第31話
「…………?」
志貴は目をパチリと開けて覚醒する。
静寂の中、音が聞こえた気がしたのだ。普段なら起きることはないが、何かをしている途中だったのか、眼鏡をかけた変な態勢で眠っていたので眠り自体は浅かった。身を起こすと辺りは暗く、まだ夜なのだろう。
その時、月明かりに照らされ、ソファに腰かけている間下が見えた。どうやら、缶ビールを煽っているようだ。
「…ま、した?」
掠れた声で呼びかけると、間下はぴくりと肩を震わせて志貴を見た。
「…起こしたか」
「寝ないのか」
「これを、飲みきったら寝る」
俯きながら答えた間下のどことなく歯切れの悪い様子に、ベッドに向かおうとしていた志貴はピタリと動きを止める。その姿がいつになく小さく見えた志貴は怠い体を動かして間下の横に座った。
「…なんだ」
気に障ったのか、単に寝不足なのか、少しばかり、しかめっ面の間下に睨まれる。
「喉、渇いて」
嘘ではない。体中の水分が抜けるような冷や汗を掻いておきながら、全然水分補給をしていなかったことを思い出したのだ。夏場なら熱中症になっていてもおかしくない。それほど、喉が乾いていた。近くにあったお茶のペットボトルに手を伸ばし、ゴクリと飲んで喉を潤す。
「…ふぅ。元気ないな」
「そう見えるか」
「見える」
まだ寝ぼけ気味の自分ですら察することができるほど、間下は落ち込んでいた。だが、一体、何故? 今までの出来事が祟ったのか、怪異を成仏させることは出来たが、金戸夫妻を救えなかったことか、いずれにしても間下は最善の行動を尽くそうとしていた。今日の出来事を振り返り、一つ思い当たる節があった。
「エレベーターの時の事、気にしてるのか…?」
普段なら読めない間下の顔が僅かに固まる。今思えば、あの時の間下は怪異に憑依されていたのだ。自分が怪異の殺意に吞まれかけたように、エレベーターを樽の中と捉え、飢えながら赤ワインに溺れていく少女の恐怖が、間下に影響を与えたのだろう。
ただ…それだけではないと、間下の態度が物語っている。
「明日も早いぞ」
早く寝ろと手で払われる。それは暗に独りにしてほしいと言っているようなものだった。望み通り、独りにしておくべきだろうとも思ったが、なんだか二度寝する気分でも無くなってしまったし、なにより…こんな間下を放っておくこともできないと思った。
お茶を飲んで口を開く。
「…無理には聞かないが、話したら楽になることもあるかもしれないぞ」
どんな人間にも弱気になる時間がある。今の間下は正に、その時だった。大人になってから、いや、仕事ばかりにかまけるようになってから、こういった時間は少なくなっていた。今日のように装えないほど弱った日は、いつだって部屋に籠って、普段なら見もしない深夜番組を垂れ流しながら酒の力を借りて眠るのだ。思考を鈍らせた姿は、とてもじゃないが…情けなくて、人に見せられるような面ではない。
ただ、この晩においては志貴がいた。
記憶喪失でどこか危なっかしいが、機転が利き、頼れるところもある。いくら独りになりたいからと言って、そんな初老のおっさんを自身の都合で外に放り出すことも、疲労で眠っている横で深夜番組を見て気を紛らせることもできなかった。せめて、酒の力を借りて静かにやり過ごせればいいと思っていた間下だったが、この男はそうも上手くいかせてはくれなかった。
「………家族の話だ」
生まれる数日前、不慮の事故で父と姉の「うた」が亡くなった。その時、妊婦であった母は、その事実を受け入れられず、産んだばかりの息子…俺に「詩」と名付けた。
死んだ娘と同じ名を与えて、自分の娘を生き返らせたんだ。
病んだ母は仏壇が見えているはずなのに、息子を娘だと思い込むことで精神を安定させていた。幼い頃は女の子でいることを押しつけられても、周りにどう言われようとも母が自分を愛してくれているなら、それでよかった。
「だが、母親が見てたのは、既に死んじまった俺の姉だ」
この愛情が向けられているのは自分ではない。その事実に気づいてしまった時、狂いながらも動いていた歯車は完全に破綻した。
『うたじゃないよ』
『…? うたはうたでしょう?』
『だから、お姉ちゃんのうたじゃないよ』
無邪気に否定したんだ、母の言葉を。洗濯物を畳んでいた母は俺を見つめたまま、困り笑顔で固まっていた。
『何を言っているの。これから、お姉ちゃんになるのに…』
優しい母は、もう平たくなった腹を撫で、黙りこくった。
そこで、間下は何かを我慢するように口を噤む。
「間下、嫌なら…」
「母さんは、俺を、段ボールに押し込んで…海に捨てた」
今でも、間下の心に深く刻まれている。抵抗むなしく大人の力で段ボールの中に押し込められ、ガムテープで蓋をされ、最後は激しい水しぶきの音、暗くて狭い箱の中に海水が流れ込んでくる、あの瞬間…。
「結局のところ、自分の思い通りにならない人形は要らなかったわけだ」
突き放した言い様だが、実際はトラウマに囚われ、自虐的になっている。志貴はどのような言葉をかければいいのか思いつかなかったが、代わりに腑に落ちたことがあった。今回の怪異の死に際と間下のトラウマはよく似ている。エレベーターでの、あの激しい取り乱しようは怪異に同調したのだ。それゆえに、あんなにも強く影響を受けた。
「ハズレで悪かったな」
「ん?」
「情けない様だ。俺は…自分が誰なのか、たまに分からなくなる」
今日のような出来事や名前を呼ばれるたび、自分は「うた」なのか、「詩」なのか…あの日の選択は正しかったのか、ひび割れた母の心にとどめを刺したのは自分なんじゃないか、「うた」のままでいたら優しい母が精神病院に行くこともなかったんじゃないか…過去の事をいくら振り返っても戻ることはないというのに、何度も何度も自問自答を繰り返す自分が出てくる。
…あぁ、俺は何を言ってるんだ。カウンセラーでもない志貴に言ったところで困らせるだけだろ。ただでさえ、記憶喪失で不安であろう男を、さらに不安にさせてどうする。
「間下をハズレだなんて、一度も思ったことないぞ?」
「…は」
「間下が傍にいてくれたから、俺は記憶が無くても冷静でいられたし、見捨てずに何度も助けてくれたから俺は今も生きてる。だから、その話に出てくる「うた」じゃなくて、俺は「間下」でよかったと思ってるよ」
「…」
「それに今日、間下が自分で言ってたじゃないか。他人が誰かに成り代わることなんて出来ないって…。間下は間下だ」
「……気色の悪い男だ」
「な、なんでだ…。俺は間下で良かったと心から思っているんだ。…だから、そんな悲しいことを言わないでくれ」
「…」
「どうしたんだ、さっきから? 不安になったのか? まし、痛った!」
間下に頭突きをされるように上半身で軽くタックルされ、志貴は小さな悲鳴を上げる。間下はそんな志貴の様子をフンっと鼻で笑ったものの、そっぽを向いたままで顔がよく見えない。だが、機嫌を損ねたわけではないようだ。
陰鬱としていた空気が僅かに和らぎ、二人は他愛もない話に花を咲かせる。やがて、眠気に誘われ、沈黙に安らぎながら重たくなっていく瞼を閉じていき、二人は穏やかな眠りにつく。
首を絞める、首を絞める、仕方がない、首をしめる、しめる、首を、仕方がない、尊き犠牲、手に力を込める、首を絞める、尊き犠牲、首を絞める、首を絞める、首を絞める、首をしめる、しめる、首を、仕方がない、尊き犠牲、手に力を込める、首を絞めるために、尊き犠牲、首を絞める…『手に力を込める、首を絞めるために』
「し、き…っ…に…」
― 三夜




