温めてほしい
「せんせぃ……」
響きわたるチョークの音に混じって、か細い声が教室後方から聞こえた。先生が板書の手を止め、声のしたほうを振り返る。
「ん? どうした、愁衣」
「少し、体調が悪いので……保健室に行ってもいいですか……」
声の主は愁衣水汐さんだった。細い手を挙げ、先生にそう訴える。
「あぁ、いいぞ、行ってこい。ええと、このクラスの保健委員は……」
「はい、わたしです」
とわたしは手を挙げて答える。
「あぁ、日向か。それじゃあ悪いが、愁衣に付き添ってやってくれるか?」
「はい、わかりました」
わたしは席を立ち、愁衣さんの元に向かう。
「愁衣さん、大丈夫?」
「えぇ……」
コクリと頷き、立ち上がった愁衣さんのあとについて教室を出る。足取りはふらふらと覚束なく、よく見ると手足がカタカタと細かく震えているように見える。「少し体調が悪い」という範疇に収まっている状態にはとても見えないけど、本当に大丈夫なのだろうか……?
◇◇◇
ようやく保健室にたどり着き、引き戸を開け中に入る。
「え、嘘……。先生、いないの……?」
キャスター付きのホワイトボードに「職員会議のため、五限目まで不在にします」の文字があった。
「どうしよう、愁衣さん……先生、いないって」
振り返りそう告げる。聞こえているのかいないのか、愁衣さんはふらふらとこちらにやってくる。その足取りは最前にも増して覚束ない。——と、
「危ないっ!」
愁衣さんの足が不自然にもつれるのが見えた。よろめき、倒れそうになる彼女の体を正面から抱きとめる。
「——って、冷たっ!」
思わず、そう口から出る。愁衣さんの体から弾かれたように身を離した。
「ごめんなさい、私、冷え性なの……」
愁衣さんは掠れたような声で言う。冷え性って……そういうレベルの冷たさじゃなかった気がするけど。まるで冬のコンクリートに直接手で触れてしまったときのような……。
「と、とりあえず、寝て。少し、横になって休もう」
愁衣さんを奥にあるベッドに誘導する。愁衣さんは静かにベッドに身を横たわらせた。
「はい、これ。とりあえず、熱計って」
持ってきた体温計を愁衣さんに手渡す。「ありがとう……」と愁衣さんはシャツのボタンを開け、胸元から体温計を脇の下に差し入れた。
「……」
「……」
体温計が鳴るのを待つ間の、微妙に気まずい沈黙。愁衣さんは目を閉じて、まるで人形のようにじっと動かずに仰向けで横になっている。……死んでないよね、とちょっと不安になる。
それにしても、こんなときになんだけど、本当に綺麗な子だな……。長く整ったまつ毛に、すっと通った鼻筋、肌は透き通るように白くて……それこそ本当にお人形さんみたい。実際、まだ入学して間もない時期なのに、早くも他のクラスの男子や二、三年の先輩たちまでもが、愁衣さんの姿を一目見にうちのクラスを頻繁に訪れてくるようになっている。自分とは違う世界の人間、きっと話をすることもないんだろうな……なんて思っていたけど、まさかこんな形で関わる機会が生まれるとは。
ピピッ、と無機質な電子音が響く。愁衣さんがゆるりと体温計を取り出し、どこかぼうっとした目で液晶画面を見つめる。
「貸して。何度?」
愁衣さんから体温計を受け取る。液晶に表示された数字を見て、わたしは一瞬、思考が停止した。
「さ、三十四度、二分…………!?」
驚き、愁衣さんのほうを見る。
「私、冷え性だから……」
「い、いやいやいやいや! 冷え性とか、そういう次元の体温じゃないよ、これ! 爬虫類の体温じゃん!」
「そうね……爬虫類だったら、日中の活動をする上で最適な温度だわ。熱的至適体温ね」
「い、いや、なにをそんな冷静な補足を……。——あ、そうか。きっと体温計の故障だ。ちょっと待ってて。ここ保健室だし、きっと体温計はこれ以外にも——」
と、探しに行こうとしたわたしの腕を愁衣さんが掴む。
「故障じゃないわ。その数値は、正しい値」
「いや、そんなわけ……」
ない、と言い切れず、口を噤む。わたしの腕を掴む愁衣さんの手は、彼女の言葉を裏付けるのに充分すぎるほど冷え切っていた。
「日向さん」
愁衣さんがわたしの名を呼ぶ。
「な、なに?」
「さっき、爬虫類、って言ったわよね?」
「う、うん。言ったけど……」
天井を見つめ、愁衣さんが話し出す。
「……それで思い出したのだけど、私、前にトカゲを飼ってみたいなって思ったことがあるのね。それで飼い方とかいろいろ調べてみたのだけど……知ってる? 子どものトカゲって餌に生きた昆虫を食べるのよ。それも大量に。つまり、家でトカゲを飼うためには、同時に大量の昆虫に囲まれながら毎日生活するということなの。……それを知って、私、トカゲを飼うのを諦めたわ」
「へ、へぇ……そうなんだ……」
「えぇ」
「……」
「……」
「——いや、なんの話ッッッ!?」
「どうしたの? 急に大声を出して……」
「いや、そっちでしょ! なに急にまったり世間話始めてんの!? あなたいまそんな状況じゃないでしょ! 生きるか死ぬかの瀬戸際なんだよっ!?」
電話を探し、室内を見渡す。先生の机の上に発見した。
「待ってて、いま救急車呼ぶから!」
と、向かいかけたわたしの腕をまた愁衣さんが掴む。
「なに!?」
「私、冷え性なの」
「聞いたよ! でもそれ、もう冷え性とかそういう次元の話じゃないから! こうやって普通に話せてるのも奇跡なレベルだよ! 然るべき機関で、迅速な治療を——」
「聞いて」
けっして大きくはない、けれど確かに力のこもった声に、わたしの言葉は止まる。じっとわたしの目を見つめて、愁衣さんは言った。
「私のこれは、特殊な冷え性なの。一般的な冷え性のように、自律神経や筋肉量、ホルモンバランスの問題によって引き起こされるわけではなく、緊張が一定値を超えると体内の熱の多くが外に強制排出されてしまう……いわば心因性の低体温症なのよ」
「し、心因性……? ……『緊張が一定値を超えると』ってことは、愁衣さんはさっきの古文の授業でなにか強い緊張を感じてたってこと……?」
「今日は四月十七日」
「……う、うん。そうだね」
「先生が、『じゃあ次はー……七から一を引いて、出席番号六番・愁衣』といつ言うかと考えていたら、あまりの恐ろしさに、極度の緊張が……」
「そ、それだけ!? 先生に指されるのが怖くて、低体温症になったの!?」
「ただでさえ私は古文が苦手」
「そ、そうなの? いや、だからって……」
「そして今日はすでに、『十七番の鈴木くん』『一番の浅野さん』『七番の江良さん』『一と七を足して八番の遠藤くん』が指名されてしまっていた。となると次は四則演算の残る符号的に『七から一を引いて六番』が選ばれる。七と一をかけても割っても、七にしかならないのだから……」
ならないのだから……って言われても。……まぁ、とにかくそんな調子で、愁衣さんはいまさっきまでの古文の授業中、彼女的には相当な緊張を強いられながら過ごしていたものらしい。……メンタル弱すぎない?
「と、とにかく、心因性ってことは、病院の普通の治療じゃ治せないってこと?」
「そのとおりよ。理解が早くて助かるわ。さすが保健委員ね」
「……」
なんという……俄かには信じがたいけど、わたしを見る愁衣さんの真剣な眼差しを見るに、嘘を言っているようには思えない。ろれつもしっかりしているし、低体温症によってうわ言を言っているわけでもなさそうだ。
「……どうしたら、良くなるの?」
「……そうね、すぐに治す方法はあるけれど……まぁ、しばらく放っておいてくれたら、そのうち良くなるわ。緊張が収まっていけばね」
「すぐに治す方法があるの? わたしにできることなら、手伝うよ」
「……そう? ……いえ、やっぱりいいわ、悪いから。放っておけば、そのうち治るし……」
「でもいま、辛いでしょ?」
「え?」
「愁衣さんが少しでも早く元気になるなら、そのほうがいいから。力になれること、もしあれば、言って」
「……」
愁衣さんはしばらく黙ってわたしの顔を見つめたあと、静かに言った。
「……直接、温めてくれれば治るわ」
「え、直接? って、どういう……」
「私のこの症状は、健康な人体から発せられる熱を適度な圧力で伝えてもらうことで極めて迅速に良化する。つまり、日向さんに数分間抱きしめていてもらえれば、すぐに良くなるわ」
「抱き、しめる……」
「えぇ」
「……それは、たとえば、カイロとかじゃ……」
「駄目ね。人工的な熱では効果がないの。ヒーターやエアコンの熱風でも同じこと。快復にはあくまで、生命体のもつ『生きた熱』が必要なのよ」
「……」
なにそれ……聞いたことないんだけど、そんな処置の仕方……。いや、まぁ、この病気自体今日初めて知ったわけだから、そりゃそうなのかもしれないけど……。
……しかたない。言い出したのは、わたしなんだし。
「わ、わかった。やるよ」
「ありがとう。助かるわ」
愁衣さんはほっとしたような笑みを浮かべる。
「それじゃあ隣、失礼するね」
と、わたしはベッドに片膝を乗せる。
「あ、待って。その前に、服を脱いでちょうだい」
「——うん? いま、何て……」
「着ている服を脱いで、裸になってほしいの。衣類を身に着けたままだと熱伝導率が低下して、効果が充分に得られない可能性がある。裸になって直接、生の皮膚を私に押し当ててほしい」
「……」
「……」
なに言ってんだ、こいつ——————!?
「え、ええと、あの……愁衣、さん……? いくらなんでも、その、ふ、服を脱ぐのとかは、ちょっと……」
「あ、そうね。説明が足りていなかったわ。熱伝導率のことを考えれば当然、私自身も裸になる必要がある。けれどいまは自分でうまく体を動かせないから、日向さんに服を脱がしてもらう必要があるわね」
そこじゃねえよ——————!!
え、なにこの人、本気で言ってるの……? 正気を疑いたくなるレベルだけど、説明を語る愁衣さんの顔は至って真剣だ。服を脱いで、裸で抱きしめる……? なにそれ!? あらためて考えても、なにそれ!?
「ごめんなさい」
「……え?」
「いきなりこんなことを言って、戸惑わせてしまったわよね。いいの、この話は忘れて。あくまでこれはすぐに治すための方法。さっきも言ったとおり、この症状は放っておけばいずれ良くなるから」
「……」
そう言いつつも、愁衣さんの全身は細かく震えつづけている。薄い唇は青ざめ、長いまつ毛の奥の大きな瞳は、うまく焦点が定まらないのかどこかぼうっとしている。「いずれ」って、どれくらいなんだろう。簡単そうに言うけれど、このままの状態でそれを待つことが、愁衣さんにとって楽なことであるはずがない——。
わたしは襟元のリボンに手をかけた。
「日向さん……」
「あ、あんまり、こっち見ないで。……恥ずかしいから」
愁衣さんは静かにわたしに背を向ける。小声で「ありがとう」と聞こえた気がした。
「あ、あの……下着は、着けたままでも、大丈夫、だよね……?」
「え? ……あぁ、うん、そうね。それくらいなら」
自分の制服を脱ぎ終え、次に愁衣さんの制服を脱がせにかかる。腕を袖から抜くのに苦労しつつもなんとかシャツを脱がせ終え、それからスカートのジッパーに手を触れる。あぁ……わたしはいったい何をやっているんだろう……。なぜだか無性に、両親に謝りたい気持ちになった。
愁衣さんの制服を脱がせ終わる。あらためて、ベッドに手と片膝を突く。
「あ、待って」
「な、なに?」
「私のほうは、できたら下着もとってほしいのだけど……」
「そ、それは、着けといて。下着は着けたままでも大丈夫なんでしょ?」
「えぇ……わかったわ」
ベッドに上がり、愁衣さんの隣に身を横たえる。背中側から彼女の体に腕を回した。冷たい。さっき触れたときよりも。少し大袈裟かもしれないけど、まるで氷の固まりを抱いているかのような……。
「もっと、強く抱きしめて」
「……わ、わかった」
愁衣さんの細い背中に自分の体をより密着させる。「強く」って言うけれど、あまり強くしすぎると壊れてしまいそうな華奢な体だ。愁衣さんの足が、居場所を求めるようにわたしの両足に絡んでくる。客観的に見たら、ほんとなにやってるんだろう……。いや、そんな視点はもってはいけない。これは治療、治療なのだ……!
「あぁ、温かい……」
愁衣さんが呟いた。と、次第に愁衣さんの全身の震えが収まり、微かに人間らしい体温を発しはじめるのを感じた。……驚いた。本当にこんな方法で回復するなんて。でもよかった、愁衣さんが良くなりそうで……。
「気持ちいい……」
どうやら心地よさを感じてくれているようだ。本当によかった。あともう少ししたら、離れても大丈夫そうかな……?
「やわらかい……」
……うん? ま、まぁ、体温が戻ってきたことで、触覚も正常に回復してきたってことかな? ……うん、よかったよかった。
「いい匂い……」
「いや、匂い関係ないだろッ!!」
思わず叫び、飛びのくように愁衣さんから身を離す。愁衣さんはゆっくりと身を起こし、まっすぐにわたしを見た。その瞳にはキラキラとした輝きが戻っていた。
「ありがとう、日向さん。おかげですっかり良くなったわ」
「そ、そう。そりゃよかった……。それじゃ早く服着て、教室戻ろ。それとも、もう少し休んでいったほうがいい?」
「ううん、大丈夫」
愁衣さんはゆるりと首を振る。心なしか、目の輝きが普段よりもっとキラキラしてるように見えるけど……まぁ、無事元気になって嬉しいのかな……。
「日向さん」
愁衣さんに背を向けて服を着ていると、背中から声がかかる。
「なに?」
「ありがとう」
「う、うん……まぁよかったよ、元気になって」
「ねぇ、日向さん」
再び声がかかる。今度はなんだ?
「その……おかげで元気になったのだけど、さっき下着で覆われていた部分が、まだ少し冷たくて……。よかったらそこだけ、直接手で触ってくれない?」
わたしは愁衣さんの目を見据え、言った。
「お断りします」
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お読みいただき、ありがとうございました。
第二話は明日、27日の18時ごろにまた投稿予定です。
よろしくお願いいたします。




