三話 信頼の開裂
「俺の前世がどんな奴だったか。もう何度も話したよな」
「……ベニエ・スカルロッド」
「ああ」
メグルマは顎から伸びた白い髭を撫でた。
「王国の最重要機関に仕えていた、一流の錬金術師。魔王討伐にも関わった、偉大な人物……だったらしい」
「だったらしいって……」
「はは。まあ、前世の話だからな」
いつものメグルマらしい笑い方だった。
オーブは少しだけ肩の力を抜いた。
「俺は魔王討伐の時代、よく戦場に駆り出された。勇者率いる第一討伐隊にも何度か同行したよ。俺の作ったポーションで命を救われた戦士も、少なくない」
それは、何度も聞いた話だった。
メグルマは自分の前世について話すのが好きだった。
魔王討伐に携わったこと。
勇者と同じ戦場に立ったこと。
数多くの戦闘職を、自分の錬金術で支えたこと。
特に酒が入れば、その話を何度でもオーブに話して聞かせた。
その武勇伝を聞くたびに、オーブは自分の前世をさらに期待していたのだった。
「俺はな、魔王討伐に限りなく暗躍した男なんだ」
そう言って胸を張る姿を、オーブは何度も見てきた。
だから、今日もその武勇伝を聞かされるのだと思った。
しかし――
「けどな」
メグルマの声が、少しだけ低くなった。
「ベニエは、それだけじゃ満足できなかった」
「……?」
「ポーションを作る。傷が治る。魔力が回復する。便利だよな」
「はい」
「でも、それだけだった」
メグルマは机の上に置かれた小瓶へ視線を落とした。
「俺は昔から、完成されたものを真似するより、誰も作ったことのないものを作る方が好きだった。再現よりも、創造。自分の中でその意識──というか、信念みたいなものがずっと俺を支配していた」
小瓶を手に取り、ゆっくりと揺らす。
中身は、淡い紫色をしていた。
「新しい素材を探した。新しい製法を試した。人体にどう作用するかも調べた。失敗もした。死人もでた。あまりにもおかしなものばかり作るから、気がつけば、俺の周りから人が消えていった」
「……そう、なんですか」
「ああ」
メグルマは笑った。
けれど、その笑顔にはいつもの親しみがなかった。
「それでも、やめられなかった」
オーブは黙って彼を見つめた。
「何かが足りなかったんだ」
「何が……ですか?」
「それが分からないまま、俺は死んだ」
メグルマは小瓶を机に戻した。
コトン、と乾いた音がする。
「そして生まれ変わった」
そこで、彼は初めてオーブの目を真正面から見た。
「メグルマ・オーヴィックとしてな」
オーブの胸に、嫌な感覚が走った。
何だ。何かがおかしい。
「前世で未練を残して死んだ人間は、その未練が今世にも引き継がれることがある――そう聞いたことがあります」
「ああ。よく知ってるな」
「それが……何か関係あるんですか?」
メグルマは答えなかった。
ただ、オーブをじっと見ていた。
まるで、何かを品定めするように。
「……メグルマさん?」
「オーブ」
「はい」
「お前は、自分に前世がないことをどう思ってる?」
「……どう、って」
「怖くないか?」
その言葉に、オーブは息を詰まらせた。
「怖いです」
素直に答えた。
「これから、どうやって生きていけばいいのか……分かりません」
「そうだよな」
「でも、メグルマさんが――」
「違う」
「……え?」
メグルマが遮った。
「そういう話じゃない」
その声には、今まで聞いたことのない響きがあった。
オーブは眉を寄せる。
「俺が聞いているのはな」
メグルマは椅子から立ち上がった。
ゆっくりと、こちらへ歩いてくる。
「お前自身が、自分に前世がないことをどう思っているかだ」
「……僕は」
言葉が出てこない。
メグルマは、ゆっくりと近づいてくる。
一歩。また一歩。
「俺なら、そんな人生は耐えられない」
「……メグルマさん?」
メグルマは、オーブの目の前で立ち止まった。
そして――
笑った。
いつもの豪快な笑みではない。
口元だけが、ゆっくりと歪んでいく。
「だから、俺は探していた」
「……何を?」
「お前を」
背筋が凍った。
「俺はずっと探していたんだよ、オーブ」
「……何を、言って……」
「前世を持たない人間を」
メグルマの目が、異様なほど輝いて見えた。
「『今世が初めての人間』をな」
「…………ッ、!?」
意味が分からない。
いや。
分かりたくなかった。
「メグルマ、さん……?」
「すまん、オーブ」
その声だけは、ひどく優しかった。
だからこそ――恐ろしかった。
次の瞬間。
世界から、光が消えた。
目の前が漆黒に染まる。
「――ッ!」
何も見えない。
何も聞こえない。
身体が動かない。
先ほど路地裏で味わったものと、まるで同じだった。
(黒魔法……ッ!?)
理解するより先に、身体が恐怖を思い出していた。
「な……メグルマ、さ――」
声すらまともに出ない。
その直後。
唇に、何かが押し当てられた。
「――ごぼっ!」
冷たい液体が、無理やり口の中へ流し込まれる。
苦い。
酸っぱい。
それ以外にも、何か得体の知れない味がする。
「がっ……ごほっ! な……!」
吐き出そうとする。
しかし、喉が勝手に動いた。
液体が食道を滑り落ちていく。
「ごほっ……! あ……!」
「はは、飲め」
メグルマの声が聞こえた。
いつもの優しい師匠の声ではなかった。
「メグルマ……さん……!」
「お前を、ずっと探していたんだよ」
その言葉とともに、身体の内側が熱くなる。
次いで、猛烈な吐き気が込み上げてきた。
頭が割れるように痛い。
心臓が、異常な速度で脈打っている。
「がっ……あ……!」
絶望。
恐怖。
痛み。
不快感。
負の感情という負の感情が、一斉に身体の中へ流れ込んでくる。
何が起きている。
なぜ。
どうして。
――この人が。
オーブは必死に考えようとした。けれど、もう何も分からなかった。
ただ一つだけ。
はっきりと分かった。
自分が今まで信じていたものが、音を立てて崩れていく。
そしてその中心にいるのは――
自分が最も信頼していた、師匠だった。
「オーブ──お前は貴重な存在なんだ。誇らしく思えよ」
暗闇の中で、メグルマの声だけが響いていた。
「誇らしく思えよ」
その言葉に、オーブは必死に意識を繋ぎ止めながら、彼の声へ耳を傾ける。
「お前は自分を最後まで卑下していたが、もっと自信を持っていいことなんだ」
何を言っている。
今さら。
そんな優しい言葉をかけて、何になる。
「だから、俺が、これほどまでに希少なお前という素材を」
――素材。
その一言だけが、異様なほど鮮明に頭へ残った。
素材。
「……っ」
オーブの思考が止まる。
そういうことだったのか。
メグルマは、自分を弟子として見ていたのではない。
人間として見ていたのですらない。
ただの――素材。
前世を持たないという、この世界で極めて稀な存在。
その価値だけを見ていた。
ずっと。
ずっと、期待していたのだ。
オーブが前世を自認し、何者かに覚醒することを。
――違う。
メグルマが待っていたのは、その逆だった。
オーブが二十歳になっても覚醒しないこと。
前世を持たない人間であることが、証明されること。
その瞬間を、ずっと待っていた。
「……あ」
ふと、以前の記憶が蘇った。
『錬金っていうのはな、究極的には――人間の魂を作り変えることだって可能なんだ』
あのときは、何を言っているのか分からなかった。
錬金術は物質を変化させるものだ。
鉱石を精製し、薬を作り、素材を組み合わせ、新たなものを生み出す。
それが、オーブの知る錬金術だった。
なのに、メグルマは言った。
――人間の魂を作り変える。
「まさか……」
輪廻。
前世から今世へと続く、人間の魂。
もしも、その輪廻の歯車に組み込まれていない人間が存在するのなら。
もしも、その魂を――錬金術の素材として扱うことができるのなら。
「……僕を……」
声が震える。
「何に……するつもりなんですか……」
返事はなかった。
ただ、メグルマの手がゆっくりと動いた。
それだけで、オーブの身体に再び激痛が走った。
「――ッ!」
息が詰まる。
肺が空気を求めている。
だが、吸えない。
身体が言うことを聞かない。
視界は漆黒のままだ。
「お前の死は、決して無駄にはしない」
メグルマの声は、不思議なほど穏やかだった。
「俺には、作らなきゃいけないものがある」
「……なに……を……」
それが最後の抵抗だった。
知りたかった。
せめて、自分が何のために殺されるのかだけでも。
しかし、答えを聞くことはできなかった。
喉が震える。
息ができない。
頭の中が白くなっていく。
思考が、少しずつほどけていく。
死。
――死ぬ。
自分は、死ぬのだ。
「……こんな、に……」
死というものは、もっと恐ろしいものだと思っていた。
もっと壮絶で、もっと苦しくて、最後まで抗い続けるものだと思っていた。
けれど。
実際は、ただ少しずつ遠ざかっていくだけだった。
音が遠い。
身体の感覚も遠い。
自分がどこにいるのかさえ、分からなくなってくる。
前世を持たない者は、こんなにも生きる資格がないというのか。
無能だと罵られ。
攻撃され。
虐げられて。
それでも、なんとか生きてきた。
自分にできることを探して。
師匠の役に立とうとして。
いつか、自分にも何かができるのだと証明したくて。
――なのに。
最後に信じた人間にまで、利用された。
「……僕は……」
何のために生まれてきたのだろう。
何のために、二十年も生きてきたのだろう。
そんな疑問すら、もう考えられない。
ふと。
暗闇の中に、一人の少女が浮かんだ。
金色の髪。
鮮やかな碧眼。
小さな手。
自分の頭に触れてくれた、冷たい手。
エルセレナ。
「……セレナ……」
彼女だけは。彼女だけは、自分を助けてくれる。
あの優しい彼女なら。
自分がどれだけ無能でも。
前世がなくても。
きっと――
――本当に?
オーブの思考が止まった。
彼女も。
もし彼女も、メグルマと同じだったら?
もし、彼女も自分を利用するために優しくしていただけだったら?
何か理由があって。
何か目的があって。
自分が「前世を持たない人間」であることを、ずっと知っていたのだとしたら。
(……わからない)
誰も、信じられない。
何が本当なのか分からない。
自分が信じてきたものは、全部嘘だったのかもしれない。
(……誰か……)
声にならなかった。
それでも、オーブは願った。
誰か。
誰かだけは。
自分を、ただの人間として見てほしい。
価値があるかどうかではなく。
前世が何者だったかでもなく。
ただ――
オーブ・セグリッドという一人の人間を。
「信じて……」
その願いが誰かに届いたのか。
オーブには、もう分からなかった。
視界の闇が、さらに深くなる。
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
やがて、恐怖すら感じられなくなった。
後悔も。
憤りも。
悲しみさえも。
すべてが遠ざかっていく。
そして最後に残ったのは――
誰かに信じてほしいという、あまりにも小さな願いだけだった。
それすらも、やがて消えた。
オーブ・セグリッドの意識は、完全に途絶えた。




