知ってほしい①
椅子に座った愁衣さんは両手を肩の下あたりに置き、言った。
「こはるに、胸を揉んでほしいの」
「……」
「……」
——デジャヴか?
「どうしたの、こはる?」
「……ええと、愁衣さん。あなた、たしか先週も同じこと言ってませんでした?」
「えぇ、言ったわ。残念ながらバストアップには繋がらなかったけれど……あの日のことは、いい思い出になったわ」
「……それはよかった。じゃああらためてお返事させていただきますけど、お断りします」
「えぇ? どうして、こはる……?」
「愁衣さん。こう見えてわたしいま、委員会の仕事中なんだよ。冷たい言い方に聞こえたら申し訳ないけど、愁衣さんのお遊びに付き合ってる暇はないの。だからお受けできません。お帰りください」
「そんな……この間はあんなに簡単に引き受けてくれたのに。二つ返事で、一心不乱に私の胸を揉みしだいていたのに……」
「人に誤解を与えるような言い方をするな。この間は……それこそわたしのほうにちょっとした誤解があって、引き受けることになってしまっただけで。……しかも、結果的にバストアップには繋がらなかったんでしょ? だったら、わざわざまたやる意味ないじゃん」
ふるふると愁衣さんはゆっくり首を振る。
「たしかに、結局胸の大きさは変わらなかったわ。でも私の胸の中には、こはるの手のぬくもりが残った……」
「急に謎のポエムを発表するのやめて。そもそも手のぬくもりは胸の外側に残るだろ。とにかく、そういうよくわからないことを言う人の相手をする場所はここではないので、よそへ行ってください。ここは急病人とか、怪我人の手当てをするための場所です」
「でも、こはる。私も今日は急病人よ」
「え?」
「私、今日は発作が起きてしまって、ここに治してもらいにやってきたの」
と、愁衣さんはわたしに両手を差し出す。その手をそっと掴んでみる。
「つ、冷たっ! どうしたの!?」
「前に、初めてここでこはるに治療をしてもらったときと同じよ。緊張による低体温症。ついさっき、発症してしまって」
「それならそうと、なんですぐに言わないの!? よく見たら、こんなに震えて……。もう……とにかくベッドで横になりな」
「うふ。こはるとお話していたら楽しくて、つい言うのが遅くなってしまったわ。体は冷えても、心が温かったから……」
「なんか余裕ありそうだな。……っていうか、あれ? なんか、本当にわりと余裕ありそうだね。前はこの発作が起きたとき、もっと全身が氷みたいに冷たくなってたのに……」
えぇ、と愁衣さんは頷いて答える。
「まだ初期段階だから。本来この症状は、最初は手足の末端から始まって、時間とともに徐々に体の中心に向かって広がっていくの。いまはまだ手足だけ。だから普通に話をしたりはできるわ」
「そうだったんだ。ていうか、それならこの間も、もっと早い段階で保健室に行かせてもらえばよかったのに。あんなに悪くなるまで放っておいて……」
「だってあのときはまだ、こはると出会っていなかったから……」
「え?」
「保健室に行ったって、この症状を治すには特殊な処置が必要。いくら治療のためとはいえ、先生にそれを頼むのはさすがに抵抗があるわ。だからなかなか決心がつかなくて、迷っているうちに、あんなことに……。だけどいまはこはるがいるから、安心して保健室に来ることができるの。いつもありがとう、こはる」
「……」
「こはる?」
「……だ、だけどわたしだって、いつも必ず助けてあげられるとは限らないんだからね」
「えぇ、わかっているわ。勝手に頼りにしてしまって、ごめんなさい」
「じゃあ、とりあえず、ベッド行こう。それ治すってことはまた、服脱ぐんでしょ?」
「えぇ。でもまだ初期段階だから、この間みたいなことはしなくて大丈夫よ」
「え、そうなの?」
「うん。初期段階のときは、胸を揉んでもらえれば症状が治まるの」
胸を……。そうか、だからさっきもそんなこと言ってたのか。なぜ胸を揉めば低体温症が治るのか……気にはなるけど、訊かないことにする。また例の、謎の医学的解説が始まりそうだから。
愁衣さんと二人、ベッドのほうに移動する。
「えぇと……じゃあ、揉めばいいのね?」
「うふふ。こはるの手つき、なんだかいやらしい」
「黙れ。誰のためにやってると思ってるんだ」
「でも、このままじゃだめ。ブラウスを脱がないと」
「……結局、服は脱ぐわけね」
「えぇ。こはるも」
「わたしも!? なんで!? 胸って、愁衣さんの胸を揉むんじゃないの!?」
「そうだけど、手ではだめなの。こはるの胸を私の胸に密着させて、擦り合わせるように揉んでもらう必要があるのよ。たとえるなら、正面を向いてのおしくらまんじゅうみたいな感じで」
「……」
……なにそれ。いや、これまでの「治療」だって充分なにそれだったけど、今回のは輪をかけてなにそれ。なにそれオブなにそれ。どうして胸で胸を揉むと低体温症が治るのか。気にはなるけど以下略。
「胸部は人体の中で最も脂肪が柔らかく、かつ毛細血管が集中している部位。互いのその部分を密着させ、摩擦することで皮下脂肪の共振運動を——」
「訊いてないのに説明を始めないでください。……はぁ。わかったよ。どっちにしろその症状を治すには似たようなことをする必要があるわけだし、下まで脱がないだけましだと思うことにする」
「うふ。下も脱いでくれてもいいのよ?」
「誰が脱ぐか。はい、じゃあやるよ。立ったままでもいいよね?」
「えぇ。よろしくお願いするわね、こはる」
シャツを脱ぎ、ベッドのわきに愁衣さんと向き合って立つ。カーテンは厳重に、ぴっちり閉めた。こんなところ、誰にも見られるわけにはいかない。いや、いつもだってそうだけど。
「そういえば、愁衣さんは今日、何に緊張したの?」
「え?」
「だって、その発作ってたしか、何かに緊張すると出るんでしょ? 前はほら、古文で当てられるのが怖くて、とかなんとか……」
「嬉しいわ、こはる。私のこと、よく覚えていてくれて」
「メンタルの弱さに衝撃を受けたからね……。で、今回は何が原因なの?」
「明日、いよいよ体育で水泳の授業が始まるでしょう? みんなの前で水着を着ることを考えたら、あまりの恐怖で……」
「……なるほどね」
例の、胸の大きさ問題か……。やっぱり愁衣さんって、意外に細かいことでいろいろと気に病むタイプだよな。こうして一緒にいるときはあまりそれを感じないけど。
一緒にいるとき……。そもそも、わたしが愁衣さんと会うのはたいてい保健室で謎の「治療」をさせられるとき。考えてみればわたし、それ以外のときの愁衣さんがどんなかって、あんまり知らないな……。
「どうしたの、こはる?」
「……ううん、なんでも。それじゃ、始めよっか」
愁衣さんの胸と自分の胸を触れ合わせる。たしかに、こうして並べてみるとサイズはわたしのほうが少し大きいかもしれない。だけど、それ以外のあらゆる点で負けている。……いや、胸の勝ち負けって何を基準に決めるものかはわからないけど。
でも実際……、下着を取ったとしても重力に負けずツンと上を向いていそうな形の良さ、見るからにつるつる、ぷるぷるとしたどこか生命力を感じる質感、白く透き通るような肌の綺麗さも相まって、まるでひとつの芸術品を前にしているかのよう……。だけどサイズだけは勝っている、という事実が、むしろ逆になんだか哀れに思えてくる。小学校のとき、すべてが満点の習字の作品の横に、「元気に書けていますね」とだけ評価を書かれた自分の作品が並べられていたときのような……。
「こはる、もっとくっついて」
「え。……あぁ、はい」
と、さらに一歩寄る。
……っていうか、ふと思ったけど、冷静に考えて「胸で胸を揉む」って、どうやるんだ? この状態のまま、上下左右に上半身を揺らす感じでいいのか?
「ここから、軽く押しつけたり、体を揺らしたりして、優しく擦り合わせるようにしてくれればいいわ」
折よく、わたしの脳内の疑問が聞こえたかのように愁衣さんから指示がくる。それって「揉む」って言うのかな? ……まぁ、いいかどうでも。——っていうか、そうだ、それよりも。
「愁衣さん。先に言っとくけど、これやってるとき、わたしの名前を呼ぶのは禁止ね」
「えぇ? じゃあ、気分が盛り上がってきたとき、何て叫べば……」
「まず盛り上がらないでほしいんですけど……。いいですか愁衣さん、これはあくまであなたの疾患を治すための治療なんですから、真面目に取り組んでください。名前もそうだし、『アン』とか『ウン』みたいな妙な声もなるべく慎んで」
「わかりました、先生……気を付けます……」
「誰が先生だ。はい、では始めますよ」
言われたとおり、体を軽く揺らすようにして自分の胸を愁衣さんの胸に擦り合わせていく。上半身の位置を固定するために手はお互いの肩の辺りに置かれている。この間の「裸で抱きしめる」よりはましだと思って始めたけど、この体勢、抱きしめ合ってるのとほぼ変わらなくないか? なんならこの間と違って、愁衣さんの顔が正面を向いている分、むしろなんか前より恥ずかしいんですけど……。
引いた目で見ている自分が「お前、なにやってんの?」と問いかけてくる声が聞こえる。わたしはいまなにをやっているのか。それはわたし自身にもわからない。ただ「これは治療なのだ」という免罪符をぎゅっと握りしめ、わたしは自分の胸を愁衣さんの胸に擦りつけつづける。
むにゅ、むにゅ、とマシュマロめいた肉の感触が胸元で蠢く。愁衣さんの胸、ほんと柔らかいな。いや、ほんとに。たぶん、肌が綺麗できめ細かいから余計そう感じられる部分もあるんだろう。いったい、何を食べたらそうなれるのか。相変わらずさっきから、すっきりとした甘いいい匂いもずっとしてるし。なんだろう、わたしは愁衣さんの胸に接するたびに、女子としての敗北を感じている気がする……。
——と、ふいに愁衣さんの手がわたしの首の後ろに回された。ひやりとした感触。
「——え、ちょ、どうしたの、愁衣さん?」
「ご、ごめんなさい、こはる。その……私、ちょっと良くなってきてしまって、立っているのが……」
「……」
何が「良くなってきた」のか。怖いから訊かないでおこう。こちらにもたれかかりがちになる愁衣さんの体を支えるために、わたしも手を愁衣さんの背中に回す。結局、いまだかつてないほどに密着して抱きしめ合う形になってしまった。いまや胸だけでなくおたがいの上半身全体が緩やかに擦りつけ合わされている状態。手足以外は低体温症になっていない愁衣さんの温かい体温が、ぬらぬらと伝わってくる。「ねぇ、お前なにやっての?」という脳内の声に「ち、治療だよ!」と脳内で返す。
「ん、ン……」
愁衣さんの口から微かな声が洩れる。声を我慢しているのだろうけど、耳元に当たる熱い吐息まじりの声は、かえっていつもより艶めかしく聞こえる。いまとなっては、声を出すのを禁じたことは失敗だった。あぁ、神様……わたしの選択はなぜいつも裏目に出てしまうのでしょう……。
ふと、わたしの首に回った愁衣さんの手から冷たさが消えたのを感じた。
「う、愁衣さん。そろそろ、大丈夫?」
「えぇ……」
「あ、じゃあ、もう手離してもらってもいいかな……?」
「えぇ……」
「……あの、愁衣さん? 手を……」
「えぇ……」
「……」
愁衣さんの手を掴み、強制的に引き離す。「痛い痛い痛い!」と叫びながら、愁衣さんはよろよろとベッドの上にお尻をついた。
「もう、こはるったら。乱暴なんだから……」
「なぜ胸もとを隠しながら言う……? 愁衣さんがなかなか離れないからでしょ。で、もう大丈夫なんだよね。ちゃんと良くなった?」
「えぇ、ありがとう、こはる。……今日も素敵だったわ」
「治療が」と勝手に脳内補完して、そうですか、と頷く。シャツを着ようと袖に腕を通すと、愁衣さんがわたしの胸もとをじっと見ているのに気が付いた。
「……なに? また、大きさの話しようとしてる?」
「あぁ、ごめんなさい、違うの。……こはるって、いつも可愛い下着を着けているなと思って」
「え? そう……かな、……ありがと」
「そういう下着って、普段どこで買っているの?」
「どこって……普通に下着屋さんだけど。愁衣さんは? 普段どこで買ってるの?」
「私は、もっぱら通販ね」
「そうなんだ。……でも、ネットだと実際に着けられないから、たまに困らない? ほら、サイズが変わったときとかさ」
「サイズが……ほぼ変わらないのよ……」
「し、失礼しました……」
「あと私、お店だとどうしても緊張してしまうの。店員の人とうまくお話ができなくて……」
「……なるほど」
店員と話すのはわたしも得意なわけじゃないから、気持ちはわかる。それに、さっきも思ったけど、愁衣さんって意外と細かいことをいろいろ気にする性格みたいだから、ああいうお店の雰囲気が人より苦手なんだろうな……。
「本当は私も、お店で直接見て選んでみたいなとは思うのだけど……。ほら、ネットの商品画像だけで判断して買うと、いざ届いて見たら『あれ?』っていうこと、あるでしょう?」
「あぁ、実物見たら写真とイメージ違った、ってよくあるよね」
「そう。だからネットで可愛いのを見つけても、冒険するのが怖くて、ついいつもと同じシンプルなものばかり買ってしまうのよね」
そう言って愁衣さんは形の良い眉をハの字にして笑う。なるほどね、そう言われて思い返してみると、これまで見てきた愁衣さんの下着ってたしかに、装飾の少ないシンプルなものばかりだった気がする。この短期間でそう判断するに足るだけの下着姿が脳内にイメージできてしまったことの異常性はいったん置いておくとして、とにかく、それにはそういう事情があったのか。
「でも、よかったらこはるが普段行っているというお店、どこにあるのか教えてもらえる? 私も、いつか勇気がもてたら行ってみたいわ」
「うん、それはいいけど……っていうか、だったら」
愁衣さんの、保健室以外での姿。その提案をしたのはきっと、さっきふと思ったことが頭の中に残っていたのもあったのだろう。
「今日このあと、一緒に行ってみる?」
「え……? このあと、って……?」
「今日の放課後。そのお店、学校からも近いからさ、寄ってもそんなに帰り遅くならないと思うから」
「……」
口を小さく開けたまま、愁衣さんはフリーズしてしまった。やっぱり、今日の放課後は少し唐突だったかな。一人では行きづらくても、二人ならそんなに緊張せずに買い物を楽しめるんじゃないかと思ったんだけど、そもそも苦手と言っている場所に行こうと誘うのはちょっとデリカシーがなかったか? 愁衣さん、何と言って断ろうか悩んでいるのかも。かえって申し訳ないことをしてしまった……。
「あぁ……ごめん、愁衣さん。急に変なこと言って。嫌だったら——」
「行く」
「え」
「行く。行くわ。行きましょう。行かないと。行くならば。行け——」
「わ、わかった、わかった。そんな『行く』の五段活用みたいな感じで答えなくても……。じゃあ、授業終わったら一緒に行こう。愁衣さん、今日なにか掃除当番とかある?」
「いいえ、ないわ!! あってもサボる!!」
「サボるな。よかった、じゃあすぐに出られるね。わたし、放課後に先生に提出するものあるから、それだけ出したら出発しよう。校門の前に集合でいい?」
「えぇ……」
愁衣さんは祈りを捧げるように両手を組み、こくんと頷く。なんだか目がキラキラしているように見える。結局行くことになったけど、とりあえず嫌がっている様子はなさそうだ。愁衣さんとしても、ちょうど新しい下着が欲しいタイミングだったのかな。
「それじゃ愁衣さん、早く教室戻りなよ。お昼、まだなんでしょ?」
「えぇ。……でもその前に、こはる。一つお願いがあるのだけど……」
「うん、なに?」
「その、こはるとお出かけすることを考えたら緊張してきてしまって、また手足が……。申し訳ないのだけどいまの治療、もう一度してもらえる……?」
「えぇー……」
……まぁ、しょうがない。誘ったのはわたしなんだし。それにしても、放課後にちょっと出かけるくらいでそんなに緊張するなんて……
愁衣さん、お店で買い物をするのが相当苦手なんだな。
(②へ続く)
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次回第10話は、9月13日(日)20:00に投稿予定です。
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