第87話
「……はぁ」
折られた足の痛みに耐えながら、庵との対話を壱衛門は思い出していた。
最後まで虫唾の走る男だった。奴の正体を暴かなければ、こんなことには…と思いもしたが、それはそれで気が済まない。と壱衛門は深呼吸するように目をつぶる。
庵秀一という人間を一目見た時から、只者ではないと分かっていた。しかも、あの松木家の血を継いでいる。何度か関わって、可能性は確信へと変わった。
奴は化け物だ。
己を善人だと思い込んでいる修羅だと分かった以上、みすみす見逃すようなことはできなかった。
それが、あのような結果を齎そうとも…。
「そんなに深くため息をついたら、幸せが逃げちゃいますよ?」
和泉に覗き込まれた壱衛門は、しっしと手で遠ざける。
「寄るな。松木潔子に付いていけと言っただろ」
壱衛門は手製の墓地で時が来るのを待っていた。村にある小山の頂上にして、村で最も天国に近く、障害物が少ない場所…魑魅の邪視を射貫く役目を果たすに相応しい高台であった。ここで一人、魑魅と向かい合う。そのはずだったが、和泉は壱衛門が怪我をしているという理由で言いつけを聞かず、壱衛門の元に残っていた。
「壱衛門さん、怪我してるのに支えが無かったら危ないですよ」
要らぬ世話を焼かれている。不服であると壱衛門は睨みを利かせるが、視線に気づく気配すらない。そもそも、和泉は支えると言うが、これから矢を放つ際の衝撃を考えれば、和泉が支えたとしても支えにならない。
「何があっても、視線を上げるな」
なにより、和泉が迂闊過ぎて、見ている壱衛門の方が心臓に悪いのだ。邪視を見れば、ただでは済まない。死ななければならないという強迫観念にも似た呪いは人間に耐えられるものではない。邪視を見た瞬間、自死する。だが、その目を撃ち抜かなければ、こちらに勝ち目はない。
射貫ける機会は一度だけ。
死を覚悟で直接、奴の邪視を目視し、この弓で射貫く。
松木潔子が口だけの人間でなければ、魑魅の身動きが封じられる時が来る。壱衛門は視線を下げ、自分の手元にある弓をじっと見つめた。
元々は村の神社に鎮座していたご神体だ。火を司る神…火によって村に恵みをもたらし、村が松木家によって焼き討ちされた夜、助けてくれなかった神だ。
「………」
神様…
迦添村の神様
もしも、聞いているのならば、力を貸してください。
あの日の夜、犠牲になった村の皆のことを思ってくれているのならば、一緒に仇を討ってください。
「壱衛門さん、なんかゾワゾワします」
「馬鹿、顔を上げるな」
「そっちは見てないので、大丈夫なんですけど…ほら、雨も止んで…」
突如として雨雲が消え失せ、あの満月が現れた。全てを奪われた…あの日の夜に浮かんでいた松木家の満月が、空に浮いている。
松木家の連中が動き始めた…と肌が引き攣る。あの松木家と共闘をしなければならない…その事実を認識するたび、壱衛門の中で復讐心が燻るのだ。記憶が連鎖し、臓腑を揉みこまれるような吐き気が込み上げる。
俺の母を贄にし、俺の故郷を焼き払い、俺の体を地獄の釜に放りこんだ松木家を助ける価値はない。
だが…
「一つ、聞かせろ」
壱衛門は庵由良の皮を被った松木家当主・松木潔子に、一つの疑問を問いかけたことを思い出す。
「村中に花を供えたのは、お前か」
村が犠牲になってから幾星霜、異界となり、忘れ去られた村に壱衛門以外の人間が供養に来ることはなかった。だが、数日前、村の全てに壱衛門の知らぬ花が供えられていた。
異界に迷い込んで、この村に辿り着き、花を盗んでいく輩は今までにいたが、花を供えていく者はいなかった。供えるということは、この村に起こった悲劇を知っているということだ。そこまで考えて、壱衛門は一つの可能性を頭に導き出した。
松木家の連中か…?
最近、松木家の動きが活発になっていることは察知していた。だが、まさか、ありえない…そんなことをするような奴らではない、自分の思い過ごしだと思っていた。その可能性を壱衛門は問わずにはいられなかった。
「はい、私です。村にした仕打ちは松木家の悪行であり、決して忘れてはいけない罪です。松木家の当主として、謝罪いたします」
松木潔子は言ってのけたのだ。目の前で頭を下げて、申し訳ございませんでした…と謝ったのだ。
あの松木家が…当主が…。
謝らせたというのに、多少すっきりしただけで虚無にも似た感情ばかりが溢れて、言葉が喉に突っかかった。今思えば、もっと罵っていれば、土下座でもさせれば、もっとスッキリしたのかもしれない。これも全て、あの化け物に足を折られたせいだ。
「はぁ…」
「また、ため息!」
「深呼吸だ。静かにしろ」
松木家を許したわけではない。あの日、村の皆の声を…俺の声を無視したというのに、あのような言葉と態度だけで水に流せるはずがない。だが、ここで助けなければ、奴らと同じだ。見殺しにした松木家と…。
『私の方で魑魅の動きを止めますので、その隙に最大出力でお二人には神器を放っていただきます。一人目が邪視を潰し、二人目が神核…心臓を砕くことで、魑魅を祓えます』
松木潔子は宣言通り、魑魅の動きを封じた。
……次は俺の番か
壱衛門は目をつぶると足を肩幅程度に開き、重心を土踏まずの上へと置く。腰を立て、背筋を伸ばし、全身で支えるようにして弓を魑魅へと構えた。




