第58話
「兄…さ」
クラゲのように暗闇を漂っていると、誰かが呼んでることに気がついた。
「兄さっ!」
誰かに呼ばれている。
力を込めた、手に。
「兄、っ、く、るし…!」
力を込めた、手に。
…どうして?
微睡む思考が疑問に思い、目を開けて両手に視線を遣ると、靄のかかっていた意識と共に視界が鮮明になり…妹の首を絞めていた。
……どうして?
首を絞める、首、首を、絞める、首を絞める、手に、込めた、仕方ない、首を絞める、くく、首を絞める、力を込めた、首を絞める、仕方がない、絞める、絞める、尊き犠牲、首を、尊き犠牲、仕方がない、首を絞める、力を込めた、手に、首を絞める、仕方がない、尊き犠牲、尊き犠牲のために、首を絞める、手に力を込める、首を絞めるために…
妹の首を絞めるために…
「兄さま、し、き…磯城に、行って………」
「し、き…っ…に…」
「志貴っ!」
滲んだ視界が歪んで、目の前が明るくなる。気づけば、屋敷のベッドの上に居て…。
「………ぁ」
「っ、ひゅ…」
間下の首を絞めていた。
自身の角ばった手が間下の首を捉え、手の甲の骨や血管が浮き出るほどの力を込めていた。ドクドクと脈打つ肉、色白の肌が一層白くなり、間下の目尻に溜まっていた涙が零れていく。
「…し、き」
掠れた声が名前を呼ぶ。
痙攣する指先が手を掴む。
志貴は飛び退くように手を離し、ベッドからずり落ちた。間下はごほっごほっと激しく咳き込みながら身を起こし、ベッドの上でうずくまる。
「……ひっ…ひっ…」
怖かったのだ。
志貴は顔面蒼白で逃げ出した。手の震えは未だに止まらず、間下が「待て」と言いたげに伸ばした手すらも無視して志貴は走り出していた。体中の末端から血の気が引いていき、何度、足がもつれて転んでも、這うように立ち上がって足を動かした。
俺は、俺は…妹を、尊き犠牲と言って、殺した、のか…
その、手で…間下も…
気がつけば、屋敷の奥にあった部屋へと逃げ込んでいた。身体が覚えていたのか、曖昧な記憶が導き出したのか、子供の頃、どういった場所なのかも知らずに何度も隠れ場所として出入りしていた部屋…贄の間へと足を踏み入れていた。
ここだ…。
ここで、妹を……。
あれは夢だ。浅い眠りが導いた記憶を失う直前の出来事、俺は…妹を殺したのか。尊き犠牲という名目で妹の首を絞めて…殺した。俺だ、俺のせいで…どうして、妹を殺した。
どうして、何も思い出せない?
記憶喪失になったのは………罪から、逃げるため……?
「志貴!」
贄の間に怒号が響く。膝を抱えて座り込んでいた志貴は後ろから肩を引っ張られたかと思うと、額に青筋を張った間下が視界に映り込む。志貴が何かしらの行動を起こすよりも早く、間下に胸倉を強く強く掴まれ、思いっきり殴られた。
「どういうつもりだっ!」
容赦なく放たれた拳が頬を打ち、衝撃で志貴の脳が揺さぶられる。地の底を這うような声での詰問だが、その首には痛々しい痕が残っており、まだ声も掠れていた。
「……」
「答えろ」
「………っ、ず……ぅぅ、っ…うぁあぁぁ」
面食らったのは、間下だった。
殴られた志貴が目を見開いたかと思うと、目から大粒の涙を流しながら、わんわんと声を上げて泣き始めたのだ。自分よりも幾らか年上の男が胸倉を掴まれたまま、縋るように、みっともなく…泣いている。その様は、追い詰められた幼稚園児の大号泣と大差ない。当惑した間下は一旦、あらゆる感情を呑み込み、ひとまず志貴の背をさすって宥める他なかった。
「す、まなかっ…た」
数分後、しゃくりを上げながらも会話が可能になった志貴の謝罪を不服ながらも間下は受け取った。懺悔するように喋っては泣いていた志貴の話をまとめると、自分は妹を殺した人殺しであり、間下すらも絞殺しようとした罪人だと泣き喚いていたのだ。自分を逮捕してくれと訴えてくる志貴に間下は大きなため息を吐いた。
「アンタは、まだ記憶を取り戻したばかりで混乱している。そんなアンタの証言より、信頼できる奴がいるだろ」
「…な、に」
「過去視だ。この場所がアンタの言う殺害現場なら、現場がありのままの真実を語る」
間下は贄の間を見渡し、口の端を静かに持ち上げると志貴に手を差し出した。その手を掴みかけて、志貴は視線を漂わせる。間下が暗に示している希望的な提案に縋りたいと思いながらも、裁かれるべき真実が待っているかもしれない、間下を再び傷つけるかもしれない、そういった恐れを感じて、手を引こうとした。だが、逃げることは許さないとばかりに舌打ちされ、手を掴まれる。
「っ…!」
血が沸き立つような奔流と共に目を閉じて開けば、志貴の両手は妹の首を絞めていた。
力を込めた、首を絞める、仕方がない、絞める、絞める、尊き犠牲、首を、尊き犠牲、仕方がない、手に力を込める、首を絞めるために…
「兄さっ!」
頭に鳴り響く声や掌から伝わる生々しい感覚に手を引こうとしたが、夢ではなく過去の追体験ゆえか志貴の意志では、どうにもならなかった。自分の手によって妹の顔から血の気が引いていく…その様子を見ていられず、目を背けようとした。だが、「志貴」と間下に耳打ちされたような気がして、再び目を開ける。
「兄、さま、く、るし…!」
妹の死を見届ける間際、下腹部に妹の蹴りが直撃する。あまりの痛みに悶絶して床に倒れたと同時に、妹の手が両耳を包んだ。
滲んだ視界に映る潔子の顔は、悲しみでも、怒りでもなく…
『忘れて』
慈しみの顔だった。
同時に、脳を蝕む何かが打ち消されて、何もかもが漂白されていく。
これは潔子の力だ。松木忠文と同じく、言葉に呪を交えて発することで意味を成す、言霊に近しい洗脳の力…。この後、俺は気を失って、記憶喪失になった。
なら、潔子は生きているのか…?
「さすが、次期当主と言われた才女だ」
過去の記憶ゆえに気を失った松木忠輔の身体を動かすことはできなかったが、志貴としての意識を保ったまま、声がした方へと視線を動かした。贄の間の奥には、既に怪異へと変貌しつつある松木忠文が気味の悪い笑みを浮かべて立っていた。




