第五章(前)・闇の部屋
三月、わたしは短大を卒業した。
卒業式の次の日、シンさんに「卒業祝い」と称され、散々飲まされた。誕生日の時は結局、入院騒ぎでお祝いどころでもなければ、無論飲酒なんてとんでもなかったので。
レイコさんから田上沢さんにまで連絡が行き、シンさんちでは狭い、ということでレイコさんの家まで行って、幸さんや美由紀さんまで一緒になって朝まで飲んだ。実のところ、サークルでの飲み会で時々アルコールを口にさせられたりはしていたのだが、こんなにまともに飲んだのは生まれて初めてで――しかしどうやら、皆が認めるところによると、わたしは酒が強いらしい。
「お前ザルやなあ」
と、内心このひとはザルだ、と認定していたシンさんに言われ、わたしはむっとする。
「そんなことないよ。シンさんに比べたら」
「ほら、そういうまともな返しができるところがザルたる所以やで。しかも飲む酒、日本酒にウィスキーって。ほんまおっさんやな」
「だって炭酸飲めないんだもの」
わたしは更に言い返して。もともと炭酸が苦手な上、ビールはどうしても味が苦手だし、チューハイはフレーバーによっては美味しいとは思うものの、やはり炭酸が邪魔をして、あまり量が飲めない。ワインは軽いものなら大丈夫なようだったが、渋いのはどうしても美味しいとは思えなくて、その場にあるお酒で一番美味しい、と思ったのがたまたま日本酒とウィスキーだっただけなのだ。
そう言うとシンさんは顔をしかめて、
「子供なんかおっさんなんかはっきりせえよ自分」
と言うので、
「なんで選択肢が『子供と大人』じゃなくて『子供とおっさん』なのよ⁉」
とむくれると、隣で聞いていた田上沢さんが爆笑した。
「ああもう、ほんと……ほんといいコンビだ、森谷と千晴ちゃん」
田上沢さんは笑いながらひとの肩をばんばん叩いて、日本酒を注いでくれる。
「だからお前、気軽に触んなコラ」
肩の手をぐい、と掴んでシンさんが田上沢さんを睨んで。
「温室育ちはろくな大人にならないよ。いいじゃん、どうせ千晴ちゃん、彼氏くらいいるんだろ? これくらいどうってことないって」
陽気な田上沢さんの言葉に、シンさんが一瞬、ぐっと言葉に詰まる。そうだ、わたしシンさんにまだ、言っていなかった。
「あ、わたし今フリーですよ、田上沢さん」
相手のそれに負けないくらい明るい声を出してみせると、シンさんがぎょっとしたような顔でわたしを見た。
その向こうでレイコさんも、幸さん達と話していた口を一瞬つぐんでこっちを見る。
「ええ、そうなの? それいいこと聞いた……え、教えてくれるってことは、脈アリってことでOK?」
「そやからくっつくなってお前!」
ぴったりひっついて肩を抱こうとした田上沢さんを、シンさんが力ずくで引き離す。ああもう、ほんと可笑しい、この二人。
いきなり笑い出したわたしを、シンさんは呆気に取られたように見つめた。
「ちょ……何笑てんねん、こら」
「だって……シンさん、その顔……」
説明しようとすればする程、どんどん可笑しさがこみあげてきて、わたしは笑い転げた。
「お前もしかして笑い上戸か、それ」
疑わしげな目で見るシンさんがますます可笑しくて、わたしは腹筋が痛くなる程笑って。
ああ、良かった、学生生活の締めくくりがこんな風にすごせて、本当に良かった。
そんな風にして、わたしは短大を卒業した。
就職先でわたしが配属されたのは、ベルだった。
働き出してつくづく、家と職場が近いってほんといいものだ、と思った。何せ早出の日は六時出勤だったし、遅出の日は十時あがりなのだ。自転車を使えば通勤時間十分未満、という立地は我ながら最高だった。
シンさんちには、主に遅出の日の帰りに立ち寄って一杯お茶を飲んでいく、ということが多くなった。早出の日や休みの日はどちらかというと家にいて、ゆっくり手の込んだご飯をつくるのがストレス解消になったのだ。
そして仕事そのもの――ホテル業そのものが、始めてみて初めて、想像を超えて自分に合っている、ということが判った。
働き出して一ヶ月程、たまたま従業員食堂で同期の子ばかり多く顔を合わせる機会があったのだが、その時に殆どの子が愚痴ばかりなのにわたしは面食らったものだ。
確かに、正直これはろくでもない、と思うお客さんって実際いる。身勝手で話の通じない上司だって、程度の差はあれ、どの部署にもいるだろう。食事もできない程忙しい日だってある。そういう愚痴なら判るし、わたしだって愚痴りたくなることはある。
でもそれはあくまで「仕事の本質」とは別の、付属的なことで、わたしが驚いたのはその「本質」部分に対しての愚痴が思いの外多かったことだった。
人が遊んでる時に仕事するのが嫌だ、せっかく部屋を綺麗にしてもどうせ次のお客さんが入ればまた元通りだ、この仕事は何にも手元に残らない、それが虚しく、手応えが無い。
そんな愚痴を誰かが言い、それに多くの同期が賛同するのに、わたしは何にも言えずにいた。
何故ならそれは皆、自分にとっては好ましいことだったからだ。
ホテルで働き出して、わたしはそれが、自分にとってひどく快適なことに気がついた――目の前を固定されずに、次から次へ流れていく人々。
多くの人達がとどまらずにさっと去っていく、そのわずかな間を自分達の働きで快適になるよう勤める、わたしはそれがとても心地よく、かつ誇らしく感じられた。自分はここにとどまって、流れていく人々の手助けをし、去っていくのを見送る。そういう立場に自分がいることが、何故だか妙に気持ちが良かった。
日々新しいゲストが来ては去っていく、ということは、ある意味でひどく気楽でもあったし、やっていることは「業務」としては同じであっても、毎日違う何かがあった。
いわば毎日、百積み上げては崩して次の日にまた百を積む、そんな感じで、それは人によっては虚しいことなのかもしれないけれど、わたしは逆に発奮した。百やることがお客さんにとっては当たり前で、自分の仕事は相手にとって減点方式でしか採点されない、ということが自分でも意外なことに妙に燃えた。
わたしの仕事先はどちらかというと観光客がメインターゲットのホテルだったので、やってくるお客さんの大半はすなわち「遊びに来ている人」だった。だから多くの人が楽しそうだったし、幸福そうに輝いていた。それを見ているのも、たまらなく好ましかった。遊んでいる人のサポートをして働く、ということはむしろ自分には楽しいことだったのだ。
変な話、仕事で一番とまどったのはメイクだった。化粧なんて一度もしたことがないどころか、洗顔料も化粧水すら使ったことがなかったわたしは、入社してからどうしていいのか途方に暮れた。
サークルの友達に相談したところ、「千晴は肌きれいやし眉もしっかりしてるし、クリーム塗って口紅だけつけたら後何もせんでもごまかせるで」と言われて、そんなものかと半信半疑だったが、やってみたら本当に大丈夫で安心した。実のところ、近所のドラッグストアで初めて眺めた口紅が予想外に高くて目眩がし、色つきリップに変更したのはその友達にも内緒だ。
働き始めてすぐに、同期の子が何人か辞めていったが、わたしはそんな風にしてすっかり仕事に馴染んでいた。
そんな中、あの部屋の噂を聞いたのだ。
もともとそれは、新入社員研修の時にもちらっと耳にしていたことだった。
ホテルの主要施設をぐるっと見学した後に、講師役の女性上司が「何か質問はありますか」と聞いた時、お調子者の男の子が手を挙げて言ったのだ。
「幽霊が出る部屋はありますか」と。
たまたまその時、他の子達の動きに押されて一番前、講師のすぐ目の前にいたわたしは、それを目にした――ごくほんの一瞬、彼女の黒目がぐっと縮まったのを。
「……まあ何十年と営業してるホテルでは、どこもそういう噂はありますけどね。せやけど残念ながら、噂だけですよ」
その表情はすぐにさっと拭われ、にこやかに彼女はそう言い、けれどわたしのこころの隅には小さな染みのようなものがついた。
そして働いている内、あちこちで小声で囁かれている言葉を耳にする。
やはりここには「幽霊の出る部屋」があるのだと。
その部屋に泊まったお客さんは殆どが部屋を変えてほしいと言ってくる、フロントもその部屋にはできる限りお客さんをアサインしないようにしている、以前にそこに泊まった人が予約の際に「絶対にその部屋以外で」と指定してきた、泊まったお客さんが夜いきなり「こんなホテルには泊まれない」と言い、チェックアウトしたまま二度と戻ってこなかった……そんな幾つもの噂が、ごくごく小さな声で、けれど確実に社員やアルバイトの間を飛び交っていた。
その中で、具体的な部屋番号も囁かれていた。
七一九六。
その番号は、わたしのこころの中に不吉に焼きついた。
けれどベルであるわたしは、割り振られたお客さんがその部屋でなければ部屋そのものに関わることなどなく、ふわふわとした噂ばかりの中、所詮与太話だったのか、と思い始めていた、それは六月も半ばを過ぎた雨の多い日のことだった。
わたしはその時、七階にチェックインしたお客さんを部屋に案内した帰りだった。
チェックアウトが遅かったのか、廊下にはまだ掃除道具を乗せたワゴンが出ていて、部屋の扉がストッパーで開かれている。
そちらに向かって歩いていくと、ワゴンの前の部屋からお掃除担当のパートのおばさんがひょい、と出てきた。
ワゴンの中を改めると、隣室でやはり扉を開いて掃除しているらしい部屋の中に向かって呼びかける。
「シャワーキャップもう殆ど無いわ。ちょっと戻って取ってくるし」
返事はわたしには聞こえなかったが、パートさんはそのままスタスタとパントリーの方、ちょうどわたしからは離れていく方向へと歩き出していく。
その光景を特に何と言うこともなく眺めながら廊下を歩いて、たった今パートさんが出ていった部屋の前でわたしはぎくりと足を止めた。
七一九六。
例の部屋だ。
急に胸が、どきんどきんと鳴り出した。
そうっとそうっと、開いたままの扉の中を覗いてみる。
……暗い。
それが、第一印象だった。
部屋の奥のカーテンは開いていたけれど、外がどんよりと曇っているせいか、昼間なのに奇妙な程に部屋の中は暗かった。こんなに暗いのに掃除の時に電気をつけないのか、とわたしは少し不思議に思った。
パートさんが廊下の端で、パントリーに入っていくのが見える。
わたしの喉が、小さくこく、と鳴った。
部屋の中から、何かが自分の足を引っ張っているような気がする。
……駄目だ、こころのどこかで、誰かが小さく呟いた。大体においてホラー映画では、こういう時にひとりで踏み込んでいくのって死亡フラグなんだ、それ判ってるでしょ?
それでもわたしの体は、勝手に部屋の正面に向いていた。
早くしないとパートさんが戻ってきてしまう、別の誰かがこころの中でそう呟いて、わたしは押されるように部屋の中に足を踏み入れた。
中に入って、驚いた。
電気がついている。
外から見てあんなにも暗かったのに、部屋の照明がこうこうとついているのにわたしは意表を突かれて立ちすくんだ。
明るい。
いや……暗い。
わたしはすぐにでも逃げ出したい気持ちを抑えて、辺りを見回した。
ごく何と言うこともない、ツインの部屋だ。
電気はついているのに、何故だかどうしようもなく暗い。
照明が照らしているのは天井や壁のごく上の部分だけで、下にいけばいく程それがじっとりと暗くなっていく、そんな錯覚を感じて目眩がした。
錯覚?
いや……違う。
その暗さは、部屋の奥の壁の辺りで渦巻いていた。
気づけばわたしは、ふらふらとそちらに向かって歩き出していた。
二つ並んだベッドの、ちょうど間のナイトテーブル。
そこからその暗さが吹き出している、そう確信的に感じた。
わたしは何かに取り憑かれたように、その場に膝をつく。
首を曲げるようにしてテーブルの下を見ると、そこに何かがきら、と光った。
もう殆ど床に寝そべるようにして思い切り手を伸ばすと、ぎりぎり届く。
その何かが指に触れた瞬間、頭のどこかが鈍く痺れて、指先から心臓に向けて一気にさあっと血が冷えた。
わたしはばね仕掛けのようにそれを掴んで、立ち上がる。
手の中に何かがある。
それを見ることもできずに、わたしは荒い息を吐き出した。
「……あの、どうか?」
と、突然後ろから声をかけられ、わたしは文字通り飛び上がった。
握った手を胸に押しつけて振り返ると、入口のところに当惑した顔で先刻のパートさんが立っている。
わたしはわずかに後じさりながら、小さく首を横に振った。
その様子を異様に感じたのだろう、パートさんはますます困ったような顔になってこちらに近づいてくる。
「何かありました? なんや、えらい顔色ですよ」
わたしは空回りしそうな頭を必死に回転させて、息を吸い込んだ。
「いえ、あの……お客様から、忘れ物を取りに来るよう言われて」
「え?」
「ありましたので。もう大丈夫です。お疲れ様です」
わたしはひと息に言うと、パートさんの顔を見ずにその横を早足で走り抜けた。
「あ、ちょっと……」
後ろから声が追いかけてきたが、それを無視して廊下に出てしまう。
呼び止められる前に、いけないと判っていたが廊下を走ってエレベータに乗ってしまった。
大きく息をつくと、壁に寄りかかる。
大して走った訳でもないのに、心臓がどんどんと早鐘を打っていた。
手の中が氷を握っているように冷たい。
わたしはその中を見る勇気がどうしても持てずに、ズボンのポケットの中にそれを押し込んだ。
手から離れると、少しだけほっとして――けれども今度は、腰の辺りがずん、と重たくなる。
わたしは制服の上からぎゅっと、中に隠して胸に下げているシンさんのペンダントを握った。
ほんの少しだけ、動悸がおさまる。
エレベータがチン、と音を立てて開く。
わたしは何度か深呼吸して、どうにかまともな顔を取り繕うと、ロビーへと戻った。
その日は運悪く遅出だった。
ホテルを出ると、すっかり暗くなってしんと静まった道をわたしはシンさんの家に急いだ。どうか、頼むから、今日はどこにも行かずに家にいてほしい。
結局わたしはその正体を見ることができずに、制服のズボンをそのまま鞄に押し込んできていた。
角を曲がっていつもの窓に明かりがついているのを目にすると、こころの底からほっとする。
わたしは転がり込むようにしてシンさんの工房の扉を開いた。
テーブルの方で作業していたシンさんが顔を上げ、いつものように「おう」というかたちに口を開きかけ――そのまま、固まる。
わたしは浅い息をつきながら、何も言えずに入口に立っていた。
シンさんが音も立てずに素早く立ち上がって、こちらに歩いてくる。
目の前に立ったと思うと、ぐい、と肩を掴んで中に引っぱり込んで玄関の扉を閉める。
肩に触れた手のあたたかさに、わたしはふうっと、意識が遠くなりかけた。
それをとどめるように、シンさんがわたしの両肩を強く掴む。
「どないした。何があった」
強く荒い声に、途切れそうになっていた意識を何とか踏み止まらせる。
「――とにかく座れ」
シンさんはわたしの顔色を見て、手近な椅子を引き寄せると、肩を押しつけるようにして強引に座らせて。
「なんぞぬくいもんいれるわ。真っ青やぞ、お前」
そう言われて、わたしは気づかぬ内に歯の根がかちかちと音を立てているのに気がついた。もう六月だというのに、びっしりと全身に鳥肌が立っている。
シンさんは家の方に上がって、すぐに中からタオルケットを持って戻ってきた。
椅子ごとわたしの体をぐるりとくるむと、台所に立ってやかんを火にかける。
遠目にガスの青い炎が見えて、わたしは急にほっとした。
自分の体を抱くようにして座っていると、お湯の沸く甲高い音がして。
いつものお茶のティーバッグをカップの中に入れてお湯を注ぐと、シンさんは体をかがめてそれをこちらに差し出した。
わたしはカップを両手で受け取り――ああ、あたたかい。
そのぬくもりに、何だか涙が出そうになった。
「……どないした」
目の前に片膝をついて、目線を合わせてシンさんがもう一度、今度は探るような、けれどやさしい声で尋ねた。
わたしは一度大きく呼吸して、何とか声を出す。
「……これ」
膝の上に乗せていた鞄を差し出すと、シンさんが怪訝そうにそれを見る。
「中開けて。制服のズボン……右の、ポケットの中」
シンさんは眉根に皺を寄せたまま、鞄を受け取ると立ち上がってテーブルの上に乗せた。
蓋を開けると中から黒いズボンを引っ張り出し、左右を確かめてポケットに手を無造作に突っ込む。
その瞬間、シンさんの顔が大きく歪んだ。
目が驚く程大きく見開かれたと思うと、ぎっ、と音が出そうな程に深々と、眉根と額に皺が刻まれる。
ゆっくり、手がポケットの中から出てきた。
シンさんはその手を胸の前で開いて、中をじっと見つめている。
わたしの位置からはその手の中は見えなくて、ここに来て急に、あれが何なのか知りたいという好奇心がむくむくとわき上がってきた。
「シンさん」
「お前これ、どこで手に入れた」
それは何、と尋ねようとすると、遮るようにシンさんのきついきつい声がした。
「こんなもんどこで手に入れた。えっ?」
「それは、その」
わたしはつっかえつっかえ、そもそもの事の発端から話し始めた。
シンさんは怒ったような顔のまま、黙って聞いている。
やがて話し終えると、深いため息をひとつついた。
「……さよか」
その顔から険が少し取れているのにわたしはちょっと安堵して、気になっていたことを聞いてみた。
「シンさん、それ、何?」
「え?」
わたしの問いが意外だったのか、シンさんは驚いたようにこちらを見た。
「ひっ掴んでは来たけど……見てないの、怖くて」
そう言うとシンさんは少し瞬いて、ほんのわずか、微苦笑をもらす。
「そうなんか……。ほら。触りなや」
シンさんは拳を差し出すと、わたしの三十センチは手前で手を開いて。
「十字架……?」
ずいぶんと薄汚れた、それは銀のペンダントだった。
細い細い銀の鎖は途中で切れていて、すっきりした細身のデザインのクロスの横棒の端に、小さく赤い宝石がひとつ、埋め込まれて光っている。
それはこんな状況でなければ、デザインとしては割とお洒落な、若い女性の好みそうなものだった。
けれどわたしの目にはその赤い光はまるで血のように映って、すっかり黒く荒れた銀の表面も何だかたまらなく禍々しい。
「こんなもんのある部屋に、客もよう泊まっとったな……」
シンさんは小さく呟くと、またそれをぎゅっと握ってテーブルの前に腰を下ろした。
「その幽霊話、いつからなん?」
尋ねられて、わたしは首をひねった。そもそもどこの誰からもふわふわした噂話しか聞いたことがなかったし、よく考えてみたら具体的に「こんな幽霊が出た」という話さえ、その噂の中には無かったのだ。
「そうかー……」
シンさんはため息混じりに言うとテーブルの下から適当な箱を引っ張り出して、手の中のものをそこに落とした。
「さすがにこれは、いつもみたいにはいかんわ……悪いけどお前その話、明日からもう少しいろんな人に根掘り葉掘り聞いてみてくれん?」
「うん、判った」
わたしは小さくうなずいて。確かに怖くはあるけど、肝心のモノをシンさんががっちり握っていてくれるなら、それだけで安心だった。
シンさんが鼻先でふ、とかすかに笑う。
「顔色良うなってきたな……良かった」
小さく言うと、立ち上がってこちらに手を差し出してくる。
「冷めてしもたやろ。茶いれなおすわ」
「あ、ううん、もう大丈夫」
わたしはただただ手をあたためるのに使っていて、すっかり飲むのを忘れていたカップを口につけた。
まだほんのりとぬくもりが残っていて、それが指先の痺れを取り去ってくれるようだ。
「そうか? ならええけど……」
心配そうにこちらを見るシンさんに、わたしはもう一度、大きくうなずいてみせた。
次の日出勤した時、わたしは実のところ少し不安だった。
昨日のあの我ながらおかしな行動をパートさんが上司に言いつけていないか、何をしていたのか咎められるのではないか、それが心配だったのだ。
けれどもミーティングの際も特にそういった話題は出ず、わたしはほっとしながらも拍子抜けした。どう見てもあの時の自分は異常だったのに。
仕事をしながら、誰からどうやって例の話を聞き出すか、わたしは思案する。
ベルというのは結構入れ替わりが激しいので、まわりにいるのは基本、ベルをやって長くても二年と三年とか、そういう子が殆どだ。勿論長年のベテランも数人はいるけれど、そういう人は雲の上みたいなもんで、わたしみたいなペーペーが近寄って親しく話などできるような相手ではなく、増して幽霊話なんてもってのほかだった。
そうは言っても他部署の人となると知っているのは同期ばかりで、故に詳しい人間なんか誰もいる筈がない。
これは困った、と途方に暮れかけながら食堂にお昼に行き――と。
「あなた、ベルの篠崎さん?」
食欲がないものの少しでも食べよう、と箸をつけた食事も半分程しか喉を通らず、もう諦めて下げようか、と思っていたその時、声をかけてきた女性がいた。
「え、はい」
顔を上げると、ハウスの制服を着た、顔を知らない、三十手前くらいの女性がお盆を持って立っている。
胸の名札には「吉川」と名があった。
「ここ、ええ?」
どことなく固い顔つきで、わたしの向かいを指差して。
「え、ええ」
何が何だか判らないまま、わたしはうなずいて――あ。
はたと気がつく。
ハウス――客室。
もしかして。
そう思った瞬間、相手が言い辛そうに口を開いた。
「わたし、ハウスの吉川やけど……昨日七一九六号室にいたん、篠崎さん?」
ぎくり、と背中が鉄の棒を通したように固まった。
「パートの森田さんから聞いてん。その時間に勤務入ってたベルの子で、年とか髪型とか当てはまるん、篠崎さんだけやったから……そうなん?」
これは叱られる、そう覚悟しながらわたしは深々と頭を下げた。ああ、だけど、訳を聞かれたら一体どう説明したらいいのか。
「すみません、そうです」
すると吉川さんは予想に反して大きくため息をつくと、深く椅子の背にもたれこみ、意外な言葉を口にした。
「やっぱり……それで、大丈夫やったん?」
「えっ?」
「ものすごい顔色してた、って森田さんが。なあ、何見たん?」
思わず見つめると、吉川さんは自分が何かを見たように青白い顔色をして、ぶるっと肩を震わせた。
「わたしあの部屋、ほんま怖いねん。仕事でどうしても入ってしもた後は大抵熱出るし、でも上の人に言っても、あほなこと言いな、で片づけられるし……そやけどあの部屋、絶対おかしいよな? なぁ?」
同意を求める吉川さんの顔が本当に必死だったのに、わたしはつられてうなずいた。
「そやろ! やっぱり……ああ良かった」
こんなことで良かった、も何もない気がするが、本当に安心したのか、吉川さんはくりっとした目尻を下げて泣きそうな顔で笑った。
「あの部屋なあ、いわくがあんねんよ」
そして続いた言葉に、わたしははっとする。
「いわく、ですか?」
「ん。……篠崎さん、これ絶対内緒やで。ベルやフロントの人には黙っといてや」
真剣に言う吉川さんに、わたしは大きくうなずいて。
吉川さんはまるっきり手をつけていないお盆を脇に寄せ、ぐっと身を乗り出すと小声で話し出す。
「あれからずっと、うちのホテルではこの話はタブーになっとって……五年くらい前やったかなあ……人が、死んでん」
瞬間、わたしの目の前をさっと、あの禍々しい赤い宝石の光が横切った。
「いや、でもほんま言うと、あの部屋で亡くならはった訳やないねんけどね。あの部屋に泊まったお客さんが、アウトした後にそこの歩道橋から身投げしはってん」
「えっ?」
予想だにしない話に、わたしは驚き、つい声を高くしてしまう。
「しっ」
吉川さんが唇に指を当て、きつく眉を寄せてみせた。
「あ……すみません」
慌てて声を落としたが、まだ胸がどきどきしている。だって、あそこから?
ホテルのすぐ目の前にある大通りにまたがった歩道橋は、わたしも時々利用するものだった。交差点の一部に歩行者用の信号がない箇所があって、そちらに渡るにはその歩道橋を使う必要があるのだ。
二つの大通りが交わったその交差点は、かなり交通量が多い道路で――あんな、ところから?
つい一瞬まともに想像しかけて、わたしはそれを振り払うように首を横に振った。あんなところから落ちたら、想像なんかしなくてもそれはもう恐ろしいことになるに違いない。
「上の人皆否定するけど、絶対あれからやねん、あの部屋がおかしいの。わたしはそん時はハウスやのうて予約やったけど、その後フロントやってた時も、ほんまに何人も『あの部屋替えてくれ』てお客さんが来て……別になんかが出るとかそうゆうんやないねん、ただもう無性に気味が悪い、言うて」
吉川さんは自分で自分の肩を抱き、ぶるぶるっと震えた。
「わたし今年からハウスになってんけど、ほんましんどうて……異動したい、て何度も言うてんけど、聞いてもらわれへんくて。もう本気で辞めよか、思てんのよ」
泣きそうな顔で言う吉川さんがどうにも気の毒で、わたしは隣にいってその肩をしっかり抱いて慰めてあげたい、という衝動をこらえた。そんなことしたら目立ち過ぎる。ベルやフロントの人も食堂にいる中、こんな話をしているのを誰かに知られるのはまずかった。
「ああ、でも良かった。おかしいと思ってるの、わたしだけやのうて」
吉川さんは唇だけで何とか微笑むと、お盆を自分の前に戻した。
「でもほんま、必要ないならあの部屋、入らん方がええよ。パートのおばちゃん達の間でも怖がる人は怖がってる。寒気がする、て」
わたしはじっとりとした暗闇に支配された部屋のことを思い出し、一瞬、ぶるっと怖気に襲われた。確かに、あの部屋にひとりで入って掃除をするなんて、考えただけで自分には無理だ。
「あの……吉川さん」
わたしは唇を舌で湿らせ、声を出した。
「なに?」
「わたし、そのお客さんのこと、詳しく知りたいんです。一体どういう状況で、身投げなんか」
と言いかけたところで、吉川さんの顔が大きくひきつった。
え、と思うと、後ろから声がかかる。
「あれ、吉川さん、篠崎さんと仲ええの? いつの間に?」
今までの自分達の間に流れていた重たい空気を吹き飛ばすような呑気な声で、後ろから空になった食器を乗せたお盆を持って、フロントの加西さんが現れた。
「あ、いえ……客室の廊下で、たまたま何回か顔合わせて」
吉川さんが青い顔をしたままさっと言うと、全く疑っていない様子で加西さんは笑顔を浮かべた。
「そうかあ。宿泊同士仲良うするのはええことやねえ。今度皆で、飲み会でもしよか」
「あ、ええですね」
「ほな、皆の予定合わせといてよ」
明るく笑って加西さんは立ち去り――あ、もうわたしも、行かなければまずい時間だ。
「すみません、あの、またお話、聞かせてください」
立ち上がりながらわたしが言うと、吉川さんはいろを失った顔をこちらに向けて、唇を引き締め、小さくうなずいた。
仕事帰りにシンさんちに立ち寄ってその話をすると、シンさんは腕組みをしてしばし考え込んだ。
「ちょう待ってや、俺、それ覚えてるわ。ホテルの前の歩道橋やろ?」
その言葉に、わたしは驚いて。
「え、なんで?」
と聞くとシンさんは当たり前だ、といわんばかりに目をむいてみせる。
「だってすぐそこやねんで。もう凄かってんから、あん時」
「すごい?」
「救急車は来るわ、警察来るわ、マスコミ来るわ……何せあんな大通りやろ、しかも結構朝の通勤時間辺りやったのに、しばらく通行止めにしとって、そんなん知らん車がやってきては、えっらいクラクション鳴らしまくって、ほんまに大騒ぎやってんで。俺もセンセイも、何の騒ぎや、てあそこまで見に行ったもん」
「そうなんだ」
って、そりゃあんなところでそんなことしたら、そんなことにもなるよなあ、とわたしは納得した。そんなに騒ぎになったのなら、それは覚えているだろう。
「そうか、あん時の……そうやったんか」
シンさんは渋面をつくって、テーブルの下に丁寧に蓋を閉じて置いた箱をちらりと見やった。
自分が中身を知っているからか、いや、それだけとはとても思えない、何とも言えないいやな気配が箱の中からじんわりと染み出しているような気がしてならない。
このままだとシンさんの家まであの部屋のようになってしまうかも、そんな妄想が浮かんで、わたしは一瞬身震いした。
「あれ何年前やったかな、確か、七月やった思うねんけど」
「え、七月?」
「うん、ほら、確か……バスもなんも皆止まって、そんでそん時、『巡行の前でまだ良かった』とか何とか、近所の人等が言うてた覚えがあんねん」
「巡行って、祇園祭の?」
「そう。そやし、七月の上旬頃やったと思うねんけど」
七月の間、丸一ヶ月間続く祇園祭は、十七日の山鉾巡行をピークに、その三日前辺りから観光客で街があふれかえる。確かにそんな時にあんな大通りの交通がストップしたら、どえらいことになっただろう。
次の日が休みだったわたしは、当時の新聞を調べる為、シンさんと図書館へ向かった。
吉川さんは五年前くらいと言っていたので、念の為六年前の七月の新聞から調べ始めて、すぐに吉川さんの記憶が正しかったことが判った。
五年前の、七月九日。
その日の朝七時半過ぎに、あの歩道橋から上京区在住の二十七歳の女性が飛び降り自殺をして、通行止めなどで現場が大渋滞して一時パニックとなった、という小さな記事が地方版の片隅に掲載されていた。
「じゃ、あのクロスってその人の」
「まだ断定はできんけど、可能性は高いな」
シンさんはうなずいて、記事を睨んだ。
「でも、そんな昔の物、部屋にそのまんまになってるかなぁ」
わたしは殆ど独り言のように呟き、首をひねった。
入社してすぐ、配属前に宿泊の各部署の仕事内容についてはひと通り研修を受けている。その中で客室の清掃については毎日普通に行うものとは別に、残室数に余裕がある時に同フロアの複数の部屋をまとめて、故障修理やベッドのマットレスの交換、家具を動かしての絨毯の染み抜きなど、徹底クリーニングを行うことになっていると聞いたのだけど。
万が一普段の清掃で見過ごされていたとしても、事件が五年も前なのだったら、その間に確実に一度以上はその対象になっているだろうと思うのに。
「……これだけ特別な品となると、思いもよらんふるまい、することもある」
考え込んでいると、やはり自分だけに呟くようにシンさんがぽつりと言った。
その言葉に心臓が小さく跳ねて目線を投げると、シンさんははっと瞬いてがらりと口調を変えて口を開いた。
「ええと、九日の朝に飛び降りたてことは、八日の晩に自分のホテル泊まった、てことか?」
「あ、うん、だと思う」
わたしも急いで気分を切り替え、ひとつうなずく。
「そしたらそれ、自分とこの顧客リストみたいのんに残ってんちゃうんか」
「多分。でもわたしそんなの見られないよ。予約かフロントじゃないと無理」
そう言ってわたしは、はっとした。吉川さん、当時予約だった筈。
「そうかー……」
小さく舌打ちするシンさんに、わたしは「とにかく調べてみる」とだけ言った。
次の日出勤して、いざとなると途方に暮れる。そもそもベルとハウスって、それこそ廊下でばったり、とかでもない限り接触の機会がなく、課が違うから向こうのシフトすら判らないのだ。
一番機会がありそうなのはお昼や晩の食堂だったが、食べるよりも出入りする人の顔に注意を払っていてもなかなか相手は現れなかった。
勿論、ハウスの他の人やフロントの人に聞けばすぐに相手の勤務時間も判るのだろうけど、そんなことをして目立ちたくなかった。何せこちらはいわくのあるお客さんの情報を知ろうとしているのだ。
全く出会えないまま数日が過ぎ――一応毎日報告だけはしに来い、と言われていたので、わたしはその日も仕事帰りにシンさんの家に向かった。
家の手前の辻に入るところで、後ろから声がかかる。
「千晴ちゃん」
聞き慣れた声に振り返ると、レイコさんが立っていた。
相手はにこにこ、と笑ってこちらに手を振ると、足を速めて近寄ってくる。
「いいとこで逢った。一緒にいこ」
すっとわたしの腕に腕をからめ、並んで歩き出す。
「ちょうど良かった。手間、省けたな」
呟くレイコさんにどういう意味が聞こうとする前に、からから、とレイコさんは工房の扉を開いた。
「お……ああ、久しぶりやな」
ちょうど台所でコーヒーを淹れていたシンさんが振り返り、わたしの隣のレイコさんを見て少し目を丸くする。
「うん、そうかな。ここんとこちょっと、バタバタしてて」
レイコさんは機嫌良さそうに言うと、ショルダーバッグを外してとん、とテーブルの上に置き、椅子に座った。
「まあええタイミングで来たわ」
シンさんがそう言って棚からレイコさんのカップを出そうとすると、「あ」とレイコさんが小さな声を上げて立ち上がった。
「?」
棚に手を伸ばしたまま怪訝そうに見るシンさんに、「ストップ」と言うかのように両方の手の平を向けてみせる。
「わたし、コーヒーはいい」
「なんで」
体を上げて、シンさんは不思議そうにレイコさんを見て。あんなにコーヒー、ことにシンさんのそれが大好きな彼女が一体どうして、とわたしも首を傾げた。
「うん」
レイコさんはきゅっと唇の端を上げて笑うと、また椅子に腰掛けた。
そして実にあっさりと、
「リュウ、あなたお父さんになるから」
と言った。
「……え?」
わたしとシンさんの声が見事にハモり――え、えっ?
え、え……ちょっと待って、それってつまり。
わたしが完全に頭が真っ白になっている中、シンさんはほんの数秒、まじまじとレイコさんを見たと思うと、かすかな息をついてくるっと背を向け、まるで何事もなかったかのように再度コーヒーメーカーにお湯を注ぎ始めた。
その背中を別にどうということもなく、レイコさんは相変わらずにこにこと見守っている。
ええと……わたしの記憶が確かならば、今ものすごい爆弾発言を聞いたような気がするんだけど、だがしかしそれならば、この目の前の実に平和な光景は一体何だ?
もはやどっちにどう突っ込んでいいのか全く判らずわたしが絶句していると、シンさんができあがったコーヒーをこぽこぽ、と自分のカップに注いだ。
「――いつや」
背を向けたまま低い声がするのに、何故かわたしがどきっとする。
「来年二月。あ、千晴ちゃんと誕生日、近くなるかもしれない」
そう言ってレイコさんはこっちを見てにっこりと微笑んで。あ、うわあ。
事ここに至ってようやく現実感がわいて来て、わたしは思わずレイコさんに飛びついた。
「ええ、そう、そうなんだ……うわ、すごい」
肩に手をかけて言うと、レイコさんは笑いながらわたしの手を握る。
「早生まれっていいよねえ。初回は少し遅れ気味になるっていうし、もしかしたらお揃いになるかもよ、誕生日」
「うわあ……あ、あ、おめでとう」
まずこれを言ってなかった、と思い手を外して頭を下げると、レイコさんがくすっと笑って頭を下げ返した。
「ありがと。ねえ、そしたら千晴ちゃんの……イトコ? で合ってる?」
「え、あ……そういえばそうだ。わあ、従弟妹だ」
わたしは思ってもみなかった単語に有頂天になった。イトコ、かぁ。
ひとりっ子だったわたしにはそもそも兄弟という単語が無関係だし、母もひとりっ子で伯母には子供がなく、更には双方の祖父母も生まれる前かごく小さい頃に亡くなっていた。なのでおよそ「親戚づきあい」というものに縁が無かった自分に、まさかこの年になってそんな存在ができるとは。
正直、年齢的に言えば「イトコ」よりもそれこそ「甥姪」レベルの年齢差になるのだけれど、ああでも、もうそんなこといいや、とにかく嬉しい。
わたしは顔が勝手にほころぶのを抑え切れずに、嬉しさのあまり小さく跳ねた。ああ、うれしい。
「なんでお前がそんな、テンション高いねん」
後ろからシンさんが呆れたように言って、ずっ、とパイプ椅子を引っ張って腰掛けた。
「いや、シンさんがテンション低過ぎなんだよ! もっと喜んでよ、おめでたい話なんだから!」
「そんなん別にめでたくも……」
憎まれ口を叩きながら、シンさんはふい、とそっぽを向き――突然、その顔が硬直した。
「……?」
その急激な表情の変化にのぼせていた頭が少し落ち着いて、シンさんの目線がまっすぐにテーブルの下に向いているのに気づく。
レイコさんが座っている、すぐ傍の足元。
「――あ」
それに気づいた瞬間、冷や水を浴びせられたようにわたしの心臓も縮み上がった。
シンさんが無言で立ち上がると片手でテーブルの上のレイコさんのバッグを取り、もう一方の手でぐい、と腕を掴んで立ち上がらせる。
「え……え?」
ひとり訳が判っていないレイコさんが、目をくるんとまわしてシンさんを見上げて。
シンさんはそのままレイコさんをひきずるようにして、玄関の前まで移動した。
「リュウ?」
「帰れ。……当分来んな。ええっちゅうまで」
「え?」
完全に当惑しきった顔でレイコさんはシンさんを見上げて、それから途方に暮れた目をしてわたしの方を見る。
そんなレイコさんの顔を見るのは初めてで、でもわたしにも説明できない。どうしよう、これ。
「万一、もしも万一、なんか異常あったらすぐ連絡せえ」
そう言ってシンさんはテーブルの上にあった何かの包装紙の端を破って、机の上のペンを取るとさらさらと文字を書いてレイコさんに押しつけた。
その紙を見て、レイコさんは目をまん丸にする。
「リュウ、あなたこれ……」
「早よ帰れ」
シンさんは有無を言わせずそう言って玄関の扉を開けると、半分無理矢理、レイコさんを外に押し出した。
そのままぴしゃん、と扉を閉めると、肩で大きく息をつく。
「……シンさん」
その背に怖々、声をかけると肩がぎくっと揺れた。
「レイコさん、大丈夫……かな」
「見てもおらん。触ってもない。どうもないやろ」
シンさんは自分に言い聞かせるように言うと、くるっとこちらを向いて、すたすたとテーブルの傍まで歩いてきた。
わたしはレイコさんが心配で、窓の外を見る。
「……行ってくる」
言葉と同時に、わたしは後も見ずにシンさんの家を飛び出した。
辻の出口の方を見ると、レイコさんがゆっくりと歩き去っていく。
わたしはその背中を追って走った。
足音に気づいたのかレイコさんが振り返り、わたしの姿に、ほっとしたような薄い笑みを浮かべた。
「レイコさん」
わたしはその向かいに立つと、背の高いレイコさんの顔を下から覗き込む。
「大丈夫? どうもない? あの……お腹とか、痛くない?」
不安にかられながら聞くと、レイコさんは訳が判らない、といった顔で首を傾げた。
「どうしたの? リュウも千晴ちゃんも、変よ。どうかした?」
わたしは何にも言えずに黙り込んで。いっそ説明してしまった方がいいのか、と一瞬思うが、いやそれは絶対に駄目だ、と自分の中で誰かが言う。
その葛藤に言葉が出ずにいると、レイコさんはそんなわたしをじっと見つめて、ふう、と大きなため息をついて肩の力を抜いた。
「まあいいや。昔っからああなのよね、リュウって。何にも説明しない」
見上げると、レイコさんは白い歯を見せて笑った。
「千晴ちゃん、ちょっとつきあってよ。お茶くらい、飲んで帰りたいわ」
わたしはその目に吸い込まれるように、ひとつうなずいた。




