第三話
まず、男装が必要だった。
このまま女の姿で旅を続けるのは危ない。一人旅の若い女は目立つ。目立てば絡まれる。絡まれれば時間を取られる。それに——軍に入るなら、なおさらだ。
表向きの理由は、そういうことにしておいた。
でも本当のことを言えば、女である自分を、どこかに置いていきたかった。あの夜から、ずっとそういう気持ちがある。
村の外れで行商人と鉢合わせたのは、そんなことを考えながら歩いていた時だ。
「お嬢さん、どこへ行くんで?」
荷車を引いた初老の男だった。人のよさそうな顔で、荷台には布や衣が雑多に積んである。
「北へ」
「北!遠いですなあ。陰嶺の方で?」
「そう」
ははーん、と商人はにやにやしながら言った。
「もしやお嬢さんも、将軍目当てで?」
「将軍?」
「鬼槍将軍ですよ。陰嶺といえばあの方。若くて、強くて、顔もいい。城下の娘さんたちが門の外で待ってるくらいで。遠方からわざわざ来る方もいるくらいですわ」
「…ち、違う!」
「そうですか?でもお嬢さん、顔が赤いですよ」
「あ、赤くないっ」
「はははっ」
男はからからと笑った。「何か入り用のものは?衣とか帽子とか。北は寒いですよ」と言いながら荷台を漁り始める。白霜は荷台をのぞいた。男物の衣が何着か混じっている。
「その衣、売ってもらえる?」
「え、男物ですよ?」
「うん。いいの」
行商人はしばらく白霜を見た。それから何かを察したのか、それ以上は聞かなかった。さっさと値段の交渉に入る。商人らしい切り替えの早さだ。銀子を渡して、衣と帽子を受け取った。
◆
村を離れた山道の脇に、小川が流れている。
水辺で荷物を下ろして、男装の準備をした。まず胸を布できつく巻く。痛いくらいがちょうどいいと思って、きつめに巻いた。次に髪を結い上げて、上から布巾をぐるりと巻きつける。顔に泥を擦り付け、全体的に浅黒くなるようにした。衣を着替えれば完成だ。
鏡代わりの川面には、細身の、少年が映っていた。
…思ったより、少年だった。
(これ、大丈夫かな)
自分でも少し不安になる。十三か十四に見えるかもしれない。でも、ばれるよりはいい。なめられる方が、まだ対処できる。
問題は声だ。普段の声のままでは、話した瞬間にばれてしまう。一音低く、腹から出す。
「こんにちは」
低すぎた。
「こんにちは」
今度は少し高い。
「こんにちは…なんか変だな」
独り言が出た。いつもの声だった。思わず頬が緩みそうになって、こらえる。笑っている場合じゃない。
川に向かって、しばらく練習する。
「凌博と申します」「陰嶺はどちらですか」
凌博、というのは、歩きながら考えた名だ。本名の「白霜」から「白」だけ取って、字を「博」に変えた。読みは同じで字だけ違う。咄嗟に呼ばれた時にちゃんと反応できるように。
「凌博」
もう一度、川に向かって言ってみた。
悪くない気がする。むしろ、ちょっと気に入った。
◆
陰嶺が見えてきたのは、旅に出てから十八日目の昼だった。
山脈の懐に抱かれた城砦都市で、五月だというのに稜線に雪が残っている。
城門をくぐりながら、街の様子を見渡した。荒れている、というのが正直な印象だ。街道は補修が追いついていなくて、建物の壁に苔が生えている。
でも——腐っていない。行き交う兵士たちの目が、死んでいない。その差がどこから来るのか、この時の白霜にはまだわからなかった。
城砦の外郭に、志願兵の受付があった。食えない若者たちが列を作っている。白霜もその列に加わった。深く帽子をかぶって、うつむき加減で。できるだけ、目立たないように。
審査は、少し難航した。
体格を見た武官が、まず眉を上げた。
「…いくつだ」
「じゅ…十六です」
本当は十九だ。でも十九と言って信じてもらえる気がしなくて、とっさに、少し削った。武官はじろじろと白霜を見ている。信じていない顔だ。
「十六?ほんとか?どう見てももっと下——」
「十六です」
きっぱり言った。声が上ずらないように、腹に力を入れて。
「…まあいい。型を見せろ」
白霜は刀の代わりに、傍らに立てかけてあった訓練用の槍を手に取った。本当は剣の方が得意だ。でも今は、使えない。鉄嶺荘の型が出てしまう。
槍を構えて、型を打った。剣ほど染み込んではいないが、体が勝手に動く。一つ、二つ、三つ。風を切る音が、静かな中庭に響いた。
「どこで習った」
「旅の武術師のもとで。一年ほど」
「名は」
「凌博」
「第三隊に入れ。隊長の孟岩秋に申し出ろ」
こうして白霜は——鬼槍将軍・玄鷹の軍に、名もない一兵士として加わった。
(やった)
心の中でそっと思った。ばれなかった。第一関門、突破だ。
◆
受付を終えて、兵舎へ向かう廊下を歩いていた時だった。
城砦の中庭を横切ろうとした瞬間、馬蹄の音がした。
思わず足が止まった。馬上の人物が、中庭を横切ってくる。
まず目に入ったのは、その姿勢だ。背筋が一本の線を引いたように真っ直ぐで、馬上にいるというのに揺れが一切ない。若い。それが次の印象だった。鞍に施された細工、腰に下げた剣の拵え、纏う衣の質——どれも並の兵士が持てるものじゃない。なのにそれらを纏っているのは、まだ青年と呼んでもいいような顔立ちの男だった。
そして何より、目が印象的だった。
顔は若いのに、目だけが違った。多くのものを見てきた目。疲れ、ではない。もっと昏い何かが、静かに目の奥で光っている。長年、腹の底に飼い続けてきたものだ。
ただ、そこにいる。
それだけで、中庭の空気が変わっていた。
将軍だ、と直感した。
(確かに、噂通りかっこいい)
うつむいた。目を合わせたくなかった。自然に、でも不自然にならないように、ただ立っている。通り過ぎるだけだ。何でもない新兵として、やり過ごすだけ。俯いたまま、息を殺した。
でも。
将軍の馬が、止まった。
白霜の胸が、跳ねた。
(え、なんで。なんで止まるの)
心臓がうるさくて、顔が熱い。布巾の端を少し下げながら、ただじっとしていた。見られている。確かに、見られている。どれくらいそうしていたか、わからない。一秒か、三秒か。中庭が、やけに静かだった。風の音さえ、聞こえない気がした。
やがて、馬蹄の音が、また動き始めた。
将軍は何も言わなかった。
白霜は中庭に立ったまま、しばらく動けなかった。
息をしていなかったことに気づき、ゆっくりと、息を吐く。
(今の…なんだったんだろう)
なぜ止まったのか。何を見たのか。まだ入隊したばかりで、将軍との接点など何もないのに。
きっと、気のせいだ。新入りがたくさんいる中の、ただの一瞥。将軍にとっては何でもない一瞬で、白霜が勝手に緊張しただけだ。
そう思うことにした。
でも——心臓だけは、まだうるさかった。




