満たしてほしい
休み時間。廊下を歩いていると、ふいに後ろから、
「日向さん」
「う、愁衣さん……」
思わず少し身を引いてしまう。何の用かと身構えていると、「ふふ」と笑って愁衣さんは言った。
「そう警戒しないで。大丈夫よ、今日は私、元気だから」
そう言う愁衣さんの顔色はたしかに良さそうだ。手足が細かく震えてもいないし、声もいつもの透き通った美声。元気なのは本当らしい。……けれど、安心するのはまだ早い。彼女には過去二回の実績がある。またとんでもない要求をしてくるかもしれない。……そういえば、愁衣さんに保健室以外で声をかけられるのは初めてだ——
「——いったい、何の目的で……」
「日向さん、落ち着いて。すべて声に出ているわ。本当に大丈夫よ。ほら、このとおり。私、今日は何の発作も起こしていないし、日向さんに非常識な治療を要求することもないから」
そう言って愁衣さんは両手で小さくガッツポーズを作るような仕草をする。正直、可愛い。スタイルも良いし喋り方も品があって……本当にこの子、あの妙な「持病」と「治療」さえなければ、非の打ち所のない完璧美少女なのに……。
「不憫……」
「ひ、日向さん? 私は何に同情されているの?」
「……なんでも。とりあえず、愁衣さんがこれまでの『治療』をちゃんと『非常識』って認識してくれていたことがわかって、なんか安心したよ」
「もちろんよ。……本当に、日向さんには二度も多大なる迷惑をおかけしてしまって……心から、申し訳ないと思っているわ」
「んー……まぁ、済んだことだし……。それに、悪いのは病気であって愁衣さん自身に責任があるわけじゃないから、もうそんなに謝ってくれなくていいよ」
「日向さん……!」
「だ、だからって、今後も気軽に治療を頼みにきていいって言ってるわけじゃないからね! わたしにだってできることとできないことがあるんだから、ちょっとは遠慮してよ!」
「えぇ、わかってる。胸に刻むわ」
そう言って、大事なものをそっとしまい込むように胸に手を置く姿は、羽が生えたら天使に見えそう。うぅむ、美少女だ。
「……それで? 用は何なの?」
「えぇ。実は、日向さんに二つお願いがあって、声をかけたの」
「お願い……」しかも二つ……。
「だ、大丈夫よ。ほら、元気、元気」
「いや、元気なのはもうわかったから。……それで、その『お願い』というのは……?」
「えぇ、……実はね、その……」
と、珍しく愁衣さんは言い淀む。これまで「裸で抱きしめろ」「唾を飲ませろ」と恥ずかしげもなく言ってのけてきた彼女が、こんなにも言いづらそうに……。突如として不穏な予感。やっぱり話を聞いたのは間違いだったのか……? 今度はいったい、どんな無理難題を……。
小さくすっと息を吸うと、決心したように愁衣さんは言った。
「ひ、日向さんのことを、下のお名前で呼ばせてほしいの……!」
「……」
「……」
「……へ?」
愁衣さんは少し顎を引き、長いまつ毛の間から覗くようにわたしの顔を不安げに見つめる。
「やっぱり……だめかしら……?」
「え……、いや、べつに……いい、けど……」
「ほ、本当に……!?」
「え、う、うん……」
花が咲きかけた蕾のように愁衣さんは小さく身を震わす。次の瞬間、その花弁がパッと開いた。
「嬉しい……! ありがとう、日向さん……いえ、こはる!」
「え、と、あぁ……うん」
呆気にとられすぎるあまり、ぼんやりした返事ばかり繰り返してしまう。え、なに? お願いって、そんなことなの……?
「あ、ごめんなさい。私ったら、ついはしゃいで……。こはるちゃん、とかのほうがよかったかしら……?」
「え、いや……べつに、お好きなように……」
「こはるさん?」
「……まぁ、でもいいし」
「こはる様……」
「な、なんでどんどん卑屈な感じになっていくの? 好きなように呼んでくれていいってば。……いやまぁ、『様』は嫌だけど」
「じゃあやっぱり、こはるって呼ぶわね。うふふ……こはる」
こはる、こはる、と続けて呼んでくる声に、はいはいと適当に返事を返す。……なんか、調子狂うな。いったいどんなとんでもないことを要求されるのかと思っていたけど、まさかこんなことだったとは。……そういえば愁衣さんこの間、友だちがあまりできないみたいなことを言ってたけど、いままで名前で呼び合えるような友だちが少なかったのかもしれないな。
愁衣さん、それにしても嬉しそう。そんな顔をされると、なんだかわたしまで嬉しくなってくる。……なんか、過去二回の出来事が強烈すぎて、愁衣さんに対してつい身構えるようになってしまっていたけど、こうして素の状態で接してみたら本当にただの可愛い女の子だ。相手のことをまだよく知りもしないのに勝手に色眼鏡で見て……よくないな、ちょっと反省。
「あ、そういえば、愁衣さん」
「なあに、こはる? うふふ」
顔の近くに音符でも飛んでいそうな上機嫌で返事をする愁衣さんは、これまた可愛い。
「さっき、お願い二つあるって言ってたけど、もう一つは何?」
きっとまた、わたしにとってはたいしたことのない内容なのだろう。この程度のことでいいのなら、頼みを聞いてあげて愁衣さんをもっと喜ばせてあげたい。
「え? あぁ、そうだったわね。ええと……」
と、愁衣さんは手に持った小ぶりなトートバッグにおもむろに手を入れる。中から出てきたのは、ご飯一膳分くらい入りそうな大きさのタッパーだった。
「……タッパー?」
「えぇ。このタッパーをね、こはるの唾液で満たしてほしいの」
「なに言ってんだ、お前」
「……」
「……」
「……? ええと、このタッパーに、こはるの唾液を目一杯入れてほし——」
「聞こえてるし理解もしてるよ!! 理解した上でまったく理解できないから訊いてるんだよ!! なんでまた唾液!? なんでタッパー!?」
「この間、保健室でこはるの唾液を飲ませてもらったでしょう?」
「——、う、愁衣さん、ここ廊下だから、もうちょっと声落として……」
言われたとおり、声のトーンを落として愁衣さんは続ける。
「あの日はおかげで助かったわ。でも同時に、またこはるに迷惑をかけることにもなってしまった。今後、また似たようなことがあったときのために、あらかじめ唾液入りのタッパーを用意しておけば、その都度こはるの手を煩わせずに済むのではないかと考えたの」
「……ま、まぁ、その心遣いにはひとまず感謝するよ。……でもさ、この間もあのあと気が付いたんだけど、唾液ってべつに他人なら誰のでもいいんでしょ? だったらわたしじゃなくて、養護の東雲先生とかに頼めば——」
「こはるのじゃなきゃだめなのよ」
「なんでだよッ!」
「あの日も言ったとおり、こはるの唾液はすごいのよ。この間は、とりあえず最低限、発表の間だけ声が使えるようになればいいかなと思って『二滴』と言ったけれど、通常あの症状はその程度では完全に良くならないの。それをこはるの唾液は、そのたった二滴ですっかり治してしまったのだから」
あぁ……そういえばこの間も、なんかそんなようなこと言ってたな……。
「その前……こはるに体を温めてもらったときも思ったのだけど、あのときもいつもより効果が出るのが早かった。こはるの治療は私によく効くの。私たち、体の相性がぴったりなのよ」
「言い方に気を付けろよ、お前」
……しかし、だからってタッパーに唾液を入れて持ち歩こうだなんて、どんな発想だ。やっぱり愁衣さんは愁衣さんだ。さようなら、天使のような美少女……。
「……ん、あれ? でも、たしか唾液って、愁衣さんの口に入る前に他のものに触れちゃいけないんじゃなかったっけ?」
「えぇ、通常は。でも、こはるの唾液なら話は別よ。あれだけ効き目のある唾液なら、きっとそれでも充分な効果を発揮してくれるはず。こはるの唾……こはツバなら」
「人の唾液に名前をつけるな」
「そういうわけだから、あらためてお願いするわ。こはる、このタッパーに唾液を入れてちょうだい」
「断る」
「え……どう、して……?」
「だからなんで毎回そんな意外そうな顔ができるんだよ!! 普通に考えて嫌でしょ、そんなのっ!!」
「そんな……だって下の名前で呼ぶのは、あんなに簡単に了承してくれたじゃない?」
「どうしてそれとこれとを同列で考えてるわけ!? その二つじゃ天と地ほどの難易度の差があるよ!! 雲泥だよ!!」
「同列じゃないわ。だから、初めにかなり無理めなお願いをして、断られたあとで本来の小さな要求を通すという、私なりの『ドア・イン・ザ・フェイス』の形で交渉するつもりだったの」
「ならどう考えたって順番逆だろ。どんな価値観してるんだ、あんたは……」
「ねぇ、こはる。お願い。こはるの唾をタッパーに入れて携帯しておけば、この間みたいなとき、またこはるに迷惑をかけずに済むわ。いいアイディアだと思うのだけど……」
「い、嫌だよ。たしかに、その点に関してはそうかもしれないけど……だってそれ、飲むんでしょ……?」
「当然よ。夏場は凍らせて持ち歩こうと思っているわ」
「人の唾をスポーツドリンク感覚で扱うな」
「何が問題なの?」
「何って……だって嫌でしょ、なんか、人が自分の唾をごくごく飲んでるなんて……。なんていうか、生理的にさ……」
「ならなおのこと理にかなっているわ。この間のように直接ではなく、タッパー入りの唾液を飲むのなら、こはるはその場面を直接目にすることを回避できる。私も、飲むときはこはるの目を避けて、こっそり飲むようにするから」
「そういうことじゃなくて……いや、もちろん実際に見るのも嫌だけど……なんていうか、それを想像するのが嫌なの。もし愁衣さんが本当にわたしの唾液入りのタッパーを持ち歩くことになったら、愁衣さんの姿を見るたびにそのことを思い出して、気にするようになっちゃう。『愁衣さん今日、あのタッパーの中身、飲んだのかな……』とかさ」
「はっきりしないのが嫌、ということ? だったら、飲んだ日はメッセージか何かでこはるに報告するようにするわ。『今日、飲みました』って」
「い、いや、それはそれで嫌だよ」
「『今日もおいしかったです』」
「絶対にやめて。……っていうか、今日『も』ってなんだよ。連日飲むな」
「……じゃあ、こはるはどうしてほしいの? 遠慮せず言ってみて」
「そのイカれた発想を改めてほしいんだよッ!! 人の唾をタッパーで持ち歩くとか、そんな——」
はっとして口を噤み、周囲に目をやる。……いけない、つい声が大きくなってしまっていた。誰かに聞かれたらどう思われるか……気を付けないと。
「……わかったわ。この件に関しては諦める。私、無自覚のうちにまたこはるに嫌な思いをさせていたのね。……ごめんなさい」
「いや、いまのはその、つい……。こっちこそ、ごめんね。急に大声出したり、愁衣さんなりにわたしに迷惑かけないようにと考えてくれたことを、その、悪く言っちゃって……。でもやっぱり、うん、唾を持ち歩くのはやめてほしいかな。さっきも言ったけど、どうにもいい気分がしないからさ……」
「えぇ……わかったわ」
愁衣さんはカクンと頷く。見るからにしゅんとした様子。あぁ、なんか罪悪感。でも今回ばかりはさすがに……ごめんね、愁衣さん……。
「でも、こはる」
と愁衣さんが口を開く。
「唾液を持ち歩けないとなると、もし次この間と同じ発作が起きたとき、またこはるを頼らせてもらうことになってしまうかもしれないけど……それはいいの?」
「え、それは……」
嫌だけど、四六時中タッパーで唾液を持ち歩かれることに比べれば……
「……まぁ、毎回必ず協力できるとは限らないけど……どうしても緊急のときだけ、とかなら……」
「本当……?」
キラキラと愁衣さんは目を輝かせる。
「で、でも、あれだよ? 愁衣さん自身も、気を付けてよ? そう何度も要求されたら、さすがにわたしだって……」
「もちろんよ! 発症してしまわないよう、充分気を付けるわ! ありがとう、こはる! ……あ、そろそろ休み時間が終わりそうね。行きましょう、こはる」
そう言って愁衣さんは教室に向かって小走りで駆け出す。あぁ、うん、とその背中を追いながら、ふと思った。
最初に唾液でタッパーを満たしてほしいと依頼し、断られたら、では必要な際には直接飲ませてくれと言い、わたしはそれを呑んだ。それこそ唾液を飲むように、自然に。でもこれ、冷静に考えたら……
「ドア・イン・ザ・フェイスにかかってないっ!?」
こはる、と声がして、見ると愁衣さんが少し先でこちらを向いて立ち止まっていた。
「そういえば、さっき『メッセージ』と言ったときにふと思ったのだけど、こはるの連絡先を教えてくれない? ほら、緊急事態のときにも、あると便利だし」
……もう、好きにしてくれ。
そんな流れで、わたしたちは連絡先を交換した。
【おまけ:その日の夜、チャットアプリ内での二人のやりとり】
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〈こはる〉
〈はい〉
〈こはる〉
〈こはる〉
〈うん〉
〈なに?〉
〈こはる〉
〈こはる〉
〈こはる〉
〈えっと〉
〈なんですか?〉
〈こはるこはるこはるこはる〉
〈用がないなら寝ろよ〉
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お読みいただき、ありがとうございました。
四話目は明日29日(土)11時ごろに投稿予定です。
よろしくお願いいたします。




