呆れないでほしい①
暑い。
駅から出た途端、じりじりと夏の太陽が容赦なく照りつける。アスファルトから立ち上る陽炎はぐにゃりと遠くの景色を歪め、街路樹から降ってくるセミの声は終末を知らせるラッパの音に聞こえる。夏の始まりに、世界の終わりを感じた。
「暑ーい」
とうとう誰に言うでもなくそう口に出してしまいながら、待ち合わせ場所にたどり着く。目印にした銅像の前には、すでに愁衣さんの姿があった。
「愁衣さん。ごめん、待たせた?」
「あ、こはる。ううん、私もいま来たところよ」
そう言う愁衣さんの顔は赤らみ、微笑む目元はどこか焦点が定まらないようにぼんやりとしていた。
「……」
「……」
「何十分前からいた?」
「……四十分くらい」
わたしは愁衣さんの手首を掴み、木陰になっているベンチに連れて行って座らせる。
「やっぱり! 明らかに熱中症になってるじゃん! もう、なんでそんな早くから来てるのよ?」
「ご、ごめんなさい。あの、待ち合わせの古き良きやりとりに憧れがあったの。『待った?』『いま来たところ』っていうやつ、どうしてもやってみたくて……」
「だからって、せめて十五分前からとかでいいでしょ。四十分って……それはもはや別の待ち合わせ時間だよ」
「うふ。こはるのためなら、何時間だって待つわ」
「命の危険を冒しながら待たれるほうの気持ちにもなれ。はい、じゃ触るから。顔と、あと他にどこか熱中症になってるとこある?」
「ここ」と愁衣さんは、着ている膝丈のワンピースをぴらっとめくる。指で示されていたのは、太ももの上の辺りだった。バッグで周りから隠すようにしながらその部分に手を触れる。前の水泳のときも思ったけど、なぜこの人の「熱中症」は下半身にばかり頻発するのだろう……。
「赤み引いたね。これで良くなった?」
「えぇ。ありがとう、こはる。ついでにもう片方の足も……」
「ところで、愁衣さんの今日の格好、すごくいい感じだね」
愁衣さんの言葉を遮りながら言う。
「そ、そうかしら?」
「うん。白ワンピなんて着る人だいぶ選ぶけど、愁衣さんが着るとバッチリだね。ほんと、お人形さんみたい。すっごい可愛い」
「すごい、かわいい……」と、とろけそうな顔を押さえるように両頬に手を添えながら、愁衣さんは身をもじもじさせる。それから「録音、録音」とおもむろにバッグを漁り出した。何かをもう一度言わせようとしているようだけど、このやりとりはたぶん長くなる、と脳が直感で知らせた。よし、とわたしは立ち上がる。
「熱中症も良くなったみたいだし、そろそろ行こうか。暑いから、早く涼しいとこ行こ」
「あ。待って、こはる」
愁衣さんと並び、駅前から見える大きな建物を目指す。白と青で構成された涼しげな看板の横には、可愛らしいイルカのマスコットがそっと添えられている。
夏休み初日の今日、わたしたちは水族館に遊びに来たのだ。
◇◇◇
チケットをかざして改札を抜けると、目の前に広がる青く幻想的な世界。上下左右を覆うアーチ型の水槽には、エイやウミガメ、群れで泳ぐ色鮮やかな魚たちが優雅に泳いでいる。見とれるように周囲に目をやりながら歩いていて、ふと自分の口が開いていたことに気づく。
「ねぇ、こはる」
「ん? なに、愁衣さん?」
「さっき外で言いそびれてしまったのだけど、こはるの今日の服装も、とっても可愛いわね」
「そ、そうかな。ありがと。……中学のときから着てるやつなんだけど、ちょっと子どもっぽくない?」
「そんなことないわ。すごくよく似合ってる。Tシャツのロゴは可愛いし、大きめのサイズ感がショートパンツとよく合っていて、全体のシルエットもバランスがいいわ。足もとのフリル付きの靴下がほどよくガーリーさをプラスしていて……」
「あ、ありがとう。そこまで考えて着てきたわけではないんだけど……愁衣さんって、ファッション詳しいんだね」
「特に、ショートパンツから覗く足が最高だわ。夏だし、適度な肌見せは着こなしにおける最適解よね。ショートパンツだと、いつもは制服のスカートに隠れて見えない部分までよく見えるからいいわよね。ほんのりと日焼けした健康的な美脚……こはるの足って本当に魅力的ね」
「あ、えぇと、ありがと……。足自体の評価は、服装の評価とあんまり関係ないような気がするけど……。あ、あのさ愁衣さん、せっかく水族館に来てるんだから、わたしの足じゃなくて魚を見ようよ。エイとかウミガメとか……あ、あそこにウツボもいるよ」
「あぁ、こはるの生足……」
「……聞いてる?」
アーチ水槽の通路を抜けると、まずは淡水魚のコーナーがわたしたちを出迎える。川の上流・中流から、徐々に海へと至る流れになっているようだ。実物で見るオオサンショウウオの大きさに驚いたり、トビハゼのぴょんぴょん跳びまわる姿に愛らしさを感じたりしつつ、展示は海のエリアへ。淡水魚エリアに比べて、南国の熱帯魚やサンゴのカラフルな色味が目を引く。
「あ。見て、愁衣さん。クマノミだよ」
目の前のサンゴ礁を模した水槽の中で、特徴的な白とオレンジの体色をした魚がゆらゆらと泳いでいる。群生するイソギンチャクの間を縫うように。中には、そこにひっそりと身を潜めてこちらを窺っているようなのもいる。愁衣さんが隣にやってきた。
「本当だ。映画は観たけれど、実物を見るのは初めて。可愛いわね」
「ね。本当にイソギンチャクと仲良いんだ……。なんか、ずっと見ていたくなるね」
映画でも見たことのある、クマノミがイソギンチャクと身を擦り合わせるやりとりが、いままさに目の前で行なわれていた。彼らにとっては生きるために必要な本能としての行動に過ぎないのだろうけど、こうして見ていると仲の良いもの同士がじゃれ合っているように見えて、やっぱり愛らしい。
——と、愁衣さんがわたしに肩を寄せてきた。
「ん……なに?」
「見ていると、私たちも体を擦り合わせたくなってこない?」
「ならないよ。離れろ」
「じゃあせめて、手を繋ぎましょう」
「嫌だよ、こんな人が大勢いるところで。……ち、ちょっと、そんなぐいぐい体押し付けてこないでよ。それ以上やったら、走って逃げるからね」
「ファインディング・こはる」
「逃げても必ず見つけ出してやる、ってこと? やめてよ、怖いな……」
海水のエリアを奥へ進むにつれ、次第に照明が暗くなり青の色合いが濃くなっていく。これもだんだんと海の深くへ潜っていっていることを表現する演出なのだろう。ナポレオンフィッシュやクエ、マアジの回遊水槽など展示のスケールの大きさも次第に大きくなっていき、スロープになっている細い通路を抜けると、とうとう目の前に視界すべてを覆うような巨大水槽が現れた。サメやマンタ、大型のエイなどが悠然と、どこか誇らしげに目の前を行き交う姿に、わたしも愁衣さんもこのときばかりは言葉を失い目を奪われた。まるで一本の壮大な映画を観ているかのようだった。
「いやぁ……すごかったね」
大水槽の余韻に浸りながら順路を歩きつつ、隣の愁衣さんに声をかける。と、愁衣さんがいない。あれ、と後ろを振り返ると、通路の分岐点で壁のほうを向き、ひとりぽつんと立っている愁衣さんの姿があった。視線の先には「ラッコのごはんタイム」と書かれたイベントの張り紙がある。ごはんタイム……ラッコのショーみたいなものかな? 愁衣さん、とわたしは近寄って声をかける。
「それ、時間ちょうどこれからだね。見たいの?」
「見たい」
「ラッコ、好きなの?」
「好き」
「へぇ……」
「こはるの次に」
ラッコと比べられて何と言えばいいのかはわからないけど、話している間も愁衣さんの視線は張り紙のラッコの写真からぴくりとも動かない。愁衣さん、ラッコ好きなんだ。なんか可愛い。いつもは雄弁な愁衣さんがこんな原始人みたいな受け答えになるくらいだから、相当好きなんだろうな。ラッコのごはんタイムか。まぁ、べつに急ぐ理由もないし……。
「行ってみる? ごはんタイム」
そう言うと愁衣さんは目をきゅっと細める笑顔になって、
「うん!」
と大きく頷いた。
◇◇◇
水槽の前には、すでにかなりの人だかりができていた。予想どおりカップルや子どもが多いけど、一人で来ていると思しき人や、待ちかねたように早くもカメラを構えて準備している人の姿もある。世の中にラッコファンはけっこういるらしい。
「ラッコ、ラッコ……」
うちのラッコファンも祈るように両手を組んで、そわそわとアクリルガラスの向こうに目をやっている。——と、
『はーい! みなさん、お待たせいたしましたー! これよりラッコちゃんたちのごはんタイムの始まりでーす!』
という、マイクを通した女性の声が聞こえてきた。直後、水槽の奥にあるゲートが、ガシャン、と開かれる。お待たせ、といった具合に、二匹のラッコがスイスイと水面を泳いで現れた。
「わぁ……」
ショーの主役の登場に、周囲が歓声に包まれる。隣で愁衣さんも静かに感嘆の声を洩らしていた。
『さあ、ララちゃんにルルちゃん。まずはみなさんにご挨拶のポーズをしましょう。はい、バンザーイ』
ヘッドセットマイクを着けた飼育員さんがそう言うと、二匹のラッコが揃って両手を顔の横に上げる。再び歓声。拍手の音と、「かわいー!」という無邪気な子どもの声も聞こえてくる。
「おーすごい、本当に万歳してる。可愛いね、愁衣さん」
「えぇ、とっても」
愁衣さんはうっとりしたように呟く。ご満悦のようだ。見に来てよかった。
『ふたりとも、今日のごはんはイカとホタテだよ。お客さんに向かって、可愛く『ちょうだい』のポーズ、できるかなー?』
飼育員さんが言うと今度は、二匹とも揃って両手を頬にムニッと当てるような仕草をした。周囲が湧く。
「えー、なにあのポーズ! めっちゃ可愛い! ね、愁衣さん?」
「……うん、そうね」
『はーい、ふたりとも上手にできましたー。それじゃ、ご褒美あげようねー。……って、あ! ルルちゃん、先に取ろうとしちゃダメだよ! それはララちゃんの分でしょー!』
観客の間に笑いが起こる。待ち切れなかったのか一方のラッコが、飼育員さんが腰に提げたバケツから直接エサを取ろうとしたのだ。わたしも思わず笑ってしまう。
「あはは。あの子、お腹空いてるんだね。可愛いなぁ」
「こはる」
「あ、愁衣さんも見てた? あっちのルルちゃんって子、お茶目で可愛いね」
「こはる、私は?」
「うん? なにが——」
「私は可愛い?」
「……え。あ、あぁ、うん……可愛いよ」
「うふ。よかった」
『よしよしルルちゃん、今度はちゃんといい子にできたね。はい、じゃあルルちゃんにも、おいしいホタテさんだよー』
飼育員さんからホタテを受け取ったルルちゃんは、お腹の上に乗せた白いダイヤ形のおもちゃに向かってカツカツとホタテを打ちつける。おもちゃは硬いプラスチック製らしい。ちなみにララちゃんのほうはハート形だ。
「おぉー。ラッコって本当にああやってお腹で貝割るんだねぇ。可愛い」
「こはる」
「……なに?」
「私は? 私は可愛い?」
「はい、可愛いです……」
「よかった」
「……」
『ん? どうした、ルルちゃん? ——え、おかわり欲しいの? もー、しょうがないなぁ、ルルちゃんは。じゃあちゃんとお客さんに『おかわり』のポーズしよ。おねがーい、って』
ルルちゃんは神社で参拝するときのように、両手を顔の前で合わせて小さく上下に振る。温かな笑いと、「いいよー!」と答える甲高い子どもの声が響いた。
「えーもうあざといなぁ、あんなポーズ。ほんとかわい——」
「ねぇこはる、私とどっちが……」
「うるさいなぁ、さっきからッ!! ラッコと張り合うな!! ちょっとショーに集中させてよ! ——っていうか愁衣さん、ラッコ好きなんでしょ!? わたしじゃなくて、ラッコを見ろ!!」
その後もララちゃんとルルちゃんはわたしたちにいくつもの「芸」を披露してくれた。飼育員さんから渡された三角コーンを両手で抱え、水面をくるくる高速回転したり、飼育員さんが投げたおもちゃを立ち泳ぎの状態でキャッチしたり……中でも、壁の高い位置に貼り付けられたイカを水面から勢いよくジャンプして取る、通称「イカミミジャンプ」は見ていて圧巻だった。
『はーい、それでは今日のごはんはこれでおしまいでーす! ララちゃん、ルルちゃん、今日もよく頑張ったね。みなさん、頑張ったふたりに、最後にもう一度大きな拍手をお願いしまーす!』
楽しい時間はあっという間に終わる。二匹のラッコは最後にまた万歳のポーズをして、飼育員さんと一緒にゲートの向こうに去っていった。この水族館では体調管理とストレス軽減のため、ラッコが見られるのはこの「ごはんタイム」のときだけらしい。
ショーの終演とともに、集まっていた観客たちは結び目が解けるみたいに一斉に外に向かって流れ出す。その波に押し流されるようにしてわたしも通路に出た。すると、
「——あれ? おい、晶斗は?」
「え? うそ、いない? ……どこ行っちゃったのかしら、あの子」
夫婦らしき二人。人混みに紛れて、子どもがはぐれてしまったのだろうか。子ども連れで来ていると、そういうことがあるから大変そうだ。
「愁衣さんも、はぐれないように気を付けてね」
わたしは冗談めかして言ってみる。——と、隣にいると思っていた愁衣さんの姿がない。あれ、とラッコ水槽のほうに戻ってみるけれど、そこにもいなかった。ショーが終わって閑散とした水槽の前で立ち尽くす。
まいったな。まさか本当にはぐれちゃうなんて。とりあえず、チャットにメッセージを送ろう。
再び通路に出て、わきに置かれたベンチに腰を下ろす。まぁ、むこうもわたしがいないことに気づくだろうし、すぐ返信が来るだろう。
そう思って待つけれど、返信はなかなか来ない。なにしてるんだ? もしかしてわたしがいないのに気づかないまま、先のエリアを一人で楽しんでるとか? だとしたら、ちょっと寂しいな……。
返事は一向に来ない。もう電話だ、と発信ボタンを押しスマホを耳に押し当ててみるけれど、聞こえてくるのは無機質な呼び出し音のみ。えぇ、いったいどうしちゃったの、愁衣さん……?
立ち上がり、もう一度ラッコ水槽のほうへ行く。いない。通路に戻り、来た道を逆行してみることにした。どこに行っちゃったんだ、愁衣さん。まさか本当に「ファインディング・愁衣さん」をする羽目になるとは思わなかったよ……。
と、そのとき、ピンポンパンポン、と館内のスピーカーからチャイムの音が聞こえてきた。なんだろう。
『お客様にお知らせいたします。ただいまインフォメーションカウンターにおきまして、迷子のお子様をお預かりしております……』
あぁ、迷子か。もしかして、さっきの子かな。無事にお父さんお母さんと会えるといいけど……。
『——からお越しの、愁衣水汐ちゃん……」
うちの子だった————————!!!
(②へ続く)




