第70話 予期せぬ来訪者
希子は、流れた涙を拭い、もう一度続きを話し始めた。
「私な、必死で働くお母さんの顔を見てて思ってん。苦労して…笑う事も忘れかけてるお母さんをどうにかでけへんかなって…。ほんで、17歳になったぐらいの時に、テレビで一生懸命周りの人を笑かす芸人さんを見てさ…これや!って思ってん。そこから私の芸人になるって夢が生まれた…。」
愛おしそうに希子が母親の顔を撫でる。乱子は相槌もせずに、ただ真剣な顔で希子の話を聞いていた。
「だから、そう思った時に私はお母さんに言うてん。『芸人になってお母さんを笑顔にしたい』って…。ほんならな、自分が一番しんどいはずやのに…お母さんはとびっきりの優しい笑顔で『応援するね』って言うてくれてん。
そこから私はそれまで以上に必死でバイトをしてお金を貯めた。KCSの入学金40万円を支払うために…。でもな、どうしても15万円足りひんかった…。どうしよかって悩んでる時…お母さんは15万円を無い中から出してくれてん。『頑張ったね』って一言褒めてくれながら…。」
拭ったはずの涙が、また希子の頬を何度も何度も伝っていく。
「そのお金を受け取る時に私はお母さんに約束した。『25歳になるまでに必ず売れる』って…『OABで優勝してお母さん達を楽にする』って。これが…私の芸人としての夢…目標やねん…。でも、その後すぐにお母さんは体調を崩してこんな状況になってもうて…。」
全てを語り終えた希子が、ずっと静かに聞いていた乱子の方を見ると、彼女は鼻水を垂れ流して号泣していた。
「き…希子…あんたは…うぇ…!苦労してきたんやな…。ズビビッ…!オェッ…フゴッ…!」
涙を堪らえようとプルプル震えている乱子に、希子は思わず笑ってしまう。
「ははは!汚いなぁ!そんな汚い泣き顔初めて見たわ!」
「ぐへっ…!ふぇ…!だって!しゃーないやんか!うちは人情ものには弱いんや!」
「ありがとう…。一緒に泣いてくれて…。」
「頑張るで!絶対に25歳までに結果出したろ!いや!そんなもんすぐにでもやったったらええねん!OAB優勝や!」
「そうなったらええな!でもな…お母さんは末期ガンで…そこまで生きてるか…分からんねん…。」
希子は、沈んだ表情で、握っていた手を強く握りしめる。だが、乱子は立ち上がり、そんな希子の背中を思いっきり叩いた。
「いったーー!」
「絶対大丈夫や!この先、お母さんは目を覚まして、うちらがOABで優勝してる所を笑顔で見てるはずや!うちらならやれる!」
泣き過ぎて真っ赤になった目のまま、仁王立ちでそう言う乱子を見て、希子は安心したかのように微笑んだ。
「ほんまやな。私らやったらできるな!やっぱ相方に乱子を選んでほんまに良かったわ!」
「ガハハハ!もっと崇めんかい!」
乱子のおかげで、和やかな雰囲気になりつつあった病室だったが、そこでガララッと扉が開いて誰かが入ってきた。
看護師が入ってきたのかと乱子がそちらに目をやる。だが、そこに立っていたのは、灰色のスウェットを着て、整髪されていない白髪混じりの頭をした中年男性と、セーラー服を着た希子によく似た綺麗な女の子だった。
その二人を見て、少し険しい表情をしながら希子が立ち上がった。
「お父さん…、望…。」
病室に入ってきた二人は、どうやら父親の〝健吾〟と、妹の〝望〟だったようだ。
家族の再会にしては、お互い気まずい空気になっており、乱子は無理に入らず希子の様子を伺っている。そして、希子の父親が酒焼けしたしゃがれた声で話し始める。
「希子か…。何しに来たんや?」
健吾の発したセリフは、母親に会いに来た娘に掛ける言葉や声のトーンでは無かった。
そして、そのままのトーンで健吾は続ける。
「今さら何なんや、芸人になるって言うて出ていったきり帰ってもこんと…。」
「用事があったんや…。お母さんの容態も気になってたし…。もう済んだし私らは帰るから。」
「こんな時に何を言うとんのや。自分は家を放ったらかしにして自由に芸人目指しとるくせに。どうせ芸人なんかやってたって何もならんやろうが、お前にそんな才能があるとは思われへんしの。」
健吾は、希子の気持ちも知らずに辛辣な言葉をぶつけてくる。それに、怒りを覚えた希子が反論するため口を開こうとした時だった、それよりも早く乱子がオラオラと前に出る。
「おいおい!おっさん!あ…お父さん!」
乱子なりに一応気を遣って呼び方を改める。
「希子は才能の塊や!今だってうちと一緒にKCSで1番トップのクラスにおる!」
「〝うちと〟一緒に?なんや、お前が相方か?」
「そうや!うちも天才でな!申し訳ないけどうちと希子は絶対に売れる!ほんで希子のお母さんの体調が戻った時には!うちらの最高の姿を見せてあげるんや!分かったか!?」
乱子の堂々とした宣言にも、健吾と望は暗い顔をしたままだった。
「雅美の体調が戻るって?この状況を良く見てから言えよ。」
「そんなもん良くなるに決まってるやろ!うちらが希子のお母さんを笑顔にしまくったるんや!」
乱子の希望に満ちた言葉に、希子は顔を手で覆いながら静かに涙を流す。
だが、健吾の心には全く響いておらず、逆に乱子へと強い言葉を投げ返す。
「ほんならお前がどんだけおもろいんや!売れるって証拠見せてみー!」
「ほな見せたるわ!」
『面白い事をしろ』という〝あの〟振りに、乱子はすかさずに反応する。もう、あの酔っぱらいに絡まれた頃の乱子ではないのだ。そして、乱子は両手を絡ませて天井に向けて真っ直ぐ伸ばす。渾身の乱子のボケに、病室の全員の注目が集まる。
「にょ~んにょ~んにょ~ん!乱子のオモローメーター上昇中〜!にょ~んにょ~んにょ~ん!」
(はぁーーー!?!?こいつやりおった…!!よりにもよってこの世で1番おもんない一発ギャグを引き出しから出してきよった!!しかも勝手におもんないアレンジも加えとる!!)
にょんにょん言いながらウネウネ動く乱子を見て、驚愕の表情を前面に出しながら希子が心の中でツッコむ。
そんな希子に、顔を真っ赤にして照れながら乱子がチラチラと目配せをしてくる。
(なんやこいつ…!恥ずかしいんやったらそんなクソみたいなギャグ始めからすんなよ…!こんな状況で私のツッコミに助けを求めんな…!)
乱子の救いを求める目を無視して、希子はそっと乱子から目を逸らした。
そんな自分を見捨てた希子の態度に、ウネウネ動きながら乱子はショックを受けているようだ。
だがその時…静かな病室で『クスッ』という微かな笑い声が聞こえた。
全員がその声がした方を驚いたように見ると、意識の無いはずの雅美が、ほんの少し表情が柔らかくなり、ニコリと笑っているように見えた。




