第51話
その表情に大きな変化はないが、目元に隈のようなものが生まれ、肌もよく見れば真っ青になっていた。これまでの庵と比べると、呼吸も荒く、息が乱れている。
「問題ない。まだいける」
「ダメだ」
怪異から目を離さず、向かっていこうとする庵を見た間下は会話をしている余裕もないと庵の覚束ない足取りを支えて出入口へと後退る。
「今ならば、討てる」
庵の言う通り、怪異は天井の梁で動きを大きく制限されている。通常の庵ならば、打倒する絶好のチャンスなのかもしれないが、今の庵は壁に手をついて怪異を見据えるばかりだ。間下は庵の腕を掴んで、背後を確認しながら出入口へと走り出す。
その先に、弓を構えた壱衛門が立っていた。
「燃え散れ…」
放たれた矢は轟轟と荒れ狂う火となって志貴たちの真横を横切ると怪異に突き刺さり、炎は怪異を焼き尽くさんとばかりに包み込む。それでも、やはり煩わしそうにする程度で止まらない怪異の執念に志貴は目を見張った。
「志貴、そのまま由良を運べ」
拳銃を構えた間下に言われ、何故だと言いたげな庵の代わりに志貴は改めて由良を背負い直し、庵にも手を貸そうとしたところで首を横に振られる。
「逃げるだけならば、支えがなくとも平気だ」
「俺が殿を務める。お前らは前方に注意しながら進め。なにかあれば、すぐに伝えろ」
間下の指示に頷き、志貴は庵の腕を掴んで和泉に走り寄る。和泉の隣に立っていた壱衛門は怪異を見つめたまま、近寄ってきた志貴達に舌打ちをしてから口を開く。
「…和泉、北東奥の部屋だ」
壱衛門の言葉に和泉は「分かりました!」と大きく頷いて、地図を見ながら走り出す。
「大丈夫か」
「問題ない、はずだが…」
そう答える庵の表情は苦し気だ。志貴は由良を背負い、血の気の引いた顔をしている庵を気にかけながら和泉と壱衛門の後を追う。怪異と距離はあるが、あちらの方が何倍も早い。怪異が部屋から出てくる前に、どうにか姿をくらます必要がある。
和泉は手製の地図を広げながら「ここ…!」と言って、扉を開けると先程より狭い小部屋へと辿り着いた。
「行き止まり…?」
「そこの奥、空洞だ」
壱衛門は細く角ばった指を部屋の奥にあるクローゼットに向けた。茶室のような部屋に鎮座する桐が使用されたクローゼットは厳かな造りで、取っ手部分には南京錠が掛かっている。
「…」
間下はトントンと辺りの壁を叩いて目を細めた。
「あぁ、音が軽い。奥に部屋があるんだろう。このクローゼット、南京錠もそうだが、見た目に反して重厚だな。クローゼット自体、壁にベタ付けされて厳重に固定されてる」
外見はクローゼットだが、まるで金庫の扉だ。簡単に退けることも、開けることもできない。
「どうにかして、開けられませんか?」
和泉の問いに間下は胸元からペンライトを取り出し、南京錠の鍵穴を覗き込んだ。その様子を眺めていた和泉は閃いたと言葉を続ける。
「たしか、間下さんは銃を持っていましたよね。その銃の持ち手で、ガンっと壊すのはどうでしょう? あ、銃とガンを掛けたわけじゃ…」
しょうもないギャグを言ってしまったと照れる和泉だが、映画やゲームで鍵を銃で殴ったり、撃ったりして壊すシーンを思い浮かべたのだ。
「銃身がダメになる、却下だ。もちろん、発砲も跳弾の危険がある、却下」
「! まだ撃って壊すとまでは言ってませんよ…」
「だが、アンタのヘアピン二本を犠牲にしてもいいなら開けられる」
「本当ですか」
嬉々として手渡されたヘアピンをテンションとピックに加工して、間下は不器用ながらも鍵開け作業に取り掛かる。
一方、志貴は由良をゆっくり下ろすと壁にもたれかかるように寝かせ、いつも以上に口数の少ない庵へと目線を向けた。
「体調、悪そうだな」
「迷惑をかけた、申し訳ない。……疲れているとは思っていたが、ここまでとは…。熱もないので…」
平然を装おうとしているが、庵の顔色は目に見えて悪くなってきている。頭を下げた拍子によろけ、指先は僅かに震え、言葉も変に途切れている。その危うい姿に志貴は首を横に振った。
「あまり無茶をしないでくれ」
「?」
「君に、もしものことがあったら由良も悲しむだろう」
妹想いの兄と兄想いの妹、お互いに想いあっている兄妹だ。二人のどちらかが欠けることなど、考えたくもない。
「……そうか。それは考えたことがなかった」
「庵?」
「…俺が死んだら、由良を頼めるだろうか」
恐ろしいことを口にする庵に志貴は困惑した。思考まで朦朧としているのか、言葉に容赦がないものだ。
「だいぶ、具合が悪いようだな。俺の素性を忘れたのか?」
死ぬことを前提にした話の突拍子の無さもあるが、自分の名前すらも忘れた記憶喪失かつ無一文の中年である己に由良を任せるなど、考えているようで先を見据えていない発言だ。
「……?」
若干、目の焦点も合っていなければ、会話もどこか噛み合わない。まるで熱に浮かされているような症状だが、額に手を当てても本人の言う通り、高熱は出ていない。
「いつから、なんだ?」
「最初に、あの怪異に襲われた時だ」
壱衛門と一触即発の事態に見舞われた際、由良に斬りかかってきた怪異の攻撃を防いでから、庵の身体は鉛のように重くなっていったそうだ。あの双子と会話している最中も体が重怠かったそうで、志貴の目から見ても、今の庵は立っているだけで、やっとの状態のようにみえる。少しでも安静にして欲しい志貴だったが、庵は怪異を警戒しているのか、一向に座る気配がない。
「風邪ではない。少し休めば、平気だ」
「だが…」
どう見ても、やせ我慢だった。時が経つにつれて酷くなっているのか、先ほどの戦いで限界を迎えたのか、常に表情に険しさを感じる。それに、本人も気づいているのか分からないが、思考能力も低下していて、感情を抑えきれていないのが志貴の目から見ても明白だった。
「呪いだ」
突然、声が聞こえたかと思うと、陰から嗤うように壱衛門が死角に立っていた。間下に南京錠の開錠を任せた壱衛門は、ざまぁみろ…と言いたげな笑みをたたえて庵を覗き込みに来ていた。余裕のない庵はすぐさま鋭い視線を壱衛門へと返す。その目を壱衛門はニタァ…と嘲笑い、次には足払いをするように庵の足を蹴りつけた。庵は後ろへと飛び退いて避けたが、着地と同時によろけて床へと膝をつく。
「はっ、このザマか。無様だな」
「…っ、ぐ…」
庵は立ち上がることも出来ず、額に汗を滲ませながら壱衛門の動きを目で追っていた。壁に手をついて睨んでくる庵の様子に壱衛門は口元を歪ませ、光のない眼差しで見下ろす。




