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第七章(前)・窓の中

 

 そして約束の日、わたしはいつものように仕事の後にシンさんの家に寄り、二人で待ち合わせの場所に向けて歩いた。

 時間より大分早く着いたけれど、河瀬さんは奥の方の席に座って既に待っていた。

 シンさんは河瀬さんに軽く会釈するとレジに並び、わたしは自分だけ先に相手の席へと向かう。

「こんばんは」

 ぺこりと頭を下げると、河瀬さんは唇をほころばせて、何故だかとても嬉しそうな顔で微笑みかけてきた。どうしてか、胸の辺りがきゅうっと切なくて息が詰まる。

 わたしはそれを押し隠すように、顔を伏せ気味に相手の向かいに腰を下ろした。

「こないだは、ありがとう」

 やわらかい声で言われて、またどきっとする。

「あ、いえ、あの、こちらこそ、ごちそうさまでした」

 つい声がうわずりそうになるのを抑えながら言うと、シンさんがコーヒーとわたしの分の紅茶を持って後ろから現れ、隣に腰を下ろす。

「どうも」

「あ……先日は、お世話になりました」

 河瀬さんが立ち上がりかけるのを、シンさんは「ええから」とさっと手で制した。

「すみません、でも、ほんまにお二人には感謝してるんで……チェーンも直してもろたしきれいにもしてもろて、こないだとえらい見違えるようになってて、ほんま嬉しいて」

 台詞の途中で、シンさんがわずかに目を見開いてわたしの方を見て。あああ、もう、河瀬さんそれ言っちゃうのか。

 隣のシンさんの視線を感じながら、止めようもなくばーっと顔が赤くなっていくのを感じる。

「……いえ、それ程でも」

 シンさんが実にふくみのある声でそう答えた。ああ、これ絶対、後で突っ込まれるな。

 とほほ、という気持ちで肩を縮めて座っていると、シンさんがくい、とコーヒーを口に含んだ。

「お姉さんの相手の男ね」

 そしていきなり話し出すのに、わたしはぎょっとする。

 わたし同様、河瀬さんもとまどった顔をしてシンさんの方を見た。

「仕事関係の、出版社の方に聞いたんですが……九州飛ばされて、その後そこでも問題起こしよって。けどそっちの会社の人が協力してくれて、奥さんうまいこと仕事みつけて慰謝料も取って離婚しはって、今もお元気にしたはるそうですよ」

 ……ああ、そうか。

 いきなりの話に心臓が飛び出そうになったけど、そうか、それを言ってあげたかったのか、シンさん。

 わたしがほっとするのと同時に、きょとんとしていた河瀬さんの顔にも、ああ、とゆっくりと安堵のいろが広がった。

「そら良かった……お元気にしたはるんやったら、何よりですわ。安心した」

 目元をゆるませて微笑むのに、ああ、やっぱりいいひとだな、とこころから思う。

「にしても、その男……」

「そんでまたどっか地方に飛ばされたそうですよ。今は鳴かず飛ばずらしいです」

 今度はわたしが、少し目を見開いてシンさんの横顔を見て。

 ああ、そうか……言う気ないんだ、シンさん。今そいつが再婚して大阪にいて、また性懲りもなく会社の子に手出してること。

 そして自分がそいつに、どんなものをおっかぶせてきたのかということも。

 確かに、それは絶対に言えない。けれどそれを知らないと、相手に何の報いもないと思うことになるだろうから……これ以上河瀬さんの背にそんなただ重たいだけの荷物を乗せたくない、そう思ったんじゃないだろうか、シンさん。

「そんくらい自業自得や……ああ、でも、ほんと良かった」

 小さく毒づいてから、河瀬さんはそれを一瞬で拭い去り晴れ晴れとした笑みを浮かべた。

「ずっと、気にかかってたんで。すっきりしました。ほんま、ありがとうございます」

 テーブルに両手をついて、深々と頭を下げる。

「見つけてもうただけでも有り難かったのに、わざわざそんなことまで調べていただいて……ほんまに、感謝の言葉もありません」

 河瀬さんはそう言うと、脇に置いていた鞄を手に取り、中から何かを取り出して、

「――これ、気持ちです」

 と言ってテーブルの上に白封筒を置いたのに、わたしはちょっとぎょっとして身を引いた。

「って……」

 シンさんも意表を突かれたように目を見開き、それからむうっと、眉根に皺を寄せる。

「あほか。しまえや、要らん」

 いきなり敬語抜きになってしまったシンさんに、わたしはあいた、と思ったが、でもこれは心情的には、完全にシンさん側だ。そんなものは要らない。

「いや、でも、何か具体的なもんでお礼しないと、こっちの気もすまんので」

 が、不機嫌モードに入ったシンさんに一歩も引かずに、相手は更にすっと封筒を指で押し進めてくる。

「こっちはこっちの都合があってしたことや。言葉だけならともかく、そないな礼してもらうような話ちゃう」

「でも」

 腕を組んでふい、と体ごと横を向いてしまったシンさんに、全くめげることなく河瀬さんは食い下がった。

「ほんまに、俺……自分は、嬉しかったんで。一昨々日、命日の日に、綺麗になったあれが帰ってきて、それでやっと、あの場所にも行けましたし。ちは……篠崎さんが一緒にいてくれはらへんかったら、自分ひとりではとても、あそこには行けませんでしたから」

 シンさんが肩をまわして、珍しいものでも見るようにわたしの方を見てくる。ああもう、だからどうして言っちゃうの河瀬さんてば。

 また頬がかあっと熱くなるのを感じていると、シンさんが腕組みをほどいた。

「そやし、受け取ってもらえんと自分の気が」

「――判った」

 なおも食い下がろうとする河瀬さんの台詞をぶった切って、シンさんは一言言うといきなり立ち上がって――え、え?

 わたしは目を丸くしてシンさんを見上げた。受け取っちゃうの、シンさん?

 シンさんは立ち上がり様コーヒーをひと息に飲み干すと、背をかがめて、差し出されている封筒をぐい、と手の平で相手側に押し返した。

「ほな今日これから、この中身でこいつにええもん食わしたってくれ」

 そう言いながらくい、と親指でわたしを指して――え、ええっ⁉

「え、ちょっ」

「それで帳消しや。……ええな」

 河瀬さんは呆気に取られた顔でシンさんを見上げた。ゆっくりと、その顔に笑みが広がる。

「――はい」

 て、ええっ、ちょっと、何二人で話つけちゃってるの? わたしの意見は? 大体なんでいきなりそういうことになるの?

 わたしがパニックに陥っているのを尻目に、シンさんは軽くぽん、とわたしの頭を叩く。

「ほな、こいつよろしく」

「はい」

 やけに力強くうなずく河瀬さんに軽く手を振って、シンさんはさっさと店を出ていってしまった。えええ、ちょっと待ってよう。

「ほな行こうか、千晴ちゃん」

 封筒をしまいながら、実に機嫌良さそうに河瀬さんが言って。

「いやあのっ、でもほんと、そんな、いいです、わたし」

 しどろもどろになりながら必死に手を振ると、首を振って笑う。

「今更そんなん言わんといてえや。君の叔父さん、むっちゃきついんやろ? 言うてたやん、こないだ」

 いや、まあ、実際凶暴なひとではあるんだけれど、でも。

「言われたこと守らんかったら、俺なんかすぐぼっこぼこやわ。助ける思て、つきおうてえよ、千晴ちゃん」

 どこかいたずらっぽく、両手を拝むように合わされ――ああ、もう、シンさん、後できっちり話つけさせてもらうからね!

 わたしは内心で叫びつつ、半分やけになりながら立ち上がった。



 河瀬さんは既に行き先を決めている様子で、「閉店が早いから」と言ってタクシーに乗り込んだ。

 運転手さんにわたしの知らない名前で指示を出すと、移動しながら店に電話を入れて予約を取っている。

 ああ、もう、なんでこんなことになっちゃったのかなあ……。

 すぐ隣に相手の体温を感じながら、わたしはひどく居心地の悪い思いで身をすくめた。

 七条通を東へ走る車は、やがて鴨川を渡って博物館の手前辺りで止まる。

 さっさと料金を払ってしまって車を降りる河瀬さんの後に急いで続くと、渋い門構えの純和風の店にどんどん入っていってしまった。

 うわあ、なんか腰がひける……。

 びくびくしながら入っていくと、店内に上がった後に案内されたのが個室だったのにまた冷や汗がにじむような心地がする。

「二人分、後うざくとうまき、そんで日本酒……あ、千晴ちゃんも飲む?」

 注文を取りに来た仲居さんにメニューも見ずにさくさく頼んでしまうと、河瀬さんは座布団の上によいしょ、とあぐらをかいてこちらを見て笑った。

「ここ、コース一択やねん。ものすご昔に接待でいっぺん来ただけやけど。美味いよ」

 接待って……それちょっとほんとに困るよ河瀬さあん。

 もう何だか泣きそうになりながら座っていると、最初にお抹茶のお接待があって、それから先付が運ばれてきた。

 その昔高校のマナー教室で懐石料理食べた時、こんな感じのものが出てきたような気がするが、わたしの食生活経験ではそれが精一杯だ。あの時は確か、箸を手に取り方のお作法、とかもやった気がするが、記憶、が……。

 個室でむしろ良かった、と思いつつ、わたしはぎこちなく箸を口に運んで。おいしいような気はするんだけれど、緊張して味もよく判らない。

「千晴ちゃん、背中がっちがちやで」

 河瀬さんが苦笑しながら、運ばれてきた日本酒を注いでくれる。

「しんどいやろ。足崩しいや」

「はい……」

 ああやっぱり個室で良かった、と思いつつ、わたしは素直に足を崩した。靴下の中で、足先がじいんと熱を持つ。

 その内にくつくつと煮えたお鍋が運ばれてきて、おだしを口にふくむと、その温かさとまろやかな味に少し人心地がついてくる。

 河瀬さんは自分も飲みながら、ひとにもどんどん注いでくれるので、気づくとずいぶん酒量が進んでしまい――これ大丈夫かな、とこころのどこかで思ったけれど、どうも実に相手の注いでくるタイミングが絶妙で、注がれれば注がれるだけつい飲んでしまう。

 ちょっと気が抜けたところで口も軽くなってきて、最初は河瀬さんが仕事の話や学生時代の話をしているのをただただ聞いていたのが、何がきっかけか、また自分のこと、と言うよりもシンさんのことを、わたしはつらつらと話し出していた。

 この間はシンさんの話と言ってもどちらかと言えばその仕事のこと、そしてレイコさんや田上沢さんなど、周囲のひとについて話していたのだけれど、今日は話の流れ的に、シンさんと自分とのことについて――自分が相手をシンさんと呼んでいることとか、その理由とか、そんなことについて、気づくとあれこれ、話していた。

 それから、自分の仕事のこと。

 深く考えず飛び込んだ仕事が、今はどれだけ楽しいかということ。人が楽しそうにやって来て楽しそうに帰っていくのが、たまらなく嬉しいのだと、そんなこと。

 話しながら、頭の片隅で「あ、こんなことまで話し過ぎかも、セーブしなくちゃ」とは思うのだけれど、それはすぐに流されていってしまった。

 ああ、こういう風に頭のどこかですごく客観的に自分を見てるのに、その自覚はあるのに、自覚するだけで現実には止められない、て酔っている時の自分の典型症状なんだよね。いかんいかん。

 と、やっぱり頭で思うだけで、実際にはお酒も話も止められなかった。

 何故って河瀬さんが、どうしてだかひどく嬉しそうに、ひとの話を聞くからだ。くいくいと杯を傾けながら、話が止まると「で、続きは?」と笑顔でうながす。その笑顔を見ると、もう何もかもどんどん、聞いてもらいたくなってしまうのだ。

 お鍋の後に雑炊がやってきて、締めに果物を食べると、すっかりお腹が一杯になった。

 心底恐縮してしまったが、河瀬さんは本当に二人分の会計をあっさり出してくれ――「もともとお礼にしよ思た分で出してんねやし。それで俺も食べてんねんから、損どころか得してるわ」と言って笑った。

 外に出るともうすっかり暗くなっていたけれど、時刻はまだ九時前だった。 

 夜気にあたると、自分の頬がすっかりほてっているのが急によく判る。そういえば足元も、奇妙にふかふかしている。

「どうしよ、バスで戻る? 歩こか?」

「ああ、歩きましょう」

 このふかふかした気分で車に乗ってしまうのは勿体ない気がして、バス停を指して問う河瀬さんにわたしはそう言って歩き出した。

「そやな、今大分涼しいしな……しかし千晴ちゃん、ザルやねえ」

 後からついてきて、くい、とわたしを歩道側に押すようにして隣に並んだ河瀬さんが、そう言って笑う。

「そうですか? それ、シンさんにも言われるんですけど、わたしから見たらシンさんの方がよっぽどザルなんだけど。大体あのカップル、双方あんなに細いのにあんなに飲むわ食べるわで、なんかずるいと思う。あぁ、でも今レイコさん、お酒アウトですけど」

「え、どうして?」

「これで」

 ちょっと心配そうに聞いてきた相手に、お腹の前で片手で大きく弧を描いてみせると、「ああ」と目をまん丸く見開いた。

「へえ、あ、そうなんや。え、じゃ結婚?」

「そりゃそうでしょう、って……あれ、そういえば、どうするんだろうな、それ」

 わたしが知ってる範囲内では、まだ籍入ってないと思うんだけど。まあ生まれるまでには間違いなく入れるんだろうけど、一体どうする気なんだ、シンさん?

「まあ……するでしょう。すると思います。しなかったら殴ります」

「乱暴やなあ」

 つい拳を握って力強く言ってしまうと、河瀬さんが破顔した。

「だって。……わたし、ほんとに嬉しいんですよ」

 そう言うのと同時に、自分でも止められず、頬いっぱいに笑みが浮かんだ。

「もうね、絵に描いたみたいに、目の前にはっきり、見えるみたいで。絶対にシンさんが幸福になる、て思うから、それが嬉しくて」

 わたしはもう体中から笑みが溢れ出してしまうような心持ちで、指を組んだ両の手を思いきり前へ伸ばした。

「……そんな、嬉しいん」

 河瀬さんが少し背中を曲げて、こちらを覗き込むようにして笑顔で尋ねる。

「うん。ああ、良かったなあ、シンさん、って、思えば思う程、嬉しくて」

「ふうん」

 背筋を伸ばすと、河瀬さんは少し首を傾げて。

「そない仲ええんやったら、嬉しいは嬉しいにしても、多少はさびしいんやないんかな、と思ったけど」

「え、どうして?」

 本当に判らなくて、わたしは真顔で相手を見上げてしまった。

「わたし、だって、シンさんが幸福になることが、何より嬉しいですもの。百パーセント、あますところなく幸福になってほしい。それが見てみたい」

「……そっか」

 すこぶる真面目に本心を言ったのに、河瀬さんは何故か笑って、ぽん、と軽くわたしの頭を手の平で弾むように叩いた。

「ほんまに叔父さんのことが好きなんやね、千晴ちゃんは」

 やさしく言われた言葉に、咄嗟にぱっとただうなずく、ということができなくて――いや、ええと、そりゃ好きか嫌いかって二分類で言ったら文句なく「好き」なのだけど、でも何かそういうこととはまた微妙に違うような気もする。

 ……ああ、また、ダメだ、こういう言葉の細かい定義みたいなものにいちいちこだわってしまうのも酔ってる証拠だ、頭のどこかの客観さんがそう言ったけれど、やはりそれは自覚できるだけで止めることはできなかった。

「んー、ん、なんか、ええと、好き、って言うのか……」

 もこもこと話し出すと、河瀬さんが怪訝そうにこちらを見た。

「……似てるから、わたしとシンさん」

 やっとその言葉が出てくると、自分の中でいきなりいろんなことが一気に整理された。

「わたし、子供の頃からずうっと、自分が窓の外にいるみたいな気がしてて」

 道は川を渡る橋の手前で、河瀬さんが足を止めてしまったので、わたしもその場に立ち止まりそのまま話し続けた。



 ごく小さい頃、よその家の窓の外から、よく中を眺めた。

 カーテンの隙間から見える暖かい光、それに照らされた父母と子供。その、笑顔。

 それがずうっと、喉から手が出る程羨ましかった。

 やがてその内、年も重ねて自分もそんな、子供じみた渇望もなくなって……そして今は、それを見ているのが嬉しいと思うのだ。

 何となく曖昧に感じていたそれを、はっきりと自覚できたのは働き出してからだった。

 ホテルの仕事は、窓の外から、中を見て嬉しいと感じることと似ている。

 そこにはっきりとあたたかく幸福なものがあって、それを見守っている。そのことが自分にとってはたまらなく嬉しくて楽しい。

 窓の中に、確かな幸福がある。

 それは自分には与えられなかったし縁も無いものなのだけれど、でも確かに間違いなくそこにある。夢物語ではなくて、この世界に必ずある。この世界にはどこかにちゃんとそういうものが存在していて、輝くように息づいている。

 それが自分を勇気づけて、嬉しくさせた。

 手が届かないその輝きを見ているだけで、それがそこにあるだけで、嬉しくて、安心できて、救われるような思いがした。

 自分が知らないだけで、ちゃんとある。だからこの世界もそう捨てたもんじゃない、大丈夫だ、そう思えた。

「シンさんも……窓の外にいるひとだ、て、そう感じてて」

 実際のところ、わたしはシンさんの子供時代については殆ど知らない。知ろうとも思わない。

 それでも、判る。

 わたしとシンさんは、世界に対して同じようなスタンスで生きてきたのだ。

 自分はここでいい、傍観者のままでいい。ずっとこの場所でいい、そう思って生きてきたのだ。

「だから、何て言うか、一緒に窓の外にいる、そういう感じだったんだけど……でも、これできっと、シンさんはあっちに行ける、そう思ったら嬉しくて」

 唇から勝手に笑みがこぼれるのを抑えられずに、わたしはひたすら、話し続けた。

「ちゃんと、あそこにあるんだ、てこと……窓の中にそういう世界がちゃんとあって、そこにシンさんが入っていけるんだ、って、わたしがそれをこっちから見ていられる、そう思ったらたまらなく嬉しくて」

 手が届かない、夜の星のようなものだと思っていた。星はたくさんあるけれど、そこに自分の好きな花が咲いた星がひとつあるだけで夜空の輝きがずっと特別になる、星の王子さまがそんなことを言っていたと思うけど、そういうことに似ていた。どこかの誰かの幸せではない、身近で大事なひとの幸福の光がこれからは眺められるんだ、そう思うと嬉しかった。ずうっと向こうで、幸福でいてほしい、そう思った。

 酔いに任せて話があちこち行ったり来たりしながら饒舌に喋っていると、少し背をかがめるようにして注意深く耳を傾けてくれていた河瀬さんが、小さく「ん」とうなずいた。

「ん、大体……判った。君の言うてること」

 何度もうなずきながら、考え考え言って。

「けど、ひとつ判らんことがあんねやけど」

「え?」

 きょとんと聞くと、相手も首を傾げてこちらを見下ろした。

「なんで、自分は……千晴ちゃん自身は、窓の中に行こうとは思わへんの?」

「…………」

 瞬間、頭の中が真っ白になった。

 え、……え?

 意味が判らない。

 わたしはすっかり白紙になってしまった頭の中で、懸命に、今の河瀬さんの言葉を反芻した。

 ゆっくりと、どこか間延びしたような響きで声が頭の中に谺する。

 ――何故?

 ――何故、自分は窓の中に行こうとしないのか?

 やがて何度も繰り返された言葉が、より単純な問いのかたちになって自分から自分へと問い質されて、電撃が走るように、頭の先から足の先までぐっと体が突っ張る。

 だって……いや、だって……でも、そんなこと。

 先刻まで真っ白だった頭の中が、一瞬で砂のように大量の言葉で溢れ返った。

 足元からパニックに襲われ、ぐらりと上体が傾く。

「え、あ、千晴ちゃん⁉」

 傾いだ体を、河瀬さんが慌ててぐい、と両肩を掴んで――がっしりとしたその手の感触、その温かみと力強さに、突然、本当に突然、堰を切ったようにぽろぽろ、と涙がこぼれた。

「え……えっ?」

 河瀬さんも軽くパニックを起こしたのか、熱いものに触れたみたいにぱっと手を離す。

 わたしはもう自分の顔がどうなっているのか全く判らないまま、河瀬さんの方を見上げた。

 後から後から、ぽろぽろと涙が玉になって頬をつたっていく。

 息をはずませながら、河瀬さんもそんなわたしをじっと見ていた。

 ……ああ。

 何故だか突然、腹の底からたまらないいたたまれなさと苦しさがわきあがってきて、気がつくとわたしは身を翻して走り出していた。

「――千晴ちゃん!」

 後ろから叫ぶような声が聞こえたが、わたしは振り返らなかった。



 相手がすぐに追ってきたのに、わたしは赤になった瞬間の信号を車に甲高いクラクションを鳴らされながらも強引に渡って距離を稼ぐと、橋を渡り大通りを曲がって細い路地に飛び込み、その間をすり抜けるようにして振り切った。

「千晴ちゃん……!」

 狭い辻の間に身をひそめていると、声と足音が遠ざかっていく。

「は……」

 それが完全に聞こえなくなったのを確認すると、肩をがっくり落とすようにして深く息をついて、わたしはその場にずるずると座り込んだ。

 辻に並んだ家の壁に背中をもたせて、空を仰ぐ。

 顔は火の出るように熱く、頭が風船のようにぱんぱんに膨らんでいる感じだ。

 急に走ったせいか、一気に体全体に酔いがまわっていた。

 前髪をかきあげると、額にじんわりと汗をかいている。

 少し息が落ち着くと、何だか自分が、とんでもないことをしたような気がしてきた。

 一体どうしちゃったんだ、わたし……?

 こつん、と後頭部を壁にぶつけると、大きく息を吐く。

 時々、カッとなってしまうことはある。そうなるとつい、きついことを言ってしまったりやたら攻撃的になってしまう、そういうところが自分にはある。それは自覚していたし、気をつけよう、と常に思っていた。思っていてもやってしまうのだったが。

 けれどこれは、そういうこととはまた全然別だった。

 腹を立てた訳でもないのにこんなにも完全に自分の理性がふっ飛んでしまう、というのが初めての経験で、わたしは本当に混乱した。

 酔ってる、からなのか……いや、でも……違う、気がする。

 どうしてあんなにも、あの場から逃げたかったのか。

 不意に、またぐっと、吐き気のように胸の奥から熱いものがこみあげた。

 ……あの問いから、逃げたかったのだ。

 再びとどめようもなく溢れ出す涙と共に、言葉が転がり落ちる。

 ――何故、自分は窓の中に行こうとしないのか?

 わたしは声が溢れそうになるのをこらえて、片手でぐっと口を覆った。

 その指の上を、涙が濡らしていく。

 どうして……どうして、河瀬さん。

 何故、あんなことをわたしに聞いたの?

 わたしはそこにいない河瀬さんの幻に向かって、内心で大声で問うた。

 例えて言うなら、それは魚に向かって、「何故、水の外で生きないの?」と聞いているようなものだった。だからわたしはそれを聞いた、その一瞬間は完全に呆れ――何言ってるんだ、このひと大丈夫か、くらいの気持ちに襲われて、そしてその次の瞬間、殴られたようなショックを感じた。

 わたしにとって、窓の中は魚が見る陸上の世界だった。

 けれども。

 けれどわたしは、魚ではない。

 魚ではないのに、人なのに、でもはっきりと自分は魚なのだ。

 その事実がいきなり目の前につきつけられて、わたしは逃げた。

 小さい頃、たまらない切なさを抱えて見つめた窓の中の世界。けれどわたしはその渇望をやがて手放した。

 ああ、あれは自分とは無関係なんだ、そう思った。

 あれは自分には与えられない、縁が無いもの。自分が立っているこことあそことは完全に切り離されていて、深い断絶があって、決して飛び越えられない。

 わたしは水の中にいる魚で、あそこは陸の上なのだ。

 そう考えることで、わたしはあの苦しさから逃れた。

 自分は行けなくても、その中に入って楽しめなくても、水の中から見る眺めはとても綺麗で、間違いなくそこにあった。ただ、自分が決して行けないだけだ。

 そう思っていれば良かった。

 それなのに。

 わたしは魚じゃない、河瀬さんの問いはそうわたしに告げていた。

 魚じゃないのに、何故陸に上がらないのか、そう。

 ……だって、そう考えなければ、生きていけないじゃないか。

 あの中にいることが一体どんな風なのか、あそこにいると世界をどう感じるのか、外からいくら景色を眺められてもそれはわたしには皆目判らず、想像してみても全く実感はわかなかった。

 そうしたら、それは住む世界が違うからだ、そう考えるしかなかった。

 国の違いとか年代の違いとかいう差異のレベルではなく、もっと根本的な――そう、あそこは陸地でこちらは水の中だ、そして自分は魚で、あそこにいるのは人なのだ。

 わたしは姿は人に見えても、その実は人の皮をかぶった、魚なのだ。

 決して人には、なれないのだ。

 一度そう考えてしまえば、楽だった。割り切ってしまえれば、渇望するのではなく、ただ単純に綺麗な景色に憧れるのと同じように、こんな素敵な場所がこの世のどこかにあるっていいなあ、という気持ちで生きていけた。

 そうやってずっと、忘れていたのに。

 自分が本当は魚ではないことを。

 あそことこことは、陸続きであることを。

 わたしは本当は人なのに、あそこには行けない。

 自分は魚じゃなく、自分が今いる場所も本当はあそこと同じ、陸の上。

 なら……どうして自分とあそことは、こんなにも深く断絶しているのか。

 何故あそこにあるのは、自分が知らないものだらけなのか。

 一体どうして、自分にはあれが与えられなかったのか。

 それを真剣に考え出すと泥沼の絶望にはまり込む、だからわたしは逃げたのだ。

 自分は人なのにあそこには行けない、その理由ははっきりしている。

 それは、わたしが出来損ないだからだ。

 あんな場所は決して許されない、そんな資格などない、人の出来損ないだからだ。

 だってそうでなければ、きっとわたしだってあそこに居られた。

 あんな風に易々と有るものがわたしには完全に拒まれている、ならそれはわたしの方に原因があるとしか考えられない。

 わたしはただもう、生まれながらにどうしようもなく出来損なっている生き物なのだ。

 それを思い知りたくないから、自分は魚だと思うことにしたのに。

 わたしは肩で大きく息をついて、鞄からハンカチを出すとごしごし、と顔中をこすった。

 何だろうな、ああ、でも……それでも、まだ自分がこんなことで、こんなことくらいでここまで泣いてしまうだなんて、思ってもみなかった。こんなことはもう自分の中ですっかり消化されている、そう思っていた。それなのに。

 魚として生きていくことに、何の辛さも苦しさもなくなっていた筈なのに。

 魚は魚なりに、魚としての幸福や喜びがちゃんとあって、それで手の中をいっぱいにして生きていける、そう思っていたのに。

 ……わたしはまだ、まともに人になりたい、そんな望みをどこかに持っていたのか。

 何だかたまらなく苦々しい気分になりながら、わたしは夜空をじっと見上げた。



 ずるずると、足をひきずるようにして家に向かった。

 途中の自販機でペットボトルのお茶を買い、瞳から放出した水分を補うみたいにごくごく飲むと、酔いがすうっとひいていく。

 息を吐く度にため息のようになってしまうのをどうにもできないまま、わたしはアパートへ続く道を曲がった。

 足元に目を落としてとぼとぼと歩き――あ。

 足が、止まった。

「…………」

 こく、と喉が鳴る。

 アパートのわたしの部屋の扉の前に、誰かがいる。

 ――河瀬、さん。

 河瀬さんは扉の前で、曲げた膝の上に両肘を乗せるようにして腕を投げ出して、うつむいて地面に座り込んでいた。

 どう、しよう。

 わたしは自分でも気づかぬ内に、じり、と後じさっていて――きゅっ、とかすかに靴の底がアスファルトにこすられる。

 河瀬さんが顔を上げた。

「……!」

 離れていてもはっきり判る程、目がこぼれ落ちそうなくらい大きく見開かれるのが見えて、また勝手に、体が逃げ出そうとしてしまう。

「――逃げなや!」

 と、矢のような声が飛んできて、まさに射貫かれたようにわたしの足はぎくりと硬直して動かなくなってしまった。

 河瀬さんがバネのように立ち上がって、大きな歩幅で飛ぶように近づいてくる。

 すぐ目の前に立たれて、すくむ体をぐい、と両手で肩をきつく掴まれた。

「どこほっつき歩いとってん! どんだけ心配した思て……!」

 肩を揺さぶるようにして言われた言葉があまりにも意外で、わたしは目を見開いた。

 河瀬さんはこわい程真剣な目で、睨むようにこちらを見下ろしている。

「ひとの前からあんな消え方して、あんなんで、もし……もし、あのまま……そんなことんなったら、俺は……!」

 ――ぐいっと、心臓が体から掴み出されたような気がした。

 足元から喉元まで、一気にさあっと体温が下がる。

 焦燥にかられて見ると、肩に置かれた手も、きつく噛み締められた唇も、わずか痙攣するように震えていて、目元にじんわりと涙がにじんでいる。

「かわ……」

 声を出そうとしたけれど、いつの間にか喉がからからに乾いていて上手く言葉にならない。

 ああ、わたしは……このひとに、なんてことをしてしまったんだろう。

 後悔で打ちのめされそうになっていると、河瀬さんが自分を落ち着かせるように大きく息を吐いて、わたしの肩を掴んだ手から少し力を抜いた。

「頼む、から……俺デリカシー無いし、考え無しやから、もしかしてまた自分が気に入らんようなこと、ぽろっと言うてしまうかもしれん。けど、頼むから……むかっときたらどんだけ罵ってくれてもぶん殴ってくれてもええから……頼むからあんな風に、俺の前から姿消すんだけは……勘弁、してくれ」

 言葉と一緒に吐き出された息はやはり細かく震えていて、ああ、どうしよう、そう思うとわたしまで泣きたくなった。

「もう、心配で、心配で……どうかなりそうやったわ」

 そう言うと同時に、肩の手の指先にまたぐっと力が入る。

「良かった……無事で」

 深く深く顔をうつむけて呟くと、大きな音を立てて長い息を吐き出す。

「……ごめん、なさい」

 わたしは乾ききった唇を何とか舌で湿して、かすれた声を出した。

「ほんとに……ごめんなさい」

 頭を下げると、その勢いで涙が出そうになる。ああ、でも、悪いのはわたしだ。だから泣いてはいけない。

 そう判っているのに、どうしてもこらえきれずに一粒だけ、涙が玉になって落ちた。

「……ん」

 わたしの言葉に、河瀬さんがうつむいた顔を上げ、小さく、何度もうなずいて。

「うん……」

 大きく息を吐きながら、ぐい、と乱暴に髪をくしゃくしゃにしてひとの頭をなぜる。

 その手触りに、また泣きそうになる。

 それを必死にこらえていると、頭をなぜながら、ふっと河瀬さんが子供をなだめるような顔をしてわずかに微笑んだ。

「……なあ、どないしてん」

 なめらかな響きで尋ねられた声は、先刻までの大声とも悲愴なものとも違う、ひどくやわらかい、あたたかなもので――いきなりさっと、こころの一番底の部分に手を当てられた気がして、わたしはたまらない思いがした。

「ん? ……何が、あってん」

 降ってくる声は、限りなくやさしく、辛抱強くて、それに触れた瞬間、わたしは順序も何もなく、めちゃくちゃに、先刻別れた後に頭を走り抜けた思いを思いつくままに話し出していた。

 わたしは人の出来損ないで、だから窓の中には入ることができない。でもそれを認めるのが嫌だから、ずっと、自分は魚で、あっちは陸なんだと思ってきた。だから関係ない、そう思ってきた。なのにその楽な考え方を、一瞬で全部、ひっぺがされたような気がした。

「……叔父さんは、窓の外から中に行けるんちゃうの」

 きっと訳の判らない説明になっていたであろう話を、河瀬さんは実に我慢強く、幾つも質問しては言葉を引き出してくれ、わたしがひと通り吐き出し終えるとそう尋ねる。

「だって、シンさんは……わたしとは違う、幸福になるべきひとだもの。窓の中にいるべきひとだもの。ちゃんと真っ当に幸福になっていいひとだもの」

「じゃ、叔父さんがあっちに行っちゃうんは、ええんや」

「いいです。と言うか、むしろ行ってほしい。行って、こっちには二度と戻ってこないでほしい。わたしは……見てる、だけでいい」

 そう言うと、河瀬さんは口をつぐんで少し考えた。

 顎を上げ気味に空を仰ぐと、軽く息を吐き出す。

 すっと顔を下げてこちらを見下ろすと、河瀬さんはいきなり、わたしの目の前に片膝をついて座った。

「え?」

 とまどうわたしの両手を、はさむようにしてきゅっと握る。

 下からまっすぐに見上げられると、何故だか急に恥ずかしくなった。

「そしたら、俺がそっち行くから」

 ゆらぎのないまなざしと共に放たれた言葉に、一瞬頭が真っ白になる。

「……え?」

「俺の窓ん中には、もう誰もおらんもん。……そやし、俺が窓出て、そっち行くから」

 わたしは完全に呆気にとられて、ぽかんとした顔で相手を見下ろした。

 そっちへ……行く?

「千晴ちゃんには窓の中は別の世界で、自分は絶対、そこには行かれへんねやろ? そんならそれはもうそれでしょうがない。そしたら、俺がそっち行ったらええやん」

 あまりにも思考の外の言葉を言われて、わたしの頭はショートしてしまったみたいに全く何ひとつ思いつけなかった。

「俺なあ、母方の実家が富山やねんけど、ちっさい頃は正月やら毎年行っとってさ。おじさん等がようかまくら作ってくれてな」

 更に話が完全に理解不能な方向にすっ飛んでいって、わたしはもうどうしていいのか判らず、ただ息をはずませて河瀬さんを見つめる。

「かまくらって経験ある?」

 明るく尋ねられた言葉に、ただ首を横に振って。かまくらどころか、わたしはまとまった雪でさえ殆ど経験がない。夜降っても朝にはほぼ溶けているレベルだ。

「あれむっちゃ楽しいねん。中は全然寒なくてさ、こたつやら火鉢やら持ち込んで、餅とかイカとか焼いて食べんねん。外にちっさいドームみたいの幾つもつくって、一個一個にろうそく入れて……日が落ちる頃にまわりがみいんな灰色がかった青色になって、そん中でゆらゆら、光が揺れて……子供心にもう夢のように綺麗やって」

 歌うような声で言いながら、河瀬さんは小さい子にするように両手ではさんだわたしの手を軽くはずむように上下に振った。

「俺がそっち行くからさ、ふたりでかまくら作ったらええねん。中であったこうして、鍋食べて、幾つもろうそく灯して……それ窓ん中の連中から見たら、きっとむっちゃ綺麗やで。向こうが羨ましがるくらい」

 まるで強い強い力で壁に押しつけられたみたいに、ぎゅうっと胸の全体が苦しくなって、息が浅くなる。

 一瞬でぱっと、瞳の中に水の膜が張ったのが判った。

「そういうんは……嫌かな」

 一心にわたしを見上げていた河瀬さんの眉が、ほんのわずか不安気に寄った。

「俺では……嫌か」

 わたしは自分でも何を言ったらいいのか判らないまま、とにかく何かを言おうとして息を深く吸い込み――言葉ではなく、涙と共に自分で驚く程激しい泣き声が口から溢れ出た。

「千晴ちゃ……」

 はっとした顔で見上げる河瀬さんに、もうどうしていいのか判らずに、ただその手をきつくきつく握ってわたしは泣き続ける。

 ……ああ。

 ああ、一体どうしたらいいのだろう、わたし。

 こころの一番深い部分が、ずぶりと剣で刺し貫かれたようだ。

 こんなことを言ってくれるひとは、いなかった。

 こんな風に何もかもをひっくり返してくれたひとは、今まで誰も、いなかった。

 窓の中から閉め出されている自分は、出来損ないだと思っていた。あちらが正しい、本来のあるべき姿で、そうでない自分は欠損していると。

 だからもし万一、窓の中から誰かが自分を呼んでくれても、自分はそこには行けない。よしんば横に来て手を引いてくれたとしても、相手が入れるラインで、自分ははねられる。

 どこまでいっても自分はそういう人間なのだから、そう諦めていた。

 それなのに。

 わたしが外にいたまま、自分が憧れていたのとは違うかたちで、けれど全く同じ重さで欲しいものを掴み取ることができる、河瀬さんの言葉はわたしにそう言っていた。

 下の方からずっとただ羨望のまなざしで見つめているだけだった、そんなわたしでさえ、向こうからも眩しく見える程の何かを掴める、と。

 向こう側とは違う、でも向こうと同じ重さの幸福。

 それをわたしにも持つことができる、そう。

 その為に自分がそっちに行くと、そう。

 後から後から溢れ出る涙をもう自分ではどうにもできず、止めようという力もわかずに、ただ子供のようにわあわあと泣き続けていると、こころの底の底にあるかちかちの塊がじんわりと溶けてほどけていく、そんな気がした。

 河瀬さんはただただ、わたしがきつく握った手を振りほどきもせず、ぎゅっと握り返してくれている。

 どこか困ったような、けれどあたたかい、なだめるようなその微笑み。

 涙でぼやけた視界でそれを見ていると、更にどんどん、新しい涙が追加されて瞳から落ちていく。

 誰かの前でこんな風に手放しに泣けるなんて、思いもしなかった。こんな風に人に自分をさらけ出したことは、今まで一度だってなかった。かつての恋人は勿論、伯母やシンさんにさえ。

 ああ、一体このひとは、どういう人なんだろう……わたしにとって一体このひとは、何なんだろう。

 そしてこのひとは、わたしを一体、どう思っているのだろう。

 わたしは自分のこころの中に、相手からの強烈な吸引力が発生するのを感じながらも、ただ手を握る以上のことは何もできないまま、ひたすら泣き続けた。



 どれ程泣き続けていたのか、自分でも判らない。

 でも、少なく見積もってもたっぷり五分は泣き続けた後、わたしはようやく、涙が落ちついてくるのを感じた。

 少しずつ頭の回転が戻ってくると手放しで泣いていた自分が何となく恥ずかしくなり、きつく握っていた手の力をそうっと抜いていく。

 遠慮気味に片手を外そうとすると、あ、と気がついたように河瀬さんも手から力を抜いてくれた。

 わたしは片手で肩掛けの鞄からハンカチを出し、ぎゅうっと顔に押しつけるようにして涙を拭いてから、軽く鼻をかんで。ああ、なんかもう、急激に恥ずかしくなってきた。

 すっかり飛んでいた理性が戻ってきた途端、頭が膨らみそうになる程、顔全体に一気に血がのぼってくる。あああ、もう、どうしよう、恥ずかしいよう。

 顔に押しつけたままのハンカチが外せなくなり、と、まだ預けたままだった片手を一瞬、きゅっと握られたと思うと、目の前で相手が立ち上がる気配がした。

 片手を握られたまま、ぽん、と頭の上にもう片一方の手が乗る。

 そこから染み込むように、温かみが伝わってくる。

 わたしはまた、目頭にじんわりと涙がにじむのを感じた。

 ゆっくりと、頭の上の大きな手が動いて髪をなぜる。

「ようさん、泣いて……そない泣いたら、明日しんどいで」

 声は、信じられない程低くやわらかく、やさしくて、また泣きそうになるのと同時に顔についた火が全身にまわるようで、足元までじわっと熱くなってくる。

「目ぇ、後でちゃんと冷やしや……そんでちょっとあったかいもん飲んで、よく寝る。ええな?」

 わたしは顔を上げられないまま、こくんとうなずいた。

「ん。……ええ子や」

 ぽんぽん、と手が頭を叩くと、肩にまわされ、今度は肩を軽く叩かれる。

「ほな、帰って早よおやすみ」

 そう言うと肩の手で軽く体を押してくるのに、わたしはうつむいたまま目の部分だけ少しハンカチを下ろして、足元を見ながら相手と並んで歩き出した。

 わたしを扉の前に立たせると、河瀬さんは肩の手を外す。

 くるりと河瀬さんの方を向いてはみたが、やっぱり顔は上げられず、ハンカチも外すことができない。

 頭上でこほん、と河瀬さんが小さく咳払いした。

「あの……また、逢うてくれるかな」

 不意に言われた言葉に、きゅっと心臓が縮み上がる。

「……あかん?」

 何も言えずにいると、ふっとその声が不安気に陰ったのに、わたしは殆ど何も考えられないままただ強く顔を横に振った。

「……良かった」

 声がかすかに微笑みを含み――ああ、どうしよう、立っているのさえ辛い。

「そしたら、ええと、また連絡するから……あ、そうそう、電話、教えてくれへんかな」

 わたしはこくん、とうなずいて、声を出そうとしたのにいつの間にか喉の中に何かいがらっぽいものがたまっていて、上手く言葉が出せずに咳き込む。

「だいじょぶか、おい」

 河瀬さんが慌てた声を出し、わたしの背に手をまわしてさすってくれる。

 その手の熱さに、気が遠くなりそうな思いがする。

 やっと喉にからんだものが取れて、わたしはがさがさになった声を出した。

「はい、大丈夫……です」

 声が出せると、相手がほっと息をつく気配がする。

「えっと、あの、じゃあ、番号……〇七五の……」

 言い出すと、河瀬さんは一瞬、え、とかすかな声を上げ、それから「あ、ちょ、ちょと待って」と言うと、シャツのポケットから携帯を取り出した。

「メモるから。ごめん、もう一回」

「あ、はい」

 もう一度番号を繰り返し始めると、何故かはっきりとため息をつく音が聞こえて――その意味が判らないまま番号を伝えると、河瀬さんは一度復唱した。

「……それだけ?」

 何故かそう聞かれ、他に何かあったっけ、とわたしは一瞬混乱し、よく判らないままとりあえずこくり、とうなずく。

「……そっか」 

 そう言うとぱちん、と携帯を閉じる音がした。

「ん……ほな、今度連絡するし。……おやすみ」

 ぽん、と軽く頭が叩かれて、見えている足元がくるりと向こうを向く。

 あ、と思ったのと同時に、それが声にも出ていた。

「ん?」

 相手が振り返る。

「あ、えと……」

 頭の中が綿を詰めたみたいで何を言ったらいいのか判らず、わたしは口ごもって。

「あの、ああ、その……あの、ごめんなさい」

 とにかく今夜のわたしはものすごく迷惑をかけたことは間違いない、そう思って小さく頭を下げると、わずかにすっと息を吸う音が聞こえた。

「いや、うん、別に……ええよ。おやすみ」 

 早口でそう言ってまた歩き出し――足音が、遠くなる。

 わたしはそろそろと顔を上げた。

 遠くなっていく背中が見える。

 ――呼び止めたい。

 まだ帰らないで、そう呼び止めたい。

 一気にわき上がってきたその強い衝動に自分で驚きながら、実行はできないままその背をただ見つめていると、角のところで河瀬さんが振り返った。

 街灯のぼんやりした明かりの中で、一度大きく手を振るシルエット。

 わたしは一瞬、手を振り返しかけ、自分でもどうしてだか、その手をおろすと、相手の姿に向かって深々と頭を下げた。

 そうだ、だって、言ってなかったから……ごめんなさいは言った、けど……ありがとうは、言ってなかったから。

 頭を上げると、河瀬さんはまだそこに立っていて――そしてふっと、角に消えていった。



 夜の間に、何度も目が覚めた。

 その度にちらっと時計を見ると、大体前に起きた時間から三十分も経ってはおらず、重たい頭をひきずるようにトイレに行ったり水を飲んではまた横になり、目を閉じたと思うといくばくもせぬ間にまた目が覚める、そんなことを何度も繰り返した。

 ぱかっ、と目が開くと、ただ寝ていただけなのに心臓がばくばくと鳴っており、息苦しく、胸の中に不安がいっぱいに渦巻いている。

 それなのに、その短い眠りの間にどんな夢を見たのかはさっぱり思い出せなかった。

 それを十何回と繰り返して、夜明け近く、わたしはようやく深い眠りに落ちた。

 次に目が覚めた時は、もうお昼直前だった。

 たまたまだったけど、今日休みでほんとに良かった……。

 わたしはのたのたと起き出して、冷蔵庫から水出しの紅茶を取り出し、ガラスのコップに入れて一気に飲み干す。

 相当長い時間寝ていた訳だけど、お腹は全然すいていなかった。

 天気はいいけど、さすがにこの時間から洗濯するのもなぁ。いいか、明日で。

 ベランダの窓から外を覗き、軽く肩をすくめて部屋に振り返ると、ふと目の端に、部屋の隅に置かれた電話が飛び込んできた。

 ――どきん、と心臓が跳ね上がる。

 今度、連絡する。

 河瀬さんの言葉が脳裏に浮かんだ瞬間、胸苦しい程の不安が襲い、けれど次の瞬間、自分で自分に突っ込んでしまう。今日は平日なんだから、こんな時間に連絡なんて来る筈がない。

 それなのにわたしはどうしても、胸の内でどんどん不安が膨らんでくるのを止められないまま、そっと電話に近寄り、受話器の背を指先でなでた。

 ……今度。

 それはなんて、不安で頼りない、そして限りなく希望だけを膨らませる言葉なのだろう。

 わたしは身を翻して、冷蔵庫の中や買い置きの缶詰やレトルトを入れてある棚を見た。

 今日は一日、買い物に出なくても大丈夫そうだ。

 それが判ると何だかほっとして、その一方で、ああ、駄目だ、とも思う。

 そんなのって殆ど病気だ。何せ相手は、昼間は間違いなく仕事なのだ。それがはっきり判っているのに、日中でさえ外に出られないなんて。

 そう頭で思っても、体は動かなかった。

 ……なんてったって今日は休みなのだ。社会人はお休みを自分の自由に過ごす権利がある。

 だから……今日は一日、家にいよう。

 どうせ明日は、何があったって仕事に行かなきゃならない。

 だから今日は、家にいよう。

 わたしは自分にそう言い聞かせて、すとん、と座椅子に腰を落とした。



 それからは、毎日が本当に不安の連続だった。

 こんなのは本当に病的だ、と自分でも思いながら、朝起きて家を出て玄関を閉める、その瞬間にまでつい耳をすましていたり、仕事の後も帰りがけに近所のスーパーで小走りに買い物を済ませてすぐに帰宅した。早出や遅出の時以外は徒歩で出勤する方が多かったのに、あの日から毎日、自転車をこいで通った。わずかでも早く、帰宅したくて。

 引っ越して電話を買った時、セールでやたら安かった電話機には、子機がついていた。けれど勿論、ひとり暮らしの部屋で子機が必要な筈もなく、箱から出しもせずに放っていたそれを、わたしは初めて取り出し設定した。

 怖かったから。

 台所で料理している時、トイレに入っている時、お風呂に入っている時、もし今電話が鳴ったら、そしてもしそれに出損なったらどうしよう、と真剣に怖くて、すぐ傍に受話器を置いておきたかったのだ。

 万一その機会を逃したら二度とかかってこない、何故だかそんな気がしたし、もし本当にそんなことになったらその後の時間の苦痛が倍加するのは目に見えていた。もう一度かかってくるのか来ないのか、万一かけてくれたとしてそれは一体いつになるのか。

 今感じている以上の苦痛に耐えられる気がしなかったので、鳴った電話は絶対に逃したくなかった。

 けれども、電話はぴたりと音をひそめていた。

 ……そんなに連絡が欲しいなら自分からかければいいじゃない、そう、頭の中のまともな一部分が何度か言ったけれど、それが建前に過ぎないことは自分で判っていた。ただでさえ電話がかけられない自分が、この状況でそんなこと不可能だ。

 ――今度、連絡する。

 相手はそう言ったのだから。

 この間とは違う。

 この間は「連絡して」だった。きちんとした用件もあった。だからわたしは、いつもよりずっと楽な気持ちで、電話ができたのだ。

 でも今は違う。

 何ひとつ具体的な用事などないどころか、もし本当に電話をかけたところで、一体自分が何を言ったらいいのか考えても一言も浮かばない。そんな状態なのに……増して、「連絡をする」の主語が向こうに委ねられている以上、自分から、などということはとても恐ろしくて無理だった。

 何故ってあの「連絡する」という言葉はただ、社交辞令に過ぎなかったのかもしれないのだから。それなのにこちらから調子に乗ってかけてしまって、「なんだこいつ」と思われたりしたらもう辛くてどうしていいのか判らない。どれ程人から莫迦気ていると思われようと、自分にはもうそうとしか考えられなかった。

 鳴らない電話に対する不安は、かつての恋人の比ではなかった。

 恋人は自分にとって「恋人」という関係性がはっきりしている相手であり、つまりそれはあくまで「恋人から電話が来ない」ということに過ぎず、その事実だけをもって自分達の関係性が失われる、というものではなかったから。

 けれどわたしとあのひととは、まだ何ものでもない。

「友達」とさえ、言っていいのかよく判らない。

 もしもこのまま、相手から連絡が来ず、自分からもしなかったとしたら、ただ消えていくだけの関係だ。互いの住所も知らなければ共通の友人もいない。生活圏はズレているし、休みの日だって重ならない。偶然の再会などゼロに近い。

 溶ける雪のように、すべては跡形もなく消えてしまうだろう。

 それが怖くて、わたしは仕事の時間以外は電話から離れられなかった。

 そんな風にして、十日程が過ぎた。

 そして、電話が鳴った。



 それはちょうど、土曜がシフトで休日になった週の前の日、金曜夕方のことだった。

 だからわたしは、数日前からその日が近づいてくるのが取り分け憂鬱で不安だった。

 きっとその土曜は、今までより遥かに不安な思いで、外に一歩も出られないまま一日をすごしてしまう。それが判っていたし……もしも、万が一、万にひとつでも、それまでに電話がかかってくれば、その日、逢えるかもしれない、そんな思いもあったから。

 金曜は早出だったので家に着いたのは夕方四時頃で、座椅子で少しうとうととして目を覚ますと、もう六時近かった。

 何か食べなくては、そう思ったけれど体が動かない。実のところ、この十日程で軽く三キロは痩せた気がする。食欲が無く、食べてもすぐに喉に詰まるようで、ろくにまともな食事ができなくて。

 これはもう本当に病気だ、さすがにそう自分で判っていた。

 土曜。もしその日一日、電話を待って、それでかかってこなかったら、もう、諦めよう。諦めて、シンさんから渡されたままの名刺も捨てて、それで忘れよう。

 わたしはここ数日、そんな風に思うようになっていた。

 と言って、実際にそれが捨てられるかというと、さっぱり自信がなかったのだが、どこかで区切りをつけなければ自分が駄目になってしまう、そう強く思っていたのだ。

 何とか少しでも栄養を取ろうと思い、レンジにかけた牛乳にはちみつを溶かして、少しずつ口に含みながら座椅子に座りかけたその時、

 ――電話が、鳴った。

「……!」

 危うくカップを落としかけ、わたしは泡を食った。どうにか体勢を立て直し、呆然と鳴っている電話を見つめる。

 ……ああ、出なくては。

 次の瞬間、そう我に返った。

 鳴っている電話の音はまるで非常ベルみたいに耳をきつく打って、わたしは転がるようにして電話に歩み寄ると、かちゃり、と受話器を上げた。

「――はい」

 何とか息を吸って震える声を押し出すと、向こうからもの凄いボリュームで、

『お前どうしとんねな一体!』

 と、シンさんの怒気を含んだ声が響いた。

「あ……」

 なあんだ……。

 シンさんには本当に申し訳ないこととは思うけれど、その瞬間のわたしの頭の中はその一言に過ぎなかった。ぱんぱんに張りつめていた緊張が一気に抜け、受話器を握ったままその場にかくんと座り込んでしまう。

「なんだ、シンさんか……」

 だからそう呟いた自分の声は、我ながら脱力しきっていて――シンさんの声が、怒りと共に呆れた調子を帯びる。

『なんだって何やねんコラ。大体お前、あん時から何も連絡してこんと顔も見せんと、ってどういうことやねな一体。ええ?』

 後になって考えてみたら、これはシンさんが初めてわたしにかけてきた電話、というかなり記念すべきものだったのだけれど、その時にはそんなことはまるっきりよそに飛んでいた。それどころかこころをちらっと、「ああ、今相手がかけようとしてきてたらどうしよう」という焦りさえよぎった。

『一体何しとったんや、え?』

「何って、別に……仕事して、後は家にいたけど」

『はぁ⁉』

 わたしの返事に、少し落ちつきかけていたシンさんの声がまた裏返る。

『ほななんで全然あれから音沙汰無いねん。家で倒れとるかと思うやないか!』

「……ごめん」

 そう怒鳴られて、わたしは初めて深く反省して――ああ、心配かけてしまった――そういえば「行けない」という連絡などを何もしないまま、こんなにも長くシンさんの家に行かなかったのは、これが初めてだった。

 そんなことが全部頭からすっ飛ぶ程、わたしは電話のことで頭がいっぱいだったのだ。

『……お前、何かおかしいで。なんぞあったんか』

 素直に謝ると、シンさんの声のトーンが落ちた。

「ん……」

 わたしはどう言っていいのか判らず、ただ曖昧な声を出す。

『あの後……なんぞ、あったんか』

 シンさんの声が探るような響きを帯び――あの、後。

『あの兄ちゃんと……あの後、何かあったんか?』

 何かがあった、そう言われれば、確かに……でも、ある意味では「何もなかった」とも言える気がする。

 もし「何か」があの時本当にあったのなら、いくら何でも「今度」はもう来ていていいのではないだろうか。

『俺……先帰らん方が、良かったか』

 何も言えずにいると、シンさんが打って変わって、真剣に心配気な、不安の混じった声で尋ねてくる。

 ああ、そうじゃない、そうじゃないんだけど……どう、言えばいいんだろう。

「別に、そんな……そういうことじゃ、なくて」

 わたしはもそもそと言葉を濁して。ああ、もう……いいや。

「……電話、待ってたの」

 ごまかすことも面倒になってそう言ってしまうと、少し気が楽になる。

『電話?』

「河瀬さん。この間、帰りがけ、ひとの番号聞いて、また連絡するって、そう言った。だから……待ってたの」

 言いながら、だんだん自分で自分が情けなくなってきた。言葉で言ってしまえば本当にただそれだけのことに過ぎなくて、ただそれだけのことに、ここ何日も、わたしはものも喉を通らぬ程思い悩んできたのだ。

『……かかって、こんのか』

 尋ねられた言葉にわたしはこくんとうなずき、ああ、電話なんだから声に出して言わなきゃ伝わらない、そう思った瞬間、空気で察したのか、シンさんがちょっと呆れたような声で、

『ほな、自分からかけたらええやないか。番号知ってんねんから』

 と言った。

 わたしはぐっと、言葉に詰まる。

 そんなこと判ってる。そんなこと判ってる、何度も考えた、でも。

「……怖くて」

 小声で言うと、シンさんが黙った。

「わたし、こないだも、その前も、なんかいろいろ、変なことたくさん、あのひとに話しちゃって。だから……きっともう、呆れられてるんじゃないかと思う。連絡するって言ったのもきっと社交辞令で、ほんとはかける気、ないんだと思う」

『……あのな』

 なだめるような声で話し出されたのを遮って、

「だって、そうじゃなきゃ……もうとっくに電話くらい、来てると思う」

 と言うと、シンさんがまた黙ってしまった。

「かけようと、思ったよ、何度も……でも、怖くて。向こうは全然、わたしに無関心で、電話なんかしたって邪魔かと思われるかもしれないと思うと……怖くて」

 話している内だんだん息が浅くなってきて、ひゅうっと喉が鳴って、目の縁に涙がにじみ出してくる。

『――かけろ』

 その時、受話器の向こうからものすごく厳しい声がして、わたしの涙は一瞬止まった。

「シンさ……」

『すぐや。この電話切ったら、十分以内にあの兄ちゃんに電話せえ』

「ちょっと、シンさん」

『もしあの兄ちゃんにその気が無うても三分あったら話にカタつくやろ! たかが三分の為にお前この十日も悩んで、今動かんかったらこれから先その三分の為に、この後いっつまでもそうやってぐじぐじぐじぐじ悩み続けんねんぞ!』

 あまりに的確に図星を指されて、わたしは黙り込んだ。確かにそうだ。でも。

『どんだけしんどかっても三分で済むわ! そんくらい踏ん張れや!』

 またじんわりと涙がにじんでくるのを感じながら、わたしは唇を噛んだ。

『ええな、すぐやぞ! 後でまた確認するからな! もしかけてへなんだら、俺が直接、あの兄ちゃんに電話してお前んとこかけさすからな!』

「ちょっと、そんな無茶……」

『嫌ならすぐせえ! ええな!』

 怒鳴り声と同時に、ぷつん、と電話は切られてしまった。

「もう、シンさん……」

 わたしは途方に暮れながら受話器を眺め――ああ、どうしよう。

 一旦それを電話機に置くと、わたしは無意味に部屋を一周して。ああ、ほんとにどうしたらいいの。

 部屋の片隅で足を止めて、わたしは電話にちらりと目をやった。

 ……ああ。

 わたしは机からシンさんのペンダントを取ると、ぎゅっと握りしめてそろそろと電話機に近づいた。

 実のところ、番号はもう暗記してしまっている。

 あの日から何日も何日も、電話を待っている間ずっと、あの名刺を眺めていた。裏に手書きで書かれた番号は勿論、会社の住所まで覚えてしまって、もしもうこのままずっと電話が鳴らず、自分がすっかり諦めてしまった時には、平日休みの日にはこの辺りには近づかないでいよう、そんなことまで考えていた。

 大きく深呼吸して、息を止める。

 最初の幾桁か番号を押しては切る、そんなことを何度も繰り返す。

 胸に大きな重しが乗っているようで、息がひどく苦しい。

 目に涙がにじんでくるのを感じながら、わたしはきつくペンダントを握って、必死に番号を押し――ある瞬間、ぐっと息を止めると、ひと息に最後まで押し切った。

 一瞬の受話器の沈黙が、針のようにこころを刺す。

 ほんのわずかの耐え難い時間の後――よく、受話器を置かずにいられたものだと自分でも感心した――プルルル、とコール音が鳴り始めた。

 ぐっと鉄板を入れたように、背中が硬くなる。

 一回、二回――ああもう駄目だ、切ろう。

 受話器を下ろしかけたその瞬間、

『もしもし?』

 という、あの声が耳に届いた。



 その瞬間、声が全く出なくなった。

 喉の奥に何か重たいものがぎゅっと詰まっていて、声にならない。

『もしもし? もしもし……千晴、ちゃん?』

 声を出そう、何か言おう、そう口を開いたけれど、唇からは息の音しか漏れてこない。

『この番号、千晴ちゃんよな……なあ、どうしたん?』

 相手の声は、ひどく不安気に心配気に揺れていて――ああ。

 その声の響きを聞いた瞬間、この十日間の不安がまとめて胸に押し寄せ、どっと涙が溢れ出た。

 どうしよう……どう、したらいいんだろう。

 泣き声が漏れそうになるのを、片手を口に当ててこらえた。

『千晴ちゃん?』

 相手の声が低くなり、探るような響きを帯びる。

『……泣いてんのか』

 更に声が、また一段低くなって。

 ああ、どうしよう、どうしたらいいのか、もう判らない、頭がパンクしそうだ……助けて、シンさん。

 後から後から溢れてくる涙に声も出せずにいると、突然受話器の向こうから、

『――今から行く』

 と、きつい声がしてわたしは目を見張った。

 え……え?

『四十分……三十分で、行くから。待っとけ』

 言葉と同時に、電話が切られる。

 ええ……?

 わたしは呆然と、ツー、ツー、と鳴り続ける受話器を見つめた。え、え……今なんて?

 今から行く。

 ……今から⁉

 猛然とパニックに襲われ、時計を振り仰いだ――六時半。

 三十分で⁉

 わたしは焦燥にかられて辺りを見回して。そんな、一体どうしたらいいの。

 意味もなく動き出そうとして、自分の手の中に受話器がまだ握られているのに気がついた。ああ、そういえば。

 わたしはおろおろと、何度も押し間違えながらも、シンさんの番号を押す。教えられてから半年弱、一度たりともかけたことのない、その番号を。

 コールが鳴るか鳴らないかの内に、相手が出た。

『どないや』

 詰問するような声はどこかに気遣うような響きも含まれていて、パニックのあまり引っ込んでいた涙がまた復活しそうになる。

「……来るって、今から」

 そう言うと、向こうでシンさんがふっと微笑った。

『さよか。……頑張れ、ハル』

 そして言葉と共に、電話が切れる。

 わたしは切られた受話器を、先刻とは違う気持ちでまた見つめた。

 ――頑張れ。

 って言われたところで、一体何を頑張ればいいのか……と言うか、一体相手は何をしにうちに来るのか。

 心強いのか心細いのか、自分でも訳が判らなくなりながらまた部屋を見回すと、先刻飲みかけで座卓に置いたままのカップが、はたと目についた。

 ああ……片づけなくては、とりあえず。

 急いで洗い物をすると、あちこちをざっと片づけて。途中、洗面台の鏡に映った自分の姿が何だかあまりにもみすぼらしくて、急いで顔をざっと洗うと、とりあえず髪を梳かしてきゅっと後ろで結い上げる。

 ええと、後は……。

 まだ散らかっているところはないか、再度部屋の中をぐるりと見回しかけた、その瞬間に――チャイムが、鳴った。

 ぎくりと体の動きが止まる。

 少し間を空けて、また。

 わたしはぎくしゃくと壁の時計を見上げて。だってまだ、あれから二十分程しかたってない。

 また、チャイム。

 これ、違うんじゃないか、だって早過ぎる……宅配とかセールスとか、その類ではないのだろうか。

 わたしは恐る恐る、できる限り音を立てないように階段をそろそろと降り、踏み板がミシミシと音を立てるのに心臓が破裂しそうになりながら、何とか下まで辿りつく。

 四度、チャイムの音。

 扉のすりガラスの向こうに、影が見える。

 わたしは深く息を吸い込むと、思い切って「はい」と声をかけた。

 人影がわずかに揺れる。

「……俺やけど」

 次いで、扉の向こうから聞こえてきた声に、くらりと目眩がした。

 だって、こんな……まだこころの準備ができてない、早過ぎる。

 そう思いながらも、わたしの体は操られるように動いて――手が伸びて内側から扉の鍵を開けるのを、何だか他人事のように自分でじっと見ていた。

 扉を押し開けると、相手がそこにいた。

 

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