第73話
クルクルとバレリーナのように、はしゃいでいた由良が足を踏み外して、山道の外へと落ちた。
それを助けようと足を踏み出し、由良を助けた…と思ったら、いつの間にか地面へと横たわっていた。どうやら、由良の代わりに自分が転げ落ちたらしい。
そう気づいた途端、足から響く激痛に眉をひそめた。
辺り一面、木に囲まれており、薄っすら霧も出ている。父親と由良の名を呼び、助けを求めたが、自分の声が反響して返ってきただけだった。幼き自分は泣きそうになりながら、行く当てもなく森の中を歩き回り、やがて綺麗な花を見つけた。霧に阻まれ、日の光があまり差していなかったが、その名も無き花は健気に咲いていた。
「…」
突風でも吹けば、散ってしまいそうな花に手を伸ばした。
綺麗で、可愛くて、美しい花、その花全体を掌で覆うように包んで、力いっぱい握り締め…
「だめ!!」
横から腕を引っ張られ、潰されるはずだった花は僅かに身を揺らした。横を向けば、自分と同い年くらいの子が立っていた。
「ダメだよ。つぶしちゃ」
見られた…
「…キレイな花だったから、さわろうとしたんだ」
「ウソつき。その目で丸わかりだよ」
綺麗な顔に華奢な体つきだったが、その目は力強く己が悪行をじっと見抜いていた。
視られた、みられた…
………どうする?
「どうして、花をつぶそうとしたの?」
良い子に育ってほしい。
両親、先生、大人は皆、そう願う。
この平和で穏やかな秩序を守るためだ。その点で言えば、学び舎は素晴らしい。社会とはこういうものだという常識、平和がどんなに尊いものなのかを教えてくれる。だから、俺は社会の規範を学び、皆が望む善人であるように振る舞った。
俺の本性は、世間一般的には悪人に当てはまる。今後の人生を考えれば、この歪みは幼き日のうちに治しておくべきだ。
あるがままに過ごせば、社会は俺を排除するだろう。
俺が楽しめば、家族にも迷惑をかけるだろう。
ただでさえ、母を亡くして苦労している家族に、これ以上の心配はかけられない。だからこそ、俺は己の本性を抑えつけ、人として正しく、善人であるように努めた。
子供の頃の俺は、こんなに言葉を尽くせないだろうが、このようなことを漠然と考えていたと思う。
「わ…」
ただ、幼い俺は自制心が足りず、「良い子」でいられないこともあった。独りの時は特に我慢できず、己の悪癖を垂れ流してしまっていた。
「わ、分からない…」
この衝動、どう説明すればいい。この時の俺は頭が真っ白になり、それ以上は何も言えずに固まっていた。今、この状況において、花を殺そうとしたことは、どのような理由を述べても悪いことだ。幼いながら、頭の中で色々な言い訳を考えていた。
「かわいい子にはヒドいことをしたくなる」
「…え?」
「好きな子には、わざとちょっかいをかけちゃうものだって、お母さんが言ってた。キミはこの花が好きになったから、ちょっかいをかけそうになったんだね」
受容。
その時、初めて己の異常性を、悪性を受け入れられた気がした。その子は「でも、花をつぶすのは可哀想だから止めてね。ほら、こうやって優しく触って」と、俺の悪癖を叱りながらも、俺の手を取ってくれた。
花を殺そうとした、この手を。
俺の本性を垣間見た人間は大小等しく嫌悪を示した。当たり前だ。だが、この子は…接し方が不器用なんだと俺を笑った。
俺は、それが…とても嬉しかった。
「この気持ちが…そう、なの…?」
「気持ちまでは分かんないよ…。それで、何でこんなところに……え!」
その子は俺の足の具合に気がつくと、慌てた様子で怪我の心配をした。促されて、これまでの経緯を話すと更に驚き、持っていたものを置いて、応急手当をし始めた。
「お母さんの手伝いで山菜をつんでたんだ。村まで送ってあげるよ」
笑顔でそう言われた時は何故だか泣きそうにもなったが、その時は男の意地で我慢した。
その後、肩を貸してもらい、ゆっくりと山の中を歩いた。霧のせいで景観は良くなかったが、小鳥の声が遠くで響き、木々の間を通る風は心地よく、遭難中とは思えないほど穏やかな時間が流れたものだ。
しばらく、道なき道を歩いていると、「あ、そっちにかくれて」と突然、身体を押されて、その子と一緒に木立ちの中に転がり込んだ。
どうしたのかと意図を尋ねる前に、アレは現れた。
白いペンキで塗ったかのように白く角ばった人体に猪の頭をした怪物。
俺が「怪異」という存在を初めて見た瞬間だった。人でも、獣でもない気配と力を放つ怪異は、ゆっくりと木立ちの横を通り過ぎていく。異形の存在が見えなくなるまで、声も出なかった。
「今のは…?」
「山に住んでる悪い怪物、山や川から生まれてきたらしいよ。つかまったら、魂を吸われちゃうんだって」
「悪い、怪物…」
「山で迷子になったら、イノシシとクマ、怪物に気をつけろって言わない?」
今思えば、あの村の山には怪異が動物のように潜んでいた。
「そうなんだ。戦ったら…」
きっと、楽しい…そう思った。だが、同時に今の自分では勝てない、何もできずに死ぬとも分かっていた。足を怪我していたというのもあるが、単に未熟だった。元々、悪性を昇華させるために鍛えていたが、超えるべき相手にまみえた今、それは児戯に等しかった。強者の頂へと立つためには、あのレベルまで身体能力を引き上げなければならないと痛感させられた日だった。
「ダメだよ! 倒してくれたら、助かるけど…あぶない」
「…わかった。今はムリかもしれないけど、いつかオレが倒すよ」
これは、どちらにとっても益のあることだ。俺は欲を満たしつつ、助けてくれた君に恩返しが出来る。
「本当に? じゃあ、いつかズバッと倒してね」




