第82話
「マズイですね。間下様、魑魅の目を見ないように注意してください」
「だいぶ、離れたぞ。この距離でも危ないのか」
「はい。バックミラー越しでも目を交わすのは非常に危険です。細心の注意を払ってください」
異界は静寂に包まれている。人はおろか動物も、魚も、虫もいない、代わりに人ならざるモノが跋扈する。そんな世界に車の駆動音が響いていた。助手席に座る潔子の指示で間下は車を走らせていた。目指すは「まつのきのかごにわ」、松木家が所有している建物であり、一度は自分たちを殺そうとした不気味なカラクリ屋敷だが、隣にいる元当主が言うには魑魅攻略の手がそこにあるらしい。
「ちっ、こっちも駄目か」
「迂回しましょう」
普段ならば、とっくのとうに「まつのきのかごにわ」についている時間だが、封印が解かれた余波で生まれた地割れが間下たちの歩みを邪魔していた。天気まで魑魅の味方をするかのように雨が降り始め、道路が瞬く間に黒く変色していく。
「…時間がないようです。少し飛ばしていただけますか」
潔子が喋っている間も地響きは続いており、予断を許さない状況であるのは分かっていた。
「…正直、驚きました」
助手席から魑魅の動向を伺っていた潔子の言葉に間下は意識を向ける。
「生者に憑依した死者が協力を申し出る…この信じがたい現象を間下様が信じてくださるとは」
「喋っている場合か」
「こんな時だからこそです。急いて判断を間違えぬためにも、お話ししていただけませんか」
「…さっきのアンタの話だが、庵由良は、こんな状況で悪趣味なことをするタイプじゃない。それに、アンタの事件に関する知識量、志貴の反応を見ても、アンタが化けて助けに来たという事実を信じるしかないと判断しただけだ」
「刑事の直感というワケではないのですか?」
「ないと言えば嘘になるが、直感だけで動けるほど、俺は天才じゃないんでな」
「そうだとしても、適応力が高いですね。普通ならば、もっと動揺してもおかしくはありません」
「アイツと行動していれば、いやでも慣れる」
「…ふふっ」
「何、笑ってる」
「お兄様に友人が出来て、嬉しいのです」
「友人…まぁ、そうだな。数日程度の仲だが…」
「されど、数日です。ドライブの話題には、少しばかり重い話ですが…お兄様には友人がいませんでした。人見知りで、ちょっぴり偏屈というのもありますが、松木家本家の人間だから、怪異事件に巻き込むと危ないから…と、兄自身が友人を作ろうと致しませんでした。ただでさえ、松木家との関係も悪いというのに…」
「だが、妹のアンタが居たから、孤独じゃなかったんだろう」
「…え?」
「松木忠輔のことは、志貴から聞いてる。普通の人生なんか送れるわけがないと意固地になって妹に頼りきりな人生だった、申し訳なかった…と言って、うじうじ悔やんでいやがった」
「お兄様が、そんなことを…」
「あと、言っておくが、俺が知っているのは、記憶喪失のお人好し…志貴だけだ」
「それでも、大きな一歩なのです」
潔子は常々思っていた、松木家や怪異の存在が壁になっているだけで、心根の優しい兄なら友人が作れると。しかし、そんな簡単に松木家のしがらみを断つことはできない。年齢的にも一から人間関係を築くことは難しいと諦め、せめて自分だけでも兄を支えようと潔子は兄を守り、外に連れ出しては新たな人間関係が始まるきっかけを探していた。
不幸中の幸いか、兄は記憶喪失になったことで、新たな人間関係を築かざる負えなくなった。そして、隣にいる間下が潔子が考えていた兄の可能性を証明してくれた。
「それで、お兄様は…」
潔子が間下に目線を向けようとした時、道路の煌めきに気がついた。
―――死にたい
視認と同時に脳を支配する呪いを反射的に潔子は断ち切るが、間下はアクセルを踏み込み、急旋回するように大きくハンドルを切った。
死にたい、死にたい、死ぬ、死、死、死死死死、し、し
間下は前方を見ていた。決して、魑魅の邪視を見ぬように進んでいた。そもそも、山のような巨体の頭部…もはや山頂から放たれる邪視の視線と目が合うはずがなかった。だが、魑魅の顕現に伴って降り始めた大雨によって出来た水たまりは、鏡面のように太陽でも、空でもなく、魑魅の邪視を反射した。間下は前方の水たまりに映った邪視を視認しただけである。ただ、それだけ。それだけで間下は大きくハンドルを切り、反対車線に飛び出した。
―――死にたい
『生きて』
間下は街路樹にぶつかるギリギリでハンドルを切り返す。邪視を直視していたならば、この瞬間をもって、間下は死んでいた。水たまり越しの邪視であったがゆえに、潔子の力で相殺することが出来たのだ。だが、これは一度で終わらない。目的地の「まつのきのかごにわ」に着くまで、間下の自我はろうそくの灯のようなものだ。




