第75話
その顔を見た時、反射的に栗立つ背中が告げた、「間違えた」と。
本能が、体が、魂が、恐れたのだ、目の前の男と対峙することを。
化け物め…。
ただでさえ、実力差があったというのに、今では攻撃を先読みされ、矢が掠りもしない。唯一の取柄だった俺の眼も、どうやら節穴だったらしい…奴の本質を見誤った。
あれは修羅だ。
戦い以外のものを削ぎ落とした…戦いに生きる化け物。
「くそ、くそ、くそ…終われない」
まだ、終われない。だが、全て出し切った、もう手札がない、ならば…。
それゆえ、壱衛門は敵前逃亡、背中を見せてでも全力で逃げたのだ。ガチガチと勝手に打ち震える歯を無視して、慣れ親しんだ森へと走る。
何だ、あの男は―――ああ、身の毛がよだつ。
走れ、走れ、あの場所から少しでも離れるべきだ。
少しでも…
「どこへ行く、壱衛門」
直後、壱衛門の側頭部に鋭い痛みが走る。
庵の拳だ、殺傷性を落とした一撃が側頭部を打ったのだ。
「がっ!」
痩せぎすな体はあっさりと吹き飛び、近くの大木へと叩きつけられた。当たりどころが悪く、蹲る壱衛門の視界は歪み、猛烈な吐き気が追い打ちをかける。それでも、この場から逃げるべきだと訴える直感に壱衛門は従った。
「っ……ぁっ…ぐ…」
しかし、身体に力が入らず、壱衛門は立とうにも立てずにいた。
「すまない。逃げ出そうとしたので、先に手を打たせてもらった。大丈夫か?」
自分でやったというのに、心配そうな顔をした庵が悠々と追いついてきた。庵は覗き込むように座り、今しがた殴りつけた壱衛門の傷を診るが、その目は疑問と悦びに帯びていた。傷を診終わると、痛みに目を細める壱衛門など気にもせず、その体を支えて隣に座らせる。
「何故、逃げた? 帰る場所など、この村以外なかったと思うが…どこに行こうとした」
「…」
「どうした、壱衛門? かかってこい…松木家に復讐するのだろう?」
「…」
「戦いの最中に逃げ出すというのも…らしくない。逃げ出せぬよう、足を折るか? ああ、安心してくれ。あまり痛くないようにする」
常軌を逸した発言に、ヒュッと喉をか細く鳴らした壱衛門の背を庵は優しく撫でた。
「いや、待て。俺は構わないが、壱衛門の負担が大きいな…。それに、戦えなくなってしまう」
相手の意思を挟まず、全てを自己完結させている言葉の数々に壱衛門は戦慄した。
脅しではない。この化け物は…今、心の底から妙案だと思って、俺に提案したのだ。やると決めた時には、本気でやり遂げるだろう。今も楽し気な笑みを浮かべながら、俺の足を折らんばかりの力で握っている。
「…なんのつもりだ、庵 秀一」
下手に逆らえば、壊される。そう判断した壱衛門は庵の言葉に応えた。会話の主導権まで奪われることを防ぎつつ、察知した違和感を確かめる。目の前の化け物ならば、先程の頭部を狙った一撃で自分を殺すことが出来たはずだ。だが、無傷ではないとはいえ、自分はまだ生きている。頑丈な身体だと自負している壱衛門だが、それでは説明つかない何かを感じ取っていた。
「会話がしたくなった」
「くだらねぇ、化け物の妄言を冥途の土産に聞かせるつもりか」
「…つれないことを言う。だが、どうとでも言え。隠し事をしても無駄なようだからな」
「喋りたきゃ、勝手に喋れ」
庵にそっぽを向いた壱衛門は全身を叩きつけられた痛みに奥歯を噛み締めながら、歪む視界で逃走経路を探していた。
「ここで殺すには惜しい。だが、見逃すこともできない…そう思った」
「……ァ?」
「壱衛門…」
突然、喜色を滲ませた庵の声に、壱衛門は背を震わせる。
「は、離せ! ふざけるのも大概にしろ!」
このままでは不味い。壱衛門は自身の体を支える庵を振り払い、森へと這いずろうとした。だが、間髪入れずに腰を掴まれ、引っ張られながら体の向きを反転させられる。ちょうど、向き合うような体勢になった時、目の前にあったのは…瞳孔が開ききった庵の姿だった。
「………何故、逃げる?」




