第一話
炎は声を上げない。
ただ、喰らう。
木を、石を、人を。あの夜、鉄嶺荘を包んだ火は、そういう種類のものだった。
感情もなく、理由も問わず、ただ在るものを在らしめなくなるための火だ。
◆
目が覚めた瞬間、窓の外が赤かった。
遠くから聞こえる怒号。煙の匂い。それから、廊下を近づいてくる足音が、いつもと違う間隔で刻まれていた。
おかしい、と思った。
気配を殺している人間の足音は、逆説的に、慣れた耳にはひどく目立つ。鉄嶺荘で十年、武を叩き込まれた体が、眠っている間も外の音を聞き続けていた。だが、反応が遅れる。体が言うことを聞かない。
思い出したのは、夕餉の茶。ほんのわずか、苦味が残っていた。
(…まさか)
寝台から転がり出て、壁に立てかけた刀を掴む。足がもつれた。立ち上がるだけで、息が荒い。それでも急がなくては、と本能が告げていた。
廊下へ飛び出した瞬間——血の匂いがした。
「趙廉!」
廊下の途中に、三師弟の趙廉が倒れている。喉が深く裂けていたが、目は辛うじて開いていた。
私に気づくと、かすかに口が動く。
「…姉、、ちゃ、、」
泡になって溢れる血。伸ばされた手が触れる寸前、その指から力が抜けた。
「しっかりして!趙廉!」
反応のない体をゆすっていると、奥から叫び声が上がる。
「白霜!走れっ!」
二師兄の李巍だった。剣を振るっている。この山荘で三番目に腕の立つ彼が、背後に回り込まれているのが見えた。
「李巍兄!後ろ——」
言い終える前に、刃が振り下ろされた。肩口から斜めに、深く。李巍の体が崩れていく。それでも彼は、最後までこちらを見ていた。
「…師父の元へ」
唇だけがそう動いた。私は走った。
山荘内は地獄のようだ。そこかしこで悲鳴と怒号が上がり、剣と剣がぶつかる音が響く。煙が廊下を這い、灯りが揺れていた。
廊下の角で、男と鉢合わせた。
晏の紋様の衣。振り上げられた刀。思考より前に体が動く。受けて、流し、壁に叩きつける。男が崩れた。さらに二、三人。打ち払い、突き飛ばし、道をこじ開けながら、ただ前へ進んだ。
ようやく辿り着いた師父の部屋の前。
嫌な予感に、足が止まった。
外から閂を掛けられている。内側からではない。外から。
(誰が)
三秒間、その閂を見つめた。
走り出したのは四秒目だった。
◆
閂を引き抜き、扉を蹴り開ける。
いつもは整然としている部屋の片隅。翁白麟老師は、すでに床に倒れていた。その姿が、頭の中でうまく処理できなかった。だって、師父はいつだって穏やかに座っているか、笑っているかだ。
「師父!」
駆け寄ろうとした私の手を、老師の細い指が制す。力は弱く、震えていた。
「…逃げなさい」
部屋の外では怒号が続いている。炎の爆ぜる音。誰かの悲鳴。
それなのに師父の声だけが、夜明け前のように静かだった。
「何があったのですか!師父!」
「早く…逃げなさい」
「私は鉄嶺荘の弟子です。敵が来たなら——」
「白霜」
名前を呼ばれた。それだけで、足が止まる。
「生き延びなさい。何があっても」
迷いのない声だった。すべてを決めてしまった人の声だった。
「それが、わしへの…最後の孝行だ」
「な、何を…」
「行き…なさ、い」
それきり、老師の目がゆっくりと落ちていった。光が遠のくように、だんだんと。
「師父!やだ…師父!」
背後から一撃が来たのは、その時だった。
背中を裂く刃。熱い、と思う間もなく膝が折れる。倒れながらも刀を振るうと、何かを引き裂く感触。でも、体が重い。視界が赤く滲んで、音が遠くなる。
それでも、目だけは開けていた。敵を見ずに、死ねるかと思った。
歪む視界。炎の向こうに、人影。逆光で顔は見えない。
ただ、その人影が、動かずにこちらを見ていた。
傍らの男が何か耳打ちし、人影が頷いた。
その時、光が揺れた。
炎に照らされ、人影の手元が浮かび上がる。
握られていたのは——荘主の牌だった。
黒檀の板に、銀で刻まれた鉄嶺の紋。翁白麟老師がいかなる時も手放さなかった、あの牌だ。
(なぜ、それをお前が)
天井が軋み、梁が落ちた。熱風が顔を殴る。
人影が踵を返した。左足をわずかに引きずりながら、炎の向こうへ。
「…うそ、」
あの歩き方を、私は知っている。
十年間、隣で見てきた。見間違えるはずがない。
石畳の上を、月明かりの下を、稽古場の朝を。いつも隣で、当たり前のように。
——沈燼。
意識が、途切れた。
◆
目を覚ました時、夜は終わっていた。
炎はもうないが、代わりに灰が降っていた。まるで雪のように静かに、白い粉が空から落ちてくる。
仰向けのまま、しばらく動けなかった。体が自分のものではないみたいだ。呼吸するたび、背中が裂ける。
生きている。
その事実が、ひどく重かった。
焼け落ちた梁、崩れた屋根、黒く炭化した柱。見慣れた庭は、もう形を留めていない。
鉄嶺荘は、消えていた。
ゆっくりと体を起こすと、足元に何かが当たった。焼け残った木片の下から、布の端が覗いている。恐る恐る引き抜くと、弟子服だった。その中に、人の形。末弟子の阿寧だ。顔の半分は煤で黒ずみ、抱き起こすと体がぼろっと崩れた。
声は出なかった。ただ、手が震えた。次の瞬間、吐いた。
胃の中はほとんど空だったのに、喉が焼けるほど吐き続けた。
風が吹き、灰が舞い上がる。その中に、師父の衣が見えた。崩れた梁の下、昨夜と同じ姿勢のまま、もう動かない。
地面に膝をつく。灰が肩に積もる。
「…師父」
声は、掠れて消えた。
周囲には、黒い塊がいくつも転がっている。兄弟弟子たちだった。
拾われた日から今日まで、剣を教えられ、字を教えられ、飯を食い、笑い、喧嘩し、語った。
そのすべてが、ここに埋まっていた。
「やだ…やだよぉ…なんで、皆…」
立ち上がれなかった。涙で視界が霞む。嗚咽が瓦礫の山に吸い込まれた。
どれくらいそうしていたか、わからない。やがて、山門へ続く石段が目に入った。
体が動かなかった。それでも、手を伸ばす。指先で地面を掴み、ずるりと体を引きずった。膝が擦れ、焼けた砂が皮膚に食い込む。石段に手をかけて、ようやく立ち上がった。足がもつれ、何度か転んだ。それでも歩いた。
山門を抜けると、外には馬車の轍が残っていた。
いくつも重なり、山道を下っている。組織的な襲撃だ。偶然ではない。鉄嶺荘の場所も、師父の部屋の位置も、すべて知っている者の動き。
裏切り。
その言葉が、ようやく形を持った。
それでも、信じられなかった。
十年。そのすべての中に、沈燼がいた。
よく笑う男だった。明るくて優しい、強い男だった。私の、人生だった。
(全部、嘘だったの)
わからない。ただ一つ、確かなことがある。
私は生き残った。師父は「生き延びなさい」と言った。それが最後の命令だった。
「絶対に生き延びて、仇を取ってみせる」
その日、凌白霜は死んだ。
代わりに生まれたのは、名前のない復讐者だった。




