第9話
間延びした声が背後から聞こえ、二人が振り返れば、血眼で間下を見つめながら泣くサラリーマンが立っていた。その首や腕はあり得ない方向に折れ曲がり、背中から赤錆びた白い翼を垂らしている。
「ぁ」
油断していた。
「っ」
一瞬だったということもある。だが、なによりも理解しがたい何かから即座に逃げるという判断ができなかった結果、二人が何かアクションを起こすよりも早く、怪異は間下へとあっという間に距離を詰めた。
「間下!」
志貴の伸ばした手は間下に届かず、怪異は喚きながら間下を抱え上げるとビルの外壁に飛びついた。
「っく、そ! は、なせ」
床屋の外壁から伸びるスポットライトのアームを掴み、間下は怪異に向かって声を荒げる。
「は、はなし、やっぱり、はなしきいてくれるんですね、あなた、ましたさんですよね、はなし、きいてください、とこやさんでよくあいましたよね、てんいんさんによくたのまれて、はなしきいてあげてましたもんね、は、はなし、けいさつだからですか? いつも、ごくろうさまです、はなしきいてください、なら、だから、ぼく、ぼくの、はなしもきいて、はなしきいてください」
「ぃ゛っ」
怪異は頼み込むような口調で間下の腕に手を伸ばすと、スポットライトから間下の手を引き離す。まるで、赤子の手をひねるように間下の腕を掴み上げ、怪異は痛みに呻く間下を抱え込んだまま、ヤモリのようにビルを這い上っていく。
「アンタ…」
間下は遠くなる地面と志貴を確認しながら、怪異を観察していた。そのスーツ姿と血眼の顔には覚えがあった、ビルから飛び降りたサラリーマンだ。だが、生前の空元気や気弱さ、優しさといった人間性が失われているようで、人語を介しているというに全く会話が成り立たない。そして、人間にあるはずのない翼は嫌でも目に入る。それは、翼の形をした鳩の死体の塊だった。羽ばたく力はないのか、ただ男性の背中で揺れている。
「はなしきいてください、ま、ましたさん、とこやさんで、おはようございますっていったら、いつもかえしてくれて、うれしかったでっす、だから、こんかいも、はなしをきいてください、ありがとうございます、はなしきいてください」
「…話してみろ」
否定か、受容か、間下は三階の外窓の枠に手をかけながら、怪異に話をするように促す。今ここで手放されても、転落の未来しか見えず、隙を見るためにも怪異の願いを聞いてやることにしたのだ。
「はなし、きいてくれるんですね、ありがとうございます、ぼく、ハトニンゲンなのにとべなくて、このビルから、何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も、とんでるのに、とべ、とべなくて、ここからとんでるんです、まいかい、まいかい、じめんにおちて、いたくて、ぼく、だめ、でき、わるくて、しってますか、ここからじめんにおちると、とってもいたくて、まいかい、まいかい、いたい、しぬ、しにます」
怪異は間下を抱えたまま、屋上まで登りきると振り返って、間下と共に屋上から地面を見下ろした。間下の背中に悪寒が走る。
「なら、飛ぶのをやめろ」
「ぼく、ひとりぼっちで、おちて、いたくて、はなし、きいてほしくて、とこやさんに、はいっても、てんいんさん、きづいてくれなくて、まいかい、まいかい、おちて、さびしくて、いたくて、でも、もうだいじょうぶです、ましたさん、いるから、さびしくないです、ましたさん、ずっとぼくのはなし、きいてください、も、まいかい、まいかい、じめん、おちても、さびしくないです」
「おい、下ろせ!」
間下は踵を屋上の縁に引っかけ、怪異の腕に爪を立てる。だが、怪異は怯みもせず、歓喜の相まった慟哭を繰り返すばかりだ。
「も、さびしいのは、いやです。さびしい、いや、いっしょ、いっしょに、おちてください、これからも、ぼくのはなしをきいてください」
――――あぁ、落ちる。
間下は体から血の気が引いていくのを感じた。口から「待て」という言葉が形にならないまま、吐息のように漏れ出て、受け身の準備をしろと身体に指令を出すが、委縮していた。
「………ひっ」
「話を聞かせてくれ!」
飛び降りが実行される寸前で屋上の扉が開き、志貴の声が辺りに反響する。
『話を聞かせてくれ』
その言葉に誰よりも反応を示したのは、怪異だった。屋上の端でぐるりと身を翻して、怪異の目にビニール袋を握り締めた志貴が映りこむ。
「ここに酒とつまみもある。だから、その、飛ぶ前に話を聞かせてくれないか」
志貴は困り眉で微笑む。だが、油断はしていなかった。怪異がこの提案に頷くかどうかは、一か八かの賭けだったからだ。
「………はなし、きいてくださーい」




