場が一段落すると、河瀬さんは座り直してひと息に麦茶を飲み干した。
「あ……まだ、飲みますか?」
お代わりを入れようとすると手を振って、
「いや、それより何か、落ちついたら猛然と腹減ってきてんけど……飯、行かん?」
と言われた。
「あ……あ、はい」
そういえば確かに夕飯時だ。うーん、まだでも全然、お腹空いてないなあ。
そう思いながらも立ち上がると、隣で同じく立ち上がった河瀬さんが、じろっとわたしを上から下まで眺めた。
「なんか、痩せたよな、こないだよか。もしかして、あんま食うてへんのと違うか」
図星を指されて、わたしは黙り込む。
「ああ、もう……俺も悪かったけど、そっちもそれ、思い詰め過ぎ」
ため息をついてぐい、とひとの頭を押したと思うと、その手で脇に引き寄せて抱きかかえる。
「よし、行こうな。むっちゃカロリー高い系、食わしたる」
ぽん、ともう一方の手で頭のてっぺんを叩くと、ぱっと手を離して――ああもう、だからそうやって気軽に触るけど、その度こっちは顔から火が出そうな程恥ずかしいのに。
真っ赤になったままうつむいて立っていると、相手がくすっと笑って、くい、と肩を引いた。
「ほら、行くで……千晴」
駅の南側の鉄板焼きの店に、河瀬さんはわたしを引っ張り込んだ。
店に入るまでは到底何にも食べられそうにない、と思っていたのだけれど、店内に充満するいい匂いをかいだ瞬間、たまらない空腹を感じる。
河瀬さんは席に座って大層な勢いで注文すると、ふと真顔になってわたしを見た。
「……で、今のは全部、俺ひとりで食べるしな。なんか食べたいのんあったら、追加しな自分の食い分無いで」
「え……ええっ、そうなんですか?」
泡を食ってメニューをめくると、その向こうで河瀬さんは思いきり吹き出した。
「そんな訳ないやん。……いや、量的に俺ひとりで全部食え言われたらそら食えるけども。まあとにかく、今のん全部、俺が食べたいもんばっかやから……他に食べたいのあったら、何でも好きに追加し」
「あ、そ……そうか」
わたしはほっとしつつメニューを眺め、とは言え河瀬さんが頼んだものの殆どが自分の好みとかぶっていたので、とりあえずサラダ程度だけ追加する。
河瀬さんはまた気持ちのいい飲みっぷりでビールを空け、わたしはこの間の反省もあって、かなりピッチを落としてちびちびと飲んだ。
あれこれと平らげた後には、実に久々に「お腹がいっぱい」という気持ちを味わった。ああ、ご飯がおいしいっていいなあ、としみじみと思う。
会計の時に少しもめ――深読みの詫びに自分が出す、という河瀬さんと、前回逃げ出して迷惑かけた分わたしが、と――結局「痛み分け」ということで平和的に割り勘で済ませて、外に出る。
量を少なめにしたとはいえ、やはり酔いは軽くまわっていて、夜風がほてった頬に気持ち良かった。
河瀬さんはやっぱり気持ち良さそうに伸びをすると、歩き出しながらちら、とこちらを見る。
「ほな、送るし……あのさ、千晴ちゃん」
「はい」
「明日、何時上がり?」
いきなり聞かれて、え、と見上げると河瀬さんは横を向いて鼻の頭をかいた。
「いや……明日、夜、逢えへんかな、思て」
「あ……」
お酒のほてりだけではない熱が、ふうっと頬に上がって――明日。
「あの、明日……休み、です」
答えると、河瀬さんはちょっとびっくりした顔でこちらを見た。
「え、土曜やのに?」
「ええ、シフトの関係上、余程忙しくなければ放っといても月に一、二回は土日休みになります。希望も出せますけど」
「あ、そなんや……」
驚いた顔で顎を手でこすって、ふとその足が、ぴたりと止まる。
「……?」
先へ進もうとしていたわたしは、それにつられてつんのめるように足を止めた。どう、したのだろう。
自分の足元を見つめて少し考えていた河瀬さんが、顔を上げる。
「あの、そしたら……あの、今日……泊めてもうても、ええかな」
思いも寄らないことを言われて、息が止まった。
その瞬間に自分の顔にどんな表情がよぎったのか全く見当もつかなかったけれど、わたしのその顔を見た河瀬さんが、慌てて両手をぶんぶんと振る。
「いや、あの、下心とか、そういうんやないから……ああいや、下心が無い言うたらそら嘘やけども、それは間違いなくあるけれども、でもとりあえず今日はそれ発揮しようゆうつもりは無くて」
ものすごい早口でそう言うと、ふ、と息継ぎをして。
「あの、そやから、あの……これから君を家送って、そんで俺は俺で、俺んち帰って……そんでまた明日の朝起きて、どっかで逢うて、って、その間の数時間が、なんや勿体のうて。せっかく……明日一日一緒にいられんねやったら、それまでの数時間も……無駄に、したないねん」
言葉を聞いている内に、またぶわっと頬が熱くなった。ああもう、ほんとに……ほんとに、どこまでひとを恥ずかしくさせる天才なんだ、河瀬さん。
身悶えしそうになるのをこらえて、わたしはごくんと息を呑み込み、それから少しだけ考えて、小さく、ひとつうなずいた。
「……ありがとう」
ほうっと息を吐いて、安堵したように肩の力を抜くと河瀬さんは微笑む。
「何せ十日分、スタート出遅れてるから……ちょっとでも、取り戻さんな」
いたずらっぽい笑顔で言われて、わたしもつい笑ってしまう。
河瀬さんは大きく微笑み返して、ぱん、とわたしの背中を大きな手の平で叩いた。
途中のコンビニで、河瀬さんは歯ブラシやら着替えやらを買い込み――わたしは何となくこっ恥ずかしくて、店の外で待っていた――夜空を見上げながら、ああ、これシンさんに知られたら死ぬ程からかわれる、絶対黙っとこう、と固く固く自分に誓った。
家に帰ると、もう十時をまわっていた。
とりあえずあまり深く考えないまま、いつものようにお風呂をわかしてしまう。ああ、でもしかし、これ……わたしは入るけど相手も入るよな、なんかもう、本当に……やたらと恥ずかしい。
その辺りを一体どう考えているのか、河瀬さんはまるっきり素の顔で、からから、と氷を鳴らして麦茶を飲んでいた。その姿を見ていると、ひとりで気構えている自分が何だか莫迦らしくも思えてくる。
しかし、布団はどうしたものか。わたしは普段、マットレスの上に敷き布団を重ねて敷いていて、伯母が来た時などはそれを別々に並べて敷いて、シーツをかけて使っているのだけど……まさか、並べて、て訳にはいかないしなあ。
とすると、座卓を置いているメインの居間にひとつ敷いて、居間と台所の間を繋ぐ、押し入れのある三畳程の部屋にもうひとつを敷いて……わたしはエアコンなくても寝られるから、間の襖を閉めて、自分が押し入れの前で寝たらいいか。
あれこれと考えている内、お風呂がわいた。とりあえず断って、自分が先に入ってしまう。
今この壁の向こうに相手がいると思うと、やはりたまらなく、恥ずかしい。
わたしはお湯の中にぶくぶくと沈み込んだ。ああ、のぼせそうだ。
あれこれ考えているとパンクしそうだったので、ざかざかと頭と体を洗って、すぐに出てしまう。タンクトップの上に、特に何も考えずに箪笥から取ってきたいつもの青いガーゼのパジャマを着て、鏡に映る姿にはたと我に返った。ああ、なんかこの格好で相手の前に出るの、死ぬ程恥ずかしい。
わたしは引き戸の前で、しばらく躊躇して――いつまでもそうしている訳にもいかず、思いきってがら、と戸を開いた。
エアコンで冷えた空気が、ひんやりと頬に当たる。
「お先、でした」
「ああ……」
本棚の雑誌をぱらぱらとめくっていた河瀬さんがふっと顔を上げ、そのまままじまじと見つめてくる。お湯でのぼせた顔が更に熱を持つのが判る。
「あの、どうぞ」
手でお風呂の方を示すと、「あ、ああ」と慌てたように立ち上がった。
「タオル、置いてますから。適当に使ってください」
「あ、ありがとう」
ひょこっと頭を下げて河瀬さんが引き戸の向こうに消えると、全身からやっと力が抜けて、わたしはへたへたとその場に座り込んだ。
なんかもう、今日一日でわたし、今までの人生の最高血圧、更新した気がする……。
ぐったりしかけながらも何とか気力を保って、濡れた髪にドライヤーをかけ、頭をタオルでこすっていると、少しだけ落ちついてくる。
大体髪が乾いたので、冷蔵庫から水出しの紅茶を出してグラスに注ぎ、新しいものを仕込んでいると、後ろでがらりと引き戸の音がした。え、え……結構、早い。
わたしはグラスを持ったまま後ろを振り返って、襖の前に、洗い髪をタオルでばさばさ拭いながら立っている背の高い姿が見えたのに、どきん、と心臓が跳ね上がる。
「あ……俺もそれ、もろていい?」
河瀬さんはわたしの動揺に全く気づかず、ひょい、と指でわたしの持っているグラスを指してくる。わたしは慌ててうなずくと、ぱっと背を向けて棚のグラスを取った。
ああ、もう……ほんと何だって、わたしばっかりこんなにどきどきしてなきゃいけないんだ? そりゃ場数が違うことは判ってるけど、でも何だかずるくない?
どうにも理不尽な気持ちがわき上がってくるのを覚えつつ、わたしは氷とお茶を入れたグラスを持って、相手に差し出した。
「おおきに」
河瀬さんは嬉しそうに言うと、ぐっとひと息にそれを飲み干して。しっかりした首筋に、ごくんごくんと喉仏が上下しているのにまたどきりとする。
「あ、の……あの、ドライヤー、良かったら」
それをごまかそうとして言うと、河瀬さんは歯を見せて笑って、氷だけになったグラスを持ったままどすんとあぐらをかいて座った。
「ああ、ええって、ちょっと放っときゃすぐ乾くし、この方が涼しいし」
言いながら肩にかけたタオルの端で、ごしごし、と髪をこする。
わたしは所在なく、座卓をはさんでその向かいにぺたんと座った。
「ああ、なんか……こういうん、久々や」
頭をこすりながら、河瀬さんがそう言って笑う。
「え?」
「こういうん……家に、自分以外の誰かがいて……まあここ俺んちやないけどさ、でも……こんな風に、家ん中で誰かと向かい合ってるって……ほんま、久々や」
その言葉に急に胸が締めつけられるような思いがして、じっと相手を見つめる。
河瀬さんはわたしの視線に照れたように笑って、わずかに目を伏せた。
――自分の窓の中にはもう誰もいない、そう言った河瀬さんの言葉が、耳に甦る。
このひとは……そっちへ行くと言った。わたしの、傍へ。
けれどわたしは、本当にそれに値するのだろうか?
微笑んでいる相手の向かいで、わたしは不意に、強い不安に襲われた。
布団を分けて敷こうとしたのに、河瀬さんは「自分は座椅子で充分」と言い張り、畳んだ座布団を枕にタオルケット一枚かぶって、ごろんと横になってしまった。
「学生の頃なんか、よう連れのウチで畳に直寝で雑魚寝したわ。こんなんむちゃええ寝床やで」
そう言い張るのに、わたしは仕方なくいつものように布団を敷くことにした。ちょうど、相手が寝ている座椅子とLの字になるような位置関係で、薄手の布団に潜り込む。
「じゃ……おやすみ、なさい」
「おやすみ」
わたしは天井から下がった電気の紐に手を伸ばして、あかりを消した。ぱちん、という音と共に、部屋が真っ暗になる。
だけどこれ、眠れる気がしない……自分の足元に、相手が寝ていると思うと。
わたしは寝返りもおちおち打てずに、布団の中でがちがちに固まっていた。相手の立てるわずかな物音に、いちいちびくびくする。
何だか息の音さえ憚られるような心持ちでいると、不意に、
「――ごめんな」
という声が足元の方からして、心臓がきゅっと縮み上がった。
「え……えっ?」
「無茶言うて、ほんま、ごめん……けどどうしても、傍におりたかってん」
本当に心底申し訳なさそうなその声に、心臓の鼓動がゆっくりと落ちついてくるのを感じる。
「しんどい思いさして、ごめんな……だいじょぶやから、安心して眠って」
子供に言い聞かせるようなその声に、わたしはじいんと、胸が熱くなるのを感じた。体のこわばりがすっかり取れて、ほうっとため息が唇から漏れる。
「……はい。おやすみなさい」
先刻とは全く違う気持ちで言うと、「おやすみ」とまた相手が答えた。
わたしは深く、息を吐き出して、それからそっと、瞳を閉じた。




