飲ませてほしい
齧り取ったおにぎりの一口目を数回咀嚼して飲み込む。ふと見上げた先に貼ってあるポスターに「食べ物はよく噛んで! 目指せ一口三十回!」とあるのが目に留まり、なんだか怒られているような気分になる。
わたしの名前は日向こはる。今日は昼休みに保健室に来ている。体調が悪いとかではなく、保健委員の仕事で来ているのだ。うちの学校には「保健室当番」という制度があり、昼休みの間、保健委員の生徒が日替わりで養護教諭の代理を務めることになっている。——ということをわたし自身、ついこの間の委員会の集まりで知った。つまり今日が、わたしのその当番の日なのである。
当の養護教諭・東雲茜先生はわたしが来るなり、「じゃあお昼食べに行ってくるから、その間よろしくね」とだけ言い残し、風のように去っていってしまった。委員会の集まりでは「生徒の自立心」だの「ピア・サポート」だの「実践的な健康意識」だのともっともらしい言葉を並べて説明を受けたけど、要は外にごはんを食べに行きたい東雲先生が、その間の留守を任せるための体のいい留守番制度なのではないかと早くも疑いはじめている。
……まぁ、代理を務めるといっても投薬などの本格的な医療行為はしてはいけないことになっているし、怪我人や急病人がもし来たら先生のスマホに電話で知らせることになっているから、わたしがやっていることは実際、本当にただの留守番って感じなのだけど。いずれにしろ、この昼休みの短い時間中に、なにか驚くような大事件なんてそうそう起こらないでしょう。わたしは持参したおにぎりの二口目を口に含み、回転式のオフィスチェアをくるくると回転させる。——と、引き戸が数回ノックされる音が響いた。
「はい」
わたしは慌てて咀嚼中のおにぎりを飲み込み、椅子にきちんと座り直す。戸が開き、現れた人物を見て、わたしは俄かに驚くような大事件の発生を予感した。
「う、愁衣、さん……どうしたの?」
愁衣さんとはこの間、保健室で例のことがあって以来だ。いや、もちろん同じクラスだし、普通に顔を合わせてはいたけれど、言葉を交わすようなことはしていない。あの日のことが気まずくて、というのも少なからずあるけど、そもそも席も近くないし、話しかけに行く用事も基本的にないし……。
いったい何の用があって来たのだろう、まさかまたこの間と同じ……と、少し身構えていると、愁衣さんはすたすたと歩いてこちらにやってきた。足取りはしっかりしている。見たところ、顔色も悪くはないようだ。じゃあいったい……と考えている間に、愁衣さんは診察スペースの丸椅子に腰を下ろした。
「日向、さん……ケホ、ケホ……」
「う、愁衣さん、どうしたのその声!? 風邪!?」
愁衣さんの声はひどくガラついていた。まるで錆びた機械が軋みを上げるような……。
……あれ、でもたしか愁衣さん、ついさっきの授業で発言していたときには、普段と変わらないクリアな声で喋っていたような気がしたけど……。
「……大丈夫よ、風邪ではないわ」
「そ、そうなの? 風邪じゃないにしても、とても大丈夫とは思えないけど……」
「平気よ。実際、喉がカラカラになって声が出しづらくなっているだけで、炎症や痛みがあるわけではないから。ケホ……、あと少し、咳が出るくらい」
「そ、そうなんだ。……もしかしてそれも、この間の低体温症みたく、愁衣さんの……なんていうか、特殊な持病、みたいなもの?」
「えぇ、ケホ……いわば、『急性声帯硬化症』といったところね」
こくりと愁衣さんは頷く。
「それでね、日向さん、ケホ……ちょっといま喋りづらくて、端的にお願いだけ伝えさせてほしいのだけど……」
「う、うん。なに?」
「日向さんの唾液を飲ませてほしい」
「断る」
愁衣さんは椅子から転げ落ちんばかりに身を仰け反らせる。
「そ、そんな……どうして……」
「どうしてって、当たり前でしょッ!! 急にそんな意味わかんないこと言われて、『うん、わかった』って快く応じられると思う!? そっちのほうが『どうして』だよ!」
愁衣さんは納得したように首を大きく頷かせると、「えぇと」と呟き、こう言った。
「日向さんのツバを飲ませてほしいの」
「そうじゃないよッ!! その言葉の意味はわかってるよ!! わかった上で、愁衣さんの言ってることの意味がわからないって言ってるの!! 部分じゃなくて、全体の話ッ!!」
「……つまり、日向さんは私に唾液を飲ませるのが嫌、ということ……?」
「どうしてそんな意外そうな顔ができるんだよ……。ていうか、そもそもなんで急にそんなことになってるの? 愁衣さん、たしか四限目までは普通に話せてたよね?」
「私ね、ケホ、ケホ……」
「あぁ……ごめん、話すの辛いんだったね。ここにペンと紙あるから、筆談でもいいよ」
「私ね」
「話すんだね」
「私ね、気合が入りすぎると、喉がこの症状を引き起こしてしまうの」
「き、気合が? どういうこと?」
「今日の五、六限目に、総合的な探究の時間があるわよね」
「うん、総探だね。——あれ。そういえば今日、愁衣さん、『マイ探究』の発表の日じゃなかったっけ?」
「そのとおりよ。だからこの一週間、頑張って準備してきたわ。資料まとめ、スライド作り、プレゼンの練習……いまの私のもてる限りを注ぎ込んだ。そうして今日を迎え、次がいよいよその発表の時間だ、というところまできたわけ」
「……つまり、それに向けて気持ちが昂りすぎて……」
「えぇ。本番前に最後のリハーサルをしておこうと屋上で練習しようとしたら、いつの間にか声が出なくなっていたわ……ケホ、ケホ……」
こいつ、学校生活にトラップ多すぎじゃね……?
「……うん、まぁ、それについては事情はわかったよ。それで、その……さっきの唾の話にはどう繋がるの?」
「私のこの症状は、他人の分泌した唾液を咽頭内に直接流し込むことで良化するの」
「またそんな意味不明な……」
「健康な人間の口腔内で分泌された唾液を直接咽頭内に流し込むことで、それに含まれる酵素が硬化した粘膜に生体親和的に作用し——」
「いい、いい、医学的解説はいいから。そういう『意味不明』じゃないから。……とにかく、状況はよくわかりました。つまり愁衣さんは、そのカラカラになってしまった喉を治すために、わたしの唾を飲みたいってことね」
「えぇ、そのとおりよ。あらためて、お願いできるかしら?」
「お断りします」
「え……なぜ……?」
「だからどうして、そんな意外そうな反応ができるんだよ……」
「日向さんは、なぜ私に唾液を飲ませるのが嫌なの?」
「逆に訊くけど、なぜあなたは人の唾をそう簡単に飲めるものだと思ってるの?」
「人の……というか、日向さんならきっと協力してくれると思ってたわ」
「わたしなら? ——って、なんで?」
「だって私たち、もう……ベッドで身体を重ね合った仲じゃない」
「いや、言い方ッ!! あ、あれは治療で、仕方なくやっただけだから!!」
「えぇ。だから今回も、その治療の一環として、お願いしたいの」
「だとしても、お断りします! 愁衣さんの現在の状態を見るに、前回のような緊急性は認められないので! 残念だけど我慢して、その声のまま、発表に臨んでください!」
そんな……と愁衣さんは全身から空気が抜けたようにガックリと肩を落とす。うぅ……心が痛む。……でもダメだ、今回は彼女の依頼に耳を傾けるわけにはいかない。このわずか短期間で二つの別の発作を起こしているあたり、愁衣さんの「持病」はまだ他にもある可能性がある。ここでまた迂闊に協力してしまったら、次はどんな非常識な「治療」を要求されるかわかったものじゃない。心を鬼に。愁衣さんを、甘やかしてはいけない。
「今日のために、私、発表準備がんばってきたのに……」
だめだめ、耳を傾けては。ここで折れては愁衣さんの思うつぼ。今日のわたしはけっして首を縦に振らない。大型ペンチでも曲がらぬ固い意志。
「スライドも……ケホ、昨日夜遅くまでしっかり作り込んで、ケホ、ケホ……原稿も何度も書き直して、ケホ、練習もたくさんしたのに……ケホ、ケホ」
……なんか、咳の割合急に増やした? 意外に小狡いな……。でも、無駄。そんな小賢しい手で同情を引こうたって、そうはいかない。
「保健委員の日向さんが病人を前に何もしてくれない……。日向さんは、保健委員なのに……」
戦略変えてきたな……。そう言われると立場上、このまま無視を決め込みづらくはなるけど……。いやでも、保健委員だからといって、必ずしもそれが義務というわけでは——ん? そういえば……そうだ。
「聞いて、愁衣さん。実はね、この『保健室当番』の間、わたしたち保健委員は他の生徒に対して直接的な医療行為はいっさいしてはいけないことになっているの。だから愁衣さんの喉を治療してあげたくても、わたし、なにもできないんだよ」
ちょっと盛ったけど、嘘はついていない。さあ愁衣さん、これで諦めて帰って——。
「あぁ、それなら大丈夫よ。治療のためではなく、ただ私が個人的に日向さんの唾を飲みたくて来たということにすればいいんだから」
「そっちのほうが心情的に嫌なんですけど!」
「お願い、日向さん」
と、愁衣さんが顔を近くに寄せてくる。
「この一週間、せっかくいろいろと頑張ってきて……やっぱり私、こんな声のまま発表をしたくない。いま頼れるのは、日向さんだけなの」
「……」
はぁー、とわたしは大きな、大きなため息をついた。愁衣さんの潤んだ瞳を見つめ返しながら言う。
「……わかったよ」
「飲ませてくれるの?」
「嫌だけど……そこまで頼まれたら、さすがに断りづらいし……まぁ、この間のアレよりはマシだし……」
「ありがとう! そうよね。裸で抱き合うことに比べたら、唾くらい、どうってことないわよね?」
「お前だけは絶対にそれを言うな」
やれやれ、と首を振り、わたしは席を立つ。近くにある棚に向かった。
「日向さん、どこへ行くの?」
「どこって、紙コップ取りに行くんだよ。……唾を入れるための」
「紙コップ? あら、だめよそんなもの使っちゃ」
「え、どうして?」
「さっきも言ったように、私のこの症状を治すには、他人の唾液を咽頭内に直接流し込む必要があるの。他の物質を介してしまうと、唾液中に含まれる重要な酵素が分解し、効果が弱まってしまう恐れがあるから」
「直接……それって……」
「えぇ。マウス・トゥ・マウスね」
驚いて唾液が気管に入ってしまい、激しくむせ返る。
「な……ななな、なにそれ……!?」
愁衣さんは一瞬きょとんとし、すぐに「あぁ」と納得したような顔をする。そして、
「キスのことよ」
「だから、言葉の意味はわかってるよ!! わかってるからこそ混乱してるんだよ!! ……キキ、キスって、愁衣さんと、わたしが……?」
あぁ、どうしよう、大変なことになってしまった……。結局こうやってまた安請け合いするから……わたしのバカバカ……! キスなんて男の子ともしたことないのに、それを女の子とだなんて……いくら治療のためとはいっても……いやでも、一度了承してしまったわけだし……だけど……でも……あぁ……。
「う、う、愁衣さん!」
「はい」
と愁衣さんは目をパチクリさせる。
「……その、愁衣さんの説明をあらかじめよく聞いておかなかったわたしが悪いし、一度やると言っておいて本当に申し訳ないんだけど……やっぱりわたし、キ、キスは、どうしても……」
ごめんなさい、と深く頭を下げる。一瞬の沈黙のあと、愁衣さんは言った。
「……ううん、いいの。そうよね。私のほうこそ、急にこんな変なお願いをして、日向さんを困らせてしまって……ごめんなさい」
「愁衣さん……」
「この間、日向さんに親切にしてもらえて、私、ちょっと調子に乗っていたみたい。私ね、こんなだから、身体のことでよく人に迷惑をかけて、仲良くなった子もすぐに周りからいなくなっちゃうの。日向さんは友だちでもないのに、私のことを気遣って、助けようとしてくれて……それが、嬉しくて……。ごめんなさい、日向さんの優しさにつけ込むようなまねをして、挙句、頭まで下げさせてしまって……私のほうこそ、本当に、ケホ、ケホ……」
「愁衣さん、わかったから、もうあまり喋らないほうが……」
「ケホ……そうね、聞き苦しい声で長々と……ごめんなさい。日向さんに言われたとおり、この声に関してはもう諦めるわ。その代わり……と言ってはなんなのだけど、次の授業の発表、私に代わって日向さんが原稿の読み上げをしてくれないかしら?」
「え、わたしが?」
「えぇ。スライドの操作や板書などは私のほうで行なうから、スピーチ部分だけ。……もちろん、嫌じゃなければで構わないわ。これ、原稿なのだけど……」
と愁衣さんは、最前から持っていた紙の入ったクリアファイルをわたしに手渡す。けっこう量あるな……。まぁ、キスに比べればまだ……と印刷された文字に何気なく目をやる。——と、
「『エビングハウスの忘却曲線に基づく、古文単語の最も効率的な復習周期と実証研究』……? 愁衣さん、古文苦手だったんじゃ……」
「ケホ……えぇ、だからこそ、そのテーマにしたの。研究を通じて古文が少しでも得意になれば、この間のように古文の授業で発作を起こして、また日向さんに迷惑をかけることを防げると思ったから……」
「……」
愁衣さんなりに努力しようとはしてたんだ。ちょっと、誤解してたな……。
「……で、どうかしら? 引き受けてもらえる? 嫌だったら——」
「愁衣さん」
「え、はい」
「……その、唾液は、『他の物質を介さずに直接』だったらいいんだよね?」
「え、えぇ。でも……」
わたしは立ち上がり、座っている愁衣さんの目の前まで近づく。
「こ、ここから、上から唾を落とすから、愁衣さんはそれを口で受け止めて。これなら他のものに触れずに、直接飲んだことになるでしょ」
「日向さん……」
じわりと、愁衣さんの瞳が潤むのが見えた。
「ありがとう! ありがとう、日向さん! うれしい……私、本当に……!」
立ち上がった愁衣さんがわたしに抱きついてくる。この間も感じた、鈴蘭のような、すっきりとした甘い香り。
「わ、わかったから。……ほら、立ってちゃできないから、早く座って」
「んー……」
「どさくさにキスしようとするなッ!! さっさと座れ!!」
愁衣さんが椅子に座る。わたしは立ったまま、こちらを見上げる愁衣さんの顔を覗き込むように頭の角度を調節する。上下に見つめ合うような形。「少し遠いんじゃないかしら」と言われ、たしかにそうかもと、狙いをつけやすいように上体をより深く曲げ、顔を近づける。わたしを見つめる大きな瞳、長いまつ毛……この間も思ったけど、本当に綺麗な顔してるよな、愁衣さんって……。
「……どうしたの?」
「な、なんでもない。……唾液って、何滴くらい必要なの?」
「日向さんの唾液なら何滴でも飲めるわ」
「そういう話じゃなくて!! 最低限必要な量を訊いてるの!!」
「んー……とりあえず、二滴くらいかしら」
「わかった。……じゃあ、いくよ」
「うぅ、いうえおいいあ(うん、いつでもいいわ)」
愁衣さんが口を開けて頷く。わたしは口をもごつかせて、口内に唾液を溜めた。唇をすぼめるように突き出し、その隙間からまずは一滴、垂らす。唾液だからしかたないのだけど、量を少なめに調節したつもりなのに、それでも糸を引いてしまうのがなんだか恥ずかしい。愁衣さんは微動だにしないまま、「もう一滴」と言うようにわたしの目をじっと見つめる。なぜだろう、裸で抱き合うよりも良くないことをしている気分になる。
二滴目の唾液が愁衣さんの口の中に落ちるのを確認し、わたしは姿勢を戻す。愁衣さんも口を閉じ、首の角度を元に戻した。
「ど、どう……?」と訊ねる。
「えぇ……滑らかなのに弾力もあって、仄かに残る海苔の風味がそれに絶妙にマッチして——」
「味の感想はいいから!! さっさと飲み込んで!!」
んくっ、と愁衣さんが飲み込んだ音が聞こえた。……ったく。っていうかなんで、唾だけで食べてたもの特定できるんだよ……。どんな舌……?
「——で、どう?」
「すごいわ!」
愁衣さんは、すっくと席を立つ。
「たったこれだけの量なのに、これまで感じていたガラつきもざらつきも全部消えた! 本当はね、この症状を完全に治すにはもっと多くの量の唾液を飲まなければいけないの。それをたった二滴で……すごいわ日向さん! すごい唾だわ!」
そう言う愁衣さんの声はたしかに、いつもの透き通った響きを完全に取り戻している。なんだか知らないけど、予想以上の効果だったようだ。正直、唾を褒められてもあまり嬉しい気はしないけれど、とにかく快復したならよかった。
「あぁ……でも惜しいわ。これだけの効果があるなら、もう少し多めに飲ませてもらっておけばよかった。そうすれば次また気合が入りすぎたとき、発症を抑えることができたかもしれない。残念……」
そうなの? ストックしておくことができるんだ。……本当に、どんな構造してるんだ、この人の身体……。
「……ねぇ、日向さん」
愁衣さんがなにやら窺うようにわたしをチラと見る。
「おかわり、ダメ?」
「帰れ」
◇◇◇
礼を言って保健室を出ていく愁衣さんを見送り、椅子に深く座り直す。なんだか妙に疲れた。ふぅ、と大きく吐息をつく。
あらためてお弁当のおにぎりを食べていると、少しして東雲先生が戻ってきた。「ただいまぁ〜。留守番ありがとねぇ」とハンガーに掛かっている白衣を手に取る。もう「留守番」って言っちゃってるじゃん……と恨めしげにその顔を眺めていて、ふと思う。
「先生の唾でよかったじゃんっ!!」
「——いきなり何ッ!?」
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お読みいただき、ありがとうございました。
第三話は明日、28日の18時ごろにまた投稿予定です。
よろしくお願いいたします。




