第五章(後)・闇の部屋
駅近くの喫茶店に入ると、レイコさんはほう、とひと息ついた。
「大丈夫? しんどい?」
うかがうように尋ねると、手を振って苦笑する。
「もう、まだ全然、なんてことないのよ? 心配し過ぎ」
だって……。
わたしは本当のことが言えないまま、椅子の背に体を沈めた。
向かいでレイコさんは、バッグの中から先刻シンさんに渡された紙切れを取り出して見つめている。
あれ、きっと、携帯の。まだシンさん、教えてなかったのか。
ふ、と息をつきレイコさんはそれを元通りバッグに入れ、わたしの目線に気づいてこちらを見るとほのかに微笑む。
「まさか、自分から教えてくれると思わなかった」
「え?」
ひとりごとのような呟きに、わたしは声を上げた。
「携帯。持ってんのは判ってたのよ、だって、バレバレだもん。ポケットに入れたままのジーパン、部屋の隅に放ってあったりするし。あれで気づいてないと思う方がどうかしてる」
……シンさん。
自分からあれだけ教えるな、言っておいてそれはダメダメだろう、とわたしは内心で額を押さえたい気分になった。全く、ほんとに。
「でもさ、どうも当人、必死で隠してるつもりみたいだったから……だからわざと、聞かずにおいてあげたのよね。いつかその気になったら言ってくるだろうし、何かあった時の切り札として使ってもいいし」
さすが、レイコさんの方が遥かに上手だよなぁ。シンさん実は転がされてるわ、手の平で。
感心していると、レイコさんはくすっと笑った。
「千晴ちゃんは知ってたんでしょ?」
「えっ?」
「て言うか、あの入院の後よね、多分」
「あ……はい」
もうそこまでバレてるのなら、とわたしは素直にうなずいた。ほんとシンさん、全然隠せてないじゃないの。
「うん」
レイコさんは何故かひどく満足そうに笑って、長椅子の背に大きくもたれた。
「わたし実はさ、子供つくろうと思ったの、千晴ちゃんのおかげなんだよね」
「わたしの?」
すると、まるで思ってもみない言葉を言われて面食らう。
「ん」
レイコさんは唇の端を上げて上品に微笑み、運ばれてきたオレンジジュースのストローをくわえた。
「千晴ちゃんが入院した時、リュウが怒鳴り込んでった、ての聞いて……それからどうやら、携帯持ったらしい、ての判って。それで、ああこれ、もう大丈夫なんじゃないか、て」
「だい……じょうぶ?」
「わたし、野望があるんだ」
身を乗り出していきいきと話すレイコさんのその言葉には、どこか聞き覚えがあった。
「野望?」
いつかと同じように、わたしは聞き返す。
「うん」
レイコさんはにかっと笑うと、思いもよらない話を語り始めた――。
もともとね、わたし野々宮先生と知り合いだったのよね。
そう、リュウの「センセイ」。
学生時代からよく研究室に通っては、彫金教えてもらったりしてた訳。
野々宮先生、自分の工房では食器をメインに扱っててね。まあわたしがやってる陶芸でも食器は基本だから、そういう意味でもすごく参考になった。ほんとお世話になったから、卒業する時、自分がつくったカップを贈ったのよね。
……うん、あれ。今リュウが使ってるクリーム色のカップ。
あれもともとは、わたしが先生にあげたものなの。
わたし学生の頃、ドイツの陶芸家にすごく心酔してて。昔日本で個展開いたの見て以来、ずうっとファンでね。学生の頃から自分の作品の写真とか添えて延々手紙送ってたら、「卒業したら来ないか」って言われて、喜んですっ飛んでって。それがわたしの師匠なんだけど、そのひと、こう、異素材と組み合わせて、ていうのが割と得意なのね。木とか布とか、金属とか。
それを学んでる内に、ふっと先生の食器、思い出して。
ああ、あれと組み合わせたら面白いんじゃないか、って……そう思いついたらもういてもたってもいられなくなってね。
師匠の元について修行、ていう意味で言えば、もうその頃にはとっくに終わってて、どっちかって言うと共同制作してるような状況だったから、わたしは彼女に断って帰国を決めたのよ。
帰国しようと思って、て幸ちゃんに電話したら、じゃ美由紀ちゃんも誘って三人で窯開かない? って話になって。
いろんなことがとんとんとこわいくらい順調に決まって……帰国して今の家に越してすぐ、先生の工房、訪ねていったのよ。
うん……でも先生、その時にはもう、亡くなられててね。
でもそんなこと知らなくて、行けばいる、て思ってたから、アポも取らずに訪ねてみたら、工房の名前が変わってて。おかしいな、って思いながらも扉開いて。
そこに、リュウがいたのよね。
向こうもいきなり来たわたしにびっくりしてたんだけど、リュウのこと、わたし実は知ってたのよね。って言っても、顔と名前が一致する、くらいのレベルなんだけど。
ほら、あいつ学生時代、結構好き放題やってたからね。よく教務に呼び出しくらったりしてて、まあ本人は自覚なかったろうけど、悪い方の意味で有名人だった訳。
でも腕は良くて、野々宮先生の肝いりだって話も耳にしてて、だからまあ、リュウが工房にいたこと自体はそんなに驚かなかったんだけど……その時ちょうど、あいつ、あのカップ使っててね。
「なんでそのカップ」てつい言ったら、「なんで自分がこのカップのこと」て言い返されて。そう、それが初めての会話。笑うでしょ。
リュウの方はわたしのことは全然知らなかったそうなんだけど、そのカップが卒業生のひとりからもらったものだ、てことだけは先生から聞いてたらしいのね。
だからかな……一応、受け入れてはくれたんだ、リュウ。
言ったことないけど、その時の印象、ほんと最悪でね。工房の中で作業してるの最初に見た瞬間に思ったの、「穴蔵の中の気の立った狐みたい」だったもの。ほんとよ。多分、わたしがあのカップつくったんじゃなかったら、すぐに追い出されてたと思う。
何て言うか、空気が痛いくらいピリピリしててね。ほら、野々宮先生って、もうほんと温和な、のほほんとした感じのひとだったから、それにもびっくりしてね。あの先生と一緒に仕事しててよくこんなんでいられるな、って思ったんだけど……もう亡くなられてたのよね、その時は。
驚いて、がっかりして……ほんとショックでねえ。あれこれ頭の中で膨らませてきたもの、いきなりぺしゃん、てつぶされたみたいで。
わたしのへこみっぷりがあんまり大きかったみたいで、リュウ、どうしたのか、って聞いてくれて……わたし勢いで、自分が考えてたこと全部喋っちゃったんだ。
リュウは難しい顔してそれを聞いてたんだけど、話聞いた後に一言、「そら残念やったな」って言って、また自分の仕事に戻っちゃったのよ。
わたし、ちょっと呆気に取られてね。でも仕事してる背中しばらく見てて、はたと思いついた訳。そうだ、このひとがいるじゃない、って。
だって先生がご存命の頃は、一緒に先生の工房手伝ってた訳でしょ? で、今は自分の工房として独立してる訳だし、同等とは言えなくてもこのひとだって相当の腕を持ってる筈だ、って。
思いついたらわたしもう黙ってられなくて、すぐに言ったのよ。じゃああなたが一緒にわたしとやりませんか、って。
そしたらあいつ、うるさそうな顔して言ったの。自分はアクセサリーしかやらない、食器はやってない、って。
わたし、全然納得いかなくってね。
やってなくてもできる筈でしょ、だって手伝ってたんだから。ならやろうよ、絶対おもしろいから、って。
でもリュウ、絶対にお断りや、ってさ。
だけどわたし、諦めたくなかったのね。
だから自分は諦めない、絶対にあなたの気を変えさせてみせる、って、そう宣言した訳よ。
それからさ、ほんと、日参したわよう……もうほんっとうざがられてね。でも全然平気よ。だってやりたかったし。あいつほんっと、すごく腕いいんだもん。
工房でつくってるとこも見たし、卸してる店も幾つもまわってみた。ほんと、良くてね。
今はリュウ、割と男物と女物とつくりわけてるけど、あの頃は特にそうはっきりは区別してつくってなくて、でも圧倒的に、男の子に売れててね。
わたしほら、男物のアクセサリーっていうと、こう、トゲ生えてるブレスレットとか、じゃらじゃらしたぶっとい鎖とか、六角ナットみたいな指輪とか、ああいうのしかイメージできないんだけど――「お前それいつの時代や」てリュウにはずいぶん、莫迦にされたけど――もう全然、そういうのと違うのね。シャープなのに、ものすごく繊細で……でもどこかピリピリしてて、だけど抜群に上手い。
まあ勿論、ジャンルってものがあるからね。いくらアクセが得意だって、食器はまた別の話なんだけど、それでも、もとは先生の工房で仕事してた訳だから、基礎は完璧だろうし道具だって揃ってる筈なのよ。
それでいくつか、もともと先生が食器卸してた店もまわってみてね。
その時に初めて、先生が胃がんで亡くなられたこととか、がんが判って亡くなるまでがほんとにあっという間だったとか、そういうこと聞いて……リュウは何にも、そういう話しなかったからね。
先生が倒れてすぐの頃、リュウが店に来たんだって。
こういう事情だから今約束してる納入分は自分が仕上げて入れるけれども、その後は当分待ってほしい、って。
先生は必ず治る、必ず元気になってまた仕事に戻る、だからそれまで待ってくれ、って、頭下げて頼んできたんだって。
そう言われちゃ、そんなの断れる訳ないから……だけど先生、助からなくてね。
お葬式に行った時に、ちらっと匂わせてみたんだって。君は先生の工房継ぐんだろう、今回はこんなことになって本当にお気の毒だけれど、でもこれからもよろしく、って。
そうしたらリュウ、言ったんだって。
工房は継ぐ、でも自分は食器はやらない、って。
お店の人も驚いて、一体どうして、それじゃうちも困る、て言ったそうなんだけど、あいつ頑なでね。
自分は実際、先生の工房でも食器については、手伝いをしてただけだから、って……あくまでメインは先生がつくってて自分は手伝いだけ、だから自分にはとても先生がやっていたようなものはつくれない、すみませんが仕事でのおつきあいは今後はできません、って、そう言われたんだって。
お店の人も、大分食い下がったみたいなんだけど……本当に無理です、すみません、って最後には土下座しかねないくらいの勢いで頭下げられたんで、もうそれ以上はどうにもできなかった、って言ってた。
わたし、不思議でね。
だってできない筈ないのよ、絶対。あの腕だし、ずっと先生とやってたんだし。
だけどその話聞いて、ちょっと感じたのが……どう言ったらいいのかなぁ、こう、先生に操立ててるようなもんなのかな、って思ったんだ。
いわば食器は先生のライフワークみたいなもんで、自分がその聖域を荒らしたくない、って言うかさ……こういうの、なかなか微妙なところなんだけど、自分がすごく尊敬してる作家のつくるものって、越えられないのもしんどいんだけど、越えちゃうのも何だか辛いもんなのよね。
リュウはとにかく、先生のことまっしぐらに敬愛してたから。先生がつくる以下のものを出して先生の名を汚すのも嫌だろうし、逆に先生より上のものつくっちゃうのも先生のフィールドを荒らすみたいで、それで嫌なのかな、って。
そういうのって、判らなくもなかったけど……でもやっぱり、莫迦莫迦しいと思ったのよね。
だって、つくってなんぼよ? わたし達みたいなのって。つくんないと判んないのよ、どんな代物ができあがってくるのかなんて。
それをやらずに逃げてるのが、わたしどうしても不満でね。
ほんと、三日と開けず通ったわよ、リュウの家。いい加減にせえや、って怒鳴られたり、逆に頼むしもう諦めてくれや、て懇願されたりもしたけど、わたし全然、めげなくってね。
だって諦めたくなかった。もう、わたしの作品と組むかなんてことはどうでもよくって、とにかくただつくってほしかった。絶対いいものつくるもの。見てたら判るもの、それくらい。
通い始めて、半年くらい、した頃だったかな……その頃にはわたしももう、あんまりうるさく言わずに時間かけて懐柔していった方がいいのかな、と思ってて。ちょくちょく行ってた時に田上沢くんとも再会したりして、何て言うか、普通の友達づきあいみたいな空気になってたのよね。
だけどその時はさ、もうほんと、我ながら会心の作ができたのよね。かなりの大皿。いいものができる時って、何もかもが思った通りで、それなのに何もかもが思ったものを越えてるの。
もう嬉しくって、有頂天になって……できた瞬間にリュウに見せたい、ってそれだけ思って、でっかい皿抱えてすっ飛んでったのよ、リュウのとこ。
あいつ、一時間くらいずっと黙って、わたしの皿見てた。
その姿見てたら、もう黙ってられなくて。
……やろうよ、って。やってダメならそれはそれ、やらないのに諦めちゃうってつまらなくない? って。わたし見たいんだ、リュウのつくった食器。
そしたら言ったの。
自分にはつくれない、って。
わたしの皿を手に取ってじいっと見ながら。
俺には無理や、って。
その声が、今までただ「やらない」って言ってた声とは、全然違ってて。
食器っていうのは、食卓で使うもんや、って。
食卓っていうのは、幸福でなきゃいけない、って。
俺はあったかい食卓ってもんを知らん。
だから俺には食器はつくれん。
悪いけど、諦めてくれ。
そう、言ったの。
「……一瞬、頭が真っ白になってね」
そう言ってレイコさんは、言葉と裏腹に歯を見せて笑った。
わたしは声も出せずに、その向かいに座って話を聞いていた。
目の前のアイスティは、すっかり氷が溶けてしまっている。
たった今聞いたシンさんの言葉が、自分の胸に巨大な刃のように突き刺さっていた。
それはまるで、わたし自身の中から出てきた言葉のようだった。
その言葉を発したシンさんの気持ちが、わたしには痛いくらいよく判った。
わたしもだ。
わたしも知らない。
幸福で、あたたかい食卓……そんなものとは、わたしは一切、縁がなかった。
無論、今この年になって、シンさんやレイコさんと食事をしたり、学生時代の友達と飲みに行ったり、そういうことは楽しいし幸せだ。でもそれはあくまで「イベント」に過ぎなくて、日常の、地に足のついた、自分の中に深く根ざしているようなものとはまるっきり違うのだ。
自分はそういうものの上に立ってはいない。
わたしが一番最初に感じた「食卓の幸福」は、家を出て、ひとりになって、自分だけの家で初めて食べた、ひとりきりの夕食だった。
あの、例えようもないこころの安らぎ。
わたしにとっての「食卓の幸福」とは、あのことだ。ひとりきりで充足していて、完全に閉じている。
小さい頃、父が高級住宅地に一軒家を建てて家族で引っ越した後、わたしは長い間ひどく不思議だった。並んでいる家はどれも似通っていて、同じような壁面に同じような窓がある。
けれどもその窓の中から垣間見える光景は、自分の家とは全く異なっていた。
外がすっかり暗くなってからわたしは家を抜け出して、何度も何度も、いろんな家の窓の前に立ち、カーテンの隙間から見える中の風景を眺めたものだ。
父親がいて母親がいて、その間に子供がいて、そして皆、笑っている。
時に叱られたり泣いたりしていても、何故だかいつも、最後は笑顔で終わるのだ。
わたしはそれが不思議で、飽かずいつまでも見つめていた。
あそこにあるのは、一体何だろう。
どうしてうちとは、こんなにも違うんだろう。
小さい頭で、どれだけ考えても判らなかった。
あれが欲しい、心底からそう思った。
たまらなく羨ましくて切なくて……けれどもいつか、わたしはよその家の窓を見ることをやめた。
無いものは無いのだ。仕方がない。それを欲しいと思うのは、例えば生まれてしまった後になって「双子になりたい」と思ったりするのとおんなじ。どれだけ憧れたってどうしようもないことで、ただの憧れ、それ以上でもそれ以下でもない。
シンさんが言う「食卓の幸福」は、きっとわたしにとっての「窓の中の幸福」で、自分はそれに無関係な人間なんだ。子供の頃のわたしは、そう自分に決めたのだ。
いつか伯母が言った、「あんた達は似ている」「相性がいいんだ」と。
その通りだ。
わたしもシンさんも、そんなものは一切空手で生きてきた。
手の内に何も持たずに、まるで世界と戦うようにして生きてきた。
わたし達ふたりは、全く離れた土地と時間を、そうやってまるで双子のようにして生きてきたのだ。
大人になって初めて出逢った、十近く年の離れた異性の相手のことが、何故こんなにも手に取るように判るのか、ずっと不思議だった。でも今ならその理由が判る。
もしも魂にかたちというものがあるなら、わたしとシンさんのそれとは、とてもよく似ているのだ。
夜になってシンさんの家に行き、暗い辻の上に工房の窓から明かりが漏れているのを見る度、何とも言えない落ち着きを感じた。
あそこでシンさんがひとりで暮らしている、そう思うと奇妙な程に心強い思いがした。
古い友人のような、まるで同志のような、そんな気がして。
シンさんはわたしと同じ匂いがする。
「……気がついたら、怒鳴ってた」
自分の胸の中に一気にわき上がった思いに囚われていたわたしは、レイコさんの言葉にはっと我に返った。
レイコさんはそんなわたしの様子に気づいていたのかどうなのか、ふっと笑みをもらしてこちらを見ている。
「莫迦じゃないの、って」
「えっ?」
そもそも怒鳴るレイコさん、というのが全く想像できなくて、わたしはとまどい――そしてその言葉も全く予想外のもので、更にとまどった。
「経験してなきゃつくれないって莫迦じゃないの、だったら中国で修行してない中華の料理人は全員駄目だし、モテモテじゃなきゃ恋愛映画もつくれないし、人殺ししてなきゃ推理小説も書けないじゃないか、経験主義なんて下らない、経験主義者のプロなんてお話にもならない、知らないものをものの見事につくれてこそ本物のプロってもんじゃないか、あなたアマチュアなの、アマチュアが人からお金取ってものつくって売ってるの、って……そりゃもう一気に、まくしたててねぇ」
照れたように笑うレイコさんを前に、わたしは呆然とした。そのあまりにも予想外の方向からの、あまりにも鋭い切り込みっぷりに。
いつか田上沢さんが話していたレイコさん評が頭に浮かぶ。時々、こう、きらきらっと、びっくりするくらい鋭く輝くんだよ。
ああ、あれはきっと、こういうことだ……これがレイコさんの魂の、真の強さなんだ。
シンさんは彫金師だしレイコさんは陶芸家で、でももし同じものを専門にしていたとしたら、二人がつくるものはきっと真逆の輝きを持つのではないか、そんな気がした。方向性が、全く逆なのだ。
レイコさんがシンさんに怒鳴ったような、そんな言葉は、わたしには、そしてきっとシンさんにも、まるっきり意識にないものだった。例えば自分達が平面しかない場所でそれが世界のすべてと思って生きていた、そんな時に遥か頭上から言葉が降ってきた、そんな感じに。
けれど、いやそれだからこそ、シンさんはレイコさんに、レイコさんはシンさんに惹かれたのだろう。
「わたしさ、記憶にある限りで他人に怒鳴ったことって他に無い……て言うか、腹が立つようなことも正直、そんなにはないのよねぇ。何て言うか、大抵のことは面白がっちゃう方で。だけどあの時は自分でも訳判んないくらい、お腹の底からむらむらと腹が立って」
ちら、と舌を出してレイコさんはいたずらっぽくそう言う。
「そりゃもう、度肝抜かれてたわよう、リュウの奴。今までどれだけ、きっついこと言って追い返そうとしても、わたし実際、全然平気で、へらへらしてたからね。それが突然、あの爆発だしね」
くくっ、と可笑しそうに喉の奥で笑うと、レイコさんはかくんと肩を落とした。
「思い切り怒鳴って、それで家飛び出してきちゃって……帰り道、泣けてさあ」
わたしははっと息を呑んで、レイコさんを見た。
レイコさんは長椅子の背にもたれて、目だけでどこか懐かしそうに天井の方を見上げている。
「ものすごい大股でガンガン歩きながら、もう泣けて泣けて……なんで泣いてるんだか自分でもさっぱり判んないまま、まわりの人には妙な目で見られて、それでもどうしても止めることができなくて。どうしていいんだか判んない程、たまらなく口惜しくて口惜しくて、無性に腹が立って……ああ、なんだ、わたし、あのひとのこと好きなんだ、そう思ったのよね」
ふうっと唇に、笑みが浮かび上がって――ああ、綺麗だ。
レイコさんの全身からやわらかな輝きが溢れ出しているみたいで、わたしは目を瞬いた。
「いつの間にか好きになってたんだ、そう……判ったのよね」
ふっと目を落として、はにかむようにレイコさんが呟く。
「でも判ったはいいけど、もうどうしたらいいんだか……あんな啖呵切っちゃって、どの面下げて会えばいいのか、って。それに、わたしの皿を見てわたしにああ言った、ていうの、それ、つまりは一種の決別宣言じゃない? 生きてる場所が違うんだ、みたいな。それってつまり、望みゼロってことじゃない。だからそれから一ヶ月くらい、わたし行けなかったのよね、リュウのとこ」
もうそれはすべてかつて終わった話なのに、わたしはどきんと不安になった。ああ、そんなことになってしまって、それで一体、どうやって二人は今の場所にたどり着いたのだろう?
「それである日、京都駅の辺りであれこれ買い物してて……ほら、デパ地下で甘栗売ってるじゃない? あそこ美味しいのよね、わたし好きで。ちょうど新栗の季節で、小さいのぼり立ってて、それ見たらわあ嬉しい、て思って、店の前に立ってあの香り吸い込んだら、何だかいてもたってもいられなくなって」
レイコさんはくすくすっと笑って、既に氷が溶けて水のようになっているジュースを一口すする。
「一番大きいの衝動買いして、それ抱えて行ったの、リュウのとこ。そりゃもう、あの細い目まん丸にしてたわよ、リュウ」
一番大きいの、って……それかなりのものじゃなかったか、確か?
わたしはその売場を思い返して。そりゃ驚くよ、シンさんじゃなくても。
「甘栗買ってきた、一緒に食べない、ってそれ差し出して。リュウは無言でわたしを家の方に上げて、コーヒー淹れてくれて。そのまま二人で黙って延々、甘栗食べてね」
レイコさんは可笑しそうに笑った。まあ確かにそれ、想像するとかなりシュールだ。
「どれくらい、そうしてたかなぁ……不意にリュウが、言ったのね。
『こないだは悪かった』って。
『お前の言うてたことは百パーセント正しい』『百パーセント正論や』って。
それで……『それでもやっぱり、俺には食器はつくれん』って。
『すまん』って頭下げたのよ、あのリュウが。まともに頭下げてわたしに謝ったのって、多分あれが最初で最後じゃなかったかなぁ」
……ああ。
その時のシンさんの思いがまた痛い程伝わって、わたしはたまらなくなった。
そうなんだ。そう。レイコさんの言葉は百パーセント正しい。その通りなのだ。できないのは、ただ単にできない自分が莫迦で駄目なのだ。
それはすべて判っていて、それでもどうしてもできない。
わたしにはそのシンさんの気持ちが痛い程判る。
「その時にはわたしどうしてか、もう全然、腹も立たなくってね。いいよ、て一言言って、それでまた黙々と甘栗」
レイコさんはそう言って、指先をつまむように動かしてみせた。
「でもわたし、甘栗すごく好きなんだけど、むくのがかなり下手なのね。あの、爪で切れ目入れて割るのがほんと下手で。自分ちだったら最初っからナイフで切ってスプーンで食べちゃうんだけど、さすがによそではね。だからそれも、喋れなかった理由なんだけど……カニ食べてる人みたいになってたのね、要するに」
そう朗らかに笑うレイコさんに、ぐっと狭く苦しくなっていた肺が広がって息が楽になる。ほんと、こういうとこすごくいいとこだよな、レイコさんの。
「だけどその内、あれ、て気がついたんだけど、なんか軽く力入れただけできれいにぱくっと割れる栗があってね。それも幾つも。それで、こんなに栗って楽にむけたっけ、って不思議に思って、ふっと見たらさ、リュウがね……あいつが、爪でぱきぱき、うまいこと割れ目入れて、それをわたしの手元の方にさりげなく転がしてた訳」
……うわぁ。
レイコさんの話に、わたしはじん、とした。それは確かに、ぐっとくる。
「それ、見たらね、なんかもう、また訳も判んないけど、どうしようもなく泣けてきて……傍から見てたら、あれほんと莫迦みたいだったと思うんだけど、ひたすら甘栗食べながら、ひたすらぼろんぼろん泣いてね。リュウ、びっくりしたみたいに、手を止めてわたし見て……だけど何にも言わずに、その内また、ぱきぱき栗割って寄越してくれてね」
ありありとその情景が目の前に見えるようで、わたしは先刻までの痛みを忘れてすっかりほのぼのとした思いに浸った。ああ、やっぱり……やっぱりシンさんの相手がレイコさんで、良かった。
「その内リュウは自分は食べるの、やめちゃったんだけど、わたしはなんかもう、むきになってて、やめられなくてね。リュウが隣で呆れてんの判ってたんだけど、とにかく食べて……相当長い時間かかったんだけど、全部食べ切って」
「え、全部?」
わたしはいきなりほのぼの感を断ち切られて、目を丸くしてレイコさんを見た。だって確か、あそこの一番大きいのって、キロ単位じゃ……ほんと、この体の一体どこに入ってるんだ?
「うん、全部。そしたらさすがに、気持ち悪くなって」
照れくさそうにレイコさんは笑って。いや、そりゃそうだろう。
「もうすっかり夜も遅くなってたし、わたし気持ち悪くて動けなかったし……泊まってけ、って言われて、それがこうなったきっかけ」
何と言うか、実にらしい馴れ初めと言うか。ロマンチックのかけらも無い。
「だからね……リュウにいつか、食器をつくらせる。それがわたしの野望なの」
そう言うとレイコさんはもう一度にっこりと笑った。ああ、成程、そこに話が戻ってくるのか。
わたしは深く納得し――いや、でも。
今の話には、わたしは当然、全然関係してなくて……それでどうして、「わたしのおかげ」で子供をつくろうと思ったんだ?
「ぶっちゃけて言っちゃうとね、そうなった時に咄嗟に思ったのって、あ、じゃあ子供つくっちゃえばいいんじゃない? って。そしたら強制的に判るでしょ、『あったかい食卓』ってもんが」
「え、ええっ?」
わたしはいよいよほのぼの感をぶったくられて、目を見開いた。レイコさんそれ、なんぼ何でもぶっちゃけ過ぎ。
「いや、でもさすがにそれは踏み止まったわよ、いくらわたしでも」
やあねえ、とでも言いたげに手を振って、レイコさん。ああ良かった。
「何せ、ほら、言った通りあの頃のリュウ、やたらめったらピリピリしててね。下手に触ると冬の静電気みたいで。それに、どう言ったらいいか……厭世的って言うのか、破滅的って言うか、正直それどういう発想なのかわたしにはぜんっぜん理解ができないんだけど、自分なんか別にどうなったっていい、って思ってるとこ、あるじゃない?」
レイコさんは本当にまるっきり判らない、といった様子で再び大きく手を振った。ああ、でも判る、確かにそういうとこある、シンさん。
「そういうひとの子供を、産んじゃっていいのか、って……自分だけのことならどんなギャンブル、したっていいけど、人の人生を賭けにのっける訳にはいかないからね。勝つか負けるか判らない勝負に、子供の人生乗せる訳にはいかないな、ってそう思ったのよね」
レイコさんは軽く肩すくめて、両の指を組んでぐっとそらして。
「そうやってつきあってる内に、なんかもういいか、って思って。勿論、野望の方は全く諦めてなかったんだけど、子供の方はね……子供とか結婚とか、別にいいか、って。それが無くてもわたし、リュウと別れるつもりは全然なかったし。このまま二人で、好きなもの好きなようにつくって、そういうのって結構いいな、って思ってた」
わたしは改めて、向かいのレイコさんを見つめた。そんな風に考えていた彼女が、どうして。
「前も言ったかな、わたし、アメリカから帰ってきて、千晴ちゃんがリュウと一緒にいるの見て、ほんとびっくりして……でも、何だかすごく、嬉しかったの」
「え?」
「そもそもあいつ、若い女の子全般的に苦手だし。基本相手にもしたくない、ってノリだったから、そこでまず驚いて。で、親戚だって聞いて、ああ、じゃ小さい頃から知ってたのかな、って思ったらそうじゃないって言うし。そう、まずびっくりしたのが、あのカップ」
「カップ?」
意外な単語に、わたしは聞き返した。
「千晴ちゃんのカップ、家に置いてたじゃない? お茶も。あれですごく、びっくりして。何て言うか、受け入れてるんだ、って。自分の生活の中に、千晴ちゃんを容れてる。それがすごく意外で……千晴ちゃんにはリュウは最初っからあんな風だったかもしれないけど、実はあれって、異常事態なのよ、あいつを知ってる人間にとっては。そうそう簡単に他人を受け入れる奴じゃないのよ。ほんっと、狭量を絵に描いたような男なんだから」
それは、判る。
わたしは内心で、そう呟いた。
シンさんはそう簡単に他人を自分の中に容れない。
けれど、血縁がある、という意味とはまた別に……多分わたしはシンさんにとって、「他人」ではなかったのだ、そう思う。
「千晴ちゃんにだけは、シン、て呼ばせてるし。いろんなことがね、これまでのリュウとは明らかに違うのよね。それで、例の入院騒ぎがあって……どう言ったらいいのかなぁ、上手く言えないんだけど、誰かの為にいる自分、ていうのがこのひとにも持てるんだ、って思って」
レイコさんは考え考え言いながら、自分の髪をくしゃ、とかきまわした。
「うーんと、何て言うかね、別に今までだって、相手がわたしでも田上沢くんでも、何だって大抵のことはしてくれるのよね、実はリュウって。憎まれ口叩きながらでも。特にわたし、自分では全然そんなことないと思ってるんだけど、リュウから見たらあっちこっち穴だらけだ、っていっつも言われて、ぶつぶつ文句言いながらやたら細かい世話焼いてくれて」
上目づかいに、レイコさんは珍しくとつとつと話す。
「でも、何て言うか……自分じゃなくてもいい、って思ってるとこがある気がするのね。たまたまここに自分がいて相手がいるからやってるだけで、いつでも自分の代わりがどっかにある、みたいな」
その感覚は、何となく判る気もした。自分にもそういうところが幾分か無いとは言えない。
いつだったかレイコさんについて「あいつには俺よりもっとマシな男が合う」とシンさんが言っていたことをふと思い出した。あれはきっと、こういうことなのだろう。
「だけどね、あの入院の時のリュウ見て、それからその後、携帯買ったの見て、これは今までと違うんじゃないか、そんな気がしたのね。自分じゃなきゃ駄目だ、って、自分でありたい、って……そういう風に、見えたのね」
――親代わりや。
レイコさんの言葉に、そう言ってくれたシンさんの背中が、脳裏に甦った。
自分でなきゃ、と、もし本当にそうシンさんが思ってくれたのだとしたら、それはわたしにもたまらなく嬉しい。
「その姿見てて……あ、これ大丈夫なんじゃないか、って。そう思えたのね。だから、千晴ちゃんのおかげ」
レイコさんは言い終えると、不意に何か思い出したようにくすくす、と笑った。
「だからさ、その時わたしリュウに宣言した訳」
「宣言?」
「ん」
含み笑いを浮かべて、レイコさんはこくりとうなずく。
「わたし、子供つくろうと思って、って」
「え、ええっ?」
まさに宣言、と呼ぶにふさわしいその台詞に、わたしはのけぞった。それは、レイコさん……実に直球ストレートだ。
「リュウ、ひとの顔見たまま二十秒くらい固まってね。で、聞いたの。『誰の』って」
いや、でもその返しもどうかと思うよ、シンさん!
わたしはくすくす笑ってるレイコさんを、半口開けて見つめて。
「あなたの、て言ったらまた黙って、それから『なんで』って聞くんで、わたし『欲しいから』って」
実にこう、何と言うか……ムードのかけらも無いカップルだ、この二人。
「そしたらまた『なんで』て言うから、『産みたいから』って。そしたら今度は、『産んでどないする』って聞くから、『育てる』って。『誰が』って言うんで、『わたしとあなたが』って」
ああ、なんかもう、見たかったなぁ、その時のシンさん。顔は普通でも、内心えらい動揺したんだろうなあ。
想像すると、ちょっと、いやかなり可笑しかった。
「そうしたら、また黙っちゃって、しばらく考え込んで……それから一言、『判った』って。で、その結果が、これ」
レイコさんは笑顔で、そっと自分のお腹をさすって。
しかしほんと、馴れ初めと言い、ほんとロマンチックのかけらすらないカップルだけど……やっぱりお似合いだわ、この二人。
わたしは体から力が抜けて、ふ、と笑った。
今はもう、一刻も早く、あの妙なものを片づけることを考えよう。それでシンさんが安心してレイコさんの傍にいられるようにしよう。
わたしは改めて心を決めると、レイコさんの笑顔に微笑み返した。
店の前でレイコさんと別れると、もうとっぷりと日が暮れていた。
わたしは急いで、シンさんの家に戻る。
から、と玄関を開けると、テーブルの前に座っていたシンさんが弾かれたように立ち上がった。
「おま……何しとってん今まで。なんでこんな遅いねん!」
ああ、しまった。シンさん多分、何も手につかないまま、ずっと待ってたんだ。
「ごめん」
わたしは思いきり深く頭を下げて、その傍に歩み寄る。
「あの後、レイコさんと長話になって。でもレイコさん、元気だった。大丈夫だよ」
「当たり前や」
シンさんは吐き出すように言うと、ふい、とそっぽを向いて乱暴な音を立てて椅子を引き、腰を下ろした。
「何かあってたまるか」
肘をついた手の平で覆った口の奥でぼそっと言うと、肩を落とすようにして大きな息をつく。
その姿に、ふうっと勝手に、頬に笑みが浮いた。
「……シンさん、良かったね」
椅子を引き寄せ斜め向かいにすとんと座ると、頬杖をついたまま、シンさんが目だけでじろりとこちらを睨む。
「何が良かってん」
「だから、おめでとう」
重ねて言うと、シンさんは眉を上げて目をそむけた。
「別にめでたいことあるか」
「めでたいよ。良かったよ。……わたし、うれしい」
シンさんは目を合わせないまま、軽く鼻を鳴らす。
「男の子かな、女の子かな。ああでも、一番最初は女の子が育てやすい、ってよく世間では言うよね。あれなんでだっけ?」
「――正直、かなんわ」
わたしの言葉を無視してシンさんはそう言うと、いきなりがたり、と立ち上がった。
そのまま台所に歩いて、やかんに水を入れて火にかけるとコーヒーをセットし始める。
「何が?」
その背に聞くと、振り向かないままシンさんの声だけが返ってくる。
「自分の遺伝子持った子供が産まれてくるとか……正直ちょっと、どうなん、て思う。女やったらあいつに似るやろからまだええけど、男なんか最悪やで。俺のコピーみたいのん出来たらどないすんねん」
わたしはまじまじ、シンさんの背中を見て。声音から、冗談じゃなく本気で言ってる、それを悟る。
「俺になんか似たら最悪や。そんなん、よう育てんで」
わたしはゆっくり、肺の中の息を吐き出した。
シンさん、でも判ってるよ、わたし。
「シンさん、大丈夫だよ」
ゆったりと言うと、シンさんの動きが止まった。
「わたし、手に取るように想像できるもん。シンさんってものすごい親莫迦になる。もう、むっちゃむちゃ可愛がると思う」
「……何言うてんねんお前」
お湯を移したポットを手に、シンさんがこちらを探るような顔で振り返った。
「なるよ。だってシンさん、ほんとは保護欲の塊だもん。口ではそんなこと言って、いざ産まれたら全力で可愛がるよ」
「な……」
シンさんは絶句し――本当に本当に驚くべきことに、一瞬、耳までさっと赤くなった。
「おっ……お前、何言うとんねんな」
なんと声まで軽く上ずっていて、わたしはその様子の微笑ましさに加え、自分がシンさん相手にここまでアドバンテージが取れたことが嬉しく、つい笑ってしまう。
「何やねな。大人からかいなや、自分」
「からかってないよ。ほんとにそう思ってるもの。シンさん、昔、言ったじゃない。お前は俺より俺のこと判ってる、って。そのわたしが言うんだから間違いないよ、絶対」
「また要らんこと覚えとってからに……」
わたしが明るい声で強く言うと、シンさんはいよいよ赤くなって、ぶつくさと口の中で言いながらぱっと背を向けてしまった。
いつもの繊細な手つきとは全然違う勢いで、どぼどぼとコーヒーメーカーにお湯を注ぎ入れている。
わたしはどんどん嬉しくなってきて、その背中に声をかけた。
「後さ、実際のところは、男の子は女親に似て、女の子は男親に似る、て聞くよ。性格はともかく、顔の方は大抵」
「はぁ? それもし女やったら悲惨ってことか?」
照れくささを隠したいのかそう声を上げてこちらを睨むのに、わたしはもう笑いがこらえきれずに吹いてしまう。
「そんなこと言ってないじゃないよ。……ああでも、もしそうなら男の子だったら、すごい美形に育つってことだよねえ。嬉しい、自慢のイトコだ」
「言うてるようなもんやないかソレ……」
シンさんはぶつぶつ言いつつ、コーヒーをカップに移すとこちらに戻ってきた。
椅子に腰掛けてカップを唇に当て、不味いな、と言いたげにカップを睨むと、残りは飲まずにテーブルに置いてしまう。
「とにかく、大丈夫だよ、シンさん。わたしの保証付きだよ」
微笑んで言うと、シンさんは眉を上げて肩をすくめた。
「そらどうも。安心して来年を迎えられるわ」
「うん」
皮肉げな口調にもわたしは全くめげず、にこにことしていると、シンさんはカップを手に取っていきなり立ち上がってすたすた流しに行き、ざっと中身を空けてしまった。
「まあもうええやろその話は。それよか早いことカタつけるで、あれ」
「あ、うん」
浮かれていた気分が、その言葉にぐっと引き締まる。
「お前、レイにあれの話したんか」
「まさか」
シンさんの問いに、わたしは頬をふくらませた。そんなことする訳ない。いくらシンさんが今動揺してるからと言って、なめてもらっちゃ困る。
あんなに体全体で幸福でいるレイコさんに、あんな嫌なものの陰など、話だけでさえ近づけたくない。それがわたしの思いだったし、シンさんも同じであることくらい判ってる。
「そやな、悪い。……まあでも、あまり長いこと放ったらかしとくと、あいつ絶対、なんや気にして首突っ込んでこようとしよるやろから、急がんなんな」
「ん。とにかく、何とか誰かから話、聞き出してみる」
わたしはぐい、とうなずいて。まずは何とかして、吉川さんを捕まえよう。話はそこからだ。
次の日わたしは、本来の出勤時刻より一時間以上早く会社に到着した。
調べたいことがあったのだ。
更衣室のロッカーには、すべて名字だけではあるが、名札がついていた。それをしらみつぶしに調べよう、そう思ったのだ。
複数いる名字の人には「佐藤(明)」みたいに名前の一文字が入っていて、そういえば吉川さんの下の名前って知らなかった、聞いとけば良かったな、と悔やみつつ、誰か人が入ってくる度に何にもしてないふりをよそおったりしながらも、わたしは相当数のロッカーの名札をすべて確認することができた。
運の良いことに、「吉川」はひとりだけだった。
わたしはロッカーの扉の隙間にメモを押し込んだ。
例のお部屋についてお伺いしたいことがありますので、ぜひお時間ください、と。
そして自分の、向こう一週間の勤務時間をそこに書き添えた。
メモを入れた後、思わず参拝のようにぱんぱん、と手を合わせて祈ってしまう。どうか一刻も早く、吉川さんがこれを見てくれますように。
顔を上げてふっと時計を見ると始業時間五分前で、わたしは慌てて更衣室を飛び出した。
その日は結局、吉川さんには会うことができなかった。
そして次の日。
遅出のシフトで十時に仕事を終えたわたしは、更衣室に戻り――そこにいた吉川さんが、青白い顔色をして立ち上がって頭を下げてきた。




