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袖振りて 縁結ばれし 宵の月  作者: 水城


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第90話

 庵は鎌槍を構え、深く息を吸う。肺の隅々、指先の筋肉に至るまで酸素を送り込み、普段は眠っている細胞を活性化させていく。目の前の強者を仕留めるために、不必要な感覚は削ぎ落とし、斬り捨て、殺し…戦いに必要な感覚だけを残して押し広げる。


《神と崇められし存在、淀み溢るる山川の怪異

 数多の命を喰らい、我が前に立つ者よ

 その間合い――今、侵す


 庵は姿を消した。

 土煙を僅かに残し、魑魅に向かって足を踏み出していた。


《我が身、時を駆け、一歩の隙、その刹那さえ許さず

 巨躯を超え、瞬く間に神域へと踏み入らん


 魑魅が身じろぐ度、崩落する山肌を躱し、揺蕩う大地を踏み締め、流れ狂う河川を飛び越え、避けきれぬ鉄砲水をいなして逸らす。たとえ、骨が軋み、肉が徐々に引き延ばされようとも庵は目測した最短距離から外れることなく、その速度を上げ続けた。でなければ、動きに適応した魑魅の猛追に圧し潰されるからだ。

 人間が山一つと対峙するかのような圧倒的な差、大地、木々、川、霧…環境そのものに魑魅の意思が宿っているかのように、庵の命を呑み込もうとする。

 だが、その魔の手よりも速く動けば問題ない。

 死と隣合わせであっても、庵は冷静に戦況を判断していた。毎秒、四方八方から迫りくる脅威全てを認知し、走力を上げることで対処、避けきれないものは鎌槍で処理する。強者を前に昂り、戦意が膨れ上がっていたとしても…薙ぎ払い、祓いのけ、ついに魑魅の神域へと足を踏み入れた。


 ―――禁忌である。


 たとえ、怪異の側面があったとしても、魑魅は神である。

 山林、河川の瘴気、精気が形を成した存在である。

 山に登ることを許そう、神は寛大である。

 川で遊ぶことを許そう、神は寛容である。

 だが、だが、だが、神域に足を踏み入れることは許さぬ。

 神罰に値する。


「…」

 このままでは死ぬな。

 魑魅の意識が己に向いたことを庵は感知した。皮膚が恐怖に引き攣り、脳が…血が…死を察知して警鐘を鳴らす。あと数歩もせぬうちに、今の何倍もの質量によって身体が引き裂かれる。だが、止まったところで待つのは死のみ。…ならば、突破する他ない。

 鎌槍よ、力を貸せ。

 魑魅が畏れているのは自分ではなく、この神秘を帯びた鎌槍。突けば貫き、寄らば刈る…穂先は急所を外さず、刃が地を舐めるようにして禍を切り裂く。この鎌槍こそが身体を貫き、神核すらも打ち砕くと魑魅自身も理解している。


《鎌槍よ、全てを貫く一撃となれ


 庵は鎌槍を強く握りしめ、松木家として命令する。

 出力を上げろ、宿している神秘はこんなものではないだろう。

 そんなにやわな鍛え方をしていない、出し惜しみするな。

 空には魑魅の怒りに呼応するように満月を覆い隠すほどの曇天が再び形成され、雹いや地面に叩きつけるような激しい雨、雷が周囲に降り注ぐ。氾濫した河川から押し出された土砂が、木々や岩を巻き込んで庵へと襲い掛かった。しかし、理不尽ではない。この死は罰当たりな者への必然である。

 魑魅による不可避の連撃を…庵は生き抜いていた。

 踏み込んだ地面が抉れ、先程よりも加速したことに気づいた庵は、僅かに瞠目したものの即座に適応した。その身を幻の如く揺らめかせながら、何倍もの速さで魑魅が産み落とした怪異を刈り取り、広範囲の土石流を乗り越え、神域を踏破し続ける。

 庵の動きについていく身体は、常に捻じ切れるような痛みが襲い、体中の血管が高速で脈打っては心拍数を上げ続ける。五感も認知する感覚をこじ開けられ、最大まで拡張されていた。鎌槍を握りしめる手も庵が力で抑えていなければ痙攣し、鎌槍を手放してしまうだろう。だが、手放せば最期、魑魅の怒りによって死を迎える。

 脳が、本能が自壊すると慄くが、庵は笑っていた。

 自覚していないセーフティーネットが取り払われることで、己が戦いに特化していく感覚、想定していた以上の力が眠っている事実が嬉しかったのだ。限界を迎えては限界を踏み越え、再び限界が目前に迫り、乗り越えることを繰り返す。己が鍛えた体は、どの程度まで通用するのか、庵は錯乱しかけた頭で考え、人の身で…限界を超え続ける。

 神域を侵し、踏み荒らし、漸く魑魅の神核を捉えた庵は、山河を駆け抜け、飛び上がり、邪視の真下…その神核へと狙いを定めた。


《一突きにて必滅を届けよ》


 庵の手から放たれた鎌槍は空気を切り裂き、周囲の瘴気を浄化していく。拳大の雨が降り注ごうとも、穂先は真っ直ぐ魑魅の神核を貫かんと岩を割り、地面を抉りながら突き進む。

 しかし、数秒遅かった。

 長年に渡る松木家の拘束を薙ぎ払うほど、魑魅は力を取り戻していた。

「…っな」

 庵は正確に神核を捉え、鎌槍を放っていた。しかし、僅かに自由になった魑魅は少しの身動きで地面を隆起させ、岩を飛ばし、丘を築き、鎌槍の射線を塞いでいく。それを貫こうとも、魑魅は身体を削られるたび、血を流すように眷属である蛇を生み落とし、瘴気を吹き上げる。物理的な障害、魑魅魍魎の名に恥じぬ怪異という霊的な障害を前に鎌槍は徐々に勢いを無くし、全ての障壁を貫き、周囲の怪異を祓い、魑魅の身体を穿つも…神核にヒビを入れるに留まった。

 全身全霊、捨て身覚悟で鎌槍を放った庵は地面に向かって自由落下していた。その目が魑魅を仕留め損なったと認知するが、上空から降り注ぐ落雷が庵に直撃する。

 限界を踏み越えていた身体では回避できず、神経を焼かれた衝撃であらゆる感覚が急停止し、意識がホワイトアウトする。肉体が硬直したせいで受け身も取れず、庵は地面へと叩き落とされた。圧し潰すかのような一撃に庵は地面を何度もバウンドしながら転がり、地に伏せたまま動かなくなった。

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