四話 魔王の誕生
――彼は、遍く業火の最中に、ただ一人立ち尽くしていた。
辺り一面を炎が覆っている。燃え盛る赤い炎は大地を舐めるように広がり、夜空すらも朱色に染め上げて、その中心に立つ彼の影を、まるで世界そのものが恐れているかのように長く地面へと伸ばしていた。
足元には、死体の山が異常なほどに積み重なっている。
剣を握ったまま倒れた騎士もいれば、杖を抱えた魔術師もいる。矢をつがえたまま息絶えた弓兵も、その身を鎧に包んだ戦士も、皆一様に動かない。あまりにも多くの死体が横たわっているせいで、もはや足の踏み場すら残されていなかった。
その中心には、血のような赤黒い液体で描かれた巨大な魔法陣が展開されている。
そして彼は、その魔法陣の中央に立っていた。
世界を支配していた。
絶対的な力を以てして。
彼に立ち向かう者は、皆、命を落としていた。
魔法は効かない。
剣では刃向かえない。矢は届かない。
毒すらも、彼の身体を蝕むことはできない。
何人が挑もうとも、何百人が束になろうとも、その存在を傷つけることすら叶わない。
完全なる支配者。
世界を牛耳る、悪魔の権化。
最低最悪の、邪悪の頂点。
『はは……ははははは』
彼は笑っていた。
それは歓喜に満ちた笑いだったのか、それとも、この世界そのものを嘲笑う笑いだったのか、もはや本人にすら分からない。ただ、その声だけが燃え盛る炎の中をどこまでも響き渡り、無数の死体が転がる大地に、狂気じみた余韻を残していた。
――何を勘違いしていたのだろう。
彼は、そう思った。
俺が前世を持たない人間?
そんなわけがない。
前世は、来たるべき時に、来たるべき場所で、必ず訪れる。
それこそが、この世界の仕組みなのだから。
人間は前世を持って生まれ、その前世によって今世の自分が決定される。
前世が騎士ならば、今世でも剣を振るう才能を持つ。
前世が魔術師ならば、魔法を扱う力を得る。
偉大な英雄であれば、人々はその名を讃え、強大な力を持つ者であれば、たとえそれが邪悪な人間であったとしても、誰もが恐れ、敬い、そしてその力に縋ろうとする。
逆に、何の力も持たない者はどうなる。
前世を持たぬ者は、どうなる。
――虐げられる。
それが、この世界だった。
力のある者が上に立ち、力のない者が下に落ちる。
善悪など関係ない。
人間性など関係ない。
どれほど誠実に生きようと、どれほど他者に優しくあろうと、強大な力を持つ者の前では、その価値など簡単に踏みにじられる。
魔王が存在していた頃は、まだ良かったのかもしれない。
人間には、人間同士が争う理由よりも分かりやすい、共通の敵が存在していたのだから。
しかし、魔王が死んだ。
勇者が世界を救った。
そして、人類は平和を手に入れた――はずだった。
けれど実際に残ったのは、平和などではなかった。
魔王という共通の敵を失った人間たちは、その矛先を互いへと向け始めた。
己の欲望のため。
己の地位のため。
己の正義を押し通すため。
そうして世界は、再び血で染まった。
腐った世界。
最悪の世界。
人間の醜さだけが残された、地獄のような世界。
彼は、燃え盛る炎の向こうを見つめた。
「変えてやる」
誰かに聞かせるための言葉ではなかった。
それでも、その声は不思議なほどよく響いた。
この世界を変える。
人間を支配する、この歪んだ仕組みを壊す。
邪悪に満ちた世界を変えるためには――邪悪そのものになるしかない。
「――邪悪を以て邪悪を討つ」
その瞬間だった。
彼の口からこぼれた言葉が、まるで何かを呼び覚ます呪文であったかのように、周囲の空気が大きく震えた。
邪悪を以て邪悪を討つ。
気がつけば、彼はその詠唱を口にしていた。
自分がなぜこの言葉を知っているのか、それすらも分からない。
ただ、その言葉を発した瞬間、自分の中に眠っていた何かが、長い長い眠りから目を覚ましたような感覚だけがあった。
光が、押し寄せてくる。
希望。
歓喜。
快感。
これまで感じたことのないほどの、圧倒的な正の感情が、一気に身体の奥へと流れ込んでくる。
しかし、それは「新たに得た」ものではなかった。
――取り戻したのだ。
闇を以て、光を得る。
失われていたものを、あるべき場所へと戻す。
その瞬間、彼の視界を覆っていた闇が、音もなく崩れ去った。
――目が見える。
オーブは、ゆっくりと瞬きをした。
視界に映ったのは、燃え盛る地獄ではなかった。
見慣れた部屋だった。
錬金術の道具が並べられた棚、使い古された机、壁際に積み上げられた薬草や鉱石。
師匠、メグルマ・オーヴィックの家。
自分が先ほどまでいた、あの場所だ。
「……」
身体を起こそうとして、オーブはそこで初めて気づいた。
目の前に、誰かが倒れている。
「……メグルマさん」
床に倒れていたのは、紛れもなくメグルマ・オーヴィックだった。
その身体を包み込むようにして、巨大な魔法陣が床一面に展開されている。複雑な術式が幾重にも重なり、淡い光を放ちながら、まるで何かを封じ込めるようにメグルマの身体を囲っていた。
しかし、メグルマは苦しんでいる様子を見せなかった。
目を閉じ、ただ静かに眠っている。
「……なんだ、これ」
オーブは呆然とした。
が起きた。
自分は、確かに死んだはずだった。
メグルマに殺され、意識を失って――それから。
考えようとする。
けれど、その必要がないことも、オーブにはなぜか分かっていた。
自分の中に、知らない記憶がある。
知らないはずなのに、知っている。
自分が経験したことのない戦場。
自分が握ったことのない剣。
自分が使ったことのない魔法。
そして――自分が殺した、数え切れないほどの人間。
「……俺は」
オーブは、自分の手を見つめた。
震えていた。恐怖からではない。
理解してしまったからだ。
今まで「知らない誰かの記憶」だと思っていたものが、実際にはそうではなかった。
自分は、何も新しく得たわけではない。
ずっと、自分の中にあった。
生まれるよりも前から。
この世界に存在するよりも、遥か昔から。
「俺は……」
そして、彼はゆっくりと顔を上げた。
目の前で倒れているメグルマを見つめる。
その瞳に、かつての少年らしい弱さはもうなかった。
「――俺は、魔王だったのか」
オーブ・セグリッド。
否。
その魂に宿っていたのは、かつて世界を恐怖に陥れ、勇者によって討ち取られた絶対悪――魔王シューク、そのものだった。
魔王の事実的復活。
邪悪をもたらす世界の再生。
――悪魔の災厄を囀る音が、確かに鳴り響いた。




