握ってほしい(前編)
ガタゴトと不規則に揺れるバスの車中は、ガヤガヤと賑やかな音に満ちている。カードゲームに興じる男子たちの声、女子たちがSNSに上げる写真を撮り合うシャッター音、誰かのスマホから流れてくる曲名を知らない流行りの曲のサビに、時おり「おい、寝ている人もいるんだから少し静かにしろ!」と先生が怒鳴る声——。
それらをぼんやり聞き流しながら、窓枠に肘をつき外に目をやる。青く晴れ渡った空は、絶好の遠足日和だ——と、つい「遠足」という言葉を使ってしまったけれど、訂正する気はあまり起きない。わたしたちは今日、「校外学習」という名の遠足に来ているのだ。
「よーし。全員、バスを降りて外に整列しろ」
バスが目的地に到着した。先生の指示に、みんなはそれぞれに席を立ち、荷物を手に乗降口へ向かう。程度の差こそあれ、その顔には誰も、わくわく、うきうきしたような笑顔を浮かべている。それもそのはず、ここからは各班ごとの自由行動の時間になるからだ。
空いた隙間から列に加わり、わたしも乗降口に向かう。バスを降り、先に降りていた人たちが集まり出している辺りに向かおうとしたところで、「日向」と後ろから声をかけられた。
「実は一人、乗り物酔いで気分が悪いってバスで休んでいるやつがいてな。悪いんだが、少しついててやってくれないか? 班のみんなには私から言っておくから」
「はあ……わかりました」
先生に言われ、バスに戻る。奥のほうの座席で一人、顔を伏せて座っている愁衣さんの姿があった。誰かは聞かなかったけど、まぁ、そんな気はした。
「大丈夫、愁衣さん?」
「……こはる?」
「先生に、ついててくれって頼まれて。……大丈夫? 乗り物酔いだって?」
「……」
「辛いよね……わたしも、小さいころはよく乗り物酔いする子どもだったからさ。気持ちわかるよ。もし、してほしいことあったら言って。何か飲み物とか、買ってこようか?」
「じ、じゃあ……こはる……」
「うん、なに?」
「わ、私を……」
「うん」
「私を、めちゃくちゃにして……」
「……」
「……」
「——うん?」
「それじゃ、パンツ脱ぐわね……」
「なんでッ!? いや待ってよ、意味わからないから!! とりあえず、ちゃんと説明してッ!!」
「わ、わかったわ……じゃあこはる、私の手を握っていてくれる……?」
「手を?」
「えぇ……。立ったままではなんだし、よかったら隣に座って……」
言われたとおり隣の座席に座り、愁衣さんの右手を左手で握る。柔らかい手は少し熱を帯びているように感じた。愁衣さんはほっとしたように、ふぅ、と息をつく。
「ありがとう、こはる。少し落ち着いたわ」
「う、うん。それで、いったいどうしたの?」
「私、こういった大型バスに乗ると、必ず発症してしまう持病があるのよ」
「前々から思ってたけど、愁衣さんってほんと学校生活向いてないよね」
「私、大型バスに長時間乗っていると、性欲が異常に高まってしまうの」
「せ、せいょ……」
「大型バス特有の不規則な揺れとエンジンの低周波が、三半規管と骨盤神経を同時に刺激し、通常なら『吐き気』となるはずの信号が、神経の混線によって骨盤内のうっ血へと誤変換されてしまう……。いまの私は、発情した雌猫状態……」
「……は、はぁ」
「……というわけで、こはる。私を抱いて」
「無茶言うな。……そんなリスクを抱えてるなら、どうして今日わざわざ来たの? 学校に理由言って、休ませてもらえばよかったのに……」
「この症状を抑える薬があるのよ。今朝それを飲んできたから大丈夫だと思ったのだけど、途中で効果が切れてしまったみたいね。酔い止めがあまり効かないときがあるのと同じように」
「……どうにかして治す方法はないの?」
「あるわ。誰かにこうして手を握っていてもらうことで、過覚醒状態になった脳にオキシトシンを注入しつづけること。抗ストレスホルモンで脳の興奮を中和していくの」
「……なるほど。そのために手を……」
「えぇ。本当はもっと別の部分を触ってほしかったのに、我慢して手を差し出したのよ。そんな私を褒めてちょうだい」
「いや、最初なんかとんでもないこと言ってただろ、あんた。……じゃあ、しばらくこうしているしかないね。要するに、手を握ってればそのうち治るんでしょ?」
「えぇ。でも、せっかくの自由行動なのに……」
「しかたないよ。良くなってから行けばいいじゃん」
「でもこの症状、通常治るのに三時間はかかるのよ」
「三時間……は、けっこう長いね。自由行動の時間、ほぼ終わっちゃう……」
「えぇ……だからこはる、これ以上私には構わず、みんなに合流してくれていいわ」
「なに言ってんの。愁衣さんを置いて、一人で遊びになんて行けるわけないでしょ」
「こはる……」
こんな状態で放っておいて、何かヤバい事件でも起こされたら嫌だし……。
「そうだわ。だったら、私たち二人で遊びに行かない?」
「えぇ……いやぁ、じっとしておいたほうがいいでしょ……」
「平気よ。こはるに手を握っておいてもらえれば症状の発現を抑えられるし……せっかくの遠足、私も楽しみたいのよ」
「遠足っていうか校外学習ね、一応。うーん……まぁ気持ちはわかるけど……でもなぁ……」
「お願い、こはる」
「うぅーん……」
「閉め切られたバスの中で二人きり……こんな状態で長時間一緒にいたら、いまの私は我慢できなくなって、こはるを襲ってしまうかもしれな——」
「外に行きましょう。出かけましょう、二人で。えぇ」
◇◇◇
「わぁ……」
目の前に立つ巨大な朱色の門。そこを一歩くぐると広がる、異国情緒あふれる街並み。極彩色の看板には漢字や漢字に似た見慣れない文字。焼いたような揚げたような焦げたような、「温度」をもった匂いが鼻腔をくすぐる。おもちゃ箱をひっくり返したような、とはよく言うけれど、人も物も空気も、平日なのにまるで縁日のような賑やかさがそこにあった。
「すごいわ……これが中華街なのね」
「愁衣さん、来るの初めて?」
「えぇ。こはるは来たことがあるのね」
「うん。……っていっても、すごく小さいころに一回来たきりだけど」
「じゃあ私たち、ほぼ初めて同士ということね。私、初めてがこはるとでとても光栄よ。おたがいうまくできないかもしれないけれど、焦らずに時間をかけて、ゆっくりじっくり楽しみましょうね」
「——うん? ……う、うん。……中華街の話だよね?」
二人、手を繋いだまま歩き出す。愁衣さんは瞳に輝きを宿らせて、周囲の店や物に物珍しげにキョロキョロと目をやっている。せわしなく動く頭は小鳥のようで、ちょっと可愛い。一応、校外学習的には、開港都市の歴史に触れ、異文化理解と国際交流をうんたらかんたらという目的があるようなのだが、きっと他のみんなもこんな感じで、そんなものは忘れてただ観光を楽しんでいるのだろう。
「——さて、じゃあまずはどこかでお昼ごはん食べようか。愁衣さんも、お腹空いてるでしょ?」
「うん、そうしましょう。じゃあえぇと……あ、あそこなんてどうかしら?」
と愁衣さんが指さしたのは、赤い柱とでかでかとした金文字の看板が目を引く、いかにも「ザ・中華街」といった外観のお店だった。中は広そうだし、いろいろなメニューが注文できそうだ。「うん、いいかも」と言いかけて、はっと目を見開く。
「愁衣さん、ちょっと」
愁衣さんを連れて、路地に身を潜めた。物陰からそっと外を窺う。
「こ、こはる……どうしたの、いきなり?」
「いや……いま、クラスの子がいたから」
「そうなの? ……どこ?」
「ちょっ、だめ。愁衣さん、顔引っ込めて」
「えぇ? ……いったいどうしたのよ、こはる?」
「愁衣さん……わたしたちいま、手を繋いでるんだよ?」
「? ……えぇ、そうね」
「こんなところをクラスの子に見られたら、どう思われると思う?」
「……」
「……」
「仲良さそうだな、って……」
「済まないよ、それじゃ! 愁衣さん、高校生という生物のゴシップ欲をなめすぎだよ! 二人で手を繋いで歩いてるところなんて見られたら間違いなく、想像を妄想で上塗りしたような、あらぬ噂を立てられるよ!」
「そ、そうかしら……考えすぎだと思うけれど……」
「考えてもみて? そもそもわたしたち、普段クラスで特別よく話す間柄でもないのに、そんな二人が突然、仲良く手を繋いで歩いてるんだよ? しかも本来、それぞれ所属している班があるはずなのに、そこから離れて……。その状況……なんていうか、だいぶ『お忍び感』があると思わない?」
「まぁ……そう言われたら、そうかもしれないけれど……」
「それに——」
と言いかけたところで、
「なー、メシどこにするー? いいかげん決めようぜー」
「だからー、ウチはずっとパンダまんがいいって言ってんじゃん」
「それメインで食うやつじゃねーだろ。いっそ、北京ダックとかどうよ?」
「あんたの奢りならいいけどー? あたしはタピオカが飲めればなんでも」
「え、タピオカって中華街じゃまだ流行ってんの?」
——通り過ぎていく男女の一団。あれもクラスメイト。ふぅ、危なかった。すんでのところで愁衣さんを連れてさらに路地の奥に隠れたけど、見つからなかったみたいだ……。
「こ、こはる……」
「あ。ごめん、愁衣さん……壁に押し付けるような形になっちゃって……」
「こはる、私……」
愁衣さんがじっとわたしを見つめてくる。どこかとろりとした、熱っぽい目元……。はっ、しまった、手——
と思ったときには、愁衣さんは勢いよくわたしに抱きついてきていた。
「こはる、こはる——!」
ハァハァと、熱い吐息が耳元にかかる。
「う、愁衣さ——落ち着いて! ほら、手! 手、繋いで!」
「いや」
「なんでだよッ!! 早く繋げ!! この……逃げるなッ!!」
背中に回った手をなんとか掴み、どうにか事なきを得た。二人して、さっきとは違った意味でハァハァと息を切らす。
「ごめんなさい、こはる……私、手を繋ごうとしたのだけど、うまく繋げなくて……」
「いや、むしろ拒否してただろ、あんた。……とにかく、この辺りは大通りに近いから危険だね。もっと裏のほうに行こう」
愁衣さんと二人、路地裏を進んでいく。表通りから一転、幅の細い道は建物との距離が近く、そこに一斗缶やビールケースが置かれているので歩きづらい。細く切り取られた空はさっきまで見ていた空と同じとは思えないほど暗く感じる。どこか深い森に迷い込んでしまったかのような感覚を覚えた。
提案したのはわたしだけど、こんなところに飲食店なんてあるわけない。やっぱり引き返そうかと思いはじめたところで、「こはる、あれ」と愁衣さんが指を差した。
示されたほうを見ると、色あせた赤い軒が見えた。看板には掠れた文字で「拉麺」と書いてある。
「ラーメン……」
「ここにする?」
正直、普段なら入らないような店だけど、ここなら間違いなく他のクラスメイトとのバッティングを回避できる。なによりもうお腹がぺこぺこだ。
「……そうしようか」
と入ってみることにした。
ガラガラと引き戸を開け、中に入る。予想どおりというか、狭い店内には客がほとんど入っていなかった。端のテーブル席に地元の人っぽいおじさんの二人連れとカウンターに若い男の人が一人。その一人がちょうど席を立って出ていったので、わたしたち以外に客は一組だけとなった。愁衣さんに手を引っ張られる形で、カウンター席に並んで座る。
「雰囲気のある、素敵なお店ね」
「……そう、だね」
本心で言っているのか、店の人に気を遣ってそう言っているのかはわからないけど、とりあえず合わせておく。愁衣さんはメニューにひと通り目を走らせると、「何がいい?」とわたしに訊いてくる。
「……まぁ、普通にラーメンかな」
「店員さん、ラーメンを一つ」
愁衣さんは笑顔でそう注文する。
「……一つ? 愁衣さんは?」
「わたしもラーメンを頂くわ」
「じゃあ注文しないと」
「ううん、違うの。こはるのラーメンを少しちょうだい」
「え……? どういう……?」
「だって私たち、ほら」
と愁衣さんは繋いだ右手を軽く挙げてみせる。
「これじゃ自分で食べられないから、こはるが私に食べさせて」
「え、えぇ……? いや、食べてる間くらい……」
「だめよ。そうしたらまた、さっきのようになってしまうかもしれないわ」
「そうだけど……ちょっとくらい我慢できないの?」
「……こはるは、私と同じ食べ物をシェアするのが嫌なの……?」
「そういう問題じゃなくて……単純に面倒くさいから……」
「手を離したら、私、ラーメンじゃなくこはるを食べたくなってしまうかも——」
「シェアしましょう! どうぞ、わたしのラーメンを一緒に食べてください!」
注文したラーメンはすぐにやってきた。黄色い麺に丸いチャーシュー、細く切ったメンマが数本と、四角い海苔がちょこんとどんぶりの縁に添えらえている。その縁にぐるりと配された赤い渦巻き模様。いかにも「ザ・ラーメン」といった感じのラーメン。
わたしは箸を取り、麺を少量掬った。そして「じゃあ、はい」と愁衣さんのほうに向けて掲げる。
「先にこはるが食べて。こはるの噛み跡の残った麺を私は食べたいから」
「お前、本当にいま性欲抑えられてるんだよな……?」
いただきます、とわたしはいま掬った麺をチロチロと啜る。——と、
「えっ、美味しい……!」
もちもちとした弾力、絶妙な歯ごたえ、よく絡んだスープの旨味が口いっぱいに広がっていく。なにこれ……。失礼ながら、見た目とは裏腹に、信じられないくらい美味しいラーメンだ。
「こはる、私にも」
「あ、あぁ、ごめん」
思わずレンゲでスープまで啜り出していた手を止め、箸に持ち替える。どんぶりを愁衣さんのほうに寄せ、掬った麺を愁衣さんの口元に運ぶ。
「本当、とっても美味しいわね」
その味に愁衣さんも感動した様子だった。おいしい、おいしい、と連呼しながら交互に麺を啜っていく。
「こはる、ちょっと熱いからフーフーして」
「自分でやれよ。……っていうか、もうそんなに熱くないでしょ」
「熱いの。熱かったことにいま気づいたの。お願いこはる、フーフーして。一生のお願い」
「一生のお願い、フランクに使いすぎだろ……。もう、しょうがないな……」
と、わたしは麺に息を吹きかける。まるで病人の看護だ。……まぁ、病人の看護なんだけど。冷ました麺を啜った病人は「美味しい」と幸せそうに笑っていた。
麺をあらかた食べ終えた。一人分を二人でシェアしたのだから量的にはいまいち物足りないけど、味には本当に大満足だ。「美味しかったね」と言い合っていると、ふいに目の前に竹製の容器が置かれた。蒸籠だ。見上げると、店のおじさんの笑顔があった。
「あんまり美味しい美味しい言って食べてくれるから、それサービス。よかったら、食べてって」
「あ……ありがとうございます!」
「おーい、大将! こっちにも何かサービス寄越してくれよぉ!」
「るせぇ! お前らはさっさと勘定払え! 毎日毎日ツケで飲み食いしに来やがって!」
そんな会話を耳にしながら、蒸籠の蓋を取る。湯気の中から現れたのは、きれいな薄皮に包まれた四つの小籠包だった。
「美味しそうね」
「うん。さっきはわたしから食べたから、今度は愁衣さん先に食べて」
小籠包を箸で持ち上げ、愁衣さんの口へ運ぶ。——と、
「きゃあっ」
「あ、ごめん! まだ熱かった!?」
「ううん、大丈夫。あまりの美味しさに、つい……。これすごいわ、こはる。ぷるぷるとしたヒダが舌の上で柔らかく跳ねて……薄い皮の奥から、ドロッとした、濃厚な熱いものが溢れ出てきて口いっぱいに……あぁ、すごいわこはる……こはる……あぁ……」
「……小籠包の感想だよね?」
あと、食べながら人の名前を連呼するのやめろ。
(つづく)
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お読みいただき、ありがとうございました。
お話の続きは明日31日(月)18時に投稿予定です。
よろしくお願いいたします。




