第76話
まさか、あれほど好き勝手に言っておきながら、今更逃げられるとでも思っていたのか? 俺を理解しておきながら、本当に逃げられるとでも…? あぁ、もしそうならば、同情しよう。その慧眼がなければ、こんなことにはならなかっただろう。
「ひっ……」
底冷えするような恐怖が全身を駆け巡り、逃げたくとも逃げられないという事実に壱衛門は怖じ気づいた。
「どうした、壱衛門? 何故、子供のように逃げる。何故、いつものように賢く立ち回らない。何故、弓を離している」
庵は壱衛門の胸倉を掴んで地面に押しつけ、その手から零れ落ちていた弓を拾い上げる。鎌槍と同じく神秘を帯びた弓…槍と鍔競り合いをしたというのに損傷した箇所はなく、今も怪異を退ける神聖な力を放っている。それを持ち主である壱衛門の掌に収めてやるが、壱衛門の手は震えており、どんなに挑発しても戦意が戻らない。
「…」
松木家に復讐する…その血を継ぐ者全てを忌み嫌い、罪人と称して呪い焼き尽くさんとする殺意、自らを火にくべながらも、復讐に燃え上がっていた戦意が…今は感じられない。
…今の壱衛門は、強者では…ない。
「俺が恐ろしいか…?」
戦意を喪失し、怯えるだけとなった壱衛門は戦える状況にない。
解っている。
―――だが、構わない。
数十年ぶりに本性を露にして生きる庵は、意地悪く…ほくそ笑んでいた。組み敷かれた壱衛門が口をはくつかせる姿は酷く嗜虐心を刺激され、庵は一つの考えを導き出した。
「そうまでして、俺から逃げるというのならば」
手に力を込める。
壱衛門の皮と骨ばかりの痛々しい足を強く掴むために。
「この足を折る」
「ぇ?」
…足を、折る? 俺の、足………
「…ぎっ!?」
脳震盪で濁っていた壱衛門の思考が、一気に引き戻される。足首に加わる異常なまでの圧力にミシミシと不吉な音が鳴り、徐々に足が変な方向へと曲がっていく。自分を押し倒す化け物の瞳に宿る執着、牙を見せつけるような加虐の笑みに身体は逃げようとするが、圧し潰されるようにして地面へと縫いとめられた。
「…いやだ、ゃだ、やだ!」
壱衛門は矜持をかなぐり捨てて、一心不乱に声を上げた。
「その危機察知能力…お前の良いところだ。だが、だが、今において…その反応は間違っている」
普段であれば、良心の呵責に苛まれるべき状況だった。だが、今の庵にとって、壱衛門の怯えた様子は悪性を悦ばせる、心地良いものであった。
「俺は壱衛門と話がしたい」
「やだ、やだ! おらないで! やだ!」
「壱衛門、教えてくれ。お前に感じる、この好ましさ、この煩わしさの意味を…。お前ならば…」
俺の本性を見破ったお前ならば…。
哀切を込めて淡々と言葉を紡ぐ庵を壱衛門は青褪めた顔で見上げていた。怒り、恐怖、悍ましさが、壱衛門の精神を蝕み、悲鳴を上げさせた。
「やだ、やだ、やだぁっ!…すけて、たすけて!
―――っあ"」
ぼきりと鈍い音、か細い悲鳴、大きく跳ねる身体…庵が手を離すと、壱衛門の足首は変に折れ曲がって揺れていた。
「…っひ、っ、ぅ、ぐっ、ぅ…ゆるして、やだ、たずけて、こわい、やだ、やだ…」
何故…?
何故、何故…壱衛門は離れようとする、俺から。
片足一つでは、足りないというのか?
ずっと前から…俺は、我慢していた。本性を抑えつけ、この昂りを殺し、善人として生きてきた。己が本性から目を逸らし、自ら首を絞めて苦しんでいた。それを教えてくれたのは…いや、見つけてくれたのは、壱衛門…他でもないお前だ。
「お前は俺を救ってくれた。だというのに、俺から逃げようとする…」
決して、決して、逃がしてなるものか。
俺も欲しいのだ、本音で話しあえる存在が、ずっと欲しかった!
もう片方の足先を握りしめ、庵は祈りを述べる。
「どうか、俺の傍にいてくれ。この本性を独り飼い殺すのは、あまりにも辛い、苦しい…」
「やめ゛っ」
「お兄ちゃん!!」
………由良?




