第32話
「志貴さん、大丈夫ですか? 酔っちゃいました?」
由良に声をかけられて、志貴は我に返る。昨日、また夢を見たのだ。しかし、今度は全くと言っていいほど内容を思い出せない。けれど、妙に胸に引っ掛かり、思い出そうと瞑想、思考していた。
「大丈夫だ。少し考え事をしていた」
後部座席にいる由良に心配ないと志貴が言葉を返すと、由良はほっとした顔で酔い止め薬を鞄の中にしまった。そんな妹を横目に庵は間下から渡された「例の資料」へと目を通していた。
「寝ぼけていただけだろ。なんせ、出るギリギリまで惰眠を貪っていやがったんだからな」
運転席から呆れた声で、志貴が寝坊したことを告発する言葉が飛んでくる。困り顔で志貴は「うーん」と唸ることしかできない、事実だからだ。
「それにしても、『まつのきのかごにわ』が建物の名前だったとは」
そう、間下流に言えば志貴が惰眠を貪っていた時、間下は早起きをして、独り「まつのきのかごにわ」について調査を開始していた。ぐっすり眠っていて、間下の声掛けにも全く気がつかなかった志貴はゆったりと起床して、目にしたのは「出かけてくる」という簡素な書置きのみ。起き抜けに、そんな目覚めの一撃を喰らわされた志貴が慌てて家を飛び出そうとした時には、既に調査結果をまとめた間下が帰宅するところだった。
「心配したんだぞ…」
間下がどこに行ったか分からない恐怖、玄関で鉢合わせた時の安堵感…この感情のジェットコースターを味わって朝から心臓に悪い思いをした。そんな気持ちが込められた眼差しと抗議を含んだ志貴の言葉に、間下はさほど気にしていない様子で生返事をする。あちこちで怪異が跋扈する異界で単独行動するなんて危険だが、間下が持ち帰ってきた情報は、それだけのリスクを支払うに値する代物だった。
「まつのきのかごにわ」というのは、犬鳴市環橋町にあるオフィスビルだった。築年数がかなりのものだが、取り壊さずに何度も改修工事して生き長らえている古いビルであり、現在の土地主・ビルの持ち主はいずれも松木潔子という人物だ。
松木家についても記述があり、建物はもちろん山や川などを多く保有している有名な資産家一族だが、神社や寺への寄付、供養等に力を入れているせいか、呪われた家系、一族の多くは短命らしいという噂が囁かれている。その中でも、松木潔子は若くして松木家の現当主を引き継ぎ、家族経営の流れでビルを引き継いだとある。
「オシャレだね!」
件のオフィスビルが見えてくると由良は車窓に顔を寄せ、兄の裾を引っ張りながら声を上げた。時代に合わせて改修工事をしてきたのだろう。ビルの見た目は現代芸術のように複雑で、遠目から見れば木で出来た虫かごのように見えなくもない。車を駐車場に停め、警戒しつつビルへと近づいていく。
「広いですね。ここに何があるんでしょうか…?」
窓越しに人のいないビル内を眺めながら由良が呟く。
「それを今から調査する。お前らは」
「俺たちも行こう。怪異の相手なら任せてほしい」
間下が待機だと言う前に、庵が言葉を遮った。
「私も一緒に行く! お兄ちゃんがいれば、怪異も怖…いけど、怖くないもん」
二人の申し出に間下はため息をついて、自分が先導することを条件に同行を許した。
ビル内はホテルの受付のような開放感のある構造だが、人気が無い広い空間ということもあって恐怖を抱かせる。しかし、閉館直前の美術館、博物館と思えば、少し不安を抱く程度だ。特に怪異の存在や痕跡を示す異変らしきものはない…近寄ってもいないのに開いたエレベーターを除いては。
「…間下」
「心配無用だ」
志貴が昨日のことを口に出す前に、間下はそう言い捨てて、スタスタとエレベーターに向かっていった。エレベーター内は明るく、ホワイトウッドと漆喰の黒を基調とした縦じまの壁紙が貼られ、操作盤の上にある表示灯は広告を垂れ流しにしている。その頭上、天井には満月があしらわれた照明が四人を照らしていた。
「綺麗だな」
「文字だ」
隣で同じく見上げていた間下の言葉に志貴は満月をじっと見る。満月の縁に沿って「ン六ン〒六丄夕五丄ン」と刻まれていた。
「え…ん、に……つ、く」
間下の手帳にある解読表を頼りに読み解けば、「えんにつく」という言葉だった。どういう意味だろうか。龍笛の持ち主である庵達ならば言葉の意味を知っているかもしれない。そう思い立ち、庵に声をかけようとして、志貴はエレベーターの駆動音に気づいた。
「っ!」
こちらのボタン操作や扉を押さえる手など無視して、エレベーターの扉が閉まり始めたのだ。庵や間下の渾身の力を以てしても扉は徐々に閉まっていき、寸前のところで扉から手を離すと完全に閉まり、今度は勝手に地下へと降下を始めた。
「どんどん下がってる…」
「由良、俺の後ろに」
「…」
「間下?」
「地下は二階までのはずだ」
間下の言う通り、操作盤のボタンは地下二階までしかないが、エレベーターは今もなお下がり続けている。
「画面もおかしくなっている」
由良を後ろ手に辺りをじっと観察していた庵はエレベーター内の表示灯の内容が変わっていることに気がついた。
【七引く六は一。七足す六も一。十引く九も一。
――では、十に四を足せば幾つになるか。】
おかしな数式だ。
「七足す六も一」の答えは十三のはずだが、一と書かれている。もしや、単なる間違いではなく、また龍笛と同じような謎かけだろうか。現状に関係があるか分からなかったが、変化があった以上、異常として庵は皆に知らせた。
「また、暗号なのかな」
由良は庵の後ろに隠れながら、表示灯の数式を見つめる。
「何か法則があるのか」
ストレートに考えるなら、十に四を足したら十四になるだろう。だが、そうなると、「七足す六も一」の意味が分からなくなる。
「時計か」
「…カレンダー」
間下と庵がほぼ同時に呟いた。二つの共通点を辿れば、自然と答えが導き出される。
「答えは二!」
由良も分かったのか、この状況で笑みがこぼれている。カレンダーと時計の共通点は、十二を区切りとしているところだ。カレンダーで言えば、十月に四か月分を足す。つまり、十月から四か月後は来年の二月となる。間下の考えならば、十時から四時間後は十四時(二時)と考えられる。
「それで、解いたわけだが…」
「んー、エレベーターのボタン、押してみます…?」
数字、数字と言いながら辺りを見渡して、由良は数字のボタンが並ぶ操作盤を指さした。慎重な二人は由良の提案に躊躇したが、志貴には躊躇など無くエレベーターの操作盤に手を伸ばし、止める間もなく「一・一・一・二」と押してしまった。その途端、エレベーターの動きが緩やかになっていき、まもなく停止したかと思うと扉が開いた。勝手に行動するな! という間下のお小言は、目の前の光景にかき消される。
「…」
エレベーターが止まった階、その扉の先は障子だった。




