第六章(後)・涙
まだ少し早いかな、と思ったけれど、河瀬さんは灰色のTシャツに濃い緑色のチェックのシャツを羽織って、コーヒーを前にテーブルに着いていた。
肘をついてぼんやり外を眺めていたのを、店に入ったわたしに店員さんがかけた声にはっと顔を上げてこちらを見て、あ、と顔を崩すようにして笑いかけてくる。
「こんばんは」
歩み寄りながら頭を下げると、その笑顔があれ、という顔に変わって。
「こんばんは。……叔父様は?」
その問いに、つい軽く吹いてしまった。叔父「様」なんて大層な生き物じゃないよなぁ、シンさん。
「どうか?」
「あ、いえ……あの、叔父はどうしても仕事の都合がつかなくて。わたし、代理です」
「ああ……そうなんですか」
拍子抜けした顔で言うと、河瀬さんはわたしに手で向かいの椅子を勧めた。
「長くお預かりしてしまって、申し訳ありません」
腰を下ろして軽く頭を下げて言うと、鞄から取り出した封筒を相手に差し出す。
相手は怪訝そうな顔でそれを受け取ると、糊のされていない封を開け、中から薄紙にくるまれた品を取り出して、紙を開いた瞬間、すべての動きを止めた。
瞬きも、呼吸すら止めたかのように、じいっと食い入るように手の中を見つめている。
その様子に、わたしは急に不安になった。ああ、もしかして……まずかっただろうか、直したの、逆に?
そのまま、たっぷり一分が経ち――不意にいきなり、相手が顔を上げた。
その大きな目がはっきりと黒く濡れているのに、わたしは一瞬で頭に血がのぼる。
「あの、これ……」
「すみません、あの、勝手なことしまして!」
河瀬さんが手を差し出しながら言うのに、わたしはとにかく先に謝ってしまえ、と立ち上がって思い切り頭を下げた。
まわりのお客さんが、不思議そうにこちらを見るのにはたと我に返って、わたしはすとんと腰を落とした。ああ……なんかもう、すごく恥ずかしい。
頬がかあっと熱くなるのを感じながら目線を上げると、向かいで相手も目をまん丸にしてこちらを見ていた。
「これ、……篠崎、さんが、直してくれはったんですか?」
やがてゆっくりと、手の中を指差しながら言うのに、わたしは思わずぶんぶんと首と片手を振った。
「いえ、わたしそんな技術無いです。お店の人です」
「お店?」
「あの、宝石屋さんに、頼んで直してもらって……ああ、あの、勝手してほんとすみません、でも何かどうしても、鎖切れたままとか汚れたままとか、見てたら何だか、すごく気の毒で可哀相になって」
怪訝そうな相手に必死になって言い訳し、言った瞬間、あ、しまった、シンさんがやってくれたことにしとけば良かった、と思った。そうすればその為に預かってた、て言えたのに。
やってしまった、そう思いながらばつの悪い思いで向かいを見て、どきん、と胸を突かれる。
河瀬さんがまた、息を止めたように固まって、今度はわたしを見ていた。
その全くゆらぎの無い、食い入るようなまなざしにぐうっと息が苦しくなる。
ますます顔が赤くなっていくのが自分ではっきり判り、ああ、どうしよう、と思うのと同時に、河瀬さんがいきなりがたんと椅子を鳴らして立ち上がった。
「奢ります」
「……え?」
「何か奢ります。何でも好きなもん言うてください」
言いながら河瀬さんは財布を取り出し、テーブルの横にまわり込んできて。
「え、いえ、あの……」
「一番おっきいんでもクリーム追加でも、何でも言うてください。好きなように」
「いえ、そんな」
わたしが思いっきり腰がひけていると、河瀬さんは何を勘違いしたのか、あ、という顔になってますます身を乗り出した。
「勿論、また改めてちゃんとしたお礼はします。でもとにかく今なんかしたいんで。そやから遠慮なく」
「いえ、あの」
「いや、ほんま遠慮いらんです。あ、勿論コーヒーだけなんて言いませんし、食べるもんの方も、何でも幾つでも奢ります」
「いえ、あの、だから……」
「ぜひ。ぜひ、お願いします。ほんまに遠慮なんかしんといてください。どんな長い注文でもいいです、好きに言うてくれたら」
ああ、もう、やっぱりここでもあれ、言わなきゃならないのか……しかしよりにもよってコーヒーチェーンで、これを言う羽目になるとは。
今日はそもそも、代理で来ただけだから注文なんてしないでさっと話済ませて出てしまおうと思っていたのに。物を渡すだけなのだから、一分で済むと思ってた。勿論、コーヒー以外のメニューだってあることは判ってるんだけど、でもわざわざコーヒーチェーン店に入ってまでそれを飲んだり食べたりしたいか、と言われると正直微妙なのだもの。
「あのっ……」
小さく手招くと、河瀬さんはものすごく意気込んだ顔つきで高い背をかがめた。
その顔に何とも申し訳ない気分になりつつも、手を口の脇に当て、小声で言う。
「あの、わたし……コーヒー、嫌いで。飲めないんです」
囁いた瞬間、河瀬さんの動きが止まり――三秒後、いきなり体を折って爆笑した。
「なっ……」
今度はお客さんだけでなく、店員さんまでもが全員、こっちを見た。えええ、もう、勘弁してよ頼むから。
わたしがあわあわしている前で、河瀬さんは片手をテーブルについて、片手でお腹押さえるようにして笑い転げていて――ああ、でも。
目と口の脇に幾重も皺を寄せて、顔いっぱいで笑っているその姿を見ていると、だんだん胸がきゅうっとなってくる。
ああ、こういう風に、笑えるひとなんだ……ちゃんとまだこんなに体全部で笑えるんだ、本当に……良かった。
やがて河瀬さんはようよう笑いを収めると、目尻の涙を指先で拭いながら向かいに戻って、腰をどすんと落として座った。
「ああ、もう……何かもう、たまらん……こんな笑ったん、いつぶりやろ」
まだくすくすと口元に笑いを残しながら言うその表情に、また胸がきゅっとなる。
「ありがとう」
そして真っ正面から、まともに言われたその言葉に、一気に顔に血がのぼった。
「え、いえっ、あの……」
腰が引き気味になりつつ、ぶんぶんと両手を振る。ああもう、何だって先刻からこんなにこっ恥ずかしい思いをし続けてるんだろう、わたし?
けれどその向かいで河瀬さんは、わたしのそんな様子に全く動じず、にこにことした笑みでこちらを見ている。
「むっちゃ、嬉しかってん……ああ言うてもらえて、ほんまに」
そう言うとテーブルの上のペンダントを見て、目を細める。
「姉貴の、ことを……大事に扱ってもらったみたいな、そんな気ぃして。自分以外の誰かがまだそんな風に姉貴のことを、ひとりの人間として大事に見てくれる、そんな風に思えて……たまらんく、嬉しかってん。ほんま、ありがとう」
すっかり敬語の抜けたその声は心底のあたたかみに満ちていて、けれどそんな最大級の感謝がひどく自分にはそぐわない気がして、どうにも落ち着かない。
「いえ、あの、ほんとにそれ程のことじゃ」
「こないだ、これ見た時……確かにぼろぼろになっとったから、それでみすぼらしい見えたんかな、思ったけど……どう言うんか、汚れとかそういうんだけでなくて、重苦しい、言うか、気分が沈むような感じがして。けど、今日のこれ見たら、もうほんまスキッとしてて……姉貴が嬉しそうに受け取ってくれた、あん時のまんまで」
わたしは思わず、河瀬さんの顔を見直した。
それは、わたしじゃない、シンさんのおかげだ。
「そやし、嬉しかった。ありがとう」
大きく頭を下げるのを、わたしは手を上げて止めた。
「あ、いえ、あの、それはぜひ、叔父に」
「え?」
「いえ、あの……もし良かったら、そのお礼というのは今度また改めて、叔父に」
「はい……?」
一応うなずきながらも、相手は怪訝そうに首を傾げてわたしを見て。ああ、また余計なこと言ったかも、シンさんがほんとは何したのかも知らないのに。だけどやっぱり、このお礼の言葉をもらうのは、わたしじゃなくてシンさんだろうし。
「……判りました。ほなそれは、また今度改めてぜひ」
けれど相手はにこっと笑ってそう言ってくれ、わたしはほっとして肩の力を抜く。
「にしても……そしたらコーヒー屋なんかで待ち合わせせんかったら良かった」
くくっと喉の奥で笑って言う河瀬さんに、自分も少し可笑しくなって微笑む。
「まあでも、叔父はコーヒー、好きなんで。それにここ、判りやすいし」
「言えてる。……そしたら篠崎さん、今夜晩飯、つきあってもらえません?」
「え、……えっ?」
何ということもない会話に続いていきなり言われた言葉に、わたしはのけぞった。え、どうしてまた?
「コーヒーやと奢れんし。けどどうしても、今日の内に何かしょうもないことでも、お礼したいから」
「あ、いえ、だからほんとに、わたしは」
「今日ね、命日なんです」
何とか辞退しようとしていると、相手がまるっきり明るいトーンの声でさらっとそう言ったのに度肝を抜かれる。
今日――七月九日。
ああ、そうだ、今日……だった。
「今日っていうこの日に、こんな、むっちゃ気分よくなる思わへんかったから。こんな気分ええの何年ぶりかってくらい。……この気分のまま、ひとりで帰ってひとりで飯食いたないんですわ」
言葉の重さとは全くそぐわない、こぼれそうな満面の笑みを浮かべてそう言われて。ずるい、そんなこと言われたらもう断れない。
「……判りました」
うなずくと、河瀬さんはまた顔をくしゃっとして、とびきりの笑みを浮かべた。
高い店だったらわたし行きませんし、行っても自腹しますよ、と道々散々言うのに、河瀬さんは判った判った、と笑いながら、昔の建物を改装した市内のチェーンのパスタ屋にわたしを連れて入った。
ああ、確かにここなら、普通においしくて、でも安心して奢ってもらえるレベルだ。
わたしはほっとして相手の向かいに座った。
「生。……篠崎さん、飲む?」
座るやいなや、河瀬さんはお水を持ってきたウエイトレスさんにメニューも見ずにそう頼むと、わたしの方を見た。
「あ、いえ、わたしは」
断るとそれ以上無理強いはせずに、うなずいて座り直す。
「ごめんな、何かもう、ほんま飲みたい気分やって……今飲んだら絶対おいしいわ、思て」
「……はい」
本当にこころの底から嬉しそうなその姿に、わたしの頬にも勝手に笑みが浮いた。
「ようし、ほなもう、ほんま好きなもん頼んでな。三人分くらい食うてくれてええから」
「それは、無理です……」
思わず途方に暮れてそう言うと、河瀬さんは破顔した。
結局河瀬さんは、パスタに加え前菜やらキッシュやらサラダやらも合わせて注文して、見る間にテーブルの上がいっぱいになる。それを山のようにわたしにも取り分けてくれようとするので、慌ててその量を半分程に減らしてもらった。
結果、河瀬さんの分の料理がそれなりの量になったが、相手は平然とそれを平らげて。わたしの周囲って、食べっぷりと飲みっぷりがいい人が集まってる気がする……。
わたしは自分のティーオレとパスタをつつきながら、相手の健啖家ぶりを感心して見守った。
河瀬さんはこの間の重たい様子が嘘のように、よく喋りよく飲んで、それにつられて、わたしもずいぶんとあれこれ話をした。
その中で、千晴ちゃん――何杯目かのビールの後に、いつの間にやら呼び名が下の名前に変わっていた――京都の人やないよね、けど叔父さんは京都やんね、ということを聞かれて、自然とわたしはシンさんについて話し出していた。シンさんの仕事のこと、もらったペンダントのこと、レイコさんのこと。
時々一瞬、頭の隅をちらりと「あ、わたし話し過ぎかな」という思いもよぎったが、その度に向かいで相手がゆったりとした笑みを浮かべて「うん、それで?」とやわらかくうながすのに、ついまたずらずらと話を続けてしまう。
わたしは人といるとどちらかと言うと聞き役になることが多く、増して自分のことはあまり話さない質なのに、これは本当に珍しいことだった。
わたしの話を、河瀬さんは殆ど、にこにこと機嫌の良い笑顔を浮かべて聞いていた。そして何度か、朗らかな声を上げて笑った。その笑い声を聞く度、何故だかわたしは自分がどんどん、安心していくような思いがして、それでつい、もっとあれこれ話したくなった。
いつだったかシンさんと田上沢さんがした口喧嘩の話について、思うところを述べていると、河瀬さんは本当に可笑しそうにお腹を抱えて笑った。
「……ああ、もう」
目の端に涙まで浮かべて笑いながら、河瀬さんはよいしょ、と座り直して、言った。
「ほんっとに……ほんと、千晴ちゃん、むっちゃ、おもろいわ。変わってる」
その言葉に、とん、と胸を突かれる。
わたしは息を止め、向かいの相手を見た。
河瀬さんはそれに気づかず、おいしそうにキッシュをかじってビールで流し込んでいる。
「……あ、の」
とくんとくん、と鳴る心臓を押さえて小声で言うと、河瀬さんが顔を上げた。
そしてわたしの顔を見てふっと表情を消し、食事の手を止める。
「あの……」
改めて言い出そうとして不意に息苦しくなり、ふうっと息を吸い込んで。
相手は黙ったまま、眉を寄せるようにしてそんなわたしを見ている。
「あの、わたし……そんなに、変ですか」
「えっ?」
やっと勇気を出して言い終えると、河瀬さんは豆鉄砲を食った鳩のような顔になった。
「え……どういう、こと?」
「あの、だから……わたし、そんなに変でしょうか」
聞きながら、何故だか急に、ひどく心細くなる。
どうしてだろう、今までだってシンさんになら何度も言われたことがある。「お前ほんま変わってるわ」みたいに。
でもシンさんに言われたって何とも思わない、いや、むしろふくれて言い返すくらいのことはできるのに……同じことを言われて、何故こんなにも自分は動揺しているのか。
「えっ……え、いや」
河瀬さんは軽くのけぞって二、三度瞬いてから、ああ、と慌てたようにいきなり身を乗り出した。
「ああ、あのね、千晴ちゃん関西やないから判らんかもしれんけど、こっちではおもろいとか変わってるとかって、基本褒め言葉やから。ごめん、気ぃ悪くしたかしれんけど、でも全然、バカにしてるとかそういうことやないから」
「あ、はい、あの……バカにされてるとは、わたしも思ってないですけど」
相手の早口の言い訳に、わたしは自分の問いに言葉が圧倒的に足りないことに気がつく。
「そうじゃ、なくて……ええと、あの、わたしって……そんなに、普通と違いますか?」
「え?」
河瀬さんがまた、ぴたりと動きを止めた。
「わたし、自分ではものすごく普通のつもりだし、普通にふるまってるつもりです。でも……それって外から見たら、もしかして違うんですか?」
ああ、聞けた。
わたしはその事実に、殆ど感動する。
そして自分でも口に出してみて初めて、そうだ、ずっと自分はそれが知りたかったんだ、と改めて自覚した。
昔から友達や先生、まわりの人に何度か言われたことがある。「変わってる」と。
その度自分の中では、納得のいかなさと共にいわれのない恐怖があって、その真意を問い質したいという思いと同時に、聞くのが怖い、という思いもあって、今までずっと、誰にも聞けないでいた。
けれどこのひとになら、聞いても大丈夫な気がする。
このひとになら、わたしの問いを真剣に受け止めてもらえそうな気がする。
「一体どうふるまったら……それが、『普通』になるんでしょうか」
わたしはずっと、怖かったのだ。
自分の親は、どう考えても普通ではない。自分から見ても、とても奇妙な人達だ。
長いことつきあっている自分が見てそうなのだから、外から見たら尚更だと思う。
特に父親の異様さは実の娘ながら時々背筋が寒くなる程で、その不可解な論理と話の通じなさと来たら、まるで宇宙人と話しているようだとさえ思うことがしばしばあった。
母親はさすがにまだ人間と話している、という気はしたが、それでもやはり、彼女の言葉や主張のいびつさは自分には到底、受け入れられるものではなかった。
でも、だとすると……そんな二人に育てられた自分という人間は、もしかして同様に、外の人から見たらものすごくおかしな人間に見えているのではないだろうか?
はっきり言って、自分の評価は自分では決められない。もしある人が「自分はしっかりしてる」と言い張ったとしても、その人を知る全員が「いや違う」と言ったなら、それは自分で自分を見込み違っているのであって、真実は後者の方だろう。
わたしはずっと、あの家にいて、自分がおかしくなっていないか、それが怖かった。完全にネジの狂った人達の間に産まれて、その人達に育てられて、それでまともに育つ方が難しいと自分でも思っていた。
だからずっと、怖かった。自分でいくら自分をまともだと思っていても、周囲の人がどう思っているのか、それが判らず、怖かった。
わたしは普通がいい。普通でいたい。「変わって」なんていたくない。
「……うん」
ひとり思い詰めていると、不意に相手が向かいで小さくうなずき、椅子に座り直した。
テーブルの上で両指を組んで、こちらをまともに見る。
その目が変わらず、やさしく細められているのに、心臓がきゅっと高鳴った。
ああ、何かわたし、調子に乗ってものすごく変なこと、聞いた気がする。殆ど初対面と変わらないような相手に、一体何してるんだ。
急に恥ずかしさが一気にこみ上げてきて、頬が熱くなる。
「ええと……どう、言うたらいいかな」
そんなわたしに気づかず、河瀬さんはかすかに咳払いしてふっと横を見る。
「そう、真っ正面から言われたら……どうゆうんが『普通』で、どうゆうんが『普通やない』んかは、正直俺にも、判断はつかん」
考え考え、語る言葉はひどく真面目で、相手がわたしのこの奇妙な問いにあくまで真面目に答えようとしてくれている、その事実に胸を打たれた。
「ただ、もし、もしもやで……もしもどっかよその人が、君のことを『普通やない』とか『そんなんはおかしい』て言うたとしても……俺は、今の千晴ちゃんがいいと思う」
――すとん、と胸の一番底に、何かが音を立てて落ちた。
「もし、もしもの話やで、もしもどっかの誰かが千晴ちゃんに、『自分のやってることや言うてることは普通やない、頭おかしい』とか言うたとしたら……俺は多分、そいつをぶん殴ってる」
……ああ。
いきなり胸の奥からごうっと熱いものがわいて、鼻の奥がつうんと痛くなる。
何だろう、これ、何だ……そうだ、正直今の河瀬さんの台詞は、わたしの問いに対しての返事には全然なってない。それなのに、どうしてわたしは、こんなに深く腑に落ちていて、どうしてこんなに……たまらなく、泣きたい程に嬉しいのだろう。
「まあ、俺の保証なんかなんぼもならんかもしれんけど……そやし、大丈夫。安心し」
ああ、そうだ、わたしはずっと、誰かにそう言ってもらいたかったのだ……大丈夫、と。安心して、いいのだと。
目の前の相手に自分が丸ごと肯定されている、その事実が目が眩む程眩しかった。
わたしは何も言わずに、小さく、こくんとうなずいた。何か言ったら、涙があふれ出してしまいそうで。
ふうっと、ネジがゆるむように相手の顔に微笑みが広がる。
あ、と思う間もなく片手が伸びてきて、ぽんぽん、と頭を軽く弾むようになでられた。
やわらかな、手触りだった。
外に出ると、さすがにもう真っ暗だった。
「あー……ほんま、充実したわ」
大きく両手を横に広げて、河瀬さんは背筋を伸ばす。
「そういや千晴ちゃんって、家どの辺りなん?」
「あ、堀川を高架越えて、南西に行った辺りです」
「そっか……ほな、送るわ」
そう言うと河瀬さんは、堀川通の方向にすたすた歩き出した。
「え、え、いいですよ、大丈夫です」
「ええやん、涼しいし、ちょと酔いざまししたいねん」
言いながら相手がどんどん先へ行ってしまうのに、わたしは慌てて後に続いた。
「こんな酒美味かったん、何年ぶりかなぁ……」
笑みの浮かんだその横顔に、ま、いいか、という気分になり、並んで歩く。
夜の道は車は多くても歩く人は少なく、すぐに目の前に見えてきた堀川通を、特に何も考えずに道沿いに南に曲がる。
――瞬間、わたしの全身が硬直した。
足の動きがぴたりと止まってしまう。
だって。
堀川通を南に曲がると、その先に見えているのはあの歩道橋なのだから。
わたしは自分の呼吸の音を聞きながら立ち尽くしていた。
少し前を歩いていた河瀬さんが足を止め、振り返る。
「……どないしたん?」
道は暗く、距離があって、表情がよく掴めない。
「あ、の……あの、うち、猪熊からも行ける……と言うかむしろ堀川よりも猪熊の方が近いので。あの、だから、もう一本西から」
必死になって言うと、相手が一歩、こちらに歩み寄ってきた。
顔に街灯の光が当たって、表情が見えてくる。
「……大丈夫」
すうっと目が細まって、唇にほんのりと笑みが浮かび――それは今まで見てきた、陽気で明るい笑顔ややさしい微笑みとは全く違う、消えてしまいそうな、透明な笑みで、ああ、そんな、と胸が詰まる思いがする。
河瀬さんはその笑みを浮かべたまま、肩をまわして南を振り向いた。
「もう……大丈夫や」
自分自身に言い聞かせるような声で言うと、また歩き出す。
わたしは胸騒ぎを抱いて、その後を小走りで追った。
「あれの後、初めてやねん……ここ、来んの」
横に並ぶと、まるで独り言のように河瀬さんが呟いた。
「通らんでも、まあ別に何とでもなる場所やしな……もうずっと何年も避けてきて……でも、やっと、来れたわ」
わたしは言葉が見つからず、自分の足元と河瀬さんの横顔とを交互に見ながらひたすら歩き続けた。
ああ、それでも、せめて堀川渡っておくんだった。こっちから来てしまったら、信号がないからあの歩道橋を渡るしかないのに。
わたしは無理にでも引っ張って道を渡らなかったことを深く後悔した。
やがて河瀬さんは、歩道橋のたもとにたどり着く。
手すりに手をかけると、上を見上げた。
「あの、やっぱり……」
かすれた声で言いかけた時には、河瀬さんは既に階段を一段一段、踏みしめるように上がり始めていた。
わたしは急いでそのすぐ後ろにぴったりと続く。後になってみたら妙な発想だし、万一そうなったとしても自分にこの体格の男性が支えられる訳もなかったのだけれど、何だか河瀬さんが倒れて上から落ちてきそうな、そんな気がして。
けれど勿論そんな筈はなく、河瀬さんはそのまま階段をのぼり切った。
ゆっくりと、橋の中央へと近づく。
橋の下には、激しく車が行き交っている。
河瀬さんは中央にたどり着くと、南側を向いて両手を大きく横に広げて手すりにかけた。
わたしは鼓動が激しくなるのを感じながら、少し離れて後ろに並ぶ。
「こんな、とっからなぁ……」
口の端で呟いて、河瀬さんはガクッと頭を垂らすようにして下を見た。
「そないな度胸が、あるようなひとやなかってんけどなぁ……」
ぱさっ、と目元にかかった髪が、風にふうっと揺れて――ああ、こわい。
今にも相手がここから飛び降りてしまいそうに思えてたまらなく怖くなり、わたしはぎゅっと両手を握りしめた。
「気ぃは強い癖に高いとこ苦手で、ジェットコースターにも乗れへんようなひとやったのに……」
くっ、と喉の奥で笑うような音を立てるのに、この状況でそんな風に笑っている相手の心情を思うと、わたしは先刻からの足がすくむような恐怖と同時にたまらない切なさを感じた。
「ほんまに……なんで……」
だんだん言葉が崩れていったと思うと、手すりの上から橋の下の地面に向けて、きら、と何かが光って落ちる。
――涙。
河瀬さんは頭をうつむけたまま、声も出さずにただただ涙を落としていた。
ああ……ああ、どうしよう。どうしたらいいの。
わたしはもう、どうしていいか判らずにその背中を見つめて。自分のまぶたの裏にも、勝手にじわりと熱いものが浮いてくる。
目の前で河瀬さんの体からゆっくり力が抜けていき、ずるずる、と手をひきずるようにしてその場に膝をついてしゃがみこんでしまう。
「河瀬、さ……」
そしてそのまま、片手で口を覆って声を殺して泣いていた。
――そんな場合でないのに、先生を亡くした時のシンさんのことをふっと思い出す。暴れてわめいて、手がつけられなかったと。
シンさんの哀しみが爆発するそれなら、目の前の相手のものは、凝縮された、ぐうっと押しつぶされたそれだった。きっと本当はどこかに思いきり放出したかったことだろうに、ずっと長いこと何年も、どこにも出せずに溜め込んできたかちかちの塊。
出してしまって、いいのに……そんなにこらえなくても、いいのに。
そう思った瞬間、体が勝手に動いた。
かがみ込むようにして河瀬さんの背中に手を当てると、かすかに震えていた肩の動きが一瞬止まる。
広げた手の平をぐっと押しつけるようにしてその背に当てたまま、わたしは口を開いた。
「五年分……泣いて、いいと思います」
やっとそれだけ言うと、手の下で背中が大きく揺れた。
腕が動いて、両手でぐっと手すりの下の柵を掴む。
「は……」
そして大きく背を折って、まるで吐き出すように声を上げて泣き出した。
……ああ。
こらえきれず、わたしの目からも涙が落ちる。
それがぽたぽたと、自分の手の甲と相手の背中に落ちるのを見つめながら、わたしはただひたすら、その背に手の平を強く押しつけ続けた。
そうやってそのままどれくらい泣き続けたのか、河瀬さんはやっと、ふう、と体全体で大きく息をついたかと思うと、何かを振り切るようにばっと顔を振り上げた。
「あー……みっともねえ」
上を向いたままそう言ってくくっと笑うと、は、と息を吐いてひと息に立ち上がる。
その背にかがみ込む体勢になっていたわたしは、慌てて少し後ろに飛びのいて。
ぐい、と腕で顔全体をこするように拭うと、河瀬さんは顔半分だけ振り向いて、歯を見せてちらりと笑った。
「ごめんな、ほんま、みっともないとこ見したわ……あー、こっ恥ずかしい」
先刻までの姿が嘘のように陽気で明るい声で言うと、両手を頭の後ろで組んで歩き出す。
「ああ、でも、すうっとしたわ……ありがとう」
振り返って言うのに、その場に立ち尽くしていたわたしは慌てて歩き出した。
「今日ここ来れて、良かったわ。……ありがとうな」
階段を下りながら、河瀬さんは噛み締めるように言った。
「いえ、そんな」
「ひとりやったら、来れんかった。君がおってくれたしや」
階段を下り切って二、三歩先へ進むと、ふと立ち止まって振り返る。
「……おおきにな」
まだわずかに濡れて光っている、こすって赤くはれぼったい目をして、その目の下をふっくらふくらませるように瞳を細め、何とも言えない、甘いような苦いような笑みを浮かべて河瀬さんがわたしを見つめた。
ふうっと勝手に、頬に血がのぼる。
しばらく河瀬さんはそんなわたしを見つめ続け――不意に、ちらっと崩した笑みを浮かべて、また歩き出した。
わたしは緊張を解かれて、その後に続く。
特に会話もないまま、何となく並んで歩いた。
こっち? と尋ねるように道を指差す相手に、こっち、と家の方向を指して、少し先に立って歩く。
やがてアパートが目の前に見えてきた。
「うわ、ほんま、めっちゃ近……いいな、これほんま通うの楽やなあ」
あそこ、と指差すと、驚いた顔で言った声がまるっきり普通のものだったので、わたしは少しほっとした。
「早出とか遅出とかあるんで、近くて助かってます」
「そっか、そうやんね。そういうの大変やね、サービス業の人は」
河瀬さんは言うと、まっすぐわたしの向かいに立つ。
「ええと、そしたら……俺は土日祝は休みやし、平日は京都駅なら七時には大抵出てこれるから、千晴ちゃんと叔父さんとの都合で時間と日、決めてくれるかな。ちゃんとお礼するから」
「あ、いえあの、わたしはもう充分ですので、叔父に」
焦って手を振ると、河瀬さんは歯を見せて笑った。
「足らんわ、あんなんで。……えらいみっともないとこ見してしもたし」
「そんな、みっともなくなんかないです、全然」
思わず強く言うと、相手の目がすうっと細くなった。
「……おおきに。ほな……待ってるし、連絡して」
言葉と同時に、いきなりぎゅっと片手を握られた。
息もできずにいると、ぶんぶん、とまるで子供のように大きく手を振って握手され、ぱっと、その手が離れる。
「ほな、おやすみ」
軽く片手を上げ、相手は背を向けてさっと歩き去っていき――離れていく背中を見送りながら、わたしはまだ感触の残る、火のように熱い左手を、そうっと胸の前で握りしめた。
次の日わたしは、仕事の後にシンさんの家に向かった。
無事に渡せたこと――鎖を直したことは何となく言えなかった――ずいぶんすっきりしたように見える、と河瀬さんが言っていたこと、その後お礼だと言って夕飯をおごってもらったこと、をぽつぽつ話して。歩道橋でのことは、無論黙っていた。
シンさんにももう一度改めてお礼したいから時間取ってくれないかと言われた、と言うと、面倒そうに片眉を上げる。
「いや、別に俺は、もうええねんけどなぁ」
「でも、ほんとにお礼言われるべきなのはシンさんの方じゃないの? だって、あれシンさんが何かしたんでしょ?」
聞くと、シンさんはにやり、とどことなく意地の悪い笑みを浮かべた。
「そや、その話まだしてへんかったよな……ちょ待ちや、コーヒー淹れるわ」
仕事の手を止めて立ち上がるとシンさんは台所に向かい、やがてコーヒーの入ったカップを手に、テーブルの前で足を組んで座ると話し始めた。
「姉ちゃんの相手の男の会社、全国規模の情報誌出版社や言うてたやろ」
「あ、うん」
「多分あっこかなー、て心当たりあってん。で、俺の品、ここ数年結構こっちの雑誌とかに出とって、そこにも載してもらったことあんねんか。そん時の担当の人に聞いてみたら、ビンゴ」
「へえ」
思ってもみない話に、わたしも身を乗り出す。
「そいつ、今吹田におる」
「え?」
「あの男。事件の後すぐ、九州支店に飛ばされて、そんでもまた懲りもせんと向こうで女問題起こして、揉めて、結局また大阪支店に戻されてんて」
「……うそ」
わたしは呆れ返ってぼそっと呟いた。だって、それ……どういうことよ。
「なんで戻れるの、そんなんで」
「それがや、九州でやらかした後、離婚してその相手と再婚しよってんて」
「えっ……だって、奥さんと子供さんは?」
驚いて尋ねると、シンさんはにっと笑ってコーヒーを口にふくんだ。
「なんか社内では結構有名な話らしいねんけど、その九州支社の支社長って、えらい侠気満点なタイプやねんて。そんで、奥さんには在宅でも作業ができるような仕事紹介したげて、弁護士さんもつけたげて、がっつり両方から慰謝料取らしたらしいねんけど……離婚に際して奥さんのつけた最大の条件が、『もう二度と自分達二人の前に姿見せんな』ってものやったらしくて。そんで、『こんな奴大阪で引き取れ、二度と九州に足踏み入れさせんな』って突き返したんやと」
「そう、なんだ」
ああ、そうなんだ、良かった。
わたしはその二人と、それをきっとずっと気にかけていたであろう河瀬さん、両方の為にほっとした。が、しかしどこまでろくでなしなんだその男、と急に腹が立ってくる。
「そんでもそいつ、また性懲りもなく大阪支社の新入社員やらバイトやらにコナかけとるらしいで」
「はあ!?」
むかむかしているところに更にとどめを刺されて、つい声が裏返ってしまう。だってほんとに、どこまで屑なんだ。
「昔っからおる子等は話知ってるから手出せんしな。今はアルバイトの若いのとつきあってるみたいや。まあ、あれはバイトの子も金目当ての完全遊びやろうから、せいぜい吸い尽くさせとけ、て、知り合い等も皆放ってるみたいやけど」
「サイッテー……」
毒づくように呟くと、シンさんが声を上げて笑った。
「まさにな。ほんま、あの顔でなんでそんな女が寄って来るんか、俺には理解不能や」
「……え?」
さらっと言った、その内容が実はとんでもないような気がして、わたしは顔を上げた。
「顔って」
「会うてきた」
どことなく凶悪な面相でにやりと笑って、シンさんがあっさりと言う。
「え……えっ?」
「社内旅行かなんかの時の、写真見せてもうて。そんでその後、会社の前で張ってた」
わたしは毒気を抜かれて、呆然とシンさんの顔を見た。だって、会ってきた、って。
「会社出てきたとこ、少しだけ後つけて。そんで声かけてん。……これ、落としましたよ、て」
シンさんは両手で、ペンダントをつけるような動きを見せ――これ、て、あれか。
わたしはごくんと、息を呑んだ。あれを見て何て言ったんだろう、その男。
「あいつ、覚えてへんくてな」
「え?」
予想だにしない言葉に、声が跳ね上がった。覚えて、ない?
「ひとの手の中覗いて、まるっきり素の顔で、いえ違いますよ、て」
「サイテー……」
わたしはまた、呆然と呟いた。だって、そんなのって……有り得ない。
「そんでさっさと手振って行こうとするから、もっかい呼び止めて。いやでも絶対、今あなたの鞄から落ちましたから、て。よう見てみて、て無理くり、相手の手に押しつけて」
喉が勝手にひゅっと鳴った。あれを、持たせた。
「もうな……何ちゅうんか、一瞬で、ごうっと……真っ黒い、どろどろしたもんが、ざあっと一斉に、相手の後ろに飛び移る、みたいな」
言いながらシンさんは、自分で気づいているのかいないのか、一度小さく震えた。
「そんでもやっぱり、相手は知らん、て言うて、こっちに押し返して……あれは嘘っちゅう顔ではなかったわ」
シンさんは親指で軽く唇をなぞると、ちっ、と小さく舌打ちして。
「覚えとったら、見過ごしたろ思てんけどな」
「えっ?」
「不倫なんてやったもん両方悪いわ。妊娠かてそんな関係してんねやったら気ぃつけん方がおかしいと思うし、増してその挙句に死なれても、そんなんまわりの人間にとっちゃただの迷惑やろ。そやけど、あんまり相手がろくでなしやから……あんまり不公平に過ぎるから、それが納得いかんかったから、そんであれ、預かってん」
シンさんはしかめっ面で話し続ける。
「なんちゅうかな……今現在、何やってどんな風に暮らしとっても、まあそれはそれでええわ。そいつの人生や。そやけど……覚えとったら、見過ごしたるつもりやったのに」
ぐっと寄った眉の下の細い目が、ふっと暗いいろに翳る。
「悔恨や反省やのうていい、恐怖でもいいわ。どんなかたちでもええからあれ見て、相手のこと、思い出すようやったら……それだけで引き返すつもりやってんけどな」
目の前にわたしがいなければきっと煙草を口にしたいのだろう、シンさんは指で何度か唇をこすると、ぐっとカップのコーヒーを飲み干した。
わたしは何とも言えない思いを抱えて、そんなシンさんを見つめる。
河瀬さんの話によれば、きっとほぼ毎日、誇らしげに胸に下げていたのであろうあのペンダント。ご近所の人に自慢しまくるくらいなのだから、それは間違いなく自分の恋人である男にも報告したことだろう。
そして最後には彼女の首を絞めた、そのペンダント。
……覚えて、いない。
わたしはぎゅっと、膝の上で両手を握った。
「あの兄ちゃんが大事に持ってる限りは、あの品もそうそう暴れんとおとなしくしてるやろ、そんでだんだん、消えていくやろと思ったし、それがええと思っとってんけど……まるっきり思い出しもせんあの姿見て、ああ、これはあかんわ、こいつは一度自分のやったこと全部背負わせなもうどないもならん、思て押しつけてきた」
シンさんはぎゅっと眉根を寄せた。
「あれは何言うか、もうその死んだ姉ちゃん個人がどうこうゆうもんやなくて、もともと物にかかってたマイナスの場にどんどんどんどん、色んなもんが引き寄せられて膨らみ切ったような代物やったから……あんなもんまとめて乗っけたら、そいつがどないなんのか、想像もつかんけどな。まあ自業自得や、あんな男には」
その言葉に、背筋がすうっと冷たくなる。何年も何年もあの部屋に降り積もり、じっとりと暗くなったあの気配、あんなものに取り憑かれるなんて、想像しただけで怖い。
「ええとこだけきれいにすくい取って、あの兄ちゃんに返せたし……喜んどったんやったら、それで良かったわ」
シンさんはどこか自分自身にも踏ん切りをつけるように言って、勢い良く立ち上がった。
台所に置いたコーヒーメーカーから、二杯目をカップに注ぐ。
「……判った、そしたら俺は、今週やったらいつでもええし、お前の都合で日決めえ」
背を向けたままいきなりそう言われて、わたしはどきんとする。
「あ……うん、判った」
わたしは急いでうなずくと立ち上がって。
「ええと、じゃああの、電話、借りてもいい?」
「え? ああ、ええよ」
振り返って親指でくい、と家の方を指すのに、わたしはもう一度うなずき、引き戸を開けて家の方に上がった。
座卓の上に放ってあった携帯を手に取り、こないだシンさんから預かった名刺を取り出して。
ぐっといつもの緊張が胸を襲ったが、わたしは深く息を吸って――大丈夫、夕飯時はもう過ぎてるし、かと言って非常識な程遅い時刻でもない、用件はちゃんとあるし、それに……それに。
――待ってるし、連絡して。
別れ際の相手の言葉と、強く握られた手の感触が甦って、心強い思いと同時にまたかあっと頬が熱くなるのを感じた。
それを打ち消すように頭を振って、その勢いでどんどん番号を押してしまう。
『……はい、もしもし?』
コール三回で、相手が出た。
「あ、あの……あの、篠崎です」
緊張で裏返りそうな声を抑えて言うと、相手が『ああ』と笑った。
『この番号、千晴ちゃんの?』
「あ、いえ、叔父のです」
あ、しまった、携帯って相手に番号、出るのか。まあでもいいか、河瀬さんに知られたところでよそに流れることなんてないだろうし、河瀬さんがシンさんにかけてくることもないだろうし。後でシンさんには謝ろう。
「今、叔父の家で。それで、今週ならいつでもいいそうです」
『そっか。そしたら……ええっと、明後日は?』
頭の中でシフト表をめくる。明後日は四時あがりだし、今の予約状況ならそれ程の残業にもなりそうにない。
「六時くらいなら確実に大丈夫だと思います」
『そう、そしたら六時半で、えっと、場所……』
「あ、いいですよ、この前のタワーのとこのお店で」
『え、けど』
「コーヒー以外で、何か頼みます。あそこ完全に禁煙だから、そこは好きなんです、わたし」
『そっか。そしたら明後日六時半、あそこで』
「はい。……それじゃ」
電話を切って、わたしはふう、と息をついて肩の力を抜いた。ああ、緊張した。
工房に戻って番号のことを謝るとシンさんは一瞬渋面をつくったが、「まああの兄ちゃんに知られて広まることもないやろしな」とわたしが思った通りのことを言って許してくれた。
わたしはその足で家に帰ると、カレンダーに大きく、その約束を書き込んだ。




