第85話
「……」
志貴はあまりの光景に固まっていた。
レコーダーは潔子からの預かり物だった。正確には和泉から渡されたものだった。いつの間にか、和泉のリュックにレコーダーと「志貴っていうおじさんに渡しておいて」というメモが一緒に入っていたそうで、和泉から潔子、潔子から志貴へと渡っていた物だった。それがまさか、人を死に追い込むような呪詛で満たされている物とは思っていなかったのだ。
呪物は…レコーダーは役目を終えたかのように沈黙している。
「お兄様! 後悔してる暇はありません」
「潔子! 間下?」
志貴はハッとして周囲を見回す。先程から「まつのきのかごにわ」に向かったはずの二人の声が聞こえるのだ。まもなく、鏡の一つに潔子と間下が映っていることに気がついた。よく観察すれば、儀式場を囲うように設置された鏡全てが、監視カメラの映像のように別の部屋…各地の贄の間を映し出していた。
「当主様、今は魑魅を対処すべきです」
「あ、あぁ…」
「魑魅は…あと数刻もせずに、完全に目覚めるでしょう」
「地鳴りが強くなってきているからな」
「…天災封神祭には、三人の生贄が必要です。既に、大威清佳様が霊体、松木潔子…私が肉体を捧げています。…あと一人」
「その身体の持ち主を捧げるつもりじゃないよな」
間下は背後から睨みを利かせる。
「…捧げるのは私、松木潔子です」
「なっ」
「お兄様、これで本当に最期のお別れです」
「もう一度、自分を捧げるつもりなのか!」
「これ以上、犠牲を出さずに魑魅を止める方法は、これしかありません」
「待ってくれ。他の手はないのか」
「「まつのきのかごにわ」を使用しても、行きついた先はここでした。もう、この手しかありません」
「だが…だが…」
動揺する兄を落ち着かせるように、潔子は優しい声音で事実を述べる。
「当主様、私は既に死んでいます。この体も由良様から借りているもの、いつまでも借り続けることなど罷り通りません」
「…」
「私の成仏に力添えすると思って…腹を括っていただけますか」
記憶通りだ。志貴の中で松木忠輔の記憶に見た潔子と一致する。決意した潔子は止められない。妹の決意に泣きついて嫌がる兄でも居られない。
だから…
「これっきりだ…」
言葉に詰まる兄を潔子は黙って待っていた。
「…もう、誰かを犠牲にするのは、これっきりだ」
兄として妹の決意を、松木家当主として元当主の決断を…見届けなければならない。
「願わくば…私もそうであって欲しいです」
優しく甘い兄の言葉に潔子は微笑む。
「それでは、今度は妹からのお願いです。お兄様、どうかお元気で…すぐには難しいかもしれませんが、独りで抱え込む癖を治して、生を謳歌してください。任せてしまった当主の仕事は大変ですけれど、松木家のすねかじりと言われないように働いた方がいいかと思われます。それと、お兄様は友達なんて出来ないと言っていましたが、ちゃんと友達も出来たじゃないですか。する前から諦めるようなことを…今後しないでください。いくら寂しがっても、私はもう化けて出てきませんからね」
「……潔子、すまな…いや、ありがとう。最期まで俺のために…」
泣きそうになるのを堪える兄に潔子は微笑み、贄の間の中央に立って口を開く。
「松木家よ、聞き給え。松木潔子を松木家当主に捧げます。どうか、松木家の血よ…当主松木忠輔に力を与え給え」
勇ましい宣言は響き渡り、呼応するように部屋が揺れる。次には、ドクンッと体中の血管ではない管が志貴の中で大きく脈を打った。
「っ!」
支えを失ったかのように由良は崩れ落ち、間下は頭を打たぬように受け止めた。由良は安らかな顔で眠りについており、もう潔子の気配は感じられない。
「…」
「…志貴」
「分かってる…今は、魑魅だ」
山川を司る神霊にして、魑魅魍魎の名を冠する強大な怪異は古き楔を断ち切り、真の力を取り戻さんとしている。
「魑魅よ、これで最後にしよう」
志貴は目をつぶり、吹き放しへと顔を上げる。対するは、淀み膨れ上がった大怪異にして神霊「魑魅」、現世へ顕現せんとする。これより先に進むこと許さず、再びこの地に留め置くと志貴は魑魅に両の掌を向け、松木家当主として宣う。
《我は干支の血筋、その血を継ぐもの
その宣言に応えるように、儀式場を囲う鏡は水面のように波打ち、いくつもの波紋を生み出す。
《陰陽の道に基づき、暦の上に記されたる、天の運命を識る
三つの花、夜空に舞い散り、時、刻み、月を満たす
目をつぶっている志貴には見えていなかったが、魑魅の周囲で吹き荒ぶ嵐は晴れわたり、曇天よりいでし満月が魑魅を見下ろしていた。
《満ちし月は光放ち、神威を招き寄せ、深淵を照らす
数多の尊き犠牲のもと、岩を裂きて、地より出でんとする、山のごとき御身
その瞳は死を宿し、今現世にて力をふるわんとす
山の神、山川の怪異、魑魅よ
月は今満ちた、天の運命、 日月星辰、天の暦に従い、
―――その力、月に呑まれよ》
欠けることを知らぬ月の光は、魑魅に巻きつく三つの楔の姿を浮かび上がらせる。時を経て劣化し、朽ちかけた楔…数年前の天災封神祭の時のものである。今にも千切れそうな枷へと重ねるように、新たな三つの楔が魑魅へと伸び、巻きつき、その御身を縛り上げた。
「っ!?」
両手を引っ張られるような感覚に、志貴は見えぬ手綱を握るようにして力を籠める。万が一にも邪視を見ぬように俯いて、なんとか床を踏みしめた。
直感だった。
この手が握っている何かを手放してしまったら、魑魅は完全に解き放たれる。そんな気がしたのだ。それだけは絶対にあってはならない。志貴は目を閉じたまま、体勢を立て直し、手足に力を込めると、今度は空を見上げるように体を後方へと倒しながら、ただ踏ん張る。
なるほど、潔子の言う通りだ。
魑魅を討つことは不可能。したがって、犠牲のない封印方法を探して封印を維持すると言った意味がよく分かる。
これはジリ貧だ。
封印が解けたばかりで、本調子ではないはずの魑魅でさえ、この荒ぶりよう…。たとえ、こうして抑えることが出来たとしても、それ以上の対抗策がなければ、遠からず限界を迎える。だが、今は魑魅を仕留める手立てがある。そのために、他の皆が動いている。ならば、それを信じて、その時が来るまで耐えるほかない。




