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第一話


炎は声を上げない。

ただ、喰らう。


木を、石を、人を。あの夜、鉄嶺荘(てつれいそう)を包んだ火は、そういう種類のものだった。

感情もなく、理由も問わず、ただ在るものを在らしめなくなるための火だ。



目が覚めた瞬間、窓の外が赤かった。


遠くから聞こえる怒号。煙の匂い。それから、廊下を近づいてくる足音が、いつもと違う間隔で刻まれていた。


おかしい、と思った。


気配を殺している人間の足音は、逆説的に、慣れた耳にはひどく目立つ。鉄嶺荘で十年、武を叩き込まれた体が、眠っている間も外の音を聞き続けていた。だが、反応が遅れる。体が言うことを聞かない。


思い出したのは、夕餉の茶。ほんのわずか、苦味が残っていた。


(…まさか)


寝台から転がり出て、壁に立てかけた刀を掴む。足がもつれた。立ち上がるだけで、息が荒い。それでも急がなくては、と本能が告げていた。


廊下へ飛び出した瞬間——血の匂いがした。


「趙廉!」


廊下の途中に、三師弟の趙廉が倒れている。喉が深く裂けていたが、目は辛うじて開いていた。

私に気づくと、かすかに口が動く。


「…姉、、ちゃ、、」


泡になって溢れる血。伸ばされた手が触れる寸前、その指から力が抜けた。


「しっかりして!趙廉!」


反応のない体をゆすっていると、奥から叫び声が上がる。


「白霜!走れっ!」


二師兄の李巍(りわい)だった。剣を振るっている。この山荘で三番目に腕の立つ彼が、背後に回り込まれているのが見えた。


「李巍兄!後ろ——」


言い終える前に、刃が振り下ろされた。肩口から斜めに、深く。李巍の体が崩れていく。それでも彼は、最後までこちらを見ていた。


「…師父の元へ」


唇だけがそう動いた。私は走った。


山荘内は地獄のようだ。そこかしこで悲鳴と怒号が上がり、剣と剣がぶつかる音が響く。煙が廊下を這い、灯りが揺れていた。


廊下の角で、男と鉢合わせた。

えんの紋様の衣。振り上げられた刀。思考より前に体が動く。受けて、流し、壁に叩きつける。男が崩れた。さらに二、三人。打ち払い、突き飛ばし、道をこじ開けながら、ただ前へ進んだ。


ようやく辿り着いた師父の部屋の前。

嫌な予感に、足が止まった。


外からかんぬきを掛けられている。内側からではない。外から。


(誰が)


三秒間、その閂を見つめた。

走り出したのは四秒目だった。



閂を引き抜き、扉を蹴り開ける。

いつもは整然としている部屋の片隅。翁白麟老師(おうはくりんろうし)は、すでに床に倒れていた。その姿が、頭の中でうまく処理できなかった。だって、師父はいつだって穏やかに座っているか、笑っているかだ。


「師父!」


駆け寄ろうとした私の手を、老師の細い指が制す。力は弱く、震えていた。


「…逃げなさい」


部屋の外では怒号が続いている。炎の爆ぜる音。誰かの悲鳴。

それなのに師父の声だけが、夜明け前のように静かだった。


「何があったのですか!師父!」

「早く…逃げなさい」

「私は鉄嶺荘の弟子です。敵が来たなら——」

白霜(はくそう)


名前を呼ばれた。それだけで、足が止まる。


「生き延びなさい。何があっても」


迷いのない声だった。すべてを決めてしまった人の声だった。


「それが、わしへの…最後の孝行だ」

「な、何を…」

「行き…なさ、い」


それきり、老師の目がゆっくりと落ちていった。光が遠のくように、だんだんと。


「師父!やだ…師父!」


背後から一撃が来たのは、その時だった。

背中を裂く刃。熱い、と思う間もなく膝が折れる。倒れながらも刀を振るうと、何かを引き裂く感触。でも、体が重い。視界が赤く滲んで、音が遠くなる。


それでも、目だけは開けていた。敵を見ずに、死ねるかと思った。


歪む視界。炎の向こうに、人影。逆光で顔は見えない。

ただ、その人影が、動かずにこちらを見ていた。


傍らの男が何か耳打ちし、人影が頷いた。


その時、光が揺れた。

炎に照らされ、人影の手元が浮かび上がる。


握られていたのは——荘主の(はい)だった。


黒檀の板に、銀で刻まれた鉄嶺の紋。翁白麟老師がいかなる時も手放さなかった、あの牌だ。


(なぜ、それをお前が)


天井が軋み、梁が落ちた。熱風が顔を殴る。

人影が踵を返した。左足をわずかに引きずりながら、炎の向こうへ。


「…うそ、」


あの歩き方を、私は知っている。

十年間、隣で見てきた。見間違えるはずがない。

石畳の上を、月明かりの下を、稽古場の朝を。いつも隣で、当たり前のように。


——沈燼(しんじん)


意識が、途切れた。



目を覚ました時、夜は終わっていた。

炎はもうないが、代わりに灰が降っていた。まるで雪のように静かに、白い粉が空から落ちてくる。


仰向けのまま、しばらく動けなかった。体が自分のものではないみたいだ。呼吸するたび、背中が裂ける。


生きている。

その事実が、ひどく重かった。


焼け落ちた梁、崩れた屋根、黒く炭化した柱。見慣れた庭は、もう形を留めていない。

鉄嶺荘は、消えていた。


ゆっくりと体を起こすと、足元に何かが当たった。焼け残った木片の下から、布の端が覗いている。恐る恐る引き抜くと、弟子服だった。その中に、人の形。末弟子の阿寧だ。顔の半分は煤で黒ずみ、抱き起こすと体がぼろっと崩れた。


声は出なかった。ただ、手が震えた。次の瞬間、吐いた。

胃の中はほとんど空だったのに、喉が焼けるほど吐き続けた。


風が吹き、灰が舞い上がる。その中に、師父の衣が見えた。崩れた梁の下、昨夜と同じ姿勢のまま、もう動かない。


地面に膝をつく。灰が肩に積もる。


「…師父」


声は、掠れて消えた。


周囲には、黒い塊がいくつも転がっている。兄弟弟子たちだった。

拾われた日から今日まで、剣を教えられ、字を教えられ、飯を食い、笑い、喧嘩し、語った。

そのすべてが、ここに埋まっていた。


「やだ…やだよぉ…なんで、皆…」


立ち上がれなかった。涙で視界が霞む。嗚咽が瓦礫の山に吸い込まれた。


どれくらいそうしていたか、わからない。やがて、山門へ続く石段が目に入った。

体が動かなかった。それでも、手を伸ばす。指先で地面を掴み、ずるりと体を引きずった。膝が擦れ、焼けた砂が皮膚に食い込む。石段に手をかけて、ようやく立ち上がった。足がもつれ、何度か転んだ。それでも歩いた。


山門を抜けると、外には馬車の轍が残っていた。

いくつも重なり、山道を下っている。組織的な襲撃だ。偶然ではない。鉄嶺荘の場所も、師父の部屋の位置も、すべて知っている者の動き。


裏切り。

その言葉が、ようやく形を持った。


それでも、信じられなかった。

十年。そのすべての中に、沈燼がいた。

よく笑う男だった。明るくて優しい、強い男だった。私の、人生だった。


(全部、嘘だったの)


わからない。ただ一つ、確かなことがある。

私は生き残った。師父は「生き延びなさい」と言った。それが最後の命令だった。


「絶対に生き延びて、仇を取ってみせる」


その日、凌白霜は死んだ。

代わりに生まれたのは、名前のない復讐者だった。



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