第84話
志貴はすだま神社で妹に教えられた通り、儀式の準備を行っていた。由良の姿をした潔子は庵たちに共有した内容、和泉からの預かり物を自分に渡すと、間下と共に儀式を成功させるための準備へと向かってしまった。
すだま神社は大きく崩れていたが、儀式を執り行うのに必要な儀式場だけは形を保って残っていた。贄の間と同じような構造だが、鏡に囲まれた広間で唯一…柱だけしかない吹き放しから魑魅が封じられていた磯城がよく見える。
…今は、そこから邪視を見ないように注意しないといけない。
「…ふぅ」
志貴は当主の重みを感じていた。当主が儀式の際に着用する衣冠単を着ていないというのに身体は重く、不安で胸が張り裂けそうだった。だが、宣言した以上、松木家の当主は自分なのだ。もう昔のように、家に引きこもって役目から逃げることも、妹の後ろに隠れることもできない。いや、初めから出来なかったことだ。なのに、潔子が頑張ってくれていたからこそ、成立していた。
「不甲斐ない兄で、すまない…」
肩を落とす志貴の背後で、扉が静かに開く。
この瞬間を、玉得綾子は待っていたのだ。
庵秀一の凶行に後れを取った彼女だが、呪術を通じて魑魅の権限の一部を借り受けていた。その力を行使することで駒の一つを魑魅の眷属へと作り変え、人類の裁定者と成りうる魑魅を封じようとする松木家の妨害を行い、ひたすら時を待っていた。
すだま神社の主として堂々と儀式場へと足を踏み入れ、お淑やかに…音を出さぬように…ゆっくりと志貴の背後へと歩み寄る。志貴は目の前の儀式に集中しており、警戒が疎かになっている。松木家当主として、魑魅を再び封印しようとしている志貴に向けて、玉得綾子は手元に隠し持つナイフを構えた。
「お兄様! 後ろ!」
「…っ!」
儀式場には自分と松木忠輔しかいない、そのはずなのに…。
聞こえた女性の声に玉得は怯み、志貴は少し遅れて振り返る。気づけば、ナイフを振りかざす玉得が眼前にまで迫っていた志貴は、寸前のところで持っていたカバンを持ち上げ、ナイフを受け止める。だが、玉得が臆したのは一瞬、カバンから即座にナイフを引き抜くと、再び志貴へと狙いを定めた。
「下がれ!」
玉得は横一線にナイフを振るうが、またもや、どこからともなく聞こえた声に反応した志貴が後退って避ける。代わりに、カバンのショルダーベルトが切り裂かれ、床へとカバンの中身がぶちまけられた。それでも、あまりの勢いにバランスを崩した志貴を追い詰めるように、玉得は散らばる障害物を踏み越えて襲い掛かる。
『玉得綾子』
足元からノイズ混じりの声が聞こえた玉得は止まりかけるが、驚いて固まっている志貴の姿にナイフを勢いよく振り上げる手を止められなかった。ここで殺してしまえば、松木家本家の血筋…つまり、魑魅を完全に止められる者は居なくなる。魑魅の完全なる封印だけは避けたい玉得は、この絶好の機会を逃すわけにはいかなかった。
『ちゃんと魑魅の目を見なよ』
儀式場に血が滴る。
―――松木家の血ではない。
玉得は志貴の背後…吹き放しから魑魅を見つめ、その腹に自ら刃を突き立てていた。
「かはっ…」
玉得の足元には、レコーダーが転がっていた。
玲奈が「切り札」として常に持ち歩いていたモノだ。
玉得は争いを好みませんといった顔をしながら玲奈の言霊を全て弾くほど、付け入る隙がない。だからこそ、一言一句に呪を込めた「言霊」を玲奈は録音していた。頼人を惑わす玉得を殺すために、玉得が油断する時を虎視眈々と待っていたのだ。玲奈が生きている間に、その瞬間が訪れることはなかったが…因果応報なのか、玉得が踏みつけた拍子に、それは再生された。
霊的にも、物理的にも対策せずに言霊を聞いた玉得は志貴を刺す直前で、吹き放しから魑魅を見上げた…邪視を直視したのだ。
思考は侵食され、行動は上書きされ、勢いよく突き出したはずのナイフは志貴ではなく、己の臓物をえぐっていた。まるで、介錯のない切腹だ。
『そんなに魑魅様が愛しいなら、目を逸らすなよ。滅されるのは「悪しき魂だけ」なんでしょ?』
レコーダーから響く声は玉得を嘲るように嗤いながら問いかける。清廉潔白を纏った玉得に対する嫌味だ。レコーダーに残る言霊は玉得への恨みつらみ…その呪詛は玲奈が死してもなお、頼人に施した所業への復讐で満ち溢れていた。
「えぇ…そうです。魑魅様は…正しい」
玉得の顔が歪んだのは一瞬、最後の最期で飼い犬に手を嚙まれたことによる苛立ちではなく、自害に伴って発生した痛みによる歪み。玉得はすぐに恍惚とした表情で魑魅を見つめながら、前へと歩みを進める。
「魑魅様は、善悪を、判断し…善なる魂を救い、悪しき魂に死を与える、裁定者…。私は、松木潔子を殺し、何人もの人間を死へと追いやった悪人、この裁きは…正しい」
「危ない!」
儀式場の吹き放しの先は、今や磯城が崩れ落ち、断崖となっている。志貴は死にかけている玉得に手を伸ばすが、玉得はそれを振り払って足を早めた。
「松木家の…贄には、なりません」
玉得綾子は信心深い巫女である。
善行を尊び、困っている者には手を差し伸べ、苦しむ怪異の話を聞いて成仏を手伝う。しかし、いくら各地で説法しても犯罪は無くならず、真面目な善人が淘汰される。
そんな世界に玉得は嫌気がさしていた。
そんな矢先、天災封神祭の贄として、玉得は攫われた。
理由は霊力に優れた女性であったから。玉得に非があったというわけではない、単に贄として都合が良かっただけだ。松木家に拘束され、贄の間に連行されそうになった時、玉得は神という存在を疑った。
信心深く、徳を積んだとしても、このような末路なのかと…。
しかし、奇跡は起こった。
魑魅の呪いが放たれたことで、その場にいた松木家全員の生命力が吸われ、玉得のみが生き残ったのだ。偶然か、玉得の信心深さに応えた神による御力か、あるいは玉得の言う通り、魑魅が裁定者として審判を下したのか…どちらにしても、玉得だけが助かったという事実は変わらない。
少なくとも、この奇跡に対面した玉得は「神が悪しき魂を滅し、善なる魂を助けた」と考えた。
―――神は居たのだと実感した瞬間だった。
これを機に、かねてから思い描いていた勧善懲悪の世界という理想実現のために、己を助けた神について玉得は調べ始めた。呪術を学び、松木家に入り込み、松木忠文を唆し、「魑魅」という存在を知った。
玉得は意外にも魑魅の封印維持を望んだ。しかし、松木家と考えは異なる。
完全に封じれば、魑魅は現世に干渉できなくなり、逆に封印を解いてしまえば、魑魅の威光によって人類は自滅する。何事も適切な距離というものがあるのだ。玉得は封印を緩めた状態を保つことで、魑魅が支配する世を願った。
たとえ、玉得が経験した出来事が、魑魅が近くにいる生命を無差別に吸収し、封印を解く糧にする過程で起こった奇跡だったとしても、魑魅は玉得を救ったのだ。
喜びを頬に浮かべ、顔をほころばせる玉得は魑魅を見つめたまま…崖へと身を投げた。




