五話 師匠の帳面
ゆっくりと、世界が再生していくのを、オーブは全身で感じていた。
五臓六腑に響き渡るような、深く鋭い音がこだまする。
世界が軋み、砕け、真の姿を顕にしていくかのような音。
やがて鳴り止んだかと思えば、全てが終わっていた。
「俺は……魔王だったのか」
ようやく思い出した。
何もかも忘れていた。
魔王シュークの人生。
紛れもない、自分の物語。
生まれた場所も。
出会った者たちも。
戦った理由も。
失ったものも。
その全てが、まるで昨日の出来事であったかのように、鮮明に蘇ってくる。
しかし、これは──
『前世自認覚醒』とは、こういうものなのか。
まるで、他人の記憶を無理矢理自分のものにしたようだった。
無理もない。
いままでの人生が無意味になるほど、唐突に前世の記憶が蘇り、その生き方や考え方、さらには知識や技術までもが、一瞬にして脳内へ組み込まれるのだ。
昨日まで知らなかったはずのことを知っている。
昨日まで使えなかったはずの力を、身体が覚えている。
昨日まで抱いたことのなかった感情にさえ、心が反応する。
(それにしても、俺の記憶は──)
(俺は一体、オーブなのか?)
オーブ・セグリッドとして生きてきた記憶も、自分のもので、魔王シュークとして生きてきた記憶も、自分のものだ。
ならば、その二つの人生を持つ自分は──何者なのか。
自我の喪失。
オーブはそれをぼんやりと実感した。
思考が停滞し、思わずよろけそうになる。
──現実をみろ。
頭の奥で、もう一人の自分がそう告げた。
いや、もう一人ではない。
それもまた、自分自身なのだ。
何が起きたか、いまさら思い出すまでもない。
全てを受け入れるしかないのだ。
「奴は──死んだのか?」
視線を下ろすと、赤黒い巨大な魔法陣の上に、メグルマ・オーヴィックが横たわっていた。外傷はないが、意識があるようには思えない。
しかし、よく見ると腹が僅かに上下している。どうやら、息はしているようだ。
(──感覚で分かる。わざと、殺さないようにしたんだ)
メグルマが一流の錬金術師であろうと、殺すことなど容易に過ぎない。
オーブとしての情が残っていたのか、それとも殺してはいけない理由があったのか。
──後者だ。
根拠などなにもないが、魔王シュークとして生きていた自分が、そう確信した。
いろいろと、知らなくてはならないことがある。
「…………」
オーブは拳を握った。
身体の奥底から、かつての力が滲み出してくる。
懐かしいと感じると同時に、恐ろしいほど馴染む感覚があった。
こうして死を免れたいま、俺にはやらなくてならないこともある。
──いや。
やらなくてはならないからこそ、蘇ったのだ。
オーブは、ゆっくりとメグルマに近づいた。
眠らされ、目を閉じている。
オーブの──いや、シュークの昏睡魔法だ。
一流錬金術師ともなるメグルマには、並大抵の意識作用魔術は効かないはずだ。というか、特別な耐性強化ポーションを常用しているため、どんな魔法もまるで意味を成さないはずだ。
オーブはそれを知っている。しかし、心の中の魔王がそれを嘲笑うかのように否定している。
「おい」
しゃがみ込み、メグルマの頬を叩くも、まるで反応がない。
「……起きないか」
もう一度、少し強く叩いたが、目を覚ます気配はなかった。
意識を戻すには、まだ時間がかかるようだ。
──ちょうどいい。
オーブは立ち上がり、視線を巡らせた。
(部屋を調べるいい機会だ)
オーブは、見慣れた部屋を奥へと進んだ。
異臭のする古びた廊下、湿った木材のような臭いに、鼻の奥を刺す刺激臭が混じっている。
右手にはオーブが仕事として使っていた小部屋が、突き当りにはメグルマの専用研究室があった。
木製の扉を蹴り飛ばし、そのまま研究室へと入った。
「……っ」
その瞬間、異臭が一気に鼻腔へ流れ込んできた。
オーブは顔をしかめながらも、異臭の原因がこの場所であったことを理解する。
──ここへ入れてもらったのは、二度だけだった。
一度目は、薬草のような植物なのかどうかも判別できないものが苔のように部屋中に蔓延し、部屋の中央に禍々しい真珠のような球体が浮かんでいる現場だった。
何を研究しているのかさっぱりわからなかった。
二度目は、正反対な、やけに落ち着いた部屋だった。
机の上には資料と器具が並び、薬品の瓶が種類ごとに整理されている。
多分、これが通常の研究室の形態なのだろうと、当時のオーブは思っていた。
そのときに、部屋にある研究資料を少しだけ見せてもらった。研究資料とは言いながら、それは、メグルマが日記として常日ごろから記していたものだった。
『俺はな、こんなふうに、日記を書いてんだ。意外だろ?』
メグルマがそう言っていたのを思い出す。
オーブは、研究室を見て唖然とした。
匂いと見た目。どちらからも嫌悪感を抱くような、紫色の液体が入ったフラスコが、部屋を一周するように机に大量に置かれていた。
液体の表面は粘つくように揺れ、フラスコの先端からは、もくもくと白い煙が上がっている。
鼻腔に残る刺激。
喉の奥が焼けるような感覚。
オーブは、一瞬にして理解した。
(──冒涜の霧だ)
リアディファイル。
思い出した。──というか、知っていた。
俺が飲まされたのもそれだ。
そして、ベニエ・スカルロッド。
「……はは」
思わず笑った。
前世自認覚醒は、一度に全てを思い出すというわけではないらしい。場所、匂い、光景、あるいは、名前。何かをきっかけにして、必要な記憶が次々と呼び起こされていく。
ベニエ・スカルロッド──奴は、たしかに魔王軍の討伐で暗躍した。
シュークらにとって、脅威的な存在だった。
リアディファイル。
それが含まれる空気を吸い込んだだけで、体を蝕むように毒を効かせることができる、最悪の物質だ。その発明者こそが、ベニエ。それでこそ、彼は有名になったといってもいい。
──しかし。
その物質の活躍も、たいして長くはなかった。
シュークの仲間にも調合士がいた。そいつの計り知れない実力は、彼も認めていた。
リアディファイルの猛威は、思いの外早く終わったのだ。
──いや。
問題は、なぜそれがこんなところにあるのかということ。そして、なぜ自分に使われたのか。
オーブは、並べられた数え切れない量のフラスコを見渡した。一体これだけのフラスコを、なんのために。
メグルマは、オーブの前世が魔王であることを知っていたわけでもない。むしろ知らないからこそ、利用しようとしたのだ。
リアディファイルは、決して人間に使うようなものではない。人間にも効用はあるが、普通の人間なら毒殺なんてそんなことはしない。
いや、メグルマは普通ではない。オーブの魂を、錬金の素材にしようと企んでいたやつだ。
(奴は『今世が初めての人間』と言っていたな)
そこがどうも引っかかる。
なぜ、前世を持たない人間である必要があるのか。
前世を持たない人間の魂を使ったとして、何が生まれるというのか。
そして、もう一つ不可解な点がある。
メグルマは、オーブにリアディファイルを飲ませる前、黒魔法を使ったのだ。
黒魔法というのは、元来使用者の少ない、特殊な魔法である。視覚や聴覚の破壊、精神への干渉といった状態異常を起こすもので、習得することも、使いこなすことも難しい。魔王軍であれば造作もないが、人間がわざわざ会得するメリットはあまりない。
それを、今日だけで二度も食らった。路地裏での品狩りと、メグルマだ。
(奴らは、仲間か)
その可能性を考えた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
もしそうなら。
自分は、何か大きなものに巻き込まれようとしていたのかもしれない。
オーブは研究室を探し回り、ようやくメグルマの研究資料──及び、日記帳を開いた。
オーブに見せることができる程ということは、魂の錬金など重要なことは書かれていないだろう。しかし、読むに越したことはない。
そこには、錬金術師としてのメグルマの苦悩と歓喜が、淡々と記されていた。
奇妙なものだった。
つい先ほどまで、自分を殺そうとした男。
その男が、紙の上では一人の研究者として生きている。
オーブは、少しだけ手を止めた。
だが、すぐにページをめくる。
オーブとしてならほとんど理解できなかったであろう内容だが、今なら文字を追うだけで内容が頭に入ってくる。
「………!」
最後のページに目が止まった。
そこだけ、明らかに様子が違っていた。
文字がやけに乱れていて、筆圧も、行間も、何もかもが不規則だった。
まるで書き手自身が、何かに追われているかのようだった。
「リアディファイルは、人を生かしたまま化物にできる……?」
なぐり書きの最後、まるで文字が慌てふためいているかのように、しかし確実に、そう書かれていた。
人を生かしたまま化物にする。
目的は分からないが、メグルマがそれを望んでいた可能性がある。
これ以上は、この日記帳では分からない。
オーブはゆっくりと帳面を閉じ、メグルマの倒れている部屋を見た。
本人に直接聞くしかない。
起こして、無理矢理口を割らせる。
吐かなければ、殺せばいい。
「………………?」
殺す。
その言葉が、妙に遠く感じられた。
「俺が、人を?」
オーブはあろうことか、逡巡した。おかしい。なぜこんなことを考える。
魔王だったのなら、人を殺すことなど当たり前だったはずだ。殺さなければ、自分が殺されるのだから。
どのみち、オーブが生きていることを彼が知れば、また毒殺を企むに違いない。正体を隠すためにも、メグルマは殺さなければ。
しかし、なんだ、この複雑な感情は──。
その時だった。
ガタン! と、勢い良く扉が開かれる音がした。
家の外。誰か来た。
考える間もなく、オーブは理解した。
──おそらく、奴らだ。




