第78話 最悪の選択
『解散』。乱子がそう告げると、希子の吐く白い息の間隔が狭くなる。その様子から、希子が激しく動揺しているのが聞くまでもなく分かった。
乱子は、さっきまで苛つく程うるさかった街の喧騒を、今は希子との間に生まれた沈黙を埋めるために欲している事に気付く。
「ら…乱子…。今の…本気で言ってんの…?」
「そうや…。」
寒さでなく、酷い動揺から震えが止まらない希子が、何とか振り絞って出した言葉に、乱子は一言だけで冷たく返した。
「なんで…なん…?二人で天辺目指そうって言ってたやんか…。」
「………。」
肩で息をする程に情緒が不安定になっている希子を、乱子は直接見れなかった。希子の言いたい事も気持ちも分かっていた。
だが、乱子も軽はずみで『解散』と言ったわけでは無い。希子の地元に帰った時に聞いた夢、希子の置かれた状況、あの日にした約束、全て乱子の中で最も大事なものに変わっていた。だからこそ、今回の事が許せなかった。自分の本気の想いを踏みにじられた気分だった。
ココに相談した時に言われた『ちゃんと話し合え』というアドバイスも、頭の片隅にあったが、そんな事をする余裕すら乱子には無く、むしろそれすら億劫に感じている程だった。乱子の目の前の状況は、強い彼女の心が壊れてしまうぐらいの裏切りに見えたのだ。
「希子…ごめん…。うちもう行くわ。」
「乱子!ちょっと待ってよ!話ぐらい聞いてよ!」
「うちに今そんな余裕は無い!…希子…鉄平にちゃんと謝りや…。あの人…うちらのためにめちゃめちゃ必死になって頭下げててくれてたから…。」
「鉄平さんが…?ほんまに待って!話が全然見えへん!ちゃんと説明して!」
今にもこの場を去ろうとする乱子を、希子が必死に止めようとするが、乱子の気持ちは変わらない。
そこで、ずっと静観していた荒木が、吸っていたタバコを車の灰皿で消すと、どうにもならない二人の間に割って入った。
「おい乱子。希子の話聞いたれや。お前何か勘違いして…」
「お前はマジで話に入ってくんな!!」
乱子は、荒木に対し、尋常ではない拒絶を見せる。そして、恨みのこもった目で睨みつけながら、荒木に溜まっていた負の感情をぶつける。
「希子がおかしくなったんはお前と付き合いだしてからや!お前なんかと付き合ったから…!うちらは…!クソボケが!もう二度とうちに絡んでくんな!」
まだまだ荒木に罵詈雑言を浴びせようとする乱子の頬に、希子が平手打ちをする。
「何で乱子は荒木君にそんな事言うの!?何も知らんやんか!さっきから話も一切聞こうとせーへんし!こういう時ぐらい!少しは大人になってよ!」
乱子は、思いっ切り叩かれた頬のジンジンとした痛みよりも、希子からの言葉による心の痛みに、今は耐えられそうになかった。
本当は、平手打ちを切っ掛けに乱子が冷静になり、希子の話を聞いておけば良かったのだろう。だが、乱子はまだこの時19歳である。故に、芸人として尖ったプライドが邪魔をして、本心とは真逆の行動を取ってしまう。
「ははは!そうやな!うちは何も知らんわ!希子が普段何をしてるんか!今日のドタキャンの理由も!今希子が何を考えてどうしようとしてるんかも!
でもな!希子はうちがどんな気持ちで芸人やってるんか知ってるんか!どんな想いで希子の夢を叶えたろうとしてるんか!希子だって分かってないやろうが!
だから!こんな事も分からん同士やったらコンビなんかやっていかれへんって言うてるんや!」
乱子が、落ち着ついて今言った内容を伝えれば、話し合いになったのだろうが、刺々しい沢山の言葉は、希子の心を深く抉った。
そこで、乱子は今まで見た事がない人の表情を見る。静かに涙を流し、悲しみや絶望や諦めといった感情が心の中で暴れて、その事を言葉に出来ずクシャクシャになっている顔だ。
希子は、そんな表情で乱子を黙って見つめる。形容し難い希子の複雑な顔に、乱子は思わず目を背ける。
そして、その場にいる事が苦痛で堪らなくなった乱子は、希子と荒木に背を向けて最後に一言残す。
「ほなうちは行くわ…。今までありがとうな。」
今、感謝の気持ちなど込められているはずの無い『ありがとう』という乾いた言葉が、希子を更に傷付けるだろうと、乱子は分かっていた。
そして、そのまま乱子は走ってその場を去る。もう後ろから『待って!』という声は聞こえなかった。
乱子は走りながら今あった出来事を整理しようとする。『何を言ったのか』『何を言われたのか』それにより『どうなったのか』…しかし、怒りや混乱などの感情に任せて行われたさっきの時間は、乱子の中で曖昧な記憶になっている。
自分が間違った行動をしたのかどうかさえ分からないぐらい、頭の中がゴチャゴチャに散らかっている。
ただ一つ確かな事は、『らんきりゅうは解散した』という事だけだった。希子からはっきりとした答えを聞いていないが、乱子は『解散した』という事実にすがる事でしか、心の安静を保てないのだ。
その『解散』したという事実を、より確実にさせるために、乱子は家に帰るとすぐに鉄平にその旨をメールで送った。
そして、そのままスマホの電源を切り、布団の中に入ってうずくまる。今は考える事を止めて眠りにつきたかった。目が覚めると全てが夢だったという結末を願って…。
だが、目を瞑ると鮮明に蘇る…。最後に見た希子のあの顔が…。




