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第二話


「やっと起きたんだね」


低い声がした。土間の方を向くと、老婆が座っている。薬草を束ねる手を止めもせずに、こちらを見ていた。しわだらけの小さな手が、慣れた動きで茎を縛っている。


「三日だよ」


老婆は言った。


「山から転がり落ちてきて、うちの畑に倒れてた。まったく、若い娘がこんな大怪我で」


三日。その言葉が、頭の奥でゆっくりと溶けていく。


「あんな傷で死ななかったんだから、お前さん、相当しぶといね」

「…他に、誰か来ませんでしたか」

「さあね。うちに来たのはお前さんだけだ」


そうか、と思った。三日間、誰も来なかった。生き残りがいれば山を下りてくる。村に助けを求めに来る。それが誰もいないということは——。


背中が熱く、呼吸するたびに傷口が引きつる。仰向けに戻ると、節の多い、古い木の板が目に入った。隙間から光が差し込んでいて、朝か昼かわからない。ぼんやりと、節を数えた。


知らない場所で目が覚めるのは、初めてじゃない。

鉄嶺荘に拾われた夜も、同じだった。



あの時のことを、断片的にしか覚えていない。

生まれたのは北方の農村。父は荷運びで生計を立て、母は機を織った。

戦が来たのは、白霜が九歳の秋のことだ。朝、働きに出た父が夕方になっても戻らない。夜になって、遠くから煙が上がった。母が手を引いて走り出した。どこへ向かっていたのか、今でも知らない。途中で、手が離れた。気づいたら一人だった。


次に目を開けると、知らない天井があった。翁白麟老師が、そこにいた。

丸い顔の、白い髭の、穏やかな目をした老人は、白霜の顔をしばらく見て、こう言った。


「ご飯を食べなさい」


それだけだった。それから、そこが白霜の家になった。


鉄嶺荘は、山の中腹に建てられた武術の山荘だ。武林でそれなりに名の知れた門派で、戦孤児や流れ者を拾い集めて武を教えている。弟子は多い時で三十人ほど。


沈燼も、そのうちの一人だった。

白霜が入荘した時、すでに山荘で一位二位を争う腕前だったが、奢った態度は一切ない。底抜けに明るい男だった。


師父に叱られた時でさえ声を上げて笑う。誰かが暗い顔をしていると、くだらない話を始めて、気づいたら周りが釣られていた。沈燼がいると、空気が和む。沈燼がいると、みんなが笑う。そういう人だった。


私の、人生だった。


——その男が、あの夜、炎の向こうに立っていた。



傷が塞がるまで、十日かかった。

老婆は毎日、何も言わずに薬草を替えて、飯を持ってきた。世話をしながら、一度も「何があったのか」と聞かない。その沈黙が、ありがたかった。聞かれても、答え方がわからない。


三日目の夜、どうしても眠れなくて、暗い天井を見ていた。節の一つ一つが、灯りの加減で影を作っている。数えようとして、途中でやめた。


「…眠れないのかい」

「うん。眠れないの」

「そうかい」


それだけだった。

老婆の手が薬草を刻む音だけがする。その音が、妙に落ち着いた。


「婆さんは」と、気づいたら口を開いていた。


「大切な人を、失ったことある?」

「あるよ」

「辛かった?」

「今でも辛いさ。でも飯は食える。そういうもんだ」


老婆は決して、いつか辛くなくなる日が来る、とは言わなかった。そっちの方が、正直だと思った。

辛いまま飯を食う。辛いまま眠る。辛いまま朝が来る。それが、生きていくということなのかもしれない。


十日目の朝、老婆に頭を下げた。


「世話になりました」

「どこへ行くんだい」

「まず麓の村に寄って…それから、まだわからないけど」

「わからないのに行くのかい」

「うん。でも、私にしかできないことが、あるから」


老婆はしばらく白霜を見ていた。それから無言で立ち上がり、奥へ引っ込んで、戻ってきた時には小さな布袋を持っていた。


「持っていきな」

「え、でも——」

「黙って受け取りな」


袋の中には干し肉と少しの銀子。十日、一緒に暮らせばわかる。老婆だってきつい暮らしだ。それなのに。


「…ありがとう」

「死ぬんじゃないよ」


ぶっきらぼうな言い方だった。でもその奥にある優しさは、この数日でわかっている。

白霜は深く頭を下げた。老婆の、薬草を縛る手が、また動き始めた。



山を下りて二日、麓の村に着いた。

師父がよく使っていた薬屋は、村の外れにある。何度か買い出しの供をしたことがある店だ。暖簾をくぐった瞬間、薬草と古い木の匂いがした。

奥から出てきたのは、白髪の老人だった。師父と長い付き合いだと聞いていた。

老人は白霜を見た瞬間、表情を変えた。


「…荘の子か」

「はい」

「翁先生は」


喉が詰まる。それでも無理やり声を出した。


「亡くなりました。荘も…」


老人は何も言わなかった。ただ深くうつむいて、肩をわずかに震わせた。


「…そうか」


やっと出たのは、それだけだった。

そして、店の奥へ静かに向かうと、細長い木箱を手にして戻ってきた。


「翁先生から預かってたものがある。二ヶ月ほど前のことだ。先生が自らここへ持ってきた。何か嫌な動きを察したのかもしれないと、あの時は思ったよ。まさかこんなに早く——」


老人は言葉を切った。


「もしもの時は、荘の者に渡してくれと言われていた。こんな形で渡すことになるとは、思ってなかったが」


手渡された木箱は、思ったより重い。


蓋を開けると、まず目に入ったのは印章だった。紫檀に金の意匠が刻まれた、重厚な印章。側面に小さく文字が刻まれている。手に取って確かめた瞬間、息が止まった。


——玄崇(げんすう)


三年前に処刑された将軍の名だ。北方最強と謳われた男。謀反の疑いをかけられ、消された。

だが武林では今でも、あの死は冤罪だと囁く者がいる。


なぜ師父が、これを。


次に出てきたのは、薄い絹に細かく書かれた文書だった。文字が暗号のように並んでいて、すぐには読めない。でもこれが何らかの証拠であることは、見ただけでわかった。


そして最後に、折り畳まれた書状が一通。差出人の名前は、将軍と同じ。

書状の文面は短かい。師父への私信だった。


——旧友よ。わしの命は、もう長くない。息子のことを頼む。きっと、わしの死の真相を追おうとする。だが一人では危うい。時が来たと思った時に、信の置ける者と共に届けてやってほしい。この箱の中身が、あの子の力になるはずだ。父として、頼む。


師父はこれを預かり、機を待ち続けていた。そして二ヶ月前、何かを察して薬屋に移した——その直後に、鉄嶺荘は燃やされた。


白霜はしばらく書状を見つめた。それから一つ一つ丁寧に懐にしまって、老人を見た。


「玄崇将軍の息子というのは、今どこに」

「陰嶺だよ」

「陰嶺?」

「北方の僻地さ。鬼槍、と呼ばれている将軍だ。父親ゆずりの、本物の武人だよ。それを恐れた連中が、都から遠ざけた」

「…その将軍は、信頼できる人ですか」


少し間があった。


「玄崇殿のことは知っている。だが息子のことは——正直、わからない。三年前とは状況が変わっている。辺境に飛ばされ、どんな人間になったか。今の玄鷹殿がどういう方かは、会ってみなければわからないよ」


老人はしばらく白霜を見ていた。それから、静かに口を開いた。


「…止めても、行くんだろう」

「はい」

「そうか」


ため息が落ちる。責めるような声じゃなかった。ただ、心配している人の声だった。


「一つ、知っておいた方がいいことがある」

「なんですか?」

「鉄嶺荘の名が、朝廷に伝わってる。荘が晏と通じていたという話が、上の方で出回り始めているんだ」

「そんな……逆に襲われたんですよ」

「わかってる。だが朝廷が動けば、話は別だ。それと——荘主の牌が、別の人間の手にある。そいつが荘と晏の繋がりを示す証拠を持っているらしい」


沈燼。

頭に、その名前が浮かんだ。唇を噛んだ。


「…心当たりがあるのかい」


答えられなかった。

俯いた肩に、老人の手が触れる。温かかった。


「気をつけて行きなさい。…きみは、翁先生が選んだ弟子だ」


薬屋を出た。

外の空気が冷たい。深く息を吸った。


地図を広げる。陰嶺まで、北東へ約二十日の道程。


師父が、二ヶ月前に何かを察していた。それでも白霜には何も言わなかった。巻き込みたくなかったのか。それとも、間に合うと思っていたのか。今となっては、聞けない。


この木箱の中身と、あの夜は、繋がっている。沈燼も、その先にいる。


そして——玄鷹という男が、どんな人間なのか。

それだけが、今の白霜にはわからなかった。



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